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水車小屋


 翌日リックはいつもと同じ、まだ外が暗い時刻に目を覚ました。


 コーザにも声をかけておいたのだが、その日コーザは製鉄場で仕事があり、水車小屋に行くことは出来なかった。

 

 朝食を済ませてコーザが出かけるとカサノの仕事が終わるまでの間、リックは寒さで閉め切りがちな部屋の掃除に取りかかった。ちょうど掃除が終わって閉めようと窓際に寄った時、下からリックを呼ぶ声がした。コートと手袋を身につけ外に出ると、カサノが荷台車にだいしゃの引き手を手に待っていた。リックも引き手を取ると、ふたりは出発した。

 

 この日は日頃の寒さが嘘のようにやわらかな陽が射し、荷台車を引いて歩いていると汗ばむほどの陽気だった。その暖かさで積もっていた雪の表面が溶けはじめ、踏みしめるといつもは硬い雪道が今日は弛みを見せていた。車輪の軋みと足音の間に氷菓子を砕くような軽快な音が響いた。振り返ると車輪の残した二本の線が線路のように離れることも近づくこともなく、ふたりの足跡とともに残っていた。


 ふたりははじめに町の東側に向かい、通りに出ると川に沿って北東の方角へと進んだ。

 

 水車小屋は紡績場を越えた先、町の北東の外れにあった。

 円錐の形をした石造りの建物に長年使われて黒ずんだ水車が取りつけられ、横には窓のない木造の平屋が置かれていた。水車はその四分の一ほどが水に浸り、川の流れに押されてゆっくりと回っていた。建物の上部には風力も使えるのか四枚の羽根車もついていたけれど、風のない空の下、ただの飾りとなって静かに佇んでいた。

 

 小屋の前で荷台車を止め、カサノが扉を叩く。

 声がして中に入ると男が袋を担ぎ上げ、漏斗に麦を流し入れていた。


「いらっしゃい」


 鍛えられた太い腕と剃り上げられた頭の容姿からは少し、不釣り合いに聞こえる高い声が響いた。


「少し待ってて」


 男が漏斗に流し入れた麦は少しずつ、その下にある石臼へと落ちていった。

 大人ひとり分ほどの大きさもある石臼は外の水車と連結し、重い音を引きづりながら力強く回っていた。石臼が回ると麦はその重みで砕かれすり潰され、重ねられた円板の間から細かな粉となって押し出されるように下の受け皿に溢れた。


 小屋の隅では小さな煖炉が薪を燃やし、その上に置かれた薬缶からは細い湯気が上っている。それでも小屋の中は外とたいして変わらない、風が防げるだけ有り難いと言える温度だった。


 男は袋の麦を漏斗に流し入れると、その袋を四つに折り畳み丁寧に木箱に置いた。


「まだひと月は大丈夫だと思っていたんだけど」


 男は両手を軽くはたきながら口を開いた。


「いや、まだ余裕はあったんだが、この雪でいくつか駄目にしてしまってな。悪いんだが少し分けてもらえないか」


「もちろん。かまわないよ」


 そう言うとふたりは小屋を出て、となりにある平屋へと向かった。

 リックもふたりの後について中に入った。


 平屋の中にはおよそ五十の袋が左右に分けて置かれていた。袋は几帳面なほど整然と積み重ねられ、男は左側の袋の前にしゃがむと何でもないように左肩に二袋、右肩に一袋のせて立ち上がった。


 カサノも肩にひとつ担いだが、リックは肩までも上げることが出来ず、両手で抱きかかえるようにしてなんとかひとつを小屋まで運んだ。小屋の入り口まで運ぶと重ねて袋を置いた。


「今挽いている袋がもうじき終わるよ。それと運んだ分を合わせてだから、1の2の3の4の5の6で6袋あれば足りるかな」

 

 男はひとつひとつを確認するように重ねた袋を数えた。


「ああ。十分だ」


 カサノはそう言うと待っている間に薪を割っておこうと外に出た。リックも手伝おうとしたが、


「帰りの方が荷が重い分大変だからな。待っている間はゆっくり休んでおけ」


 と言い残し、カサノはひとりで外に出た。


 少しすると水車から水が流れ落ちる音と歯車の軋む音との間に、薪を割る乾いた音が響きはじめた。


「僕はウィンチェスター。ウィンともチェスとも呼ぶ人がいるから紛らわしいかもしれないけど、好きな方で呼んでくれてかまわないよ。チェスと呼ぶ人の方が少し多いけどね。君とははじめましてだね」


「リックです。はじめまして」


 チェスはリックの手を包み込むように両手で握手をした。

 ふたりは小屋の隅に置かれた打ち捨てられたような古い丸太に腰を下ろした。


「君がリック。どうだい、硝子工房は」


 自分が工房で働いていることをチェスが知っていることにリックは驚いた。仕事のことは話していないどころか、まだ自分の名前しか告げていなかった。リックの訊きたい気持ちを察するようにチェスは言葉を続けた。


「前にヤンが話してくれたんだ。新しくリックという名前の少年が工房に入ったって」


 そういうことなのかと曖昧に頷き、半分だけ納得してリックは言葉を返す。


「まだ上手く出来ませんが、作ったグラスのいくつかはカエル、店に並べてもらっています」


「グラス? 色絵硝子を作りたくて入ったんだとヤンは言っていたけれど」


「はい。けれど色絵硝子は雪雛おくりの時だけですし、その代わりにランプの傘は作りますけど、気がついたらグラスばかり作っていて」


「そうか。けれど、それもきっと面白いだろうね」


「楽しいです」


 考えるよりも先にこの言葉が口をついた。そのことに自分で気づいて恥ずかしくなって、リックは石臼に目を向けた。


「チェスさんは何の仕事をしているんですか」


「僕はこの水車小屋で麦を挽く仕事をしているよ」


「どうしてこの仕事をしようと思ったのですか」


「僕は選ぶことが出来なかったからね」


「選ぶことが出来なかった?」


「君は僕がどこかオカしいと思うかい?」


 どういうことか良く分からないまま、リックは小屋に着いてからのことを思い返した。


「いえ、おかしいなんて別になにも。おかしいというよりも、反対に色んなことを憶えているなって驚きました。僕が工房で働いていることや色絵硝子のことも」


 リックがそう言うと、チェスは口元にだけ笑みを浮かべた。


「そう。僕は一度見たことや聞いたことは絶対に忘れないんだ。目を瞑っていても今、目の前で見ているように瞼の裏に何でも思い出すことができる」

 

 チェスは目を閉じた。目を閉じたまま、考えを巡らせるように少し上を向いた。


「例えば今日、君は橙色のコートに下は濃い藍色のもの、足下には焦げ茶色のブーツを履いている。そしてそのブーツの左側、上から三つ目の穴の先で紐が玉を作って引っかかっていて、コートの一番下のトグルは糸が解れている。右後ろには黄色い糸で縫い合わせた跡がある」

 

 リックはチェスが諳んじた箇所を急いで追った。確認していくと、ブーツの紐もトグルの糸もコートの縫い合わせた跡でさえも、チェスが言ったことは全てそのとおりだった。


「こんなところに縫い合わせた跡があるなんて、今まで知りませんでした」


「僕も今まで知らなかったよ。ただ君の今日の姿を思い出して目立つところを言っただけなんだ。そしてそのコートは誰かに譲ってもらったものじゃないかな。もうずいぶんと昔のことだけど、ある少年が同じところを同じ色の糸で縫い合わせたコートを着ていたのを憶えている」


 チェスの力は想像も及ばないことで、リックはただただ驚いた。

 その次に出て来る言葉は「すごい」とか「信じられない」とか「他にはどんなことが出来るんですか」とか、きっとそんなところだろう。そしてチェスもこのことを誰かに説明する度に、同じことを訊かれ続けてきたのだろう。リックが言葉を発する前にチェスが口を開いた。


「けれど、僕は何かを作り出すことが決定的に不得手なんだ。どんなに長い順序であっても、一字一句間違えることなく諳んじることは出来る。しかし、それを行動に移すのは全く別なことなんだ。その順序に書かれていないことが起きたら最後、次に何をすれば良いのか分からなくなる。ただ、おかしいということだけが分かるんだ。それは教えられた順序に載っておらず、次の行動がとれないのだから。そしておかしいということしか分からないんだ。何が違っているのか想像することさえ出来ない。どこが間違っているのか、次に何をすべきなのか分からず、誰かが教えてくれるまでそこから一歩も動くことが出来ないんだ」

 

 話しの内容は理解できてもリックの服装をあれだけこと細かに思い出せた人が何も出来ないなんて想像もできず、リックはただチェスの話しに頷いていた。


 チェスは早さも抑揚も上げることも下げることもなく、何度も話した説明を繰り返すように淡々と話しを続けた。


「そんな僕でもこの町で暮らしていくために仕事を持たなくてはならない。最初この能力を生かせる仕事をするべきだと、多くの人が言ってくれたよ 。しかし、見たもの聞いたことを絶対に忘れないとしても、それは紙に書いておいたり必要な時に調べれば十分事は足りるんだ。だから仕事にはならなかった。

 そのあとはこの能力から離れて、みんなと同じように町の仕事に勤しんだ。蜂が集めた蜜を採集したり、建築に使う木材を切ったり。いろいろな仕事を経験したけれど、どの仕事もひとりでやり遂げることは出来なかった。

 レシピの通りにパンを焼くことは出来た。けれどいくつもの種類のパンを手際よく焼いたり、麦粉の質やその日の天気、季節に合わせて水や塩の量を変えていく、火加減や発酵の長さを調整していく、そんな微妙な違いはいくらやっても僕には分からなかった」

 

 石臼は話しの間も回り続け、休むことなく麦を挽いていた。

 麦は漏斗から少しずつ流れ落ち、砕かれ、細かな粉となって石臼の間から溢れてくる。その繰り返しをチェスは静かに眺めていた。


「結局、この町にある仕事で僕が満足に出来たのはこれだけだった。平屋の右の列から袋を運び、漏斗の線まで麦を入れる。挽かれて粉になった麦が受け皿の端に達したら袋に移す。それを三度繰り返したあと、平屋の左の列に重ねる」

 

 コホン。咳が石臼の回る音の間にはさまる。


「それでも水車や石臼に何かあったら僕にはどうすることも出来ず、誰かを呼びに行くしかないんだ」

 

 平坦だったチェスの語り口がリックには少しだけ強く、速くなった気がした。

 それは本当に一瞬の、変化とも呼べないかすかな移ろいで、リックがそう感じた次の瞬間にはまた少し高いもとの落ち着いた声に戻っていた。


「森のなかで目覚めたあの日からのすべてを僕は何ひとつ忘れることなく憶えている。それ以前に病気や事故にあったことがあるのかは誰にも分からないし、医師に見てもらっても何の異常も見られないという。自分の他にも同じような人がいるんじゃないか。そう思って町役やコルテオに訊いてみたりもしたけれど、過去を探ってもそういう人がいたという記録はひとつとして見つかっていないんだ」


 全ての説明が終わったことを告げるようにチェスは口を閉じた。煖炉の火が爆ぜる音と休むことなく回り続ける石臼の音が、ふたりの間の沈黙を埋めていく。繰り返される臼と麦の潰れる音が小屋の中の時間を引き延ばしているようだ。


「とても信じられないです。今だってこうして普通に話しているし」


 リックはどう言えばいいのか分からず、ただ思いつくままに声を出した。


「会話だって本当は苦手なんだ。今は普通に話しているように見えるかもしれないけど、 言葉が上手く出てこないことだって忘れてしまうほどにある。同じことを繰り返し言ってしまうことだって。けれど仕事を転々として何度も同じ説明するうちに、このことを伝えることだけは少し上手くなったんだ」 

 

 ゆっくりと振り向いたその目には、小さな光りが揺らめいているように見えた。その光りは目の深いところで消えてしまいそうなほど幽かに、それでも確かに輝いていた。その目を細めるとチェスはまた静かに石臼に視線を戻した。


「麦が挽かれるのをただ座って待つなんて、退屈な仕事だと思うかもしれない。けれどそんな僕だからこそ、この仕事は一時も休む暇がないんだ。砕粉が終わるまでここに腰を下ろし目を閉じる。水車が回る音、軋む臼の音、挽かれていく麦の音に静かに耳を澄ませる。もし昨日と今日の音が違って聞こえたら、もしその違いが僕に分かったら、その時にはじめて僕も何かを作り出せるかもしれないからね」


 漏斗のなかに残っていた最後の一粒が臼の中へと落ちていった。しばらくすると全ての麦が挽かれたのか、麦の砕ける音が消えて石臼が回る単調な音だけが残った。


「それに忘れることがないってことは、忘れることが出来ないということでもあるんだ。この町もここに住む人たちも本当に素敵だけれど、悲しい思いをしなくてすむわけではないからね」


 チェスは立ち上がり受け皿を外すと、木の器で丁寧に掬い袋に移した。最後に受け皿を逆さにして最後の一粒まで麦粉を移すと、袋の上部を折り返し丁寧に糸で綴じた。


「よし」


 チェスがそう呟いたのと合わせるように小屋の扉が開き、カサノが少しだけ息を弾ませて戻ってきた。


「とりあえず40割っておいた」


「その前は238本あったよ」


「だったら今は318本だな」


「318本だね。ありがとう」


 カサノは丸太に腰を下ろしているリックに目を向けた。


「日が陰りはじめた。日暮れには間に合うとは思うが雪が降り出すと厄介になる。早めに戻ることにしよう」


 それを聞くとリックも腰を上げ、三人は先ほど運び出した麦粉の袋を外に止めてある荷台車に載せた。リックとカサノも一度に一袋しか持ち上げられず、最後に挽いた六つ目の袋も結局チェスが荷台車まで運んだ。


 今朝はこの冬一番の陽気だったのに吹く風は冷たく、外に出ると空はまた鉛色の雲に覆われていた。


「面倒かけてすまなかったな。またいつもの頃、月終わりに来るよ」


「いつでもいいよ」


 そう言うとカサノは引き手に手をかけ、荷台車を引きはじめた。

 リックはバランスを崩して袋が落ちてしまわないよう、後ろから荷台車を支えた。


 袋の重みに車輪が軋みをあげる。荷台車が前へ進みはじめると、チェスが声を発した。


「待って」


 チェスは手を口元にあてて考え込み、そのまま水車小屋へと戻っていった。

 リックとカサノが荷台車を支えながら小屋の前で待っていると、チェスは飛び出すように急いで戻ってきた。


「丸太の下に落ちていたよ」


 チェスが手を出すと、その中にはリックのコートのトグルがあった。解れていたところが何かの拍子に切れたらしく、糸の先が何本にも分かれてしまっていた。


「気づきませんでした。ありがとう」

 

 リックはトグルを受け取るとポケットに仕舞い礼を言った。しかしチェスの顔は笑みこそ浮かべているけれど、礼を言われた人のものとはほど遠く、どこか寂しげに見えた。


 どうしてそんな表情を浮かべているのか、リックには見当もつかなかった。

 そんな時に寂しくも悲しくもなったことがリックにはなく、そんな表情をする人に出会ったこともなかった。しかしその表情を見ているとこの人の抱えているものがどういったものなのか、小屋の中で話してくれた言葉以上にぼんやりとでも分かった気がした。


「気をつけて」


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