夜空
もうあと一息のところまで登った頃、跳ねるようにサンが駆けて来た。
サンはふたりの周りを颯爽と二周すると正面に戻ってひと声上げ、案内するからついてこいと言うように先頭を歩きはじめた。
尻尾が巻き上がり、歩行にあわせて左右に揺れている。はじめて会った初夏と比べて白い毛は長く伸びて全身を柔らかに包み、体は肉付きよくふっくらとしている。
やっと小屋につくとサンは菜園の方へと駆け出し、ふたりは後をついて行った。
ふたりが顔を出すと、コルテオは井戸で冷やしてあった野菜を引き上げていた。
「こんにちは」
「おお、よう来た」
「あの、これ、お土産です」
リックは手に下げていた袋をコルテオにわたした。
「おお、パンか。ここに住んでいるとパンを手に入れるのは難くてな。特に焼きたてには目がないんじゃ。ありがとう」
昼には少し早かったが、三人はそのまま昼食にした。
風が吹いて少し肌寒くも感じたが、秋の日射しは心地よく、切り株を机の代わりに外で食べることにした。
先ほどまで井戸で冷やしていた野菜を薄く切り、切り株机に広げ、各々が好きな物を好きなだけパンにはさんで食べた。野菜は町で食べるものも新鮮で美味しいのだが、小屋の畑で取れたものは不思議といっそう瑞々しかった。
パンは土産で持ってきたものなのに、コーザはそのことを忘れて人一倍食べていた。けれどコルテオはそんなコーザを見ながら嬉しそうに頷き、遠慮することはないと、さらに野菜を出してくれた。昼食を終えた時には持ってきたパンの半分近くがコーザの腹の中におさまっていた。
「あれだけの道のりを歩いてきたんじゃ、若いんじゃから好きなだけ食べるとよい」
食事を終えるとコーザが思い出したように訊ねた。
「そう言えば、面白いものって」
「ほっほ。なんじゃと思う」
コルテオがさも嬉しそうに訊き返す。
「僕たちは今日、ノーマが森から出て来るんじゃないかって話していたんです」
「ノーマか。確かにノーマが来るなら年寄りがひとりで迎えるよりもふたりがいた方がノーマも心強いじゃろうな」
「違うのですか?」
「わしも長いことここでノーマを待っておるが、いつ来るのかは分からんのう」
「僕が森から出て来た時、たしかそろそろだと思っていたって言ってたから分かるのだと思ってました」
コルテオはとぼけるように笑ってごまかし、目を細めて空を見上げた。町で見上げるよりも流れる雲は速く、近くに感じる。
「まあ、お楽しみはまだ先じゃ。それまでゆっくりしてると良い」
エーダの言っていた栞にする紅葉を拾うため、リックは小屋の裏へと回った。
小屋の後ろの森は紅く色づき、最初に歩いて通った時とその印象を大きく変えていた。
青く生い茂っていた葉は夏を越して成熟し、力強く伸びていた幹は逞しさを身につけていた。若々しく生き生きとしていた初夏の森が夏を越え、秋の空気をまとって大人びて見えた。
森と丘との境目に立ち、リックは森の奥をのぞいた。
町から眺めると森は火に包まれているように紅一色に見えたが、こうして近づいて眺めてみると葉は木によって黄に橙に紅に、かすかにも異なる色に染まり、また同じ木であっても葉をつける位置や枝の方向、陽に触れる長さによって、一枚一枚、その濃淡を移ろわせていた。
リックはそんな無数の葉から痛みのない綺麗なものを十枚ほど摘み取ると、破れないように折れてしまわないように、紙の間にそっと挟んだ。
リックが小屋に戻ると、コーザは丘を登ってきたにもかかわらず、そんな疲れもないかのようにサンとじゃれあい、小屋の前を駆け回っていた。
コルテオは菜園で畑仕事をしていた。菜園も秋を迎えて夏のものは旬を過ぎ、太陽に向けて大きく咲いていた黄色い花も花びらを散らしては種だけになっていた。
コルテオは鋏を手に、完熟し乾燥して茶色くなっているヘチマを切り取っていた。リックも高いところを手伝うと、取り入れて小屋に運んだ。
ヘチマの皮を剥いて中の種を取り除く。繊維だけを残し、たわしとして使う。
他愛のないことを話しながら、リックとコルテオのふたりは小屋の中でその作業に取りかかった。先端をつまんで皮を剥ぎ取り、棒をさして種を押し出す。単純な作業を繰り返し、手を動かしながらもリックは何度も小屋の隅に置いたバッグに目を向けた。その中にはリックの作ったグラスがふたつ、割れてしまわないように服に包まれている。
数日前のあの日、コルテオに仕事のことを訊ねられてリックは自分の作ったグラスをカエルに並べてもらっていると答えた。それは嘘ではなく、少なくとも本当のことだった。カエルの右の机の一番前に指定席のように置かれているグラス。けれど、そのグラスは形も歪で誰にも手にしてもらうこともない不出来なもので、それがまるでコルテオに嘘をついているようにリックには思えた。あのグラスを思い出すたびに小さな針を飲み込んだような、そんな痛みが胸の中で大きくなっていった。自分の作ったグラスをコルテオに見せて本当のことを話したかった。自分はまだこんなものしか作れないんだと伝え、この気持ちから逃れてしまいたかった。
その機会を探るように何度もリックは目の端でグラスの入ったバッグを見る。けれど、リックはどうしても言い出せなかった。相手がコルテオだから苦しくて、コルテオだから伝えることが出来なかった。
時間は焦る気持ちと競うように速く進み、リックがその一歩を踏み出す前に、かご一杯にあったヘチマも最後の種を取り終えてしまった。
「二人でするとさすがに早いのう。おかげで全部終えてしまうことができた。ありがとう」
空いたかごを重ねながらコルテオが言う。感謝の言葉なのにリックの中には痛々しさが募るだけだった。
グラスを渡せず、リックは逃げるように外に出た。遊び疲れたのか小屋の外ではサンとコーザが陽の下で、仲良く眠っていた。しばらくはそのままにしておいたが風邪を引かないよう、日が暮れる前にふたりを起こした。
夕食は深手のポットに少量のミルクを入れてゆっくりと火にあて、ほんのりと湯気が立ち上る程度に温めてからチーズを加えてとろりとしたソースを作った。それを暖炉の火で焙り、こんがりと焼き色をつけた野菜やパンに十二分につけて食べた。とろりととけたチーズは切れることなく、椅子から立ち上がって野菜やパンで巻き取らなければいけないほど、どこまでも伸びた。
サンにもチーズをたっぷりと絡めて出したが、柔らかなチーズの前にはサンの鋭い牙も歯が立たないらしく、歯や口周りの毛にまで蜘蛛の巣のように糸を張っていた。
それを取り払おうとサンは何度も前足で顔を拭うも、拭うたびに蜘蛛の巣をからませては顔中に広げてしまっていた。コーザはそれが面白かったらしくたっぷりとチーズをつけてサンの皿に置いてみたが、そこは見越したサンが上手だったようで、一息に前足を掛けて机に乗りかかるとコーザの好きな小果実の入ったパンをぱくりと食べてしまった。
太陽が森の奥へと沈み、夜が地平線から顔を出す。鳥も寝床に帰り、虫の音が響きはじめる。外をのぞいても闇が覆って何も見えず、ランプに照らされた自分の顔が窓に映るばかりだ。
暖炉の火が小さな小屋を暖める。リックがバッグを眺めながら明日には渡そう、伝えようと強く思っているとコルテオが口を開いた。
「まだ早いじゃろうが、そろそろ外に出ておこうかの」
「外?」
コルテオの話していた面白いものが何なのか、忘れていたわけではなかった。しかしもう辺りは暗く、明日に持ち越しなのだろうと思っていたリックとコーザは驚いて顔をあげた。
「そうじゃ。まだ秋とはいえ、丘上の夜はめっきりと冷え込む。十分に暖かくしての」
リックとコーザは一枚着るとさらに一枚、丘の上は寒いのではと念のために持ってきた上着も羽織った。
「これも持って行くと良い」
コルテオは厚手の毛布をふたりに渡した。
ランプの灯りを全て消し、火が完全に落ちてしまわない程度に暖炉の火を燻らせて外に出る。
明るかった部屋から外に出ると、夜の闇が一段と深く感じられる。
遠く、丘の下に町の灯りがぼんやりとうかがえるだけだ。その明かりも丘の中腹を漂う靄に隠れてしまうと深海に取り残されたように方向の感覚がなくなり、堅く、そこにあるはずの地面も不確かに感じられた。
外に出た時はそこまで寒さを感じていなかったが、吸い込む空気が内側から体を冷やし、残っていた暖炉の温もりもすぐに奪われていった。両手をポケットにつっこみ、肩を寄せる。首を竦ませ体を縮こませ、視界は下に狭くなる。吐く息は闇の間を白く漂い、秋の夜の空気に溶けてゆく。
冷たい空気を吸いながらリックがふと顔を上げると、頭上には数えきれないほどの星が夜空に輝いていた。無数の星々は無数の色をおびて瞬き、夜空を彩り、集まり重なり合いながら、ひとすじの眩い川となって地平線の彼方から丘の方角へと流れるように広がっていた。
工房からの帰り道、夕方と夜の間の空に顔を出した一番星を眺めながらリックは家路につく。あの星はぽつんとひとつ遥か遠くに見えるのに、丘の上から眺める天体は手を伸ばせば届きそうなほど近くて、吸い込まれてしまいそうな、押しつぶされてしまいそうな星の瞬きにリックとコーザは息を呑んだ。
「こっちじゃよ」
瞬く夜空に見惚れていたリックはその声に視線を下ろした。
少し離れたところにコルテオとサンと思われる真黒な輪郭が立っていた。
「これじゃないんですか」
コーザは星空を見上げたまま訊ねる。
「ほっほ。本当に見るべきものはこれからじゃよ。暗いから気をつけての」
コルテオとサンの輪郭が歩き出したのを見て、星明かりだけをたよりにふたりは後ろをついて行った。
森に沿って歩き丘を少し下ると、斜面が突き出てできた平坦な場所に出た。
暗闇の中、三人は足下を確認するとそこに腰を下ろした。毛布を肩に巻くようにかける。顔は外気にさらされたままどうしようもなかったが、それより下も毛布で包んでいたのに、地面から立ち上る冷気に底冷えがした。毛皮に覆われたサンだけが平気らしく、首筋をピンと伸ばして座っている。
水の流れる音がしてリックがその音の方を向くと、コルテオが何かを差し出していた。曖昧な輪郭しか見えず、リックは両手で包むようにそれを受け取った。コップだった。コップは暖かく口元に近づけてみると夏の太陽のような香りが立ち上ってきた。
「マリ茶じゃ。もう少し時間がかかりそうじゃから、体の中から温めておかんとのう」
手にしたコップは熱いほどで、リックは息を吹きかけながらゆっくりと口をつけた。温かさがじんわりと広がり、体の内側から温まっていく。
熱く一口ずつ口をつけていると、雪を溶かす春の太陽を浴びたように手足の先まで温もりが戻ってきた。冷気に触れている顔ですら寒さを感じなくなった。
山腹を漂う靄が風に流され、切れ間から町の灯りがぼんやりと浮かんで見えた。その様子を眺めながら、リックは暖かなマリ茶を飲んだ。
「こっちじゃ」
肩を叩かれてリックとコーザは後ろを向いた。
目の前の森が重たいほどに暗い。その上に瞬く星があまりにも明るく対照的で、森がそびえ立つ城壁のように強固に三人を見下ろしていた。風にそよいでいた姿はそこにはなく、嵐さえ飲み込んでしまいそうな深い闇をたたえている。ふたりは温かいマリ茶を手に、星降る夜空と暗闇の森を眺めた。
この後に何が出てくるのか分からなかったけれど、何も出てこなくてもかまないと思えるほど、ふたりはその光景に見蕩れていた。
何も起こらないままコップに注がれたマリ茶に口をつける。
二杯目を受け取った時、森の上に薄く、ぼんやりとした線が走った。流れ星かとも思ったが解れた糸のように夜空に線を引いて流れると、翡翠色をした帯の形に一瞬で広がった。
カーテンだ。広がった姿を目にするとリックはそう思った。光のカーテンは広い空を舞台に、窓際でなびくレースのように軽やかに揺れた。枯れ木を焼べた炎のように淡くゆらぎ、風に流れる羽毛のように優しく舞った。その色は絶え間なく移ろい、世界中の鳥の羽から色を拾い集めてきたかのように無数の色を空に映した。最初一枚だった光りの帯はいつしか枚数を重ね、その色を瞬きごとに深めていった。 あまりに深い色使いに、空を埋めつくしていた星々は薄らいでいった。
夜空に揺れる光りのカーテンを見つめながら、リックはグラスのことを思い出していた。カエルに並べられた、口が歪み中心が凹み気泡が混じったリックのグラス。リックはどうしても分からなかった。どうしてジンはあのグラスを選び、カエルに並べることにしたのだろう。
周りに並んだ他のグラスと比べるとあまりに不格好で、同じグラスと呼ぶことすら憚れるほどの不出来に思っていた。何よりも誰にも手にしてもらうこともなく、あのグラスだけがひとり同じところに残っているのを見ると惨めだった。
夜空に揺れるレースは形に囚われることなく、波の行くまま風の赴くまま、その色を姿を自由に移ろわせていた。瞬きの瞬間、その姿はまた新たな姿へと生まれ変わる。二度と同じ姿を見せることはない。
しかし、どの瞬間を切りとっても揺らめくその光りの重奏は、空を包み込むように艶やかに夜を彩っていた。そんな軽やかな姿を眺めているとあのグラスもあのままで良いような、そんなふうに思えてきた。
細く、広く、厚く、薄く、長く、短く、重く、軽く、大きく、小さく。
工房でもカエルでも、並んでいる硝子細工にひとつとして同じものはない。色も形も大きさも、似ているようでどれも少しずつ違っている。グラスも自由に作っていいんだ。決められた色も形もないんだ。あざやかな夜空を見上げながら、リックはそう言われているような気がした。




