第五話 HASTA LA VISTA④
◆◇◆
カドモス・バルカ・アナスタシオスは顔を顰めながら、如何にも渋々と言った動作で着替えていた。
外着を纏い、急所を守る程度の皮鎧を身に着ける。
「閣下、剣は……」
「要らん。寧ろあると邪魔だ」
「ですよね。けど、皇太子殿下も滅茶苦茶言ってくれますね。謀反人の元第三皇女が襲撃を掛けて来たから、手伝えって……」
将軍の位にある彼の側近の一人である、ソフォクレスが呆れた様に呟きを漏らしていた。
「あの御姫様が謀反なんかする訳ねえし、どうせ皇太子側の仕掛けた罠だろうに……面の皮の厚い事で」
「口を慎め。不敬罪で処罰されたいのか?」
「これは失礼しました」
既に準備は万端。私室を出、廊下を歩いて行く中でソフォクレスはわざとらしい動作で口を噤んだ。
しかし、今度は別の側近が口を開く番であった。
「伝令のあの物言い、恐らく殿下は姫殿下がここに来る事を見越して居なさったのでしょうか……?」
「ああ、タグウィオス殿がこの宮殿の何処かに監禁されていると言う噂があっただろう? あれで姫殿下を釣ったのだろうな。あの姫様の気質からして、救出に来ないと言う選択肢はない筈だ」
全く以ってあくどい事だと呟く彼の表情は、厳しかった。何故なら、皇太子の命令ともなれば、流石に抗う事が難しいからである。
役職上は同じ位置であっても、相手は皇帝の嫡子。ゆくゆくは皇帝となる男である。ここで不興を買う訳にはいかなかった。
例え、望まない任務であったとしても。
「本意ではないと言った顔ですな、閣下?」
「当たり前だ。どちらに非があるかなど予想は付いているのだからな。……証拠がない以上、何も出来んが」
「嫌であるならば、体調不良として代わりに我らが出ますが?」
「止めろ。逃げた面子の中にはタグウィオス殿も居るのだ、下手を打てば死ぬぞ。私が出る、それで十分だ」
歴戦の猛者と言われるタグウィオス・センプロニオス。本当にこの宮殿の牢に収監されているとは思わなかったが、暴れ回っていると言う話を聞く限り中途半端な拷問しかしていなかったのだろう。
愉快な事だ。
それに、あの白儿の少年も逃げていると聞く。
あの大広間で見た通り、やはり彼はまだ生に対する執着は失っていないらしい。
「望まぬ事をさせられていても、望む結果になるよう動けばいい……」
「は?」
「気にするな。お前達は部隊を整えて待機。この騒ぎに乗じて火事や窃盗、その他諸々何があるか分からん。現に、白っぽい外套を着た馬鹿が一人宮殿内で暴れ回って居ると聞いた。殿下の腹心が鎮圧に向かったらしいが……お前達も不測の事態に備えよ」
「はい! 了解致しました!」
そう言って深々とお辞儀をする部下達に見送られながら、カドモスは尚も派手な戦闘音を立てている場所へと急行する。
その表情は、望まぬ任務をやらされようと言うのに、先程までとは打って変わって微かに笑っていた。
◆◇◆
今までの喧騒が嘘であったように、大聖堂は静まりかえっていた。
先程まで散々していた筈の、大きな乾いた音も聞こえては来ない。
「あ、あぁ……ゔ……!」
向かいにある大宮殿からは尚も騒がしい音が聞こえて来る中、血だらけの老人が一人、呻いていた。
その老人の名はザカリアス三世。見る人が見れば卒倒しかねない程に酷い有様の彼は、激痛に悶えている。
少し前、謎の少年に恐ろしい凶器を突き付けられ、後退った余り渡し橋から地面へ落下してしまったのだ。
幸い即死はしなかったが、体はもはや限界。重傷以外の何物でも無かった。
それを見て、小柄な影と長身の影の二つは特に同情なども寄せる気配は見受けられなかった。
まるで他人事で、無関心で、怪我の具合を覗き込みながら口々に言いたい事を言うのだ。
「……こりゃまた酷い有様だなー?」
「共に倒れる側近もなしとは、今代の総主教の人望が窺い知れる」
「だ、だずげ、で……」
「はいはい、ちょっと待ってろって。あっという間に元気になる御薬、あげちゃうぞー?」
ゴソゴソと、小柄な人影は腰に下げた袋の中を漁り、そして。
「んじゃ、これ呑んでみよー……って、この状況じゃそれも難しいかな?」
「幸い怪我だらけで肉も露出してるんだ、そのまま振り掛けても成分は吸収される筈だ」
「それもそっかー。それ行っけー!」
小さな革袋の栓を抜くと、中の液体を一気に振り掛ける。
無色透明だが強烈な刺激臭のするそれに、長身の男は思わず顔を顰めていた。
「エピダウロス、それ本当に効くのだろうな? 見ていて段々と不安になって来たぞ」
「あ、ペイラスのくせに疑うのか!? これの効果は本物だぞー?」
お前自身を見ていると信用できない、と言ったら余計にややこしくなる気がして、ペイラスはそれっきり黙り込む。
どの道、この薬が効果あるかは見て居れば分かるのだから。
少し胡散臭いものを見るかのような目を向けながら待つ事しばらく、変化は不意に訪れた。
「あ……ガ……ェ!? ヲ!?」
見る見るうちに傷が塞がり、折れていた箇所も修復されていく。
そしてそのまま元通りに、無傷の老人になるのか――と思いきや。
「……これは効き過ぎではないか? 明らかに異常だ」
「そうだねー。こんなの俺らには使えないや」
呆然として二人が見上げる先には、筋骨隆々となった元は老人だった何かが一つ。
下半身に比して上半身が異常なまでに発達し、ともすれば骨格にも変異が生じているらしい。
肩や腕の筋肉は常人ではあり得ない程に肥大化し、そんなに発達した様に見えない下半身は、しかし見るからに強靭ではあった。
均衡を考えたのかは知らないが、上手い事バランスのとりやすい様に体が変異を起こしたらしい。
「確かにこれなら、重心が低い分安定しそうだが……」
「理性、飛んでねー?」
「……エピダウロス、離脱だ」
「はいはーい」
ペイラスによる空間魔法により、二人は素早くその場から姿を消した。
直後、二人の居た地面を剛拳が抉った。
石畳が捲れ上がり、砂埃も舞うほどの威力だ。
生身で喰らえば比喩抜きでぺちゃんこになってしまう事だろう。
「ア……ヴォ? ヴォ? ェヲ?」
言葉になどなっていない、意味の分からない、奇々怪々な音を漏らしながら、その怪物は首を傾げていた。
そして拳を叩きつけた先に何も無い事を確認すると、今度は大宮殿の方に目を向ける。
「……ヴン」
まるで何か面白いものでも見つけたかのように頷くと、笑ったような顔をした怪物はそちらへと足を向けていた。
◆◇◆
「もう命令なんて知らない……! お前はっ、ここでっ! この手でっ! 絶対に殺してやるっ!」
「おいおい、随分な恨まれようだなラウレウス?」
「完全な逆恨みだけど」
正面に立つ小柄な少女は、その顔に憎悪と憤怒を滲ませていた。一週間前にも見た表情。
しかもつい先程、どちらかが直接の主人であったらしいプブリコラとパピリウスの両人を撃破した為、箍が外れたのだろう。
その様子を見ていた后羿は、他人事の様に肩を竦めていた。
この男、いやこの精霊は、余計な時間を食っている時間がない事を分かっているのだろうか。しかも、余裕がないと彼自身も言っていたと言うのに。
「一々構ってる暇もないんだ、手伝ってくれても良いだろ?」
「嫌だね。俺は残ってる矢の本数だけしか戦えないんだ。見たところこのガキンチョは魔力も碌に無いだろ。ならお前一人でも押し切れる」
さっさと片付けてしまえ、とまるで歯牙にもかけないような物言いに反応したのは、タリアだった。
相変わらず厳しい表情で、逆手に持った二本の短剣を構えながら后羿に反論する。
「好き勝手なことを……言っておくけど、そこの白儿は一回私が捕まえてる。今回は手加減しなくていい分、もっと簡単に出来るから」
「え、マジお前? 負けたの? 魔法使えるんだろ?」
「……一週間前は周りに無関係な市民も居て、巻き込む事を考えたんだ。直後に、そんな配慮は要らなかったと後悔したけどな」
取り押さえられてから、市民達によって受けた投石の痛みは忘れられない。罵声によって受けた心の痛みは忘れない。忘れられない。忘れられる訳が無い。
知らなかったとはいえ、知らせなかったとはいえ、彼らの態度には無性に腹が立った。もしも自分が魔法を使っていたら、どんな被害が及んでいたか考えもしないで、勝手な事ばかりを言ってくれた。
悪魔、死ね、裁かれろ、地獄へ行け――。
あの時、市中を引き回された時、向けられた言葉はそんなもので溢れかえっていた。聞くに堪えない、悪意の礫ばかりだった。
「私は今、奴隷になった事を恨んでも居るけど、同時に嬉しくも思ってる。……だって今、ここでお前を殺せるからッ!」
「好き放題言いやがって……!」
ふざけるな。お前ら傍観者に、他人に、俺の生殺与奪を握る権利など無い。握らせて堪るか。
それでも尚、邪魔をするのなら――。
「タリア! テメエもアロイシウスの様に殺してやるよ! 死に怯えるお前の胸に槍を突き刺して、嗤って見送ってやるッ!!」
「大した実力もないくせに、大口をッ!」
槍と短剣が交錯する。間合いの上では槍の方が有利だと言うのに、それを覆す程の彼女の身体能力。
実力そのものも含めそれは驚異的なものであると言えるだろうけれど、しかしそれだけだ。
自分が敗けるとは思えない。
「――ッ!?」
彼女から見れば、俺の背に隠れて死角となる位置に生成した白弾を、撃つ。
それらは半円を描くような軌道でタリアに殺到し、その小さな体に牙を向いた。
大きな怪我を負わない様にとか、死なない様にと言った配慮など一切していない、れっきとした殺意の乗った攻撃だった。
都合四つ。外す事なく全てが直撃し、彼女の体を吹っ飛ばしていた。それは先程吹き飛ばした二人の男達と同じ様に、である。
しかし、無駄に頑丈らしいその小さな体は五体満足のまま宮殿の壁に衝突し、動かなくなっていた。
てっきり跡形もなく消し飛ぶものかと思っていただけに、その結果は意外なものだった。もしかすると威力そのものが不足していたかもしれないが、感覚からして可能性はなさそうだった。
やはり、彼女の体が常人よりも頑丈なのだ。恐らく、顔面などにも見える、まるで継ぎ接ぎ人形の様な縫った痕が関係しているのかもしれない。
少なくとも、あの体に何かが施されているのは間違いないだろう。
「派手にやったな、ラウレウス。殺意も剥き出しだったし」
「自分勝手な理屈ばかり並べ立てられて、腹が立ったんだ。別に良いだろ」
「まあ、だろうな。見てりゃ分かる。ってかあのガキ、随分頑丈だな。消し飛んでもおかしくねえと思ったんだが」
「別に問題ない。魔法で駄目なら槍で殺すだけだ。宣言通りにな」
后羿としても、やはり攻撃が命中した結果としては疑義を抱くものだったらしい。首を傾げる彼にそう返しながら、槍を握る手に力を込めたその時。
「そこまでだ、貴様ら」
威圧的な、そして威厳を感じさせる若い声が、場に聞こえた。
聞こえて来たのは廊下の向こう。
仮に手を止めずとも、自然と視線や意識がそちらに向いてしまう様な雰囲気が、それにはあったのである。
段々と聞こえていた剣戟の音は止み、互いに誰もが距離を取り、そして声のした方へ目を向ける。
そこに居たのは、均整の取れた顔立ちと体つきをした、一人の青年。天色の髪と眼を持ち、あちこちがボロボロになった宮殿の廊下にあって尚、彼の纏う威厳に陰りは見られなかった。
崩れた廊下の壁から見えたけれど、その顔には見覚えがあった。それも、記憶の中にあったそれと照合が完了した途端、思わず舌打ちが零れてしまう程の。
「あの野郎……!」
「おいラウレウス、誰だアイツ?」
「この宮殿に住んでる皇太子だ。憎たらしい顔しやがって」
マルコス……なんとやらと長ったらしい名前が続いていた人物で、一週間前に会った際には俺が抵抗できないのを良い事に粗雑な扱いをしてくれた。
まさか今になって現れて来るとは思いもよらなかったが、しかし嬉しくもある。
あの男には絶対に御礼をしてやると決めていたのだから。
「必ず足蹴にしてやる……!」
地べたに這い蹲らせて、何発蹴りを入れてやろう。
その想像をしながら、俺はマルコス目掛けて白弾を放っていたのだった。
鬱憤も載せたそれらは、あっという間に彼の元へ到達し、そして廊下の壁諸共吹き飛ばす。
途端に四散するのは、マルコスの四肢だ。それらが力なくぼとりと床に落下するのを眺めて、俺はボヤいた。
「こりゃ、ちょっとやり過ぎたかな?」
怒りにかまけて威力の調節を間違えたかもしれない。派手に穴の開いた廊下の壁を見て反省しながら、その場へ近寄って確認をしようとするが。
「駄目だ! 寄るな!!」
「あ? ……んっ!?」
切迫した様子のタグウィオスの言葉に首を傾げた直後、視界には剣を握った、“肘から先の腕”が、迫っていた。
当然、肘から奥には肩も無ければ胴体も無い。まるで悪い冗談の様に、右腕だけが襲い掛かっていたのである。辛うじて飛び退って躱すけれど肩をほんの僅かに斬られ、ヒリつくような痛みに顔を顰めた。
だが、それも程々にすぐさま身構えると、敵を見る。
「何だ、アレ……?」
よく見ればその腕は糸の様に細く伸びた線でいずこかへ続いていて、腕そのものが単独で飛行している訳では無さそうだった。
しかし、どちらにしろ奇怪な光景である事には変わりない。
悪夢でも見せられているのかと錯覚しそうになりながら、念のため更に二歩三歩と後退すると、その先には丁度シグ達の姿があった。
パピリウス達との交戦のせいで危うく分断されかけたが、どうにか合流出来たらしい。安堵しつつすぐに気を引き締めて正面を睨み据えていると、浮遊する腕に動きがあった。
「……不意討ちを掛けて来るとは、やはり白儿は卑怯で邪悪な存在か。大人しく捕まって居れば良いものを、なぁシグルティア? そう思うだろう?」
「マルコス……お前っ!」
無色透明の液体――恐らく水――が段々と密集を始め、不自然に人の形を取って行く。
通常の水の動きではまずありえないその光景を唖然として見ている間にも、それは止まる所を知らない。
気付けば、先程までと寸分たがわぬ姿をした青年が、その場に立っていたのだった。
彼は全く何の痛痒も感じて居ないのか、気取った様な態度でシグを見据えていた。
「シグルティア。実兄の、それも皇太子に取る様な態度としては相応しくない口の利き方だな。お前が謀反を起こす前は、形だけでも兄上などと呼んでいたと言うのに」
「ふざけるな! 誰が貴様などを兄と認めるか! あのような汚い手で嘘を作り上げ、一体何人を失脚させ、何人を処刑した!? 彼らは皆、この帝国の臣民を憂いていた者であると言うのに!」
落ち着いた態度のマルコスとは対照的に、シグのその表情は激情を迸らせていた。
もはやそれは憤怒である。瞋恚の炎を滾らせ、その視線には強烈な殺意が乗せられているのを、見た。
しかし、それを受けても尚、マルコスの態度に変化は生じて居なかった。寧ろ、嘲る様な笑いすら浮かべて、ゆったりとした口調で反論する。
「嘘とは何の事だ? 私はお前が謀反を企んでいる情報を掴み、処罰した。そしてお前に与していた者も連座して処罰された。それだけの事だ。もっと言えば罰したのはその本人のみ。家族にまで累が及ぶ様な処罰もして居ないぞ。随分と良心的なものだと思うが」
「取り潰さなければ温情を掛けたとでも言えるとでも!? 当主を挿げ替えて自分の味方に付けただけではないか!?」
今にも掴み掛らんと言わんばかりのシグだが、彼女自身、感情を発露させながらもどこかに冷静さがあるらしい。
不用意に近付く事は絶対にせず、間合いを保っていた。
「シグルティア、大人しく投降しろ。そうすればタグウィオスやそこの兵士らの身の安全も保障してやる。お前自身も悪いようにはしない、欲しがっている者が居るのでね」
「……そんな口約束、守られると思う訳がない! 本当に保証すると言うのなら、一生タグウィウス達の生活と自由を保障すると今この場で契約諸々して貰おうか!?」
「相変わらず威勢のいい女だ。そう言う態度が気に食わないのだと前々から言っていた筈だぞ?」
「それは御相子じゃない? 私だって、アンタの陰湿な手も厭わない所、嫌いで嫌いで仕方なかった」
互いに不敵な笑みを浮かべたのが合図だったらしい。マルコスが余裕を見せる様に自身の髪を撫でつける一方、シグは幾つもの杭状の氷を造り出していた。
「魔法の相性だったら私の方が断然有利だけど、そんな余裕を気取ってて良いの、兄上は?」
「別に私自身が戦うとは一言も言って居ないぞ。だからお前は簡単に足元を掬われる」
「……?」
何やら意味深長な事を呟くマルコスに、眉を顰めたシグ。俺としても何か仕掛けがあるのかと周囲を見回すものの、何処にも異変らしい異変は見当たらなかった。
もしかしなくても虚勢なのだろうか。
そう思い始めたのだが、不意に足下へと無数の石ころが転がり、そして半透明な壁がシグを取り囲む。
「……ッ!?」
「えへへへ……やっと捕まえたぁ、僕のシグルティア」
「貴様、プトレマイオス・ザカリアス!?」
下卑た、本当に下卑た笑い声を上げながら物陰より姿を現したのは、三十を超えた頃の肥満体の男。
プブリコラよりも痩せているだろうが、所々にデキモノのある顔のせいで、まるでイボガエルの様な風体をしていた。
多分、いや絶対に身嗜みに気を配っていないのだろう。そう考えられる程、大体の人が近寄りたくないと思える姿であった。
着ている服からして聖職者らしいが、どこからどう見ても聖職者を務める上で素晴らしい人間であるとは思えない。
見た目云々ではない。もはや言動の時点で相応しくなかった。
「私の結界はね、君を捕まえる為にたっくさん練習したんだ。だからもう……逃がさない。離さないよ?」
「~~~~無理無理無理無理無理ッ!? ちょっ、何だこの壁!? タグウィオスもラドルスも、見てないで助けろ!? ラウレウス、アンタも!!」
のしのしと近付いて来るプトレマイオス。それに対して後退った彼女は、背中から透明な何かにぶつかったらしい。
自分が本当に結界に閉じ込められている事を悟って、取り乱しながら声を上げていた。結界は密閉されており声も籠っていたが、それでも十分に聞こえる声量となれば本当に嫌なのだろう。
少しだが彼女に同情せざるを得なかった。けれど、結界の破り方など知らない。
「……なあラドルス、結界ってどう割れば良い?」
「馬鹿、直接壁叩いても時間掛かるだけだ! こうするんだよ!」
遅れて駆け付けて来たラドルスが槍の石突で撒かれた石を砕けば、段々とその強度が薄くなっていく。どうやらこの石は妖石であるらしく、魔力を含んでいるこれを媒体に結界が生み出されて言える様だった。
それを見て同様に破砕作業に加わろうとした、その矢先。
「みすみす逃がす訳ねえだろ?」
横合いから割って入る様な声がしたかと思えば、蔦の様な植物が意志でもあるかのように地を這って迫って来た。
それも一本二本ではない。数十本、数えたくも無くなる程の数となって迫って来ていたのだ。
「この魔法……よりにもよって!」
「ラウレウス! 石はこっちで砕く、お前の魔法で植物は吹き飛ばせ!」
「……分かったよ!」
タグウィオスが顔を顰める中、ラドルスの指示に従って白弾を間断なく撃ち続ける。
着弾する度に地を這う植物は細切れになり、千切れ飛んでいくが、率直に言うとこれでは埒が明かない。
魔力が無くなるまでこの調子が続くのでは、結局それまで足止めされ続けてしまう事を示すのだから。
「おいおっさん! コイツについて何か知ってんのか!? とっとと元叩かねえと埒が明かねえぞ!?」
「……恐らくダウィドだ!」
「ダウィド!? 誰だそりゃあ!?」
「フラウィオス・ニケフォラス・ダウィド! 元から皇太子とは距離の近い、帝国最強の一人だ!」
タグウィオスがそう言い終わると同時に、必要数の妖石を砕き終わったらしい。シグが解放され、彼女には安堵の表情が浮かんでいた。
しかし、それを見ても俺は安堵など出来やしない。
「帝国最強って……じゃあアンタと同類って事かよ!?」
「手前は既に第一線から引退した身だ。今となっては奴の方が上手であろうな。ついでに言うとこの都市にはもう一人、帝国最強の一角を占める者が居る。奴まで参戦して来たらいよいよ絶望的だと思え」
「ビュザンティオンなんて来るんじゃなかった……」
現状だけでも状況は十分厳しい。無数の兵士と貴族、イボガエルの様な変態聖職者、皇太子、帝国最強の一角が一人。これだけの戦力に包囲されていると言うのに、こちら側の戦力は数だけ見ても心許ない。
タグウィオス、ラドルス、シグ、后羿……。
と、そこでふと弓使いの精霊の姿が消えている事に気付く。いつから居なくなっていたのかは知らないが、一体何処へ行ったのか。
見つからなければ置いて逃げようと考えていると、出し抜けに一人の大柄な男が廊下から望める中庭より出でた。
「白儿……やるじゃねえか。白魔法って奴ぁそうやって扱うのかよ。実際に見るのは初めてなもんで、新鮮だったぜ」
「フラウィオス、やはり貴様か」
「……あ? 誰かと思えばタグウィオスのおっさんじゃねえか。何か月も牢にぶち込まれていたせいで随分な見た目になったな? また会えてうれしいぜ」
ギラギラと好戦的な笑みを向けるその姿は、どこかエクバソスに似ていた。先輩にあたるであろうタグウィオスに対しても不遜な態度を崩さない辺り、実力にも相当の自信がある様だ。
「シグルティア、それに白儿、センプロニオス……と、雑兵が一人。こんなの相手になるのかねえ。殿下、俺が出る幕ありますかい?」
「不足するくらいなら足り過ぎる方が良い。万全に万全を期す価値があるとは思わないか?」
「……ま、それもそうですな」
果たしてそれで本当に納得したのかは知らないが、そう返事をしたダウィドは改めてこちらを見据えて来る。
今まで包囲し、抗戦していた兵士達は巻き添えを恐れたらしく距離を取っていた。
その行動をとっている辺り、彼らはこれから先の戦闘が相当荒れるとでも思っているのだろう。
もっと言うと、出る幕が無いとも思っている筈である。すぐに勝負がつくと見立てていると考えて良いだろう。
「これ、血路開けんのか……?」
これまでも散々、エクバソスやペイラスなどと言った連中に辛酸を舐めさせられて来た身である。
勝てない時は絶対的に勝てないと言う事を何度も身を以て学んでいる。
だからと言って抵抗を止める気は毛頭ないけれど、この不安が拭える事は無い。現状でも逃げ切れるか怪しく、その苦々しさを表す様に乾いた笑いが漏れていた。
しかしそれでも腹を括るしか無くて、気合を入れ直した直後。
「......あれは?」
皇太子の背後に、また新たに見慣れない人影が立っている事に気付いた。
背丈はダウィドよりも小さく、皇太子よりは高いくらいだろうか。
如何にも偉丈夫と言った様子の男性で、落ち着いた大人という印象を犇々(ひしひし)と感じさせてくれる人物だった。それが一体誰であるのかは、訊ねるまでもなくすぐ明らかとなる。
「……来たな、カドモス」
「は。殿下の御呼びとあらば馳せ参じました次第にございます。遅参、申し訳御座いませぬ」
「構わん、私の方が急に呼び出したのだからな。それよりも話は聞いているな?」
「ええ。ここに居る者を全て捕らえよと言う事で?」
「その認識で良い。特に白儿と謀反人は殺すな」
「……畏まりました」
チラリとこちらに向けられた黄色の眼は、明かりが少ないと言うのにそれでも印象的である。
向けられた視線の中に何か別の意図がある様な気もしたが、恐らくそれは気のせい。捕縛対象の確認をした程度のものだろう。
おまけに、聞こえて来る話から推察するにわざわざ皇太子が呼び出す程の人物である。相当腕が立つのは確実だった。
そんな彼は、この状況下だと言うのに礼儀正しい立ち振る舞いでこう言っていた。
「シグルティア殿下、タグウィオス殿、お久し振りです。このような形で相見える事となってしまい、誠に残念でなりません。……心苦しいですが、これも殿下からの御命令であれば、お許しください」
「カドモス……!」
「こやつまで呼んでおったとは……皇太子め、やはり抜かりの無い男だ。これでは逃げる事も……!」
ただでさえ厳しい状況下で、シグとタグウィオスはより一層苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。
その様子は明らかにただ事では無くて、俺は横に居て厳しい表情を浮かべるラドルスに小声で話しかける。
「おい、あのカドモスって何者なんだ? まさかとは思うが……」
「カドモス・バルカ・アナスタシオス。ここの総督で、あのダウィドと同じ帝国最強の一人だ」
「あー……やっぱそうなのね」
何となく、雰囲気からしてそうではないかと思っていたけれど、いざ肯定されると溜息が漏れた。
つまりこれで最悪の想定が実現してしまった事になるのだから当然だ。
叶う事なら今すぐ裸足で逃げ出したい気分だが、連中にとって俺がシグと並んで最優先対象とされている以上、間違いなく追手が来る。
「……お前は良いよな、雑兵呼ばわりだし」
「いや良くはねえよ!? 寧ろ色々全否定された気分だ!」
馬鹿にするなとラドルスが反論してくるが、正直言ってしまえばどう呼ばれようが敵は誰一人として見逃す気はないだろう。
そうでなければ帝国最強などと呼ばれている将軍を二人も動員したりはしない筈である。
「これでも尚抵抗しようとするあたり、往生際の悪い事だ」
「自分の力で捕まえられないからってカドモスまで動員するんだから、兄上も大した事ないね」
「念には念を入れただけだ。事実、貴様らにとって状況は苦しいだろう? どうだ、言ってみろ」
数的にも、実力的にも、精神的にも、その他全てにおいても俺達は不利な状況下に置かれていた。
故に余裕綽々と言ったマルコスの表情は何も崩れず、寧ろ言葉にはより一層勢いが乗っている。
物事が上手く運んだので機嫌が良いのだろう。
全く以って腹立たしい事だった。
「……殿下、少々お待ちを」
「何だ、どうしたカドモス? この者らに情けでも掛けろと求める気か?」
上機嫌な所を遮られて不機嫌そうに首を巡らせたマルコスに対し、カドモスは真剣な表情で何事かを伝えようとしている。
その様子にこちらも互いに顔を見合わせている中、ある一方向を見ながらカドモスは言葉を続けていた。
「いえ、彼らへの恩赦を求めると言う訳ではなく……何かが迫っている様で」
「は? その何かとは一体何だ――!?」
そこから先の言葉を塗り潰す様に、右手側から何かが飛来し、壁に激突した。




