第四話 The Other Side②
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ぴちゃん、と水の跳ねる音が暗く閉塞した地下牢に響き渡る。
出入口は階段を上った先にある扉一つ、地下牢なので換気など望むべくもなく、黴臭い匂いは相も変わらない。
もっとも、そんな顔を顰めそうな地下牢の匂いも、数時間居るだけで鼻は慣れてしまって、もはや気にもならない。
殊に人間の順応能力とは素晴らしいものである。
同居人である男――タグウィオス・センプロニオスに至ってはこの地下牢に放り込まれて既に半年近く経って居るらしい。
話を聞いていて、よくも気が狂わないものだと感心してしまった。
「拷問だって受けたんだろ?」
「無論。姫様の居場所は何処だと、何度となく訊ねられた。お前なら何処へ連れて行き、何処に隠れるのかもだ」
「……苦労してんな」
「この程度、苦労に入らん。戦場に比べれば温いものだ、死にはしない事が分かっているのだから」
そうは言うが、このような場所に収監されているのだ、拷問は過酷であった事だろう。
食事睡眠とて碌に取らせて貰えなかったかもしれない。
自分ならば絶対に耐えらないであろうと、想像しただけでゾッとした気分になるのであった。
「苦労と言えば小僧の方も大概であろう? 聞く限りでは随分と過酷な統治を受けていた様だが」
「まあな。税があちこちに掛けられている上に、それらも高い。賦役、貢納、死亡税、結婚税、小作料……掛けられるものには軒並み掛かってたんじゃねえかな」
ある程度必要なのは認めるが、多くの村民の生活が困窮するほどだったのだ。明らかに課税し過ぎであった。
今思えば、あのような状況になるまでに良くも一揆や大規模逃散が起きなかったものだと感心してしまう。
プブリコラが程良く農民が疲弊するように締め付けていたとも言えるが、何とも危険な統治方法であったと言えよう。
他の貴族の姦計に嵌められて封土を没収されたと言っていたが、自業自得としか思えない。
「過剰な税……そうなれば人の暮らしも悲惨になるのは当然だな」
「何かある訳?」
「ああ、実は今の我が国の首脳部は、かつての大帝国を再びこの西界全域に築かんとしているのだ」
そうして始まったセンプロニオスの説明は、何処か帝国の行く末を憂慮している様であった。
普通の貴族であれば、少なくとも自分の知る貴族であれば、諸手を挙げて賛成しそうなものだと思ったが、彼は違ったらしい。
「我々は頑なにラウィニウム帝国を名乗り続けているが、実態は発祥の地ラウィニウムを支配してはいない。西半分の地は喪失して久しい事は知っているだろう?」
「……御伽話で聞いた事はある。大きな帝国だったと」
「ハッティ、ムティギティ、マウレタニア、サリ、シアグリウス、アレマニア、タルテッソス、メーラル。かつて帝国が支配した領域には、もはやこれだけの国家が出来上がってしまっている。いや、僻地も合わせればそれ以上か」
殆ど聞いた事の無い国名ばかりだが、取り敢えずその国の多さには驚きを隠せない。多分、ローマ帝国みたいなものなのだろう。余り良くは知らないが。
「西に住む多くの者は、帝国を“グラエキア帝国”や“ビュザンティオン帝国”、“東の帝国”と呼び、もはや誰も純粋なラウィニウム帝国とは認めていない。……勿論、後裔国家である事は認めている様だがな。事実、手前の家系もラウィニウム史に名の残るセンプロニウス氏族の血を引いている」
最後に付け足した辺りは、彼自身としても自認しているところなのだろう。あくまでも後裔である、絶対にあの大帝国と繋がりがある事は強調したいらしい。
東帝国の人間は頑なに「帝国」としか呼ばない辺り、アイデアンティティとしては確かに重要なのだろうなと、彼の話を聞きながら納得していた。
「何にせよ、それらの事情もあって皇帝を始めとした首脳部はかつての大帝国を再構築しようと画策している状況だ」
「……元気だな。一回、この世界の覇者となった事が、その野望を生み出した訳だろ」
「その通り。もう一度偉大な帝国を、と望みだしたのだ」
困ったものだと溜息を吐くあたり、彼はやはり相当な反対派であるらしい。
帝国の人間であるならば多少は理解くらい示すと思っていただけに、意外だった。
「拡大云々は余裕があるならば好きにすればいい。しかし今の帝国はそこまでの余力もない。ハッティ王国を挟んでアルタクシアス王国とも敵対している現在、ただでさえ戦線が広がり膠着している」
「国力的には勝っているが、みたいな感じ?」
「そう言う事だ。東側ではハッティとアルタクシアスが連合して抵抗し、西ではアレマニア連合と激しく争っている。ビュザンティオンも面するノストゥルム海ではムティギティ海賊が荒らし回って安定には程遠い」
ただでさえ何方面からの問題を抱えているのに、その上更に戦線を拡大しようと言うのかと、センプロニオスは頭を抱えているらしかった。
確かに、せめて何処かしらとは停戦するなりしてから動けば良いものを、と素人としても思わずには居られない。
「これ以上、戦争が長引けばどうなる事か……」
「けど、ビュザンティオンを見る限りそんなに戦争の影は感じなかったぞ」
「それはここが東界との交易中心地だからだ。既に奴隷の酷使や農村の困窮が末梢から始まっている。今はまだ影響が少ない上、多くの市民は呑気にも祝勝などしているが……いずれ綻びが出る」
そうなった時にこの帝国は果たして持つか、その事が大層不安でならないと、センプロニオスは語る。
しかし、以前ガイウス・ミヌキウスから貰った地図で見ただけでも、東帝国の領土は大きかった。そんな国が、そう易々と崩れるものなのだろうか。
気になって訊ねようとした矢先、その思考を先回りしたみたいに彼が答えてくれた。
「現在の帝国はよく見るとあちこちに無理がある。過剰な儿種差別、過酷な奴隷制、複雑で硬直した官僚機構、腐敗、傲慢且つ現実の見えない貴族。それに苦しみ、喘いでいるのは多くの庶民、特に農民だ」
その収奪は酷いものらしい。また、周辺各国から、特に剛儿や靈儿、化儿の村落を襲撃する奴隷狩りなどでも憎悪を買っている。
「内なる不満と、外からの怒り。どちらか片方ならまだしも、ただでさえ問題が山積しているこの帝国で、新たに叛乱と宣戦布告を受け取っては耐え切れないであろう」
「……下手すると本当に呆気なく滅びそうだな」
測量と縮尺も滅茶苦茶な地図を見ても分かる程に大きな帝国だと言うのに、何と脆い事だろう。
諸行無常とでも言うのか、思わず笑ってしまった。
「笑い事では無い。もしも仮に帝国が滅べば、支配されて来た者達は征服者の暴力に晒される。これだけ周囲から憎悪を買っているのだ、碌な事にならんだろうな。破壊され、燃やされ、踏み躙られ、殺され、犯され、売られる。果たしてこの国が亡びる時、一体どれ程の血が流れる事か……」
「そう思うなら何とかしようとしろよ。貴族なんだろ、おっさん」
「それが上手く行っていたら今頃こんな場所には居らん。皇帝もそうだが皇太子も大貴族も馬鹿しか居らんのだ」
長い長い溜息が牢に響く。
思わずと言った感じで漏れた呟きだろうが、ひょっとしなくても相当不味い内容では無かろうか。
不敬罪云々などは全く知らないが、流石に誰かに聞かれたら非常に危険な内容である事は想像がつく。
おっさん呼びはもう構わないのか、とも思ったけれど、それを聞いてみようとする気も起きなかった。
幸いな事に誰も居ないから良いものの、下手をして獄卒などに聞かれた日には拷問があってもおかしくない。
ともすれば巻き添えで自分もだ。誰が好んで痛め付けられたいと思うだろうか。絶対嫌なので勘弁願いたい。
だが、そんな気も知らないでセンプロニオスは軽く笑っていた。
「気にし過ぎだ、今のところ誰も入ってくる気配はないぞ」
「気にしなさすぎなんだよ。何で俺が焦らなくちゃいけないんだ」
小心者と言われている気がしてむっとした、その時。
上の方でギギ、と金属の扉が軋む音がする。
――誰かが、来たのだ。
「恐らく飯であろう。日に一度しかない上、冷や飯だがな」
「問題無い。農奴出身の俺からすれば大体の飯は食えるし、少量でも慣れている」
「それもそうだったか」
ふふ、と笑った彼も、それきり口を噤んでいた。
耳を澄ましているのだ。本当に飯を運んで来ているのかを確かめる為に。
「……?」
果たして、聞こえて来た足音は四つ以上。
その事実に、向かいの牢からは困惑の気配が漂っていた。
「手前の腹の虫は、そろそろ飯の時間だと告げているのだが」
「ついでに新たな入居者って事じゃねえの? もしくは……」
数時間前、ここを訪れたペイラスが言っていた通り、エクバソスを連れて来たのかもしれない。
もっとも、何であれ獄に繋がれ拘束された身では何も出来ないし、何も変わらない。
一々考えて緊張するのも馬鹿らしくなり、思考を放棄して敷かれた藁の上に寝転んだ。
その間にも、階段を下って来る複数の足音は止まらない。一段、また一段と近付いて来るのである。
しかし話し声は聞こえて来ず、それが不気味さを掻き立てていたのだった。
平常心と、ごろりと寝ころんだままの恰好で、段々と鼓動が速くなりそうな自分の体に言い聞かせる。
耐え切れなくなって視線を音のする方へ向けてみたくもなるけれど、それも意地で押さえ込む。
そうこうしている間に足音は地下牢に降り立ち、コツコツと足音を立てて牢に向かってくる。
そもそもの位置が、階段を下って直ぐにあるのだ。その足音が数秒と経たずに立ち止まったのは、至極当然の事であった。
「久し振りだなぁ、クソガキ?」
「……ああ、お前か」
途端に周囲が松明に照らされ、化儿を象徴する頭頂部から耳の生えた大男より、声を掛けられる。
聞き覚えのあるそれに顔を上げて応じれば、そこには二人の兵士と、他に三人の人影があるのだった。
三人の内、一人はペイラス、もう一人は知らない顔。
そして化儿の男はエクバソス。背恰好もそうだが、その声音だけで誰であるのか分かる程、因縁のある相手だ。
「お前ら、配膳終わったらとっとと出てげよ?」
「は、はい……」
この場にあっても相変わらずな態度を崩そうともしないエクバソスは、非常に高圧的な態度だった。すると言われるがまま、獄卒らしい二人は縮こまってそそくさと仕事に取り掛かっていた。
「後で取りに行く。食べ終わったら格子の外に出しておけ」
「…………」
素っ気なく、且つ早口でそう告げると、返事など求めても居ないのか、獄卒二人はすぐに階段を駆け上って行く。
カツカツと地下牢全体に響く二つの足音を聞きながら、エクバソスは笑っていた。
「見っともねえ奴らだよな。ちょっと壁を叩き壊してやったら竦み上がってあのざまだ。劣等種族どうこうってさんざっぱら俺を罵倒して置きながら、打って変わって分かりやすく怯えてたぜ」
いい気味だ、と彼は尚も階段を駆け上がっている獄卒にも聞こえる程の声量で喋り続ける。
「庸儿のくせに化儿を見下そうなんざ土台無理な話なんだっての! ったく、劣等種族がどっちなのかなんて最初から分かってる事だろ?」
「…………」
当然、返事は誰もしない。
エクバソスの哄笑に圧される様にして階段を駆け上がる足音は加速し、そして扉の閉め切られる音がした。
それはけたたましい音で、獄卒達の心がどれだけ穏やかならざる物であったか、推察するのも容易と言えよう。
そんな反応に満足しつつも、どこか物足りなさがあるらしいエクバソスは、鼻を鳴らしながら視線をこちらへと向けて来るのだった。
「情けねえな。運良く俺から逃げ切ったくせに、こんな所で捕まりやがって」
「……助けてって言ったら助けてくれんの?」
「まさか! 面白くもない冗談だな。ここに居るって事は俺らに捕まったも同義なんだぜ?」
ペイラスから何も聞いて居ないのかと、小馬鹿にした様な口調で気になる事を言ってくれる。
相も変わらない、その横柄な態度が癪に障るものの、今一々その様な事に腹を立てていても話が進まない。
何より聞きたい事も多いのだから当然だ。
「つまりあの皇太子もグルって訳かよ? ってかお前ら何者なんだ? 神饗は一体何の組織で、東帝国とはどんな関係が?」
「質問尽くめだな。おいペイラス、説明してやれ」
「……分かった。確かに貴様の脳味噌では余計な事まで口にしてしまいそうだからな」
「うっせえ! ぶっ殺すぞ!?」
以前にも見た事のある遣り取りを見せられながら、ペイラスが丁寧に説明してくれるのを待つ。
何度も対峙したから分かる事だが、エクバソスとペイラスでは明らかに後者の方が口は達者なのだから。
だが、牢全体がエクバソスの怒声で騒がしい中で、それを制するように重い声が一つ。
「手前からも訊きたい。神饗とは何だ? この帝国で、何が目的だ?」
「これはこれはタグウィオス・センプロニオス。昨日振りですな」
「ペイラス、貴様は宮殿で何度も見た事がある。言え、何が目的だ! どうやって皇太子にも取り入った!?」
「利害が一致さえすれば近付くのも、取り入るのも、手を結ぶのも、自由自在という訳ですよ」
振り向いて向かいの牢を見ながら、肩を竦めるペイラス。
その丁寧な口調と、韜晦するような仕草はそこはかとなく胡散臭くて、また核心部を明かす気も全くない事が見て取れる。
後でエクバソスから少しでも聞き出してみようかと思っている間にも、二人の会話は進んでいった。
「思えば貴様を見るようになってから、姫様に対する政治的圧力が積極的に掛けられる様になった! それ程まで、姫様が邪魔だったか!?」
「邪魔……いえ、必要だったのですよ。中々手に入らないものですからね」
「何を言っておる……?」
「さあ、何でしょう?」
訊けば訊く程に謎は深まり、当惑するようなセンプロニオスの声。それに対して、ペイラスはその反応を楽しんでいる様でもあった。
それを察したセンプロニオスは、同様の話題での質問はこれ以上無意味と悟ったか、質問を変える。
「では、その小僧と貴様らは一体どのような関係なのだ? 暇潰しに直接訊ねても、身辺については何も答えてくれないのでな」
「まあ、そうでしょうね。彼は特殊ですから」
「……?」
「見れば分かりますよ……おっと、私がここに立っていては見えるものも見えませんか」
思い出したように、そしてわざとらしい口調でその長身が横に動き、それにつられてエクバソスも身を引く。
その結果として、俺もセンプロニオスも、松明の炎のお陰でここに至って初めて互いの姿を視認するのであった。
俺が向こうを見やれば一人の男、彼の白髪交じりの薄い紫髪は乱れに乱れ。
身嗜みを整えられる環境では無かったのだろう。手入れの為されていない同色の髭は、伸び放題で仙人一歩手前の様な立派なものを持っていた。
ほぼ半年の獄中生活で疲労も見受けられ、髭で判り難いが頬はこけている上に、粗末な衣服から覗く四肢は明らかに細かった。
年の頃は、髭とやつれた格好のせいで判り難いが、若くもなければ年寄りでもない。かと言って壮年とは断定しづらく、中年に片足を突っ込んでいるくらいだろうか。
今の恰好そのままでは草臥れた五十代そのものだが、その薄紫の眼光を見る限りもう少し若いのではないかと推察している。
「…………」
そんな彼は今、驚愕を如実に表す様に目を剥いていた。
伸び放題な髭のせいで口元は分かりにくいけれど、きっと目と同じ様に驚きを表している事だろう。
「ど……どうなっている?」
「おや、どうされました? 知りたかったのでしょう、この少年の正体を? 折角見せてやったのです、何かしらの言葉があっても良いと思うのですが……どうですか?」
「…………!」
挑発するようなペイラスに、彼は無言で睨み返すと再びこちらへと視線を向けて来る。
頭部、腕、脚、そして眼。
これが見間違いでは無い事を確かめる様に、センプロニオスは俺を凝視していた。
けれど、何故だかその反応が面白くて笑いながら彼に話しかけていた。
「改めまして、俺はグラヌム村のラウレウス。この見た目の通り、白儿だ」
「まさかっ、そんな事が……!?」
「嘘じゃねえぞ、こいつぁ紛れもない現実だ。だからこそ俺らはこのガキ一匹に拘ってた訳なんだが」
「エクバソス、口を慎め」
「……別にこれくらい良いだろ」
口を開いた事そのものを咎められ、拗ねた様にエクバソスが反論していたが、果たしてその様子はセンプロニオスには認識されていないだろう。
それ程にまで、彼にとっては衝撃的だったのだ。
「ほ、本物……なのか!?」
「俺は魔法学とやらに詳しくないから知らんが、コイツらが言うには正真正銘本物らしいぞ。そうじゃ無けりゃ、こんな牢屋にブチ込まれないっての」
「馬鹿な! もはや長い事、白儿の存在は確認されていない筈だぞ!?」
未だに信じられないと言った様子で、彼は叫ぶ。
その酷く混乱している姿を見て、ペイラスはそれ以上話す事は無いと判断したか視線を動かした。
「さて、今日来た理由は雑談する為では無いのだ。エクバソスなどついででしかない。本命は――」
言いながら、彼は一人の人物を見遣る。
先程から一言も発さず、表情も崩さず、まるで機械の様な印象を与える黒髪黒眼の少年だ。
年の頃は自分と同じようにも見えるし、もしかすれば更に年下かもしれない。
しかし無表情且つ微動だにしない事もあって、その佇まいは非常に不気味であった。
そんな少年に対し、ペイラスは極めて丁寧な口調と仕草で言う。
「タナトス様、少し話が長くなってしまって申し訳ありません。それではこの者を判じて頂きたく存じます」
「構わない。貴様らが話している間に判定は終わった。……だが、気になる事が一つ」
「は、何でございましょう?」
怪訝そうな表情をするペイラスに対し、タナトスと呼ばれた少年は返事をしない。
ただ、俺の収監された牢へと近付いて、確認するように凝視を続けていたのである。
そして、徐に口を開く。
「お前、この世界の魂じゃないだろ」
その指摘に、今度は俺が目を剥く番となるのであった――。
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