森
心地いい。
風が頬をなでていく。
草の匂いが甘い。
日射しが柔らかい。
背中に触れる土はひんやりと冷たく、綿あめのようなふわりとした雲が、目の前の空を流れていく。
まるでその雲とじゃれあうみたいに、一頭のくじらが泳いでいる。
風に乗ったくじらはゆったりと青空を舞い、時折その身をよじっては尾びれを大きく打ちつけている。
くじらも気持ち良さそうだ。
そのまま眠ってしまいそうな穏やかな陽だまりの中、目を閉じてゆっくりと呼吸する。感じる心地よさを全身にゆきわたらせるように。
くじら?
目にした光景のおかしさに気づくと、少年は飛び上がるように体を起こした。
「どこだろう、ここは」
どこかの森の中だということはすぐに分かった。
見わたすと周りを高い木々に囲まれ、その先には薄暗い森が広がっていた。
木々の間を縫うように陽の光が射し込んではいたけれど、それによってどこまでも続く森の深さが見て取れた。
彼は起き上がった時、そんな深い森の中、ぽっかりと空いた空き地にひとり横になっていた。
その空き地は庭に囲まれた家一軒を建てるのにちょうど良い広さで、白や黄色の野花が芝生の中に点々と咲き、空からは太陽の光が淡く注がれていた。
目の前に広がる光景に自分の身に何が起こっているのか上手く掴めず、少年はただ森の奥を見つめていた。
くじら?
しばらくの間ぼんやりとしていたが、はっとクジラのことを思い出すと、少年は急いで青空の中を探した。
しかし高い木々に視界を遮られているためか森を見ていた時間が長かったからか、その姿を目にすることはなかった。手をかざし目を細めてもみたけれど、太陽の眩い光りの中にもその姿を見つけることはできなかった。
見間違いだったのかな。
そんな気持ちが少年の心をかすめたが、大空をどこまでも遊泳する雄大な姿は彼の目に焼きついていた。
空から視線を下ろすと、目の前に人ひとりが通れる程の小道が森の先へと続いていた。先ほど見わたした時には確かに四方を木々に囲まれ、そんな道はなかったはずなのに。
少年は森と空き地の境目に立つと、森のなかを覗いた。
小道は畝り入り組みながら、森を奥へ奥へと続いていた。
陽の光りが射し込んでいるおかげで気味の悪さは和らいで見えたけど、出口の見えない森の深さに足が竦んでしまうのも確かだった。
振り返っても他に道は見当たらず、少年は深く息を吸うとその小道に足を踏み出した。
曲がりくねりながらも道は平坦で柔らかく、歩きやすかった。見上げると、木々は空まで届くように、真っ直ぐ高く伸びていた。葉の色は濃く、芯が先まで通ってピンと張り、瑞々しさをたたえていた。
ここはどこだろう。
どこまで続くのだろう。
そんな疑問と不安が少年の心に浮かんできたが、森を歩くことは清々しく気持ち良かった。
土を両足で踏みしめ、汗をかき、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
しかし、どれほど歩いて来ただろう。
額に滲む汗を拭うと、少年は足を止めて空を見上げた。
疲れて止まったわけではなかった。両脚にかかる体の重みも速くなっていく心臓の鼓動もうっすらと滲む額の汗も、少年には心地よかった。
少年が足を止めたのは気づいたからだ。
虫の歌声も鳥のさえずりも動物の息づかいも、何も、聴こえてこないことに。
時折、森の上空を通りすぎる風が木々の先端をざわつかせるだけで、生き物は何ひとつとして存在しないかのように森は静まりかえっていた。
一度そう思いはじめると何も変わっていないはずなのに、目の前の光景が恐ろしいものに思えてきた。
暗闇が音もなく忍び寄り、樹皮や節くれが人の顔のように見えてきた。木々の間を走る風の音が、苦しみから絞り出た叫びのように聞こえてきた。
少年は駆け出した。
曲がりくねった小道を何も考えず振り返りもせず、一歩でも森の先へ先へと足を踏み出した。はみ出した枝が少年の腕や足を何度も引っ掻いたが気にもならず、滲んでいた汗は玉となって流れ落ちた。
どれだけ走っても終わりに着くことはなく、森が繰り返されるだけの景色がどこまでも続いた。止まることなく走り続け、息も絶え絶えとなった。心臓が叫ぶように脈を打つ。肺が掠れた悲鳴を上げる。もう走れない。少年の心にそう影が射した瞬間、今まで森と暗闇に覆われていた視界が閃光とともに広がった。
靄が風に消えていくように、視界が晴れていく。
眩さに慣れると少年は森をぬけ、小高い丘の上に立っていた。
丘の先にはどこまでも開けた世界が広がっていた。左手には鋭く切り立った崖がそびえ立っていたが、右手からは穏やかな川が流れ、正面には緑をたたえた地平線が霞むほど彼方まで伸びていた。
視線を落とすと麓には円く広がった集落があり、そこからは幾筋かの煙が上っていた。
右手に見えた川は弧を描きながらちょうどその町の中心を通り、町を過ぎると左手の崖の先へと流れていた。
「そろそろじゃと思っておったわい」
少年が声のした方を向くと、陽によく焼けた老年の男が森と丘との境目にある切り株に腰を下ろしていた。男は少し長めにのびた白髪と同じ色のひげをたくわえ、頭には先の尖った麦わら帽子をかぶっていた。木の杖に両手をのせ、白い毛皮の動物が行儀よく主人の横に座っている。
少年は口を開こうとしたが体中に響きわたる鼓動を落ちつかせるため息を吸うことにいっぱいで、言葉は出てこなかった。
「ほっほ。あれだけ走ってきたんじゃ。何も言わんでよい。とりあえず中に入ろうかの」
そう言うと男は立ち上がり、後ろに見える小屋へと歩き出した。
少年は考えることも疑うこともなく、男のあとをついて行った。
小屋の手前には小さいながらも畑が耕されていた。縞模様の丸い実が土の上に並び、添え木に巻きついた蔦には赤色の実が房になっていた。後ろに立つ背の高い花は黄色い花弁をつけて、太陽に向けて大きく咲いていた。
小屋は丸太を積み上げただけの簡素な作りで、小さな畑よりもさらに小さかった。
中を覗くと、室内も外観と同じように質素で飾り気は少しも見られなかった。
四角い机が真中に置かれ、椅子が二脚とベッドがひとつ。壁に備え付けられた棚にはいくつかの食器と細々としたものが少しばかり置いてあるだけだった。暖炉もあったがこの季節には必要ないからか、灰は綺麗に掃かれ、眠るように小屋の隅でうずくまっていた。
男は壁の出っ張りに帽子をかけると、入り口に立ちつくしていた少年に椅子を勧めた。弾む息を整えながら、言われたように少年は席についた。
男はグラスを二つ机に置くと飲み物を注いだ。
グラスは爽やかな黄色い液体で満たされ、初夏を思わせる香りがそっと立ち昇った。
「マリ茶じゃ。口に合うとよいが」
少年は両手でグラスを支えると、ゆっくりと口に運んだ。
凛とした香りとともに澄んだ涼しさが喉を通りすぎていく。森の中を息が切れるほど心臓が悲鳴を上げるほどに走り、口も喉も乾ききっていたのに、その黄色い飲み物を口にするとすぐに潤っていった。涼しさが広がっていくにつれて体が落ち着いていった。
「おいしい」
少年の口から思わず声がこぼれた。
「畑に黄色い花が咲いておったじゃろう。その種からわしが丹精したものじゃ」
少年の顔が緩んだのを見て、男は満足そうに言った。
「落ち着いたところで自己紹介といこうかの。わしはコルテオという。こっちはサン。普段はここに、こいつとわしのふたりで暮らしておる」
その紹介とともにコルテオは足下で丸くなっている白い毛皮の動物を撫でた。狼のような鋭い目つきと牙をしているが、表情や仕草にはまだ幼さを残している。サンも自分を紹介するかのようにひとつ吠え、耳をピクリと動かした。
「君の名は、なんという?」
「リック」
「リックか。凛々しい名前じゃな」
「あの、ここはどこですか」
リックは手にしていたグラスを静かに置くと、不安に急き立てられるように口を開いた。
「僕は気がつくとあの森の中で横になっていたんです。ここがどこなのか、どうしてあんな場所にいたのか、何も分からなくて。それだけじゃなくて、僕は一体誰なのか自分では何も憶えていないんです。森で目が覚めるまで何をしていたのか、どこから来たのか、そういったことが何もかも。どこか別の場所にいたはずなのに、それまでのことを全く憶えていなくて。自分の名前だって訊かれるまで分からなくて、思い出そうともしなかったくらいで」
捲し立てるようなリックの話をコルテオは柔らかな笑顔をたたえたまま、最後まで聞いていた。
リックが最後まで言ったのを確認するようにひと呼吸おいて、コルテオは話しを続けた。
「心配せんでいい。ここではそれが普通でな。森から出てきた時、みな自分の過去を忘れておる。何もかもじゃ。だが不思議と名前だけは誰かが訊ねると思い出せるようでな、わしらは一番最初に名を訊くことになっておる」
「みんなって」リックが訊ねた。
「丘下にいくつも建物が見えたじゃろう。町の連中はあそこで暮らしておる」
「その、みんなも、森の中から出てきたのですか」
「正確に言うと町の全員がそうなわけじゃないんじゃが、まあ大方はそうじゃ」
「コルテオさんも」
「もちろん、わしもじゃ。もう遠い昔のことじゃがな。あの日のことは今でもようく覚えておる」
コルテオはグラスに口をつけると、懐かしむように笑みを浮かべた。
「森から出てきた時、誰もが自分の昔を忘れておる。そんな人を町まで案内するのが、わしの務めじゃ」
グラスを置くと、コルテオはリックの目を真っ直ぐに見た。
「町のみんなもそれぞれに務めをもっておる。パンを焼くのを仕事としている者もいれば、家を建てる者、病を診る者、畑を耕し作物を育てる者など色々な人がおる。お互いがお互いを支えておるというわけじゃな。
わしも昔は机や椅子を作っておったんじゃが誰かが案内人の跡を継がなくてはならんくなってな、年を取って隠居しようと思っていたわしが引き継いだというわけじゃ」
コルテオはこの机も自分が作ったんだと自慢するように、机の足を二度小突いた。堅く、乾いた音がした。
森を歩いていた時からひとつの考えが頭から離れなかった。
それを考えてしまうと怖くて押しつぶされてしまいそうで考えないようにしていたが、リックは思い切ってコルテオに訊ねた。
「僕は、死んだのですか」
「それは誰にもわからん」コルテオはきっぱりと答えた。
「ここが死後の世界だ、そう考えている者も確かにいる。じゃがわしはそうは思っておらんでな。腹が空けば飯が美味いし、扉に指を挟んだ時は飛び上がるほどに痛い。楽しい時は歌ってしまうし悲しい時は涙がこぼれる。丘をそよぐ風はなによりも爽やかで陽の光は羽のように柔らかい。ここがどこかは分からんし、生きていることと死んでいること、それがどう違うのかよう分からんが、わしにはそれで十分じゃ」
コルテオは心の底からそう信じているように満面の笑みを浮かべた。
リックからしてみればなんの疑問も問題も解決したわけではなかったが、その笑顔を見ていると不思議と落ち着いていった。締めつけていた不安は確かに小さくなっていった。
「さて、今日はいろいろと疲れたじゃろうから早めに休むとしようかの。明日は町まで行かねばならん。長い一日になる」
青が沈み、夜が降りてくる。
夕日が森にかかりはじめた頃、コルテオは夕食を作ってくれた。
動物の乳を保存のために固めたものをさっと火にあてて柔らかく溶かし、それを大麦のパンにのせて食べた。
簡単な料理だったが一度口をつけると何枚でも食べられそうなほど美味しくて、リックは手を休めることなく夢中で頬張った。夕食を目にするまで食欲すら忘れていたのに。
陽が暮れてしまうと小屋の外は真っ暗に、明かりひとつ見えなくなった。
コルテオはひとつしかないベッドを勧めてくれたがリックは床で眠ることを選んだ。毛布に包まっていても木の床は固く、寝心地は決して良いとは言えなかった。
けれど、たとえ固い床であったとしても、何かを感じている方が気持ちが紛れるようにリックには思えた。次々に浮かんでは大きくなる不安を少しでも和らげてくれるような気がした。
木の床の上で寝返りをうつ。
体は疲れていたけれど今日一日に起こったことが頭の中を巡り回り、目は冴えて眠れそうになかった。
どうしようもなく、リックはベッドの下で丸くなっているサンに体を近づけた。
サンは動かず目も開けなかったけれど、柔らかな尾をリックの頬にそっと寄せた。何も見えない暗闇の中で柔らかさと温もりはそこにあった。
どれほどの時間、そうしていただろう。
気がつくよりも先にリックは眠っていた。深いところへとゆっくり落ちていく。そんな眠りだった。
眠りの淵で宙を見上げる。
リックの瞼の裏では悠々と、一頭のくじらが宙を泳いでいた。