第四話 The Other Side①
「貴様は一体どのような罪状でこの牢に?」
「いや貴様じゃねえよ、ラウレウスだっての。……存在そのものが罪なんだと。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。で、おっさんは?」
「存在そのものが罪など、まるで白儿……いや待て誰がおっさんだ」
薄暗い地下牢の中で、向かい側からの質問に一部をぼかしながら答える。
それ程語れる事も多くないのですぐに同じ質問を投げ返せば、即座にまず文句が来た。
普段であればどうでも良いところに反応するなと言ってやりたいところだが、この場では何もする事が無い。
よって彼が一々反応してくれる点は、暇潰しの上で丁度良い味付けとなっていた。
「手前はタグウィオス・センプロニオスだと言って居ろうに」
「それは良いから早く答えろって。それともグラエキアの人間は共通語が分からない訳?」
話が進む気配が一向にないが、そもそもこの会話は互いに暇を消費するためものである。
時間さえ潰せて気晴らしになれば、その内容にはあまり興味も無かった。
「抜かせ小童……その程度分かるに決まっているだろ」
「ああ、そう。何かやけに堅苦しい喋り方だし、グラエキア訛りのせいで意味も通じてないかと思った」
息が詰まりそうで、かつ非常に爺臭い印象を受ける口調だ。そのせいで声に張りがあるものの、おっさんと呼ばざるを得ない程である。
しかしそう言われて黙って居られないのか、堪え切れなくなったようにセンプロニオスが注意を飛ばしてくる。
「訛ってるのは貴様の方だ! 語順もそうだが発音も時々おかしいぞ!?」
「うっさいな。俺の故郷じゃこの喋り方が普通だったんだよ」
「故郷って何処出身だ!? おい、伸ばすところはちゃんと伸ばさんか! 母音の長短が曖昧では聞き取り難くて仕方ない! それに、その単語の格変化はそんな風に――」
「あーはいはいはい。おっさん、教師でもやってたの? そんなのが聞きたい訳じゃ無いって。それよりこの牢に居る理由を教えてくれ」
面倒事の気配を察知して軽く受け流すと、話を元の路線に戻す様に促す。
だが向かいから聞こえて来る鼻息は荒く、もしも体が自由であればすぐにでも掴み掛って来そうな勢いが容易に想像出来る。
もっとも、彼も体の自由を拘束された上で牢にいるらしく、ジャラジャラと耳障りな鎖の音がしていた。
彼も幾ら興奮した所でどうする事も出来ない事を理解しているのか、すぐに一度溜息を吐くと爺臭い呟きを溢すのだった。
「……これだから最近の若者は」
「おっさん、おめでとう。おっさんは今の言葉でクソ爺に格上げだ」
「誰がクソ爺だっ!?」
「黙れクソ爺」
いっそのこと老害に格上げしてやろうか。
再び喧しくなったタグウィオスの言葉を聞き流しながら、話がまたもや脱線していく。
しかし仕方ない事だ。向かいのクソ爺が非常に弄り甲斐のある人間である以上、不可抗力としか言いようがない。
今も鉄格子を掴み、こちらに唾を飛ばさんばかりの勢いで何事か喚いている。
薄暗い地下牢のせいでやはり表情は知れないが、恐らく相当怒り心頭している事だろう。元気な人だ。
「……分かった分かった、じゃあクソ爺呼びは勘弁してやるから、何で捕まったのか教えてくれ」
「ん、ああそうだったな。まだまだ色々言い足りないが……良いだろう」
そろそろ煩くなって来て、ついでに彼の理由も気になって来たので再び話題を戻して先へと促す。
するとタグウィオスも本来の話を思い出したのか、そこで気を取り直すと打って変わって冷静な口調で答えてくれた。
正直、切り替えが早くて驚いたほどだ。
「手前が捕まった理由は……簡単に言えば政争だ。仕えていた主人が政敵に追い込まれてな。負傷して行き倒れたところを無様にも捕縛された」
「政争? 農奴には縁遠い話だな。家名を持ってるくらいだからそうなんだろうとは思ってたけど、やっぱ御貴族様って訳だ」
ただの農民や罪人では絶対に姓は持って居ないし、あったとしても公の場では名乗れない。
文法の講釈を垂れようとした程である彼は、まず間違いなくそれ相応の教育を受けられる立場にあったのだろう。
完全には信じられないがある程度納得していると、今度はセンプロニオスから疑う様な質問が投げかけられた。
「そう言う貴様は本当に農奴か? そのような身分の者が大宮殿の地下牢に収監されるとは思えんのだが」
「農奴だよ、ホントにな。今は旅人だけど。で、俺は存在自体が悪らしくて皇太子とやらの前に引見させられたんだ。そのままここへぶち込まれた」
マルコス・アナスタシオス・ポルフュロゲネトス。その顔を思い出すだけでも腹が立つ。
もしもこの牢から脱出したなら、あの小綺麗な顔に一発ぶちかましてやらなければ気が済まない。
乱暴に鳩尾を蹴らた礼は是非ともさせて貰いたいものだ。いや、その他色々な鬱憤も合わせて一発で済ませられる気もしないが。
「意味分からんが……マルコス殿下に謁見したのか?」
「ああ。アンタ、あんな傲慢なのと知り合いな訳?」
「おっさん、クソ爺と続いてアンタ呼びであるか……まあ良い。知り合いも何も、手前とて帝国貴族の端くれ。知らない訳が無いぞ」
「貴族……政争で捕まったとか言ってたし、納得っちゃ納得だけど。そのマルコスがどうしたって?」
彼は一応敬称を付けてその名を呼んでいるが、声には敬意は感じられない。どことなく怨む様な、敵視する様な色すらも含んでいた。
恐らくあの気障な皇子と何か揉め事があったのだろう。もしかしなくとも、彼の主人が政争した相手かもしれない。
「気にするな。ただ、手前としては可及的速やかに彼奴の首を引っこ抜いてやりたいだけだ。……ああ、思い出すだけでも腹が立つ」
「そこまで言っといて、気にするなも何も無い気がするけど……貴族も大変だな」
この恨み様、やはりまず間違いなくあの皇太子が政争の相手だったのだろう。
その内容は知らないし知る気も無いけれど、その皇太子と争える程の身分となれば限られてくる。
「アンタの主人って、大貴族か何かだったの?」
「いや、大貴族では無い。同じ皇族だ。普段から主義主張の違いから折り合いが悪かったのだ。あの皇太子、市民の支持を取られているのが気に食わなかったらしい。他の貴族と結託してあらぬ罪まで被せてきおった!」
がしゃん、と地下牢全体に騒がしい音が響く。
相当興奮しているらしくて、この薄暗い世界の中で鉄格子を掴んだ彼の両手がぼんやりと見えていた。
ただ、こちらからすればセンプロニオスの主人がどの様な人物であれ、そこまでの興味は無い。
精々運が無かったのだなと思う程度だ。
「農奴だという貴様なら身分差と言うものが良く分かるだろう!? 特に、農民と並んで笑える貴族がどれほど信じがたいものか! そしてどれ程、人々からの尊敬を集めるか!」
「そりゃ分からんでも無いけどな」
その結果として政争になって追い込まれていては意味がない。
そも、今更自分は貴族に対して期待もしては居ないのだ。大多数の貴族はあのプブリコラと似た様なものであるだろうし、助けてくれるような存在など夢のまた夢。
取り分け、どれだけ素晴らしい人物であったとしても白儿に寛容な人はいない筈だ。
「反応が鈍いな。農奴であると言うのならこう……もっと驚かんのか?」
「そもそも俺はこの国の人間じゃない。今は旅人だって言ったろ? 畑を耕している訳でも無いから、その有難みを語られようとどうでも良いんだよ」
「貴様……好き放題言いおってからに!!」
「いや別に馬鹿にしてる訳じゃねえからな? 確かに凄いとは思うし」
「驚きが足りなぁぁぁぁい!!」
「めんどくせえなアンタ」
主君への忠誠心は余程高いのだろう。
だがそれ故に面倒臭い。あと煩い。
何だか、この地下牢にたった一人だけ繋がれていた理由が少しだけ分かった気がした。
「そこに直れぇい!! 今から手前が姫様の有難さと神々しさをこれでもかと言うほど叩き込んでくれる!」
「姫様って……え、女?」
意外だった。政争と言うくらいなのだ、てっきり皇位継承権の絡んだ男兄弟同士の諍いかと思っていたのに。
意表を衝かれたのもあって少し質問をして見たい気持ちも湧いてきたが、どう考えても今の彼は厄介な状態にある。
「そう、あれは遡ること十四年前……十一月の五日目だった!」
「おい、どこから語り出すつもりだ?」
長い。長過ぎる。まだ出だしの筈なのにその話の長さが容易に想像出来てしまう。
おまけにこちらが何を言っても、センプロニオスは聞く耳を持たずに滔々と語り続ける。
この時こんな事があって、等々どうでも良い事を幸せそうな声音で語っているのだ。
それはまるで孫の事を語る祖父の様で――。
「おい小童! 聞いているのかぁ!?」
「……今度からお前のこと老害って呼ぶことにするわ」
「んだと貴様ぁッ!?」
喜べ、三階級特進だ。と言っても老害呼ばわりされた彼が喜ぶ筈もない。
今まで以上に声を荒げ、鎖の音を響かせながら激高していた。相当な剣幕だが、薄暗いせいでその迫力も半減だ。
何より、怒っているせいで先程まで留まるところを知らなかった姫様語りが止まっている。
とても素晴らしい。出来ればそのまま喧しい口を閉じて貰いたいものだが。
「その根性叩き直してやるッ! 今すぐ牢を出て俺の目の前に来い!」
「いや無理に決まってんだろ、俺もアンタも」
ガトリングの様に飛んで来る怒声を柳に風としながら、寝転んで早く終わらないかなと思っていた、その時。
不意に上の方から重い扉の開く音がした。
「……?」
「来客……もしくは新たな同居人だな」
「俺に続いて? 今日は牢番も大忙しだ」
しかし、コツコツと階段を下る足音がたった一つ。
その事実にセンプロニオスは、怪訝な表情を思わせる呟きを溢していた。
「妙だ。来客にしろ何にしろたった一人? 今は飯の時間でもないのに……」
「老害が騒がしいから様子でも見に来たんじゃね?」
「喧しい老害言うな。それと、この牢の防音効果は非常に大きい。外にまではっきり聞こえる程声が漏れるとは考え辛いのだ」
「いやそうは言うけど、アンタの声十分に大きかったからな? 外に聞こえても文句言えないくらい」
シンとして、ただ足音が地下牢内に響く中、囁き合う様に言葉を交わす。
しかしそうした所で互いに納得の行く答えが出て来る筈もなく、結局はその答えが姿を現すまで待つしかない。
「「…………」」
段々と大きくなっていく足音が、遂に最下層へ到達した時、俺とセンプロニオスは示し合わせた訳でも無いのに静まり返って、姿を現すであろう人物の到来を待った。
そして――。
「久しいな、ラウレウス。私の顔は覚えているか?」
「お前……ペイラス!? 何でここに!?」
姿を現したのは、松明を持った長身の男。
顔色の良くない顔面に薄っすらと笑みを浮かべる彼は、以前何度か戦った事のある人物であった。
初戦は忘れもしない。シグやラドルスらと共に行動して居た際、彼らを追跡する者達の中にこのペイラスの姿があったのだ。
滅多に見ないとされる空間魔法を使い、厄介この上ない戦法を取る彼には辛酸を舐めさせられた。
しかし彼がどうしてここに、東帝国の地下牢に居ると言うのだろう。もしや彼はこの国の関係者であるとでも言うのだろうか?
「お前がビュザンティオンで捕まったと言うので来てみれば……驚いた。見れば見るほど白い体をしているな。髪染めや汚れで多少誤魔化せるとは言え、よくこんな場所にまで逃げ果せたものだ」
「ああそうかよ。褒めてくれるんならついでに解放してくれ。こんな窮屈な場所で窮屈な老害を相手にしてんのも楽じゃ無いんでね」
「老害言うなッ!!」
茶化す様にそう切り返せば、ペイラスの背後から抗議の声が上がる。
同時に鎖と鉄格子がぶつかる金属音がして、まるで楽器の様に騒がしさを奏でていた。
たったそれだけだが、緊張しかけていた体から余計な力が抜け、自然な笑みが口許に浮ぶ。
一方、ペイラスは一度背後に目をやった後で感心した様に口を開いた。
「タグウィオス・センプロニオスを指して老害呼ばわりとは……君も随分と肝が据わっているな。しばらく見ない間に図太くなったらしい」
「へえ、アイツそんなに有名な訳?」
「ああ、有名だとも。かつて帝国最強の名をほしいままにした将軍の一人だからな。未だに近隣諸国では記憶が残っている程に、だ」
今はもう軍から退いているらしいがね、とペイラスは丁寧にも説明してくれる。
そこから更に質問をして見たくもあったが、これ以上その話題で話す事がないのか、彼は話を転換した。
「今の所はこの辺で失礼しよう。君の顔が見たかっただけなのでな。ああそうだ、あとでエクバソスも連れて来よう、楽しみしていてくれ」
「……!」
脳裏に浮かぶのは、好戦的な笑みを浮かべた獣の顔。
人の顔であっても充分に獰猛なものであるが、エクバソス――狼の化儿である彼は、“転装”をしてからが本領の発揮となる。
その戦闘力に自分はいつまで経っても追いつけるような気がしない程の、猛者だ。
この場に居るペイラス以上に辛酸を舐めさせられ、叩きのめされた事も数知れない。その人物までもがこの地下牢に来られるのだとすれば、彼らは東帝国の者だったと考えるのが自然だろう。
「ではまた会おう。恐らく近日中には来るだろうから、楽しみにしていてくれ」
「このっ……!」
勝者の余裕とでも言うのか。勝敗など無いに等しいが、泰然とした態度で立ち去って行くペイラスの背中に投げ付けてやりたい言葉は、終ぞ出て来なかった。
遠退いて行く灯りと、足音。
後には変わらず牢に入ったままの“罪人”が居るだけだった。
「……小童、貴様何者だ?」
「何者って?」
「惚けるな。何か込み入った事情があるのだろう? 只の農奴が、そして旅人がこの牢に収監されるのはおかしいと思っていたが、やはりか」
納得の行ったような軽い笑い声が向こうから聞こえて来る。
自分の推測が当たっていた事もあって、彼は少し機嫌が良いのだろう。
「あのペイラスと、どこで知り合った? 奴はここ数年、皇太子の周りに良く居る者だぞ」
「何処でって、ラティウム半島の街で……襲われてから付け狙われてるだけだ。アイツ、東帝国の人間だったのかよ?」
「いや、皇太子の側に侍っているだけだ。貴族でも何でもない、素性も知れない。バルカ殿が皇太子に注意を促していたが、アレは聞く耳持たないらしい」
「仮にも一国の皇太子をアレ呼ばわりかよ」
とうとう敬意の欠片も無い代名詞の使い方に、思わず失笑する。
随分とあの皇太子とは確執がある様だ。
「小僧、あのペイラスについて、何を知っている?」
「いや碌に知らねえよ。精々空間魔法の使い手って事と、神饗って組織に所属してるくらいだ」
以前相対した際、その組織の名を口にしていたのを覚えている。
しかし、東帝国に居る時は用心してか余り喋らなかったのだろう。センプロニオスは困惑した様子で質問を重ねて来る。
「神饗? 聞いた事もない。本当なんだろうな? 首魁は?」
「連中は“主人”とか呼んでたぞ。何の捻りも無くて笑っちまうよな。俺が知ってるのはこれくらい」
「……本当にそれだけか?」
何かまだ隠しているのではないかと、薄暗い向かいの牢から目を凝らしているらしい。
幾らそうした所で詳細は何も見えないし、分かる筈も無いのだが。
「ええい……奴が邪魔で姿が見えなかったのが悔やまれる」
「そりゃ俺も同感だ。おっさんでもクソ爺でも老害でもないって言ってたし、一回姿見てその真偽を確かめたかったんだけどな」
生憎、先程は松明のお陰で十分な明るさがあったにも関わらず、ペイラスの長身が邪魔で姿の確認が出来なかった。
もどかしい、何となくモヤモヤした気持ちになっているのは彼だけでは無かったのである。
「ま、俺の事はどうでも良いだろ」
「いやどうでも良くないぞ。手前としては気になって仕方ない。貴様は一体何者なのか、と」
「それを言ったらアンタもだ。帝国最強の将軍? それが一体どうしてこんな場所に居るのか……仮に政争が絡んだとしても、何があった? 暇を潰すには十分過ぎる話題じゃねえか」
わざわざ自分から白儿だと明かす必要もないだろう。姿が分かった途端、彼が口をきいてくれなくなるかもしれない。
そうなれば暇を潰す方法が直ちに一つ消えてしまうのだから。
その内に何かの拍子で気付かれるかもしれないけれど、だから今のところは自分から正体を口にするつもりは全く無い。
「俺が誰か、なんていずれ分かる。それよりもタグウィオス・センプロニオスさんよ、アンタの武勇伝とか聞かせてくれよ。あ、姫様ってのが絡んでる奴は話さなくて良いぞ」
「……いずれ分かる? まあ、確かにこの後も貴様の姿を見る機会は幾らでもあるだろうし……良かろう」
給仕する兵士が来る際に必ず松明は持って来る筈であるし、当然それによって互いに姿も明らかになる。
この地下牢に居ては時間の間隔も狂ってくるが、いずれは必ずやって来ると知っているからこそ、彼も納得したらしい。
「小童、お前の正体を知るのが楽しみだな」
「ああ、楽しめると良いな」
そして姿が互いに明らかとなった時、果たしてセンプロニオスはどのような反応をするだろう。
流石に直接訊いてみる訳にもいかず、渋々と語り出した彼の言葉に耳を傾ける。
いつ来るかも知れない食事の時間まで、俺は彼の言葉を聞き、時に訊ね、持て余した暇を出来る限り潰していた。
◆◇◆
「イッシュ……!」
堪え切れなくなったかのように、外套を纏った少年は呟きを漏らしていた。
動かしていた足を止め睨み付ける先は、ドーム型の屋根を持つ壮麗かつ巨大な建築物。
道行く通行人は迷惑そうに彼を避け、或いは舌打ちをしながら追い越し、擦れ違って行く。
しかし彼はそれらに一切の注意を払う事は無く、只々その一点を凝視していた。
このまま突撃してしまおうと何度思った事か。
しかし、まだだ。あともう少し足りない。
今すぐにでも動き出したいが、余計に消耗した物資の補充は想像以上に時間を食うものだった。
「……」
アイツの能力の事もある、恐らく連中も早々手荒な真似はしない筈なのは分かっている。
それでも、不安で不安で仕方ない。
もしかしたら、もしかしているのではないか。最悪の状況が幾重にも思い浮かび、どうにも気が急いてしまう。
再び、心が揺れる。
もう待てない。準備が不完全であろうと、もう動くしかないのではないかと。
「……まだだ」
己で己に言い聞かせるように呟きが零れた。
このままずっとここに立っていては限が無いと判断して、一先ず寂れた路地へと入る。
そこで呼吸を落ち着ける様に、思考を落ち着ける様に、空を仰いだ。
そうしてどれくらい経っただろうか。
彼は特に何事も無いかのように腰元へ手を当てたかと思うと、後ろも見ずに口を開いた。
「誰だ?」
「……気付いてたのか?」
「当たり前だ。それで、俺に何か用でも?」
「用が無けりゃ見ず知らずの人間に話しかける訳ねえだろ」
足音もなく姿を現したのは、槍を持った旅装の青年。体は引き締まっており、その眼光もまた鋭く油断が無い。
猛者特有の気配を感じ取り、少年はその警戒と緊張の度合いを高めるのだった。
「しがない剛儿の旅人に何の用だ? 庸儿以外はこの聖都から出てげとでも言うつもりか?」
「いいや、その逆だ。お前、俺らと組まねえか?」
「……何の事だ? そもそも、何についてだ?」
得意気に提案をして来た青年に、彼は怪訝そうな顔をする。半分は察して、もう半分は意図が読めなくて。
外套の下に忍ばせた己の武器を構えながら、すぐにでも引き金を引ける準備をしていたのだった。
人通りが少ないのだ、目撃者も少ないだろうから話も聞かずに始末しても良い。しかし、確信を持って命中させられる自信がない。
下手に戦端を開いては、もしかすると青年に間合いを詰められて終わってしまうかも知れなかった。
己が弱いのではない。寧ろ幾人もの命を奪ってきた。十分に実力と勘と経験を培ってきた自負がある。
それらがいずれも警鐘を鳴らしている。安易に攻撃するなと。
一方、青年は晒していた姿を再び物陰に隠していた。
「お前、 肩の力がやけに入ってるな? 表情も硬い。もしかしなくても、もう攻撃できる態勢になってる訳?」
「……だったらどうした? こんな人気のない場所で、足音も碌にしないような奴に尾行されていたんだ。警戒出来なければ、そいつは早晩死ぬぞ」
「御尤も。だが、別に俺はお前を殺しに来たんじゃねえ。ちょっと話がしたいだけだ。利害が一致してる気がしてな」
匂わせ振りな口調に、少年は少し苛立つ。思えば、今はこんな所で無駄な時間を食っている場合では無いのだ。
早く準備を再開して、完了させて、動きたい。
「今は時間が惜しい。早く要件を言え」
「――あ、そう。じゃあ言わせて貰うぜ」
先程までは建物の陰から聞こえていた、青年の声。だがそれは、気付けば頭上からしていて。
ハッとした時にはもう遅かった。
「その物騒なモンをしまってくれ。武器なんだろ、それ?」
「……!」
左側面に着地した青年の言葉に対し、その返事として外套に隠していた右手を突き出し――。
引き金を引く。
「……!」
乾いた音が青空に響き渡った。
だが、白煙を仄かに上げる短く小さな筒は大空に突き立っている。
掬い上げる様に腕へ添えられた槍の柄のせいで、狙いを大きく狂わされたのだ。
「喧しい武器だな? 何だ、初めて見たぞ?」
「……っ」
まさか、この至近距離で躱された。
それが信じられなくて、少年が目を剥いている間にも男は動く。
「修羅場は相応に潜って来た……らしいが、まだガキじゃねえか」
「な?」
足が払われたと思った時には、視界がゆっくりと横転して地面に叩きつけられていた。
その衝撃で持っていた拳銃を取り落としてしまう。
屈辱と自省を覚えながら即座に立ち上がろうとしたが、その鼻面に突き付けられる、鋭い槍の穂先。
「余り近接戦闘の経験が無いらしいな? これならあの紅いガキの方が上だぜ」
「紅いガキ? ……まあ良い。それで、俺を殺すか?」
「いいや? 殺す訳ねえだろ、話し合いに来たんだ。大人しく両手を頭に付けて俺の話を聞け」
ラドルス、と名乗った青年は尚も槍を突きつけたまま続ける。
「剛儿……お前、あの大聖堂をやけに強く睨んでいたな? ともすれば殴り込みをかけかねない程に」
「気のせいだ」
「だが恨みを持っているのは間違いない。違うか?」
「…………」
覗き込む様なラドルスの言葉に、少年は無言のまま目を逸らした。
それがそのまま肯定を意味すると察したのだろう、ラドルスは更に言葉を続ける。
「俺達は大宮殿の方に用がある。分かるだろ? あの二つは隣接している。これ以上は言わなくても分かるよな? まぁ、戦力は分散させるより、ある程度集中的に投入した方がいいって事だ」
「……もう少し詳しく話を聞きたい。場所を移しても良いか?」
「ああ、いいとも。その辺の飯屋にでも入ろうぜ。手荒な真似をしちまった礼も兼ねてな」
突き付けていた槍を外すと、そう言ってラドルスは笑った。
その姿はもう相手を信頼したからなのか、それとも自分が殺されないと言う絶対の自信の表れか。
どちらにしろ、今の少年には最早殺意も無いので変わりはしない事だった。
「因みにお前、名は?」
「シャリクシュ。先に言っておくが、俺に利が無いと見ればすぐにでもこの話は無かった事にして貰うぞ」
「ああ、そりゃ勿論。ただ、損はさせねえって」
何となく胡散臭い人間と話している気分になりながら、シャリクシュは青年と並び歩いて行くのだった。
◆◇◆




