第五話 HASTA LA VISTA②
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『私は大宮殿に戻り、仕事を遂行する。貴殿らもここでクラウディアの監視をしておけ。万が一と言う事もある』
その言葉を残して、皇太子――マルコス・ユリオス・アナスタシオス・ポルフュロゲネトスは大聖堂を後にした。
後に残された老人、天神教の総主教たるザカリアス三世は、それに対し「お任せください」と自信満々に答えた。
実際、ここを守り切る自信はあった。自分の身の安全も保障されていると思っていた。
何より、ここは西界の東部にあって、天神教の総本山でもある。ここに襲撃を掛けて来る不届き者が居る筈がなかったのだ。
それこそ、今まで一度たりともなかったし、そうでなくとも警備は万全。
大宮殿では皇太子の張っていた罠に獲物が飛び込み、派手に暴れ回っているらしいが、それはこちらには関係のない事。
あの場所がどれだけの被害があろうと、苦労しようとも、こちらは捕まった獲物を受け取るだけ。
『殿下! この私も捕縛作戦に同行させてくださいませ! ああ、シグルティア……僕のシグルティア……!』
そう言って期待に胸を膨らませ、皇太子について行った息子。彼――プトレマイオス・ザカリアスは大主教にも任命している。
そんな息子と同様、彼自身もこれから差し出されるであろう美しく若い娘に心を躍らせていた。
帝国の第三皇女である、シグルティア・ユリオス・アナスタシオス・バシレイア。天色の美しい髪を持ち、その端整な顔立ちは冷水の様な鋭さを伴っていて。
幾度かの会食で見かけて行く内に、欲しいと思った。この手にしたい、と渇望するようになった。
しかし自分は聖職者の身。大々的に妻や愛人を求める訳にはいかず、しかも彼女は帝室の人間である。
普通ならば手に届く筈もなかった。
案の定、息子であるプトレマイオスの求婚は彼女自身からにべにも無く一蹴され、息子は公衆の面前で恥をかいた。
そもそも会食の場で大声を上げて口説こうとするあたり、恥をかいたのは仕方のない事ではあるのだが、息子はその程度でめげなかった。
己もまた、彼女の毅然とした態度を見て、より一層焦がれた。この娘を手にして、屈服させてみたかった。
そう思っていた時、皇太子から接触があった。自身の妹を排除したい、最終的な処分はそちらにお願いしたい、と。
要するに天神教の、総主教の力を皇太子は自身の権力に組み込みたかったのだろう。権力に権威までもが加われば、大貴族すらも屈服させ得る力となってくれるから。
ついでに意見の食い違いと、その聡明さが目障りだった第三皇女の排除も狙っていたので、この取引を持ち掛けたらしい。
交換条件としてこちらの少女を差し出す事を求められたが、それは逃走中だったところを捕縛出来たので、現状は皇太子がシグルティアを差し出してくるのを待っている形だ。
クラウディア・セルトリオス。教会が抱えていた特殊な能力――異能を持つ少女である。中々に美しい娘で、手籠めにしてしまいたいと何度思った事か。
しかしその前に逃亡を許し、そして皇太子からの交換条件として提示されたので捕え直し、今は軟禁中。
手を出している暇など無かった。その苛々を、今度差し出されるであろう元第三皇女にぶつけられると思うと、それはそれで悪くない。
これまで何人もの女を息子と共に囲い、捌け口の道具としてきた身としても、殊更に期待が膨らむと言うものだった。
皇太子の策略で謀反人となった彼女を助けようとする者も殆どいない筈であるし、手中に出来ればまず助けなど来ない。
考え得る僅かな問題とすれば、表向きは処刑した事になるので、生きている事が分かると皇帝から何かを言われるかもしれないと言う事、そして謀反の罪が冤罪だとバレてしまう場合だろう。
もっともその確率は低く、幾らでも隠し通せる自信があった。生存が気付かれそうになれば、とっとと始末してしまえば良いのだ。それだけで簡単に隠し通せる。
何にせよ、欲求のはけ口を新たに求めたところで、大した危険も無いのだ。しかもそれが特別美しく気の強い者となれば、手を伸ばさない訳が無かった。
今まで欲しくて欲しくて堪らなかったのだから。
手に入ったら側近たちも呼び、これまで独占していた女達を解放して宴に興じよう。淫靡で享楽的な宴はさぞかし盛り上がる事だろう。
ある程度の書類仕事と面会、後は教典の言葉を連呼して居れば良いのだから、この総主教と言う仕事も悪くない。咎める者は遠ざけ、或いは処分する。
歴代には敬虔な総主教も居たらしいが、果たして裏の顔がどうだったかは分からないし、仮に伝承通りの素晴らしい人物だったとしても「馬鹿な奴」としか思わない。
これ程の力があると言うのに、どうして自分の為に使わないのかと思えて来るのだから。
「全く以って楽しみじゃのう」
「ええ、猊下の仰る通りに御座います」
「総主教猊下と大主教座下が御集め為さった女共は皆上玉に御座いますからな。羨ましい限りに御座います」
ザカリアス三世とその息子、プトレマイオスが女遊びに、そして召し抱えと称して蒐集に興じているのは側近達が誰も知っている事だった。
しかし多くの何も知らない聖職者や信徒は、召し抱えられた娘たちは高位の聖職者から有難い教えを受けていると呑気に思っている事だろう。
修道院から召し抱えられた敬虔な修道女の、期待から絶望に染まった顔を見るのは癖になって止められない。
今度やって来る元第三皇女には何をしてやろうかと、想像して彼は顔を綻ばせた。
「安心せい、あの娘が手に入った暁には貴様らに他の者らを開放してやる。偶には趣向を変えるのも良かろう?」
「真に御座いまするか!? これはこれは……太っ腹に御座いますな。側近一同、仕事にも力が入ると言うものですぞ」
「そうかそうか。ところでお主、二、三人ほどもう飽きた娘がおるのだが……どうだ?」
「おお、ありがとうございます! 是非、頂きとう存じます」
今日は気分が良い。何とも愉快だ。これ程楽しい日はそうそう無いだろう。
側近達と共に呵々大笑していたその時。
乾いた音が、一つ夜空に轟いた。
「は……?」
間抜けな声がすぐ横でしたと思ったら、側近の一人が額に風穴を開けていた。
やけにゆっくりに感じる時間の中でその側近は仰向けに倒れ込み、目を見開いたまま動かない。
恐らく何が起きたのかも分からないまま死んだのだろう。そこには何の感情も見受けられなかった。
ただ、後頭部や額から赤黒い液体が流れるだけ。
「何事だ!?」
「攻撃? 何処から?」
「猊下、一旦避難を……っ!?」
二発目の、乾いた音が響き、また一人側近が動きを止め、そして倒れた。
やはりその攻撃の正体を見えない。何も分からない。魔法であったとしても、そんなものは見た事が無かった。
その場の誰もが半狂乱となる中で、無慈悲にも三発目の乾いた音がした。
今度は側頭部に風穴を開けた側近が一人、即死。
「ひ、一先ず物陰へ! 急げ!!」
ザカリアス三世のその言葉に、誰もが一目散に大聖堂の中へ駆け込んでいたのだった。
だが、内部は静かで本来なら居るであろう巡回の兵も居ない。
守衛の幾らかが何事かと駆け付けて来たが、それだけだった。
「猊下!? どうなさいました!?」
「それは儂らの台詞だ! 見回りの者共は何をしている!? 敵襲であるぞ!」
「は、そ、それが……時間になっても巡回の兵がこの辺りに来ないのです! 不審に思って辺りの守衛にも尋ねましたが……結果は同じで!」
もしや今、大宮殿で起きている騒ぎと関連があるのでは、と守衛は語っていたが、それにザカリアス三世は耳を傾けてはいなかった。
理解不能なこの状況に、当惑していたのである。
何故、一体何が――。
側近と共に、ザカリアス三世が頭を抱えていた、その時。
「た、大変だッ! 巡回の兵が……どうも遅いと思っていたら死んでいやがる! 頭に穴が開いてんだ!」
「馬鹿な!? そりゃ見間違いじゃねえのか!?」
「間違いない! 松明で照らして確認したんだ! 何がどうなったらあんな死体が出来るってんだ!?」
血相を変えて駆けこんで来た衛兵の報告で、兵士も側近もザカリアス三世自身も、恐怖した。
あの乾いた音がしたら、人が死ぬ。その事実がどれほど恐ろしいか。正体も原理も分からず、体に穴が開いて死ぬ。
悪い夢でも見ている様だった。
「い、嫌だ……俺は、俺はこんな所で死にたくないッ!」
「あ、おい待て! 正体も分からないのに迂闊な行動を……」
恐怖が限界に達したか、錯乱した一人が駆け出した直後、またもやあの音が聞こえた。
そして当然の様に錯乱した男は倒れ、死んだ。
側頭部に、小さな穴を穿たれていた。
それを見て、その場の誰もがいよいよ足も竦み、腰が抜けて、立つ事も出来なかった。
ただ情けない悲鳴を上げて、この地獄のような時間が過ぎるのをただ待っている事しか出来ないのであった。
◆◇◆
「…………」
レバーを動かし、再装填。同時に不要となったゴミが排出され、建物の屋根をコロコロと転がって行った。
うっすらと煙を吐き出す筒の先を見た後、少年は再び構え、待つ。
篝火や蝋燭の近くを張って居れば誰かしらは通るのだから、楽な仕事だった。
もはや作業と言ってもいい。
そうして待っていると、すぐに発狂したような悲鳴を上げて、飛び出して来た人影が目に付いた。
今まで、こういった類の人間は幾人も見て来た。訳が分からないまま周りの人間が殺され、精神的に追い詰められたのだろう。
しかし可哀想などと思う筈もなく、ただ無感情に引き金を引く。
その瞬間、乾いた音が響き渡った。
当然のように男は倒れ、そして動かなくなる。
完全に死んだ事を確認して、止めていた息を吐きだした。
「……イッシュ、待ってろ」
再装填の作業を繰り返しながら、少年はついにその場から立ち上がる。
一人の少女の顔を思い浮かべながら、松明の灯された大宮殿に向かっていたのだった――。
大聖堂は静まり返っていた。
誰もが息を殺し、姿の見えない死神の鎌から逃れようとしていたのである。
声を出して神に祈る者など誰も居ない。
大声で諸手を上げ、神に祈っていた敬虔な神官は、頭に穴を穿たれて死んだ。
もう誰も、声を上げる者はいなかった。
縮こまって、丸まって、象徴である車輪十字を握り締めて、心の中で聖句を唱え祈る事しか出来なかった。
しかしそれでも、何処からか悲鳴と共に乾いた音がする。それも聖堂の中からである。
少し前までは距離があった様に感じられたのだが、いつの間にやら迫っていたらしい。
大聖堂に息を潜めていた者達は誰もが戦慄し、そして背中を粟立たせた。
そしてそれは、ザカリアス三世もまた例外では無くて。
「…………」
こつこつ、と誰かがこの大聖堂の廊下を我が物顔で歩き回っている音を聞きながら、恐怖に震えていた。
歯の根も噛み合わず、見っとも無く目尻には涙を浮かべ、物陰に隠れて居た。
既に側近達の姿は無い。皆散り散りに逃げ去ってしまったのだ。
衛兵たちは覚悟を決めて伏撃を図ったらしいが、複数の乾いた音が聞こえた後も、相変わらず何者かはこの建物の中を闊歩していた。
お願いだから、何処かへ行ってくれ。去ってくれ。
ザカリアス三世は数十年ぶりに神へと祈りを捧げた。車輪十字を握り締め、目を強く瞑って願い続けた。
そして。
「イシュタパリヤは何処だ? 貴様らがこの前攫った少女だ。早く答えろ」
「は、はは……」
死神はそこに居た。
松明も持っていないので風貌は良く分からないが、背丈や声からしてまだ成長は止まっていない、少年だろう。
だがその手には、見た事もない短い筒が握られ、その先端が付きつけられている。
これが乾いた音を出し、今まで多くの者の体に穴を開けて来たものなのだろうか。そんな事を現実逃避するように考えて居たら、少年は痺れを切らしたように言っていた。
「何も知らないのなら死んでもらう」
「ま、待て! 儂はここの総主教であるぞ! それを殺したらどうなるか、分かっているのか!?」
「総主教? ……なら答えられる筈だ。イシュタパリヤは?」
「あ、あの塔の中だ! それで良いだろ!? 頼む、見逃してくれ!」
正直なところ、イシュタパリヤと言う少女が誰かは知らない。だが、この少年が言っている事は時系列的に見てあの少女しかいない。
クラウディア・セルトリオス。脱走した為、馴染みの奴隷商を使って回収に向かわせた、教会の修道女である。
本来なら皇太子が捕えるであろう元第三皇女との交換物件であるが、己の命とを天秤にかければそこまでして守る道理もない。
とにかくこの場は、何としてでも助かりたかった。
この死神から、一刻も早く逃れたかった。
しかしながら、その願いは脆くも崩れ去る。
「案内しろ」
「……は?」
「その場所へ案内しろと言っている。嘘だった場合や、変な素振りを見せたら即刻殺す。嘘だと思うなら試してみるが良い」
「ひっ……!」
圧倒的にザカリアス三世よりも年下の少年。だが、それでも情けない声を上げながら従わざるを得なかった。
生殺与奪を、この少年に握られている事が分かっていたから。
いつ殺されるかと怯えながら、大宮殿に併設された塔へと案内せざるを得なかった。
「こ、ここ、だ……!」
「そうか。あの守衛二人も退けてくれると有難い」
「わ、分かった」
何時間にも感じられるような重苦しい時間の末、漸く少年をクラウディアの監禁されている塔へと連れて来る事に成功する。どうにかこの瞬間まで生きている事が出来たのだ。
大聖堂と塔を繋ぐ渡し橋の先には、守衛の兵士が立ち、困惑の表情を浮かべながら総主教と少年を見ていた。
そんな彼らへ、表情を取り繕いながら声を掛けていた。
「ご、ご苦労。お前達、今日の所はもう休んでいていいぞ。後はこの私が直々に何とかする」
「げ、猊下……顔色が悪いようですが、本当に宜しいので? 何やら先程から不可解な音もしておりますし、危険では……?」
「それに何より、この見すぼらしい少年は誰ですか? このような怪しい者を……っ!?」
守衛の二人。彼らは別に何も悪くは無かった。ただ、職務に忠実で、少し運が悪かった、ただそれだけ。
だからザカリアス三世と共に居た少年を疑いの目で見ていたのだが、そうして余計な時間を取った結果、乾いた音が二つ。当然のように彼らの額には風穴が開いていた。
彼らの亡骸が倒れ込むと同時に、少年の持つ二本の短い筒の中からは何かが排出される。
恐らくそれはゴミなのだろう。少年が死体にもそれにも注意を向ける事は無かった。
だが、それを見ながらザカリアス三世はふとある報告の事を思い出す。
それは一週間以上前の事。奴隷商のアンテミオスが何者かに殺されたと言う話だった。
日頃から恨まれるような商売をしていたので、その辺の者にでも殺されたのだろうと思っていたが、そう言えばその報告の中にあったのだ。
容疑者として、最近噂に聞くようになった暗殺者こと視殺の名が、あったのだ。
彼の特徴として視認不可能な攻撃で、どこからやって来るのかも分からない。
大きな乾いた音を伴い、現場の近くには用途不明の抜け殻の様なものが落ちている。
あの時、皇太子は捜査中だと言っていたが、そう言えば捜査の進展やどうなったかについて何一つ訊いていなかった。
自分には関係無いだろうと思っていたのだ。
しかし、その油断をした結果、こんな事になってしまった。
多くの側近や衛兵が殺され、自分自身も人生史上最大の恥をかかされている。大主教にまで上り詰め、寧ろ他人を踏み躙れる立場にある筈の自分が、今は見っとも無く怯えている。
抵抗しようにも、あの訳の分からない筒を突き付けられたら、まず殺されるだろう。
魔力を使って魔法にするまでには、必ず時間がかかるのに対し、相手は筒を向けたらすぐに攻撃が可能であるのだから。
今さっきも、目にも留まらぬ速さで二人の兵士を殺して見せたほどである。
もはやこの少年は人ではない。化け物であった。
「…………」
無言のまま唖然としたザカリアス三世を無視し、少年は転がった二つの死体を跨いで扉の前に立つ。
鍵らしきものは守衛の腰にかけられていて、恐らくこれらさえあれば中に他の鍵があろうとも問題はない。
他に兵士の控えなどが居る訳もなく、当然今目の前に居る死神を殺してくれる者も居なかった。
それでも、誰でも良いからこの者を殺してくれと祈っていると、不意に振り向いた少年が問うた。
「ここから先はどうなっている?」
「あ……か、階段を上って、その鍵で扉を開ければそれで……後は、何も無い、筈だ」
「そうか。情報提供感謝する、総主教猊下」
その言葉で、己が漸くこの死神から解放された事をザカリアス三世は知った。
気付かれない様に小さな溜息を吐きながら、最後に少年へ目を向けた時。
視界には筒の先端が、大写しとなっていたのだった。
それの意味する事は即ち。
「貴様は用済みだ」
「ば……!」
馬鹿な。そう言いたかったのだろうが、皆まで言う前に、乾いた大きな音が全てを打ち消していたのだった。
◆◇◆




