第三話 リコリス④
◆◇◆
「白儿の伝説……正直、千年も昔の存在と今になって見える事が出来ようとは、露ほども思っていなかったぞ」
「ええ、全く以ってその通りと存じます。私自身、この者を捕らえた時は信じられない気持ちで一杯でしたから」
張りのある、自信に満ちた若い声が響き渡り、一人の男の答えがそれに追従する。
本来ならば窓も少なく薄暗いであろう室内は、ゴテゴテと飾り付けられた装飾と、過剰なまでの照明によって眩しいほど明るかった。
そんな大きな部屋では、多くの文官や甲冑を着込んだ武官が左右に居並んでいる。
中央には彼らを隔てるように赤を基調とした絨毯が敷かれ、入り口から部屋の奥へと一直線に続いている。
絨毯の長さからも分かる通り大きな部屋であるのだが、その中でも最奥は階段の様に高い造りとなっていて、そこには天色の髪をした青年が側仕えを侍らせながらゆったりと椅子に座していた。
顔立ちは世辞抜きで十二分に整っていて、はっきりとは分からないが何処となく誰かに似ている。
ぼうっとしながらそんな事を思っていると、その間にも青年は満足そうに喋り続けていた。
「プブリコラ、そしてパピリウス、良くやってくれた。其方らに追って沙汰を出す事で報いたいと思う。誇るが良い。この私、マルコス・アナスタシオス・ポルフュロゲネトスをこれ程まで満足させた者は、今までそうそう居ないぞ?」
「は、お褒めに預かり大変光栄に存じます」
「恐悦至極。殿下の為を思えばこそに御座いますれば」
組んでいた足を解き、悠々と玉座から立ち上がった彼は、敷物が敷かれた階段を一段ずつゆっくりと下って来る。
監視の兵に頭を押さえ込まれて顔を上げる事も出来ないが、どうにか視線だけを巡らせれば、その足だけが見えた。
目の前で自発的に平伏しているプブリコラとパピリウスは微動だにせず、膝をついて顔も上げない。
周囲の武官や文官も警備を除いて誰もが跪いているらしい。衣服や甲冑の擦れる音が、高い天井に響いていた。
誰もが無言で跪く中、足音は段々と近付き、遂には俺の目の前で止まった。
頭を押さえつけられているので、この目に映るのはドアップの靴のみ。視線だけで見上げようにも首を動かせないので様子を確認する事も出来ない。
「……貴様が白儿であるか。なるほど、見れば見る程に白い髪であるな。まるで老人の様だ」
「そう思うなら大人しく解放してくれよ。俺は老い先短いんだ」
「なっ、貴様ぁ! 殿下の御前で断りも許可もなくその薄汚い口を開くなッ! 殿下、申し訳御座いません」
無礼は百も承知の上で口答えしてみれば、案の定押さえ込んでいた兵が声を荒げる。
折檻のつもりか乱暴に額が床へ押し付けられ、尚も力が掛けられる。
必死に抗おうとするけれど、相手は大人の兵士である。筋力では完全に及ばず、上から押さえ込まれては抗う事も出来なくて、途中で体の力を抜いた。
「中々面白い口答えの仕方だな。おい、顔を上げさせろ」
「はい!」
乱暴に頭髪を掴まれ、遠慮も何も無しに一気に引き上げられる。
下手に抗えば頭皮と一緒に纏めて髪が抜けてしまいそうな程の痛みのせいで、顰めっ面のまま青年を睨み上げる形となるのだった。
「なるほど、確かに紅い眼だ。肌も驚く程に白い。今の今まで誰にも捕まらなかった理由が分からないくらいには目立つな」
「はい。この者は髪を染め、肌を汚していました。そうする事で色を誤魔化していたのでしょう。実際、私も顔を知らなければ馬車に乗ったまま素通りしていた筈です」
「巧妙な手だ。確かに貧乏な旅人の振りをすればある程度誤魔化せるという訳か。その歳にして中々知恵の回る子供だな」
ここに連れて来られる前に放り込まれた公衆浴場で、全身隈なく洗われた為にこの白い髪と肌が良く目立つ。
天井や壁に設けられた照明が多いせいで、殊更白さが強調されているのだ。
「ところでプブリコラよ」
「は」
「この者の顔を知っていたと申したな。どこで知ったのだ?」
「御尤もな疑問に御座いますれば、お答え致しまする」
殿下と呼ばれたこの青年は相当な身分なのは明白だった。
あれだけ周りに対して傲慢な態度を取っていた筈のプブリコラは跪いたまま振り返る事もせず、ただ畏まった口調で答えていくのだから。
プブリコラの背後に青年が立つ、つまり俺の眼前に青年が居るので、構図として二人は互いに背を向け合い、且つ片方は跪いて下を向いたまま話している。
一見すると間抜けな絵面に見えない事もない。
しかしこの場ではそれが正しい礼儀作法なのか、誰も指摘する者も居なければ皆一様に真面目な雰囲気のままだった。
「私が以前、サリ王国のグラヌム村を封土としていたのですが……実はその際、一度この者を捕らえた事があるのです」
「ほう? 確かそれは数か月前に噂で上がったものだったか。聞いた事がある、そこで貴公は逃してしまったと?」
「ええ、横槍が入りまして惜しくも逃す事に。その後私は他の貴族の策略に嵌められ失脚。パピリウス殿に声を掛けて頂き、今はこうして畏れ多くも殿下に仕える身となった訳でございます」
仕官して早々に手柄を立てられた事が嬉しいのだろう。跪いたまま語る彼の言葉は、顔が見えて居なくとも何処か自慢げであった。
左側の文官が跪く方でやや剣呑な雰囲気が流れたけれど、恐らく嫉妬かと思われる。
しかしこの宮廷ではそんなものは日常茶飯事なのか、それとも些事なのか、誰もその雰囲気を咎める者は居ないし反応する者も居なかった。
「噂が立ったのはほんの数か月前だが……貴公はこの者が白儿であったと、いつ知ったのだ?」
「はい、ここに居らっしゃるパピリウス殿からの通報にございます」
「ふむ、そうか。ではパピリウス司祭よ、改めて訊こう。いつこの者が白儿であると知った?」
「はい、私は村人からの通報で知ったのですが……プブリコラ様よりもほんの数時間早いだけです。村長などと協議し、手に負えないと判断した為に彼へ通報したのでございます」
予め訊かれる事を予想していたのか、彼はスラスラと経緯を語り始めれば、納得した様に青年は一度頷いた。
「二人とも大体同じ時に知ったとなれば、切っ掛けは一体?」
「村人の通報に拠れば、早朝にこの者と会った際、髪と肌、目の色が変わっていたと。私もその後一度見る機会があったのですが、確かに元の髪や眼の色から完全に変わっていて驚いた事を覚えています」
「変わった? 肌の色も?」
今一つ理解が及ばないのか、首を傾げる青年――マルコス・アナスタシオス・ポルフュロゲネトス。
彼は眉を顰めながら背後を振り返り、跪いたまま背を向けるパピリウスに質問を続けていた。
「ある日突然肌の色が変わるなどと言う事があるのか?」
「恐らくは魔法が発現したものかと。生まれつき魔力を持つ者は殿下を含めても稀に御座います。私を含め、魔法を扱う多くの者は成長と共に魔力量が増大し、やがて十五に至るまでに発現に至るとされているのですから、恐らくこの白儿も同じものではないかと推察が可能です」
「……魔法の発現、であるか。そうであったな。野暮なことを訊いてしまった、許せ」
少し嫌味に聞こえてしまったかもしれん、と頬を掻きながらばつの悪そうな顔をした彼は謝罪を口にした。
しかしパピリウスは一向に気にした様子もなく、阿る様に言葉を続けていく。
「いえ、お気になさらないで下さいませ。殿下は生まれながらに魔法を扱える、殊更高貴な生まれ。皇帝陛下が“緋色の血族”との添え名と格別の寵愛をお与えになる程です。私の様な下賤の者にそのような謝罪など……畏れ多すぎます」
「その添え名は歴代皇帝の嫡子が代々受けるものであろう。大袈裟すぎるぞ、パピリウス司祭」
そう言いながらも満更では無いのだろう。
浮かぶ笑みに強張った部位は見当たらず、上機嫌である事を如実に語っていた。
「事実、殿下は帝国第二の都市と言って良いこのビュザンティオンとその周辺地域を統括する総督に御座います。それを任せられているのですから、殿下の力量が如何に信頼され、頼りとされているかの証左となるでしょう」
「優秀な将軍たちが居るお陰だ。バルカやダウィドが居るからこそ、そしてこの場に居る者が居るからこそ、私はこうして恙無く仕事が出来ている」
一度、満足そうにぐるりと周囲を見回した後、マルコスは再び視線を俺に戻した。
パピリウスもその気配を聡くも察知したのか、すぐに話題を転換した。
「……話を戻しましょう。結果としてプブリコラ様と共に白儿の確保に失敗した私は、同じ“普遍派”だった者達から集中的に非難を浴びました。その際に帝国の方からお声がけ頂き、プブリコラ様を誘って亡命したのです。そして“賛美派”となって今に至るという訳でございます」
「聞くも涙の話であるな。働いた者に労いの言葉も掛けぬとは、普遍派は器が小さいものだ。ま、そのお陰で白儿が手に入ったのであれば、寧ろ感謝してやるべきかもしれんな」
心底侮蔑の色を含みながら笑うマルコス。
跪いたままの廷臣の中にも同調して笑う者が居る辺り、宗教的に東西の分断は根が深いのかもしれない。
同じ物を信じている筈なのに、どうしてか意見が衝突して別れてしまう。
あまり興味もないが、やはり何処の世界でも人の考える事は結局変わらないらしい。
そんな事を考えて居たら、不意に頭上から声が掛けられるのだった。
「おい」
「……あ?」
「き、貴様! 先程から殿下に向かってその口の利き方は一体何なのだ!?」
「良い、見たところまだ十五にもならぬ白儿だ。精一杯の虚勢であろう、一々気にしていては話が進まぬ」
当たり前だが、この青年相手に敬意など持てる訳もない。これから自分を害するかもしれないような相手に礼儀を尽くしてどうすると言うのか。
そもそもこの世界の人間は、殆どが白儿を同じ人間として見ておらず、恐れ、蔑み、狩猟する対象であるかのように扱う。
敬う気が無い相手に返す敬意は存在しない。
激高しかける兵士を、しかし彼は笑いながら制止した。
案外器が広いのかもしれないと思ったが、何となくそんな彼の態度が気に食わない。そもそも“俺”という人間性の事など歯牙にも掛けない態度である様にも、思えたから。
だから何を訊かれてもふざけた答えを返してやろう。
「貴様の名前は何と言う?」
「……マルコス・アナスタシオス・ポルフュロゲネトス」
「こ、小僧、殿下を何度愚弄する気だッ!?」
「そうですぞ殿下っ! その首は即座に叩き斬るべきです!」
「言わせておけば良いと言った! 気にしていたら話が進められないと言った筈だぞ。……それに中々気骨のある白儿ではないか」
今度は跪いていた廷臣の幾人かが怒鳴り出したが、直接皇太子から制止を掛けられては振り上げた手を大人しく下ろすしかない。
しかし尚も威厳云々で異議を申し立てていたが、「貴様らが黙っていれば威厳は保たれる」との一言で、彼らは青い顔をして黙り込んだ。
それを確認したマルコスは、笑いながらその天色の瞳で顔を覗き込んで来たかと思うと、口を開いた。
「私の名を騙るとは、大した胆力だ。パピリウス司祭、この者は何と言う名か?」
「は、ラウレウスでございます。対外的に呼ぶのであれば、グラヌムのラウレウスが妥当かと」
「ラウレウス……か。姓を持たぬ者に白儿の血が入っていたのだとすれば、探せば他に居るやもしれんな」
「かもしれませぬが……ここ数百年、ほんの数件が確認される程度でございます」
今や白儿は希少な存在である。それこそ、出現したと分かれば大騒ぎになる程に。
昔は、それこそ千年前は戦争が出来る程に数が居た様だが、それが史実であれば随分と数が減ったものだと思わずには居られない。
「殿下、もしやと思いますが、すぐにこの者を解体して加工するのですか?」
「いいや、安直に殺して剥ぎ取るのは少し性急過ぎよう。このまま売り払っても莫大な値は付く。それに、もう少し飼っている間に雌の個体が見つかるかもしれんだろ。そうすれば繁殖が可能だぞ」
「殿下も同じお考えの様で安心致しました。殺して加工してしまえばそれでお終いですからね」
安心の滲んだパピリウスの言葉。
取り敢えずマルコスとしてもすぐに殺すつもりがない事は分かったし、こちらとしても安堵できるものかもしれないが、安堵の溜息などは一切出てこない。
何故なら、やはりこの者達は白儿を人として見ていないから。
寧ろ“養殖”を匂わせるマルコスの言葉に、背中が粟立っていたのだった。
やけに怒らない皇太子だとは思っていたが、特にこの男は白儿を本当に人として見ていない。
只の資源である。
彼はそう考えているのだろう。
「念のため、本当に白儿であるのか学者を呼んで確認させよ。それと多少精神が壊れても構わんが、殺さない程度に躾けて置け。家畜は多少従順にしなくては不便だろう?」
「家畜? ふざけんな俺は人間ッ……!?」
余りにも勝手な物言いに思わず反論しようとしたところで、鳩尾に衝撃が走った。
一体何が起こったのか分からず、派手に嘔吐きながら敷物の上で悶えていると、冷たい声が降って来る。
「今のところ、私はもうお前と話したい事が無い。つまり、これ以上家畜の言葉に耳を傾けたくもないと言う事だ。……分かるか、白儿?」
「ぐ……!」
「辛うじて人語を解せる家畜に教えてやろう。私はビュザンティオンの総督でね、忙しいのだ。特に最近は鼠を罠に嵌める仕事の最中で、家畜の無礼に一々構ってやる余裕もない。だから邪魔をするな。大人しく鎖に繋がれていろ」
「待て……お前ッ!」
追い縋ろうと足を動かそうにも傷の痛みと鉄球が邪魔で動かず、おまけに兵士が一層強い力で押さえ込んで来る。
それでも叫ぶけれど、マルコスは一切気にする事もなければ振り返る事もなく、話し相手を変えていた。
「改めてプブリコラとパピリウス両名は大儀であった。ついてはプブリコラに命じる、そこな白儿を牢へ繋いでおけ。ただし、病気などにならぬようある程度の手入れをするように」
「はっ!」
「獄卒とその上司などの関係者にも周知を徹底させておけ。くれぐれも自殺などさせるなよ」
一層深く頭を下げるプブリコラの返事を背に、マルコスは玉座のある部屋の奥へと進み、段差を上って行く。
「これにて本日の謁見は終わりとする。皆の者も、大儀であった」
その言葉を最後にマルコスは玉座のある段差の袖から、側仕えを引き連れて退出していく。
伴って大臣などと言ったくらいの高い者から続々と大広間の出入り口へ向かい、消えて行く。
「くそっ……放せよッ! 誰が家畜なんぞにッ!!」
「ええい、いい加減にしろっ!」
尚も抵抗を試みようとするけれど、今度は一人どころか三人四人と兵士が群がって、四肢を押さえ込まれる。
ただでさえ体は拘束されて不自由なのだから、もはやどうする事も出来なかった。
そんな中、それを見ていた貴族の幾人かが、こちらにまで聞こえる様な声で雑談しているのが耳に入る。
「おやおや、家畜が暴れて大変ですな。プブリコラ殿も御気の毒に。家畜番の任を仰せつかるなど……」
「寧ろ適任ではありませんか? 家畜の心は家畜が一番よく知っているでしょう。彼ほどの適任は居りませんよ」
「――ほう、これはこれは、アンティオコス殿にペルガモン殿ではありませんか。お久し振りですな。私としても、仕官してほんの数か月で白儿の飼育などと言う大任を得て気合が入ると言うものですよ」
飛んで来た嫌味に対し、流石と言うべきかプブリコラは笑みを浮かべて応戦を始める。
数の上では二対一、普通に考えて不利である様に思えるその“談笑”だが、彼は余裕を感じさせながら言葉を続けた。
「私としましてはもう少し単純な仕事を熟してこの国に馴染んでから、大命をお受けしたかったところで御座いますよ。そこで先達たるお二人に質問なのですが、慎ましい仕事をし続けるには一体どうしたらよいのでしょうか? 噂で聞きましたが、御二人は得意なようですし、是非ともご教授願いたいものですよ」
互いに全く目が笑っていない中で、遠回しながらも超強烈なプブリコラの反撃が決まった。
それを見ていたパピリウスは口元を押さえて微かに笑い、それを見ていた周囲の貴族もある者は露骨に吹き出していた。
クリティカルヒットだったのだろう、二人の貴族は苦々しい顔や赤い顔をしながらも、表面上は直球の言葉を避けてそそくさと退出していく。
「彼を宮廷に送り込んだのは正解でしたね。……さてプブリコラ様、私も同道しますので牢へ参りましょう」
「ええ、お待たせいたしました。おい、連れて行け」
「畏まりました」
兵に引っ立てられて、豪華絢爛な大広間を後にする。
しかし廊下に出ても華美な装飾と照明のお陰で明るくて、擦れ違ういずれの人からも視線を向けられる。
中には使用人らしい人影も見られ、皆こちらを見ながらひそひそと話している様だった。
だが、それも進んでいく内に段々と人がまばらになって通路も狭くなり、遂には下りの階段を歩かされる。
灯りの間隔は一気に遠く、薄暗さも相俟って閉塞感と圧迫感が一気に押し寄せて来るのだ。
空気の淀んだ、黴臭い匂い。地下水でも漏れているのか時折水滴の落ちる音が聞こえる。
唯一の救いは完全に暗闇ではないことだろうか。
人気は全くなく、二列に立ち並ぶ堅牢そうな牢はいずれも無人であるようだった。
「入れ」
「……っ」
最後の抵抗も空しく、その内最も手前の牢に押し込まれる。
慌てて振り返った時にはガシャンと言う音ともに締め切られ、鍵も掛けられていたのだ。
「大人しくして居ろ、家畜。下手な事を考えれば恐ろしい躾が待ってるからな。まあ、精々余生を楽しめ」
「ちげえねえ。自分の生まれを恨むんだな、白儿」
パピリウスとプブリコラの姿は、この場に無い。
聖職者と貴族である二人は階段を下る事を良しとしなかったのだ。
その代わり二人の兵士が俺をここまで連行したのだが、侮蔑と愉悦を含んだ笑みを浮かべながら、二人はすぐにこの場から立ち去って行った。
彼らからしても、ここは長居したい場所では無いのだろう。
ネズミや昆虫が石の敷き詰められた床を這いまわっているのを見ながら、彼らの気持ちに納得せざるを得ない。
日本人的な感覚からすれば、取り分け御免被りたい場所なのだから。
しかし、今世では貧しい村人として生を受けている。
この程度の汚さなど、今更だった。
オマケに、それよりも重大な問題があるのだ。
「アイツら……牢屋の中でも拘束具は取ってくれねえのかよ」
両手を拘束する錠、そして相変わらず右足首に嵌められたままの鉄球。
特に手錠は厄介だった。これの発する特殊な魔力のせいで、魔法を使おうにも阻害され続けてしまうのだから。
もしかしたら、もしかするかもしれないと期待をしていただけにそれが外れて気持ちも沈んでしまう。
――このまま、ここで一生を終えるかもしれない。
長い溜息と共に、乱雑に敷かれた藁の上へ寝転がった。
貧相なものだが露出した石の床よりも遥かに暖かく、タリア達に散々痛めつけられた事もあって起き上がろうと言う気力も出て来ない。
ただ、文句だけが出て来る。
「何でいつも俺ばっか……こんな事に……!」
「おい」
「ついてねえったらありゃしない。何なんだ、ホントに。ふざけんじゃねえよ……」
「おい、聞こえないのか」
「あー……あったかい風呂入ってあったかくて美味い飯食ってあったかいベッドで寝てえよ……」
「反応しろ、おい」
もっと言えばゲームやテレビ、スマホも欲しい。
あの頃に戻りたい。家族が居て、友達が居た、あの頃に。
こんな事になるのなら、どんなに悔しくてもあの時殺された時点で何もかも終わりにして欲しかった。
何が悲しくてこんなハードな環境でハードな人生を送らなくてはならないのか。
「いっそ舌噛んで死ぬ……?」
「小童、貴様の耳は飾りか?」
「でも舌噛んで死ねるとは限らないし……」
ただ痛い思いをするだけなのは御免だ。
死ぬにしても楽に死にたい。贅沢だが痛いのが嫌いなのは生物として当たり前であろう。
しかし、ここでのろのろ考えていては、いずれ殺されるか、一生家畜の様な生活を強要される訳で。
「そんなの絶対嫌だしなぁー」
どうにもならなくて、乱暴に頭を掻いていた時だった。
「貴様、聞こえるなら返事をしろと言っているッ!」
「~~~~~~~~ッ!?」
唐突に思考を掻き乱してくる野太い大音声に、体が大きく跳ねた。
声からして、年の頃は壮年から中年の男性。しかもかなり威厳のあるものだった。
それこそ体の疲労のせいで全く起き上がりたくもなかったのに、上体を起こすと声のした方へ目を向けてしまう程である。
「……だ、誰!?」
「ようやく反応したか、この間抜けが」
「いや間抜けじゃねーし。いきなり何だよ? びっくりするじゃねえか」
「手前は何度も呼び掛けたんだぞ。それを訳の分からん不気味な独り言を呟くだけで無視しおって」
「不気味なって……結構真面目な話なんだけど?」
「何度呼びかけても気付かないような間抜けに、真面目な悩みがあるとは思えないがな」
辛辣な切り返しで、言葉に詰まった。
何かしら言い返してやりたいのだが、声の主は向かいの牢に居て、松明の光が弱く輪郭しか見えない。
恐らく相手も俺の姿は見えていないのだろうが、どちらにせよ姿も分からない相手に対する反撃手段は限定されてしまう訳だ。
だから漸く絞り出した質問は、結局当たり障りのないものになっていた。
「アンタ、名前何て言うの?」
「人に名前を訊くなら自分から名乗るのが礼儀ではないか?」
「先に人を罵倒しといて礼儀だとかよく言えたな?」
「……」
沈黙。それっきり何も返って来ない。
別にこのまま話を終わりにしても良かったが、居ないと思っていた同居人が居たのだ。
折角居るのなら、気晴らしを兼ねて雑談するのも悪くは無い。
そう思って、静寂を破る様に口を開いていた。
「俺はラウレウス。で、アンタは?」
「……何だ、いきなり?」
戸惑う様な声が、向こうからは返って来る。
だが、そもそも最初に話しかけたのは彼の方なのだ。
御望み通り話しかけてやっているのに、今更何を驚いていると言うのか。
態と聞こえる様に大きな溜息を吐きながら、向かいの人物へと言葉を掛けてやるのだった。
「折角話せる相手いるのにだんまりってのも勿体無いだろ。おっさん、暇つぶしの相手くらいにはなってくれんだろ?」
「……手前はおっさんではない。センプロニオスだ。タグウィオス・センプロニオス」
「あ、そう」
「き、訊いておいてその反応は何だ貴様!?」
「めんどくせえおっさんだな」
「だからおっさん言うな! 手前はセンプロニオスだ!」
おっさん呼ばわりがよほど嫌なのだろう。中々に面白い反応をしてくれる、タグウィオス・センプロニオスなる人物。
大声で反応してくれる彼の方を見ながら、気晴らしや気分転換には問題なさそうだと安堵するのだった。
◆◇◆
「君の能力はとても素晴らしい。だからこそ、総主教様は君に位階を授けようとするし、総督殿は君を妻にと望む。良いかい、君は必要とされているのだ。それなのになぜ拒む?」
「……」
一人の若い男の問い掛けに、少女は黙したまま反応しない。
焦れた様に溜息を溢す彼は、しかし尚も諦めずに言葉を続ける。
「視えているんだろう? その能力で。ならその力をこの世の中の為に役立てようとは思わないのか!? その困っている人が分かるのなら、我ら天神教はそれを救える! 分かるだろう、その力は不可欠なんだよ!」
「困っている、人……」
「そう、困っている人だ! 君だってそう言う場面を見たら少しくらいは心が痛まないか!?」
乏しかった反応が、漸く鸚鵡返しでも帰って来たのだ。ここを逃すまいと男性は尚も語り続ける。
今こそが正念場、畳みかける時だと。
しかし、その出鼻を挫くように、少女は口を開いた。
「困っている人……見えた。それを助けたら、信じる」
「ほう、それは何処だい!? ほら言ってごらん、そこまで言うのならちゃんと助けてあげよう。我らの言葉に嘘はないからね!」
「本当……?」
「ああ、本当だとも!」
男の精神は興奮し、高揚していた。
ようやく上司からの命令を果たす事が出来る。自分にも出世の芽が見えて来た、と。
思えば長かったような、短かったような感覚である。
つい二週間前、お偉いさんが奴隷商に依頼して攫って貰ったと言う少女と引き合わされた。
最初は変態趣味の誰かでも居るのかと思ったが、蓋を開ければそうでは無かった。
――“異能”。
常人では絶対に手に入らない能力を、生まれつき持っている者。
魔力は持っているが、魔法では無い。
そもそも魔法でどうにか出来るものではない。
とんでもない筋力や再生能力、未来予知、石化能力、そして千里眼。
数ある能力の中でも、珍しい異能であるこの少女の説得を、男は任されていた。
どうやら彼女の意志は関係なく、無理やり連れて来られたらしい。
その境遇に同情はしたものの、それだけ。
同僚は洗脳してしまえばそんなものは関係ないと、制止も聞かずに暴力もちらつかせて脅しに脅した。
しかしその結果は芳しくなく、おまけに自殺未遂までされてしまった。
責任を負う形で同僚は失職し、その後行方不明になったが……恐らく、消されたのだろう。
強硬策を取ろうにも取る事は許されず、男はどうにか少女を懐柔し、或いは洗脳しようと手を尽くした。
だが今のところ碌に反応は無くて、先は長そうだと途方に暮れていたところで、少女は反応を示してくれた。
まずは信用を得なくては――。
「君の言う困っている人を、君が千里眼で見ている前で助けてあげるよ! さあ、教えて!」
人一人救えば良いのなら簡単だ。すぐに人を派遣して、助ければ良い。
それだけで良いのなら、安いものだ。
「それじゃあ、今あの宮殿の大きくて綺麗な広間にいる男の子……青っぽい髪の人に蹴られているけど、助けられる?」
「宮殿だな!? よし分かった、それで男の子の容姿は?」
「……白い髪と白い肌。それと紅い瞳。これで大丈夫?」
「ああ、大丈夫だとも! じゃあさっそく人を派遣して――」
そこまで言って、男は動きを止めた。
返そうとした踵を元に戻し、少女が見つめている方角に目をやる。
見えるのは石造の壁だけだが、ふと思ったのだ。
あれ、この方角は大宮殿がある方ではないかと。
もっと言えば白髪紅眼、白い肌とくれば一致するものは一つ。
白儿だ。つい先程捕らえられ、市中引き回しの上で宮殿内へと引っ立てられていったあの姿は、神に仕える身として何とも言えない満足感を与えてくれた。
この部屋に軟禁されていた彼女も、自身の能力で覗いていたに違いない。
しかし、だからこそ彼女の言葉は途轍もない難問だった。
「どうしたの? 助けられない?」
「…………」
当たり前だ、出来る訳がない。
寧ろ分かっていて言っている様にしか思えない。
「信用する」などと言っているが、最初から信用する気も無ければ、出来もしない条件を突き付けている様にしか考えられない程だ。
男は胸倉を掴んで怒鳴り出したくなる衝動を堪えながら、極力友好的に、話題を転換しようと試みる。
「いや、助けられないって言うか……ほ、他の人なら助けられるから、まだ言ってみてくれるかな!?」
「……そっか。助けられないんだ……あんなに困ってるのに」
「困ってるって、君が視てるのは白儿だよ!? あの伝説に名高い悪魔だ! あんなの、助ける訳にはいかないだろ!」
「ふうん……」
あまり興味もなさそうな返事が返って来て、男は絶望に叩き落とされた。
折角反応してくれたと思ったのに、これでは元の木阿弥ではないか。いっその事この場に崩れ落ちて泣き叫びたいくらいだ。
この職務も、自分には荷が重いと言って放棄したい……いや、したくない。出世の芽を自分で摘み取る様な真似だけはしたくない。
意地でも偉くなってやると決めたのだから。
「クラウディア君、まだもう少しだけ、頼むから俺の話を聞いてくれ!」
「…………」
しかし再び固めた決意とは裏腹に、結果は完全に振出しへ戻っていた。
薄暗い部屋の中で、男は天井を仰ぎながら長く長く息を吐き出す。
まるで己の心を落ち着かせるように。
一方、そんな彼の様子を見向きもしない少女――クラウディアは、石壁の向こうを視据えたまま動かない。
そして男性には聞こえないほど小さな声で、少女は呟くのだ。
「……あんなに辛そうなのに、どうして誰も助けてあげないの?」
物悲しげな表情とその問いに答える者も、答えられる者も、この場には誰一人として居ない。
居るのは少女一人からの信頼も勝ち取れない、うだつの上がらない神官だけなのだから――。




