鳴らした
三人は寒さも忘れて夜空を見上げていた。
どれほどの時間、眺めていたのだろう。
コップは氷のように冷えきり、マリ茶はその温もりを完全に失っていた。
光りのカーテンは強い風にはためくように広がりをみせると、最後、そのまま空に溶け込むように消えていった。見えなくなるとあたりはまた闇に包まれ、重厚な森が目の前に立ち塞がっていた。
小屋に戻った後も目を閉じると、あの光景が瞼の裏に蘇って毛布に包まってもなかなか寝つなかった。
翌朝、リックとコーザが目を覚ました時にはすでに陽も高く昇っていた。
朝食には遅く昼食には少し早い時間に食事をとり、太陽が真上に昇った頃、ふたりは小屋をあとにした。
小屋を発つまでの間、コルテオの「ほっほ」という頷きがいつもより多いようにリックには思えた。工房やグラスやその他の色々なことを分かったうえで、コルテオはここに誘ってくれたんだ。本当のことは分からないけれど、その声を聞いているとリックは自然とそう思えた。
「ありがとうございました」
帰り際、リックとコーザはコルテオにそう伝えた。
リックはこの二日間のコルテオへの感謝をどう伝えれば良いのか考えていたが、どう言葉を回しても捏ねてしまうだけで、結局このひと言に込めた。次に会った時に自分の作った一番のグラスを渡す。それが何よりだと分かっていた。
丘を下る時、風が強く吹いた。その風の音に重ねてコルテオの笑い声がいつまでもリックの耳にこだました。
町に入り、ふたりはカエルに向かった。
何も変わっていなくても今の気持ちでもう一度、あのグラスを見たいとリックは思った。
橋を過ぎ角を曲がり、はやる気持ちと足を抑えつつ真っ直ぐに小道を進む。
カエルに着き顔を近づけ、窓から中をのぞきこむ。幾月もの間、毎日眺め続けてきた右手前の机に視線を向ける。
けれど、この日は違っていた。いつもの最前列の指定席にその姿はなかった。後列や他の机を見渡してみてもあの歪な形はどこにも見当たらず、配置替えや模様替えをした様子もなく、ランプの明かりが照らすいつもの光景の中、その席だけが一昨日おとといまでと違っていた。
「売れたんじゃないか」
コーザはそう言ってくれたがリックは工房に戻されたんだと、背筋に冷たいものが走るのを感じながら思った。使われない硝子細工は工房に戻され溶かされた後、また別のものに作り替えられる。
いつかはそうなると分かってはいたものの、実際にその光景を目にしてしまうと頭の中が真っ白に塗り固められ、言葉は何ひとつとして浮かんではこなかった。背筋を走った温い冷たさが麻痺したようにそこに残っていた。歪で不出来で不格好なグラスかもしれない。けれどリックにとっては何ものにも代え難い、たったひとつのグラスだった。
店の扉が開き血色の良い、硝子のように眩い頭の男が出てきた。カエルの店主だ。
工房からの帰り、リックがカエルを訪れる時刻にはすでに閉店しているが、この日はまだ早く、店は開いていた。
「この右手前の机にあったグラス、どうなったんですか。口と真中が歪んでいた」
コーザが親指で窓の中を指し示す。
「ああ、あのグラスか。もう売れてしまったよ」
「売れたって本当ですか」
思いがけない返答に早口に訊き返す。
「ああ。本当だよ。残念だったね。昨日まではあったんだけどね」
「あんなに歪んでいたのに」
信じられなくて、ひとり言のようにリックが呟いた。
「なんでもあの形が良かったそうだよ。買っていったのはまだ小さい嬢ちゃんだったんだけどね、どうもあの凹み具合が小さい手にはしっくりと持ちやすかったようだ」
水やりを終えると店主はまた店の中に戻っていった。
「もう店を閉めるけどいいかい?」
店主が訊ねたがその声はリックの耳には届かず、代わりにコーザが答えた。
リックは信じられなくて、もう一度店の中を見わたした。しかしどれだけ探してもみても、店内にあるのは滑らかな曲線とピンと張った糸のような直線で出来た硝子細工ばかりで、あの歪な姿は見当たらなかった。
その日の夕食はいつもより少し豪勢だった。
「そんなことする必要はないよ」
そうリックは言ったけれど、コーザはこんな時に楽しまなくてどうするんだと一歩も譲らなかった。
もちろん料理を作るのはリックの役割だったからコーザとしてはただ、御馳走にあずかることが目的だったのかもしれない。けれど、そう振る舞うのはコーザの照れ隠しだと、リックはここに来てから今日までの日々で十分に分かっていた。
その証拠という訳ではないけれど、コーザはリックが料理をしている間に町の北にある果樹園まで走り、もぎたての林檎わけてもらうとそれを搾って果汁水を作ってくれた。
それをコルテオにわたせなかった、ふたつのグラスに注ぐ。
黄色をおびた果汁が歪んだグラスの中で揺れ、表面の気泡は果汁の中を泳いでいるようだ。そのグラスを手にしてみて、リックは自分でも決して持ちやすいと思わなかった。歪な表面は手のひらに触れる箇所と触れない箇所をつくり、手にしているとどこか落ち着かない気持ちになった。それでも右手で持ってみると親指から人差し指にかけては歪な表面を滑るように吸い付くように、しっくりと合っていた。
もしかしたら、本当に手に取ってくれたのかもしれない。
親指と人差し指にぴたりと触れる曲線を感じていると、リックは自然とそう信じられる気がしてきた。女の子の小さな手がグラスを包み、母親が作った果汁水を口にする様子を思い浮かべることができた。
指先からその実感が生まれ、売れたと聞いた時から初めて喜びが湧いてきた。 自分の作ったグラスを誰かが手にとり使ってくれる。その喜びはグラスを初めて作った時よりも作ったグラスをカエルに持って行ったと聞いたときよりも、温かくゆっくりとリックの胸を震わせた。
「なにニヤけてるんだよ」
コーザが茶化してくるもリックは湧いてくる気持ちを抑えられず、笑みを広げてごまかした。
手にした女の子が長く、あのグラスを使ってくれるといいな。
そう願いつつ、ふたりはグラスを鳴らした。




