雪路
リックとカサノは天秤座に向けてふたたび荷台車を引きはじめた。
水車小屋への往路は空で軽かった荷台車も袋を六つも載せているとその重みで雪に沈み車輪をとられ、押して進むのにかなりの力が必要だった。
暖かかった日射しもすでに厚い雲に断ち切られ、川からは冷たい風が吹いていた。重い荷台車を押して歩くことで体は温まったが、しばらくして汗をかき始めるとその汗が風で冷やされ、時間が経つごとに体温を奪っていった。太陽が朝から溶かした雪水が靴の裏から少しずつ染み込み、冷たさと気持ちの悪さを広げていった。
「まいったな」
そんな道のりを半分ほど進んだ時だった。突然、大きな音とともに荷台車が右に傾いた。
足場をしっかりと確認し荷台車を止める。カサノが前に回り荷台車の下をのぞき込むと、右前の車輪が溝に落ちていた。溝にはそんなことが起きないよう木の蓋が被されているのだが、秋の長雨と冬の雪で腐った箇所が荷台車の重さに耐えきれず、ふたつに割れて車輪がその隙間に落ちこんでいた。
「危なかったな」
車輪が落ちた時に小さくない衝撃があったものの、袋が荷台車から滑り落ちて破れたり雪水に浸って中身が駄目になったものがなかったのは幸運だった。
リックとカサノは最初二人掛かりで溝から押し出そうと試みたが、麦粉の重みに加えて荷台車が斜めに傾いたことで全ての重みが溝に落ちた車輪ひとつにのしかかり、どれだけ力を込めても抜け出せそうな様子はなかった。
息だけが上がる。白い息が風に消えていく。川のこちら側はまだしばらく行かないと民家はないようだったが、向かいの岸には明かりの灯った家々が少し先に見えた。
「人手を頼んで来るから、リックはここで荷を見ていてくれ」
カサノはそう言うと、足下が滑ることに気をつけながらも小走りで橋へと向かった。
ひとり待つことになったリックはどうしようもなく、荷が滑り落ちないように注意だけはしていたが、動かずにじっと待っていると服の下の汗が急激に冷えてきた。リックは凍えるような寒さにいてもたってもいられず、荷台車の周りを歩き回った。見上げると空は先ほどよりもまして暗い雲におおわれ、北から南へと流れていた。太陽は雲に隠れて見えなかったが、日暮れがそう遠くないことは確実だった。
しばらく待つと、カサノは恰幅のよい初老の男と馬を一頭連れて戻ってきた。
男はその丸い腹と同じほどに厚いコートを羽織り、白髪の上に暖かそうな毛皮の帽子をかぶっていた。コートに突っ込んだ手と厚い体の間には白い布と麻縄を挟んでいた。
「こりゃまた結構な荷を積んじまっとるな」
男はひとり言のように呟くと、その白い布を二回ほど折り畳んだまま地面に置いた。
「さすがに荷を載せたままだったら、こいつでもキツかろう」
男は馬の首筋を軽く叩いた。
三人で袋をひとつずつ下ろすと布の上に置いた。布はかなりの厚手で、さらに折り畳むことでしばらくの間は水が染み込む心配はなさそうだった。
荷台車の引き手と馬を縄で結びつける。馬は鞍を着けてはいるがロバと呼べるほどにその体高は低く、芦毛の毛ヅヤも冴えなくて、本当に溝から抜け出せるのかリックは不安に思った。
「ようし、いくぞ」
男が声を上げる。馬の尻を叩いて引くように促すと自分も縄を手に引っぱり、リックとカサノもその声を合図に後ろから荷台車を押す。しかし荷を下ろして軽くなったはずなのに台車は少しも動こうとせず、何回かにわたってやり直してみたものの抜け出せそうな気配は見られなかった。
「これはどうしようもないかもな」
男は屈むと荷台車の下をのぞき込んだ。
雪で足下が滑りやすく、十分に力を入れることも難しかったが、それよりも車輪が四角い溝にしっかりとはまり込んでいることが抜け出せない原因のようだった。
三人は無言であがった息を整えていた。吐く息の白さは暗くなり始めた視界の中でもはっきりと見えていた。リックが鼻をすすった時、頭に冷たいものが触れた。雪だ。三人の境遇を気にかけることなく、空はみぞれ混じりの雪を落としはじめた。
「まずいな」男が呟いた。
「このままじゃどうしようもないだろう。今のうちに家からありったけの布を持ってきて包めば当分は雪を防げる。朝、明るくなってからもう一度やったほうが上手くいくはずだ。お前さんたちも今晩家に泊まっていけばいい」
「ありがとうございます。しかし何重にも布を巻けば雪は防げるかもしれませんが、朝まで待つと結露の心配がでてきますから」
カサノは最後まで言わず、そこで言葉を切った。
雪は止みそうな気配を少しも見せずに勢いを増していった。三人の肩が濡れていく。馬は大きく鼻を鳴らすとふたつの穴から湯気のような熱く白い息を吐き出した。リックと男のふたりはどうしようもなく、カサノが最後の決断を口にするのを待った。時間も温もりもなく、冷たさだけが募っていった。カサノがその言葉を口にしようと顔を上げた時、ひとつの考えが浮かんだ。
「そうだ」
馬の息づかいが大きく響く中、リックが声をあげた。
「少しだけ待ってください」
リックは手袋を外して荷台に放り投げるとその下に潜り込み、落ちた木の蓋のとなりをかいては雪を落とした。素手のまま雪を落としていると最初は痛いほどの冷たさを感じたが、すぐに冷えきって麻痺してしまいその感覚さえも消え失せた。
勢いにまかせて一息に雪をかく。 雪は落ちると溝の水に溶けて流れていった。 埋もれていた蓋が見えるとかじかんだ手でそれを掴み、上に引っ張って外した。リックはその蓋を手にしたまま、荷台車の下で這うようにして位置をかえ、落ちた車輪と溝の間に挟み込んだ。蓋の位置を固定すると急いで這い出した。
「ほお」
男は感心した声をあげ、リックに荷台車に投げた手袋と自分がかぶっていた帽子を渡した。リックは冷えきった指先にゆっくりと息を吹きかけ、かじかむ手に手袋をはめた。千切れそうに赤くなった耳に男の帽子を深くかぶった。凍える口先でふたりに言う。
「も、もう一度だけやってみましょう」
三人と一頭は先ほどと同じ位置につき、もう一度試してみた。
男が馬の尻を叩く音を合図に残った力を込めて荷台車を押す。しっかりとはまり込み、どうにも動かなかった右前の車輪。その車輪は軋んだ音を立てると挟んだ板を坂道にして一気に前に進んだ。
「よーし」
「どう、どう、どう」
男は手綱を引いていななく馬をなだめている。あまりに簡単に溝から抜け出せたので、リックは勢い余り、ゆるくなった雪に足を滑らせた。そのリックを抱きかかえるように支えるように、カサノはリックの肩を強く揺すった。
「よく思いついたな、リック」
「こ、工房で筒を回す時、木板の上を転がして曲線を整えるんです。荷台車の車輪を見ていたら同じようなことが、でき、出来るんじゃないかと思って」
リックは震える歯を抑えつつ、なんとか口を開く。挟んだ板も腐っていたらしく、車輪が抜け出すとその板も音をたてて割れた。
「この天気じゃどのみち大変だろう。こいつに引っ張らせるといい」
男は膨よかな頬と眉に挟まれた目を細めて手綱をカサノに渡す。
「ありがとうございます」
「なに、困った時はなんとやらってな」
三人はすぐに荷を載せると降り続ける雪を避けるため、敷いていた白い布も上に被せた。
馬を先頭に天秤座へと向かう。残りの道中は馬のおかげで楽に運ぶことが出来たけれど、荷の重さよりもリックは寒さが堪えた。素手で雪を掘り返し靴の裏からは雪水が染み込み、荷台車の下に潜り込んだ時にコートも濡らしていた。寒さで何も考えられず、足を踏み出すことだけに意識を集中する。前を行く馬の鼻息と水をはねる車輪の音だけが明かりのない雪道に響く。服を着ていても風は冷えきった体を切るように吹きすさび、指先や膝や歯が麻痺したように震える。 鼻が止まらず呼吸が苦しい。帰り道は果てしなく遠くに思える。奪われる体温も底をついた頃、荷台車はやっとその歩みを止めた。最初どこにいるのか、歩いているのか止まっているのかもリックには分からなかったが、目を凝らすと確かにそこは見慣れた天秤座だった。
「チノが食事と風呂の準備をしているはずだ。荷を下ろすのはひとりで出来るから先に入って温まっていてくれ」
こくりと、震えに埋もれてしまうほど小さな頷き。
普段のリックならそんな申し出も断り一緒に荷を下ろしただろうが、あまりの寒さに何も考えられず、言われるまま天秤座の二階に上がった。
震える手先と格闘しながら服を脱ぎ靴の紐を解き、やっと裸になると濡れた服を暖炉の前に干した。手足は氷のように凍え、湯船につかると湯と体の間に一枚膜が張っているような不思議な感覚があった。触れているはずなのに水の感触はなく、自分の指が木で作られているように思えた。それでも湯につかっていると次第に血が巡り体がほぐれ、手足に体温が戻ってきた。 今まで氷同然だった手足に感覚が戻ると湯の温かさが感じられて、そうしてみてはじめて自分の体がどれほど冷えきっていたのか実感できた。
火照ってこれ以上入っていられなくなるまで、十分に体を温めてから湯船からあがる。
暖炉の前に干していた服はまだ冷たく濡れていて、カサノのものを借りる。頭ふたつも高いカサノの服は明らかに大きく、袖と裾を折って着る。
風呂を出るとそのカサノも荷を下ろし終えて部屋に戻ってきていた。
「今日はすまなかった。けど、リックがいて本当に助かったよ。下手したら今頃も溝にはまったまま麦粉を見捨てなきゃならなかったからな」
奥からはチノが鍋を抱えて出てきた。
「今日は本当にごめんなさいね、私が行ければ良かったんだけど。こんなものしかないけど、お腹一杯食べてちょうだい」
食卓には温かそうな料理がいくつも並び、 立ち上る湯気と香ばしく焼けた匂いが部屋に広がっていた。気の早いことに座席の高い子供用の椅子までがすでに用意されている。
寒さに気をとられて朝から何も食べていないことなんて、頭からすっぽりと抜けていた。食欲なんて寒さと一緒に湯船に溶けてしまったようにリックの体には残っていなかったが、チノが身重の身で作ってくれたことを考えると少しでも食べようと、リックは席に着いた。まだ感覚の鈍い手でスプーンを持ち、ゆっくりと料理に口をつける。のどを通り胃に落ちたスープが内側から体を温めていく。温かさとともに体に力が戻ってくる。力が戻ると凍っていた顔が弛んでくる。
少しずつ口に運ぶ手が速くなり、食べ終わった時にはこの町に来てから一番食べたと言えるほど、リックの腹は膨らんでいた。
食事を終え、余った分をもらって部屋に戻ると、リックは誘われるようにベッドに倒れこんだ。横になり枕のひんやりとした心地よさを頬に感じる。その心地よさに沈んでいくようにリックは眠りへと落ちていった。




