思いつき
北側の家に窓硝子をヤンと運んだ帰り道、広場にさしかかると町場からコルテオがひとり出てきた。
背を丸めて一段ずつ、ゆっくりと階段を下りて来る。その姿を目にした瞬間、氷のような冷たさがリックの体の芯を伝い落ちた。時間が止まり、景色が色を失っていった。コルテオが丘から下りて来ることは珍しく、町まで来るのは殆どの場合、ノーマを町まで案内した時だからだ。見わたしてもその横にいるはずのノーマはおらず、リックが思いつく理由はひとつしかなかった。
リックがそこで動けずに立ち竦んでいると、コルテオがこちらに気づき階段下でふたりを待った。リックは震える足を抑えてヤンの後ろを隠れるように歩いた。
「こんにちは。珍しいですね、町に来ているなんて」
ヤンが何でもないことのように訊ねる。
旅立ち人だと名乗りでてはいけない、名乗り出るはずはない。そう分かっていてもコルテオが答えるまでの間、体と頭を強ばらせたまま、リックはヤンの側に立っていた。
その間は一瞬のことでしかなかったはずなのに、時間は引き延ばされたように長く、芯を伝った冷たさは痺れに変わって手足の先に居座っていた。
「ここに用事があっての」
コルテオは指し示すように町場に目を向ける。痺れがリックの手先を震わせる。その震えを押しとどめるように気持ちを落ち着けるように、リックは力の限り拳を握りしめた。
「用事?」ヤンがたて続けに訊ねる。
「まあ、のう。ちょいと面白いことを思いついての」
その言葉を耳にすると、魔法がとけたように手足の痺れは弛んだ。
リックが顔を上げるとコルテオはその考えをひとり楽しむように、満足げな笑みを浮かべている。空にはツバメの親子が一組。夏の兆しを楽しむように空を見上げ、日射しに目を細めている。コルテオの顔はあと半月ほどで町を去らなければならない人の表情にはリックには到底思えず、その顔を目にすると体を縛っていた緊張は空気が抜けていくように弛んでいった。朝、目が覚めて自分の胸元を確かめる。その時よりも暖かな息がリックの口からもれた。
「なんですか、面白いことって」
緊張とともに今まで支えていた力も抜けてしまわないように、リックは力を込めて訊ねた。リックが突然大きな声で会話に入ったことにヤンとコルテオは驚いたようだったが、今のリックには少しも気にならなかった。コルテオは髭をなでつけ、楽しそうに考えを巡らせると口を開いた。
「うーむ、そうじゃのう、明日明後日には町中が知ることになるんじゃが、それまでは秘密にしておこうかのう」
その言葉に今度はリックとヤンが驚いた顔を浮かべる。ふたりを驚かせたことが嬉しかったのか、コルテオが少し意地の悪い笑みを浮かべている。ヤンが問いつめるけれどコルテオは白い髭をなでつけ、「ほっほ」と、いつもの笑い声ではぐらかしていた。
「僕も最初はそうだったよ」
コルテオと別れた後、ヤンが工房への道すがらに言った。
「言わないと分かっていてもね、何かの拍子に分かってしまうんじゃないか。そう考えると何を話せば良いのかどうしたらいいのか分からなくて、しばらくの間、外に出るのも工房への行き帰りだけにしていた。出来るかぎり誰とも会わないようにしていたんだ」
それはリックも同じだった。コーザやチノ、カサノや工房の人たちといった毎日顔を会わせる人をのぞいて、出来るかぎり誰とも会わないようにしていた。見知った人影を目にすると気づいていないふりを装いながら、横道に入り遠回りをしてまで会わないように気をつけた。
「けれど、ルーベントが色絵硝子を作っている姿を見て思ったんだ。誰とも会わずに閉じこもることも出来るけれど、それは旅立ち人を知ってしまうことと同じ、いや、それ以上に口惜しいことなんじゃないかって。何をしても旅立つことを変えられないのなら、それまでの時間を価値あるものにした方が良いんじゃないかってね」
そうすることが一番なんだとリックも頭では分かっていた。しかし頭で分かっていても頭で分かっているだけに、リックにはどうしてもその一歩を踏み出すことが出来なかった。
「いつも通りが一番さ」
工房の扉を開けながら、ヤンは笑顔で振り返った。
その笑顔がリックには少し、疎ましくも思えた。




