冷めたグラス
日々の練習や工房の人たちの手解きもあり、蝉の鳴き声もいつしか聞こえなくなった頃、リックはようやくひとつグラスを作りあげた。
冷えた筒を窯から取り出し、煌石で円を描くように傷をつける。その傷に合わせて筒からグラスを取り外す。
回しが不安定なためか息の吹き方に斑があるからか、厚みも形も均一ではなく手に取りかざすまでもなく、その表面は歪んで見えた。グラスの底には小さな気泡が閉じ込められたままだ。明らかに不出来で不恰好なグラスだったが、リックにとっては工房にあるどのグラスよりも好きな、一番のグラスだった。
「これじゃカエルには出せねえな」
ジンも手に取って眺める。口では茶化すように言っているが、その目は真剣にグラスを見ている。
「それならこれ、僕がもらっていいですか」
「いくら不格好でも売りもんだからな。そういうわけにはいかねぇんだ」
それを聞いてリックが残念に思っていると、
「最初に作った硝子は本人がもらうことになっているのに」
困ったものだと笑みを浮かべながら、ヤンがグラスを受け取る。
ヤンは包装紙を取り出すと、丁寧にそのグラスを包んだ。
「僕も同じこと言われたよ」
そのグラスを手に工房を出る。
転んで割ってしまわないよう、急いでしまう足を抑えながら家路につくと、早速そのグラスに水を注いで飲んでみた。錯覚だと分かっていても自分で作ったグラスで飲む水は汲み上げたばかりの湧水のように透きとおり、さらりと喉を流れ落ちていくようだった。
口にするたびに嬉しくなって、すぐにもう一杯注いでは飲んでみる。しかし、二杯目を飲み終えて机に置いた時、リックはこのグラスにひとつ問題があることに気がついた。底の真中が盛り上がっているために、グラスは真っ直ぐに立つことが出来なかった。
中に何も入れなければ置いておくことは出来るのだが、水を入れてしまうとその重さで片方に傾き、堪えきれずに倒れてしまう。自分の手で初めて作ったグラスだ。そのまま飾っておいてもよかったが、リックはどうしてもこのグラスを使っていたかった。
色々と試してみたけれどどうしようもなく、水の量を減らし、倒れないよう黒猫の置物に立てかけて花瓶として使ってみた。庭に咲いていた白い花をさすと、黒猫と花が寄り添っているように見えた。その様子は微笑ましかったけれど、早く自分の想い描いた通りの歪みのない綺麗なグラスを作りたい。歪な形をしたグラスを手に、リックはあらためてそう思った。
リックは休みの日も工房に通い、グラス作りに励んだ。
ひとつ作り上げるのにも他の人の三倍の時間がかかり、失敗して無駄にしてしまうことも一度や二度のことではなかった。
出来上がりも比べるまでもなかったが、それでも少しずつコツを掴み、慣れ、グラスはよりグラスとしての形に近づいていった。自分が上手くなっていくのが楽しくて、筒の感触、吹きこむ息の強さ、指先にかかる硝子種の重み。ちょっとしたことで変わるその小さな違いが分かってきた気がして、リックは休みを取るよりもひとつでも多くグラスを作ってみたかった。
形成されたグラスは窯に置かれ、半日かけてゆっくりと冷ましていく。急激に温度が下がると硝子がその変化に耐えきれず、ひびが入ることや割れてしまうことがあるからだ。
リックが最初のグラスを作った日から十日ほどたった日の夕方、いつものように練習のために作ったグラスを筒から外し火に焼べ、再び硝子種に戻してしまおうと台に向かうと、グラスがひとつ台から消えていることに気がついた。
最初はただ思い違いだろうと気に留めていなかったが、となりの部屋からヤンが入ってくると嬉しそうに台を見つめて言った。
「ジンが台にあったグラス、ひとつカエルに持っていったよ」
思いもしていなかった言葉に驚き、リックは他のグラスに目を向けた。
しかし、どれも歪みや気泡が混じり入り、決して良いものとは作ったリックにも思えなかった。
「けど、どれも上手く出来てないですよ」
「僕は見ていないけど、良いものがあったんじゃないかな」
片付けを終えると、リックは走ってカエルに向かった。
自分の作ったグラスがカエルに置かれている。そう聞いても自分でも信じられなかったけれど、それでも嬉しくて気持ちが足を急かした。
あまりに急いでいたために曲がり角で人とぶつかりそうになっては謝り、横道を一本手前で入ってしまいもしたが、店に着くと高鳴る鼓動のままに窓から中をのぞいた。いつものように店内は硝子細工が灯りを反射して煌びやかに暖かな光景を描いていた。
視線を巡らせると右手前の机、その最前列にリックの作ったグラスが他のグラスと一緒に並んでいるのがすぐに目についた。リックはその光景を前に走ってきた息苦しさも忘れてそのグラスを眺めた。
しかし眺めれば眺めるほど、胸の高鳴りは静まり、心は冷めていった。
目の前の光景はリックが毎日カエルに立ち寄り、思い描いていたものとはほど遠いものだった。グラスの腹は凹み、飲み口は歪み、気泡が混じり入り、周りのグラスは華やかに一点で光りを返しているのに、リックの作ったグラスだけが平坦で広がりのない光りをとなりのグラスに投げていた。
それはとなりのグラスを汚しているようにすら、リックには思えた。何十もの煌びやかな硝子細工が周りに置かれているのに、リックのものだけが明らかにみすぼらしく不出来だった。眺めていると作った本人がそう言われているような、そんな気さえして惨めに思えた。
自分は上達しているんだ、上手くなっているんだ。抱いていた誇らしい気持ちも嘘のように消え去り、そう感じていたことが愚かで恥ずかしく思えた。
眺めるのを止め、足を引きずるように家へと向かう。リックの心を満たしていたあの暖かみは、もう影も見当たらないほどに冷めていた。
翌日、リックはジンよりも遅く工房に顔を出した。
工房へ向かう足取りは重く、毎日待ち遠しく思えていた朝は憂鬱だった。
筒を回しても昨日までのように楽しくもなく、グラスを作ることが億劫にすら思えた。
上手くなりたい。そう思っていた気持ちも遥か昔のことのようだった。
どうしてあのグラスをカエルに持って行ったんですか?
そうジンに訊ねてみたかった。
苛立ちを込めて訊いてみたかった。けれど意地だけは一人前でそれが足を掴んで、リックは自分から動こうとは思わなかった。訊ねることすら面倒で煩わしかった。次こそ良いものを作ろうとも思えなかった。勝手にあんなグラスを持っていったジンが悪くて、上手くできないこともジンが悪いんだと押し付けていた。下手なことは自分が一番よく知っているのに。
朝起きて工房へ向かい、筒を回し、夜になると家へ帰って眠った。休みの日に工房へ行くこともなくなった。それでも時間だけは変わることなく止まることなく、一秒一秒同じ間隔のまま、前へと進んでいった。




