雪の樹
広場から大通りを南に向かうと、町の外れに一本の樹が見える。
町の人たちはその樹を親しみを込めて『雪の樹』と呼ぶ。
溶けた雪を地中で吸い込み、蜜蜂が戻って来る季節にその白さを花にして咲かせると、花びらはまるで雪のように風の中で舞い散るからだ。絵のような、物語の一幕のような幻想的な光景だと人々は言う。けれどその光景は見た人の心に美しさよりも、寂しさや儚さを思わせてしまう。それはただ咲き誇った花が散りゆく姿を見てそう感じるわけではない。散りゆく季節は雪雛おくりのひと月と少し前。もうひとつの別れが近いことも人々に告げているからだ。
「この花びらが散って数日後の夜、旅立ち人の夢にくじらが現れ、胸に尾びれの跡を残していくそうです」
ナツは言った。
「私は去年はじめてこの樹が散るところを見ましたが、その夜、眠ることが本当に怖かったことを憶えています」
「旅立ち人に選ばれることはとても名誉なことだと聞いていました。ですが散っていく姿を目にした夜、眠る前に横になり目を閉じていると瞼の裏に浮かんでくるんです、私の胸に尾びれの跡が現れ、闇夜の下、ひとりこの町を旅立つ日のことが。
もちろん誰も知らない、何も分からない場所に行くのはとても怖いことです。
しかし一番怖かったのはこの町のことを考えた時でした。旅立ったあとの終着地がどんなところなのか、誰も知りませんし、もしかしたらこんな心配をしていたことが笑い話になるくらい素敵な場所なのかも知れません。けれどそこがどんな場所であれ、私はこの町のことを思い出すと思います。町を出て振り返るとそこには何も変わっていない町があるんです。窓からはランプの明かりがこぼれ、煙突からは白い煙が棚引き、人々は毛布に包まって朝まで寝息をたてている、そんな町が。私がいなくなっても誰も困ることなく気づくことすらなく、町は同じ日々を繰り返すんだ。そう考えたらとても寂しくて、どうしようもなく怖くなりました」
そこまで話すとナツはその時のことを思い出したのか少し頬を強ばらせ、菓子に口をつけた。ゆっくりと豆湯で口を潤し、一息おくと話しを続けた。
「町の人たちは旅立ち人に選ばれることを光栄なことと言っていますが、それはきっとみんなも、いえ、多分、私が想像するよりも怖くて寂しくて、自分の気持ちを誤摩化さずにはいられないからだと思います。
私には家族はいません。町の人たちは本当に良くしてくださいますし私もみなさんのことが大好きですが、それでも家族と別れるのとはまた違うと思うのです。この町には結婚している人もいれば親や子を持つ人も大勢います。町は変わらない日々を繰り返すのかも知れませんが、そこに暮らす人たちはいつしか年を重ねていきます。いつまでも同じままではいられないんです。この人と一緒に年をとりたかったな。もっとこの子の成長を見ていたかったな。そんな名残惜しい気持ちと、自分がいなくなっても何ひとつ困ることなく、まるで最初からいなかったように無事に過ごして欲しい。自分が消えてしまっても気づかないでいて欲しい。そういった願い。
私は自分のことしか考えていませんでしたが、家族を持つ人たちには自分自身のことに加えて家族への心配や心残り、それと矛盾するような、自分がいなくても良い寂しさと自分のことは全て忘れて欲しいという願いを抱えて旅立っていくんです。そのことに気づき、この町で一年暮らしてみて今ならどうして町の人たちが名誉なことと言うのか、ほんの少しだけ分かる気がします」
話が終わったことを告げるようにナツはまた豆湯に口をつけた。
窓からは日射しが射している。ナツの言葉がもつ空気とは反対にその日射しは暖かかった。陽を浴びた土の匂いや胸いっぱいに吸い込みたくなる柔らかな風の中には、ぎっしりと春の息吹が詰まっていた。




