ルーベント
雪雛おくりまで十日余りとなったこの日、ファン・フランのアトリエから一枚の絵が届いた。鏡一枚ほどの小ぶりなキャンバスに厚い布が何重にも巻かれ、その上に紐が固く結ばれている。
その絵を元に三日で縁取りを次の三日で色を作り、丸二日かけて縁に硝子を注ぐと、最後の数日をかけてゆっくりと冷ましていく。ルーベントは絵を受け取ると深く息を吸い込み、両の手で自分の頬を強く叩いた。
その日からルーベントは今までよりもまして部屋に籠るようになった。
火の加減を細かに調節するために家にも帰らず工房に泊まり込み、食事の時だけ部屋から顔を出した。食事をとる時間も決まっておらず、朝から晩まで部屋から出て来ないことも一度や二度のことではなかった。
食事や着替えは朝と夕に、ルーベントの妹のマレリが工房まで持ってきた。
ヤンやバーデが手の離せないルーベントの代わりに預かっておくことが多いのだが、この日はほとんどの人が出払い、ジンもまだ工房に来ていなくて、リックがはじめて受け取った。受け取った食事と着替えを机に置く。閉ざされた扉の向こうからは金属の打つかる音が休みなく響いていた。
雪の花が散りはじめたその日から、リックは工房の裏手で昼食をとるようになった。裏手に屋根はなく日射しは眩しかったが、そこではひとりになれた。
工房の人たちとは毎日顔を会わせていたけれど、それでも離れていたいことに変わりはなかった。外に出ている人たちもまだ戻って来ておらず、工房に残っているのはリックと作業をしているルーベントだけだったが、それでも扉を見ていると急に誰かが戻ってくるんじゃないか、そう気になってこの日もリックは裏手に回った。
腰を下ろし煉瓦の壁にもたれかかる。春先よりも少し強くなった陽の光りが燦々と照り、夏色をおびた日射しが眩しい。そんな日射しの下、黙々と昼食を口にしているとリックの側で人の気配がした。どうして気がつかなかったんだろう。不思議に思えるほど近く、人ひとりが座れるだけの間を空けてその人は腰を下ろした。
陽の光りを背中から受けたその姿は影絵となり、最初誰なのか判断できなかったが、腰を下ろし逆光から外れるとすぐに分かった。ルーベントだった。輪郭だけとはいえ工房一高い背丈と広い肩幅で分からなかったのは、その姿がリックの知っている姿よりも細く見えたからだ。頬はこけて引き締まり、あごから首元にかけては無精髭が伸び、力強い目つきにはそぐわない濃いくまが目の下に影を落としていた。白いものがまじった髭が陽の光りを受けて雫のように輝いている。
隣りに腰を下ろしたのがルーベントだと分かると、リックは反射的に背筋を伸ばした。ヤンやジンをはじめ工房の人たちは皆気さくで、入ったばかりのリックもすぐに工房の空気にとけ込んでいたけれど、ルーベントだけは普段から口を開くことも少なくまた誰もが認める工房一の腕を持ちどこか近づき難くて、リックは毎日顔を合わせるようになってからも挨拶以上の言葉を交わしたことがなかった。雪の樹が散り終わり色絵硝子のために部屋に籠るようになってからは、熱のような凄みが体から滲み出ているようにも見えて気軽に話しかけられる雰囲気ではなかった。
「あたたかいな」
全身に日射しを浴びてルーベントが口を開いた。
リックの口から言葉が出てこなかったのは突然のことに戸惑ったというよりも、ルーベントの服が汗でぐっしょりと濡れていたからだ。
額には汗が滲み、玉となって首筋を流れ落ちていた。初夏とはいえ日射しは眩しくもまだ柔らかで、路地を抜ける風は心地よかった。汗は火を入れる時にかいたんだろうと想像がついたけれど、どうしてこんなに汗をかいた体に日射しが暖かいのか、リックには見当もつかなかった。
「ひとつもらっていいか」
ルーベントが訊ねる。リックが何を言っているのか分からずにひとり戸惑っていると、彼は膝の上のサンドイッチを指差した。
リックが慌てて箱ごと差し出すとルーベントは端にある一切れを手に取った。
かぼちゃとチーズのサンドイッチ、それを一口ずつゆっくりと口へと運ぶ。パンに練り込まれたかぼちゃの種が、時折、乾いた音を立てる。大切に食べるルーベントの目の下には濃いくまが線を引いてはいたけれど、そこにいつもの圧はなかった。リックが工房に来てからはじめて目にした、力強くも落ち着いた目だった。
「色絵硝子、出来上がったんですか」
その目を見ていると、リックの口から突然言葉がこぼれた。
口にしたリックでさえ言い終えるまで気づきもせず、言い終えてはじめて分かると体中から冷たい汗が吹き出てきた。どう言い直せば、どう繕えば良いのかと焦っていると、そんなリックの気持ちとは反対にルーベントはゆっくりと頷いた。
「まだ冷やしに時間がかかるが、俺の手の入れられるところまではな」
最後の一口を飲み込むとルーベントは答えた。
静かな返事に冷たい汗は鎮まりはしたけれど、胸の内は汗をかいたまま、速くなる鼓動に急かされるようにリックは続けた。
「広間の窓に飾られている色絵硝子、ルーベントさんが作ったんですよね」
「俺が作ったのはあの中の十七枚だけだ。何人もの先代が一年に一枚、雪雛おくりにあわせて作り、あれだけのものになったと聞いている」
「はじめてこの町に来た日、窓一面の色絵硝子を見て、それでここで働きたいと思ったんです。夕日を浴びてその光りが広間の床を敷き詰めるように広がっていて。一度見たら忘れられなくて。自分でもそんな硝子を作ってみたいって」
「そうか」
言われたことをそのまま受け取るように、ルーベントは返す。
「それで最近はランプの傘を作る時に手伝わせてもらっていて。ヤンさんが言っていました、色絵硝子を作る技術を持っているのは工房でもルーベントさんだけだって」
「レヴィストロースのことか」
「はい」
「たしかに技術は重要だ。思い通りに色をつけることも光りを曲げてしまわないよう表面を真直にすることも、技術なしには到底かなえられない。長年かけて身につけた技術がすべての土台となる。だがそれだけで作れるわけではない」
ルーベントは小さくも確かに息を吸い、そして止めた。その息を続く言葉とともにもらした。
「旅立ち人」
波紋が水面に広がるように、鼓動を叩いていたリックの心が穏やかにとくんと波を打った。
「彼らの思いを知ってはじめて色絵硝子を作ることが出来る」
「旅立ち人、知っているんですよね」
吐き出すことで楽になるように、リックは思い切ってルーベントに訊ねた。ルーベントは何も言わず動くこともなく、ただ前を見ていた。太陽の降りそそぐ音が聞こえるほど静かに、前を行く蝶だけがひらひらと飛んでいた。
「ああ」
間をおいてルーベントは答えた。
「知っている」
「知っていて、どうして会えるのですか」
一度思い切ったリックの心は堰を切ったように、考えるよりも先に言葉が口からあふれ出た。話しながら何をやっているんだろう、何を訊いているんだろうと怖くなったが、それでも止めることが出来ずにリックは話し続けた。堪えきれずに溢れたものが目頭を熱くした。
「何も思わずに会えているわけではない」
静かな答えだった。それでもその静けさに交じって苛立ちが確かに聞こえて、リックは怯んだ。
「選ばれたことを名誉なことだと、そう信じて旅立つ人もいる。旅立たなければならない、そのこと受け入れ、後のことを全て任せて行く人もいる。しかし多かれ少なかれ、誰もが不安や未練を残して旅立つものだ。最後の瞬間まで涙を流し、どうにか残る術を探そうとする者もいる。旅立ち人のことは俺にはどうすることも出来ない。だが硝子一枚でも自分に出来ることがあるのなら、それを成すだけだ」
苛立ちを沈めるように深く息を吸う。
「窓一面の色絵硝子を眺めると、一枚毎に作った時のことが思い起こされる。鉱石を選び縁を形取り火に焼べる。作った時のことが細やかに思い出される。けれどどうしてその色選んだのか、どうしてその形に作ったのか、その理由を思い出すことはない。その絵を残して誰が旅立ったのか、いくら考えても思い出せないままだ。
心血を注いだはずなのに何一つとしてその誰かのことを憶えていない。それは寂しいことだ。だが出来上がった硝子を旅立ち人に見せた時、その顔からわずかでも不安を拭えたことは今でもはっきりと分かる。かすかでも憂いを失くせたことは指先が憶えている。全霊を尽くして良かったと心から思える。それが誰なのか思い出せなくても」
ルーベントが感触を確かめるように指と指を擦りあわせる。
滲んだ汗の下、炉の熱と潰れた肉刺で硬くなった手のひらが見える。潰れた肉刺が治るよりも先に新しい肉刺ができて手の皮を厚くしている。火傷や金属を押しつけた跡が手の甲で傷になっている。
ルーベントの手を見つめたまま、リックは自分の手を擦り合わせた。
筒を握る指と指との間は皮一枚分だけ厚く、手のひらにはふたつ小さく膨れたところがある。けれど甲には傷跡ひとつなくさらさらなままで、リックはその手を隠すようにポケットにいれた。
「こんにちは」
工房から声が聞こえる。
「誰かいませんか」
早くこの場から逃げ出してしまいたかった。そんな気持ちとともに怖くても、ルーベントの話しを聞いていたい、そんな気持ちもあった。
聞こえてくる声に自分がどうしたいのかも分からず、けれどどうしようもなくて、リックは腰をあげた。
「リック」
工房に戻ろうとした時、ルーベントが呼び止めた。リックは振り返れずに背を向けたまま立ち止まった。
「ごちそうさま」
その言葉を耳にすると、リックは足早に工房に戻った。




