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キオクノカケラ  作者: 新楽岡高
第四章 フシンヌグエズ
73/239

第三話 リコリス③

◆◇◆



 いつもの様に代わり映えしない街並みと、雑踏。


 その中に紛れて、一組の男女が歩いていた。


 両人とも外套を纏って旅人然とした姿で、その容姿は隠れて窺い知れない。


 だが二人は何かを警戒している様で、また何かを探っている様でもあった。


「ラドルス、どう?」


「そうですね……やはりビュザンティオンの主教座というだけあって警備は厳し目です。この辺は巡回の兵も多い」


「そう。でも諦める他無いってのとは違うんでしょ?」


 天色の瞳が、横に立つ青年の顔を捉える。


 それに対して槍を持つ青年は苦笑しながら頬を掻き、答えた。


「ええ、そりゃあまぁ。狙うなら夕刻でしょうかね。若しくは早朝。どっちも時間制限ありますけど……暗くなって身動き取れなくなるのと、明るくなって見つかりやすくなるの、どっちが良いですか?」


「なら早朝で。建物の構造を把握しきれていない以上、暗闇になったら危険が高過ぎる」


「承知しました……ですが、いつ決行します? てかマジでやるんですかい?」


 彼は本当の本当にやるのかと、何度目かも分からない確認と念押しを行えば、少女はうんざりした表情で溜息を吐いた。


(くど)い。ここまで来て大の大人が駄々を捏ねないで。実行は二日後の早朝。東の空が白んで来たら動くよ」


「明後日かぁ……じゃあ、色んな物資買い込まないとですね。兵の巡回路についても完全に把握しないとだし、やる事が山積ですよ」


「私も手伝うから、じゃあラドルスは突入地点の選定とその付近の巡回把握、宜しく」


「お嬢、それがとんでもない仕事量であるって分かってて言ってるんでしょうね……?」


 役割分担を提案する少女に、青年は疲れ切った顔をしていた。


 傍目からは小柄な少女の言いなりにされている大人という情けない構図だが、本人達から見れば至極真面目な話である。


 周囲に市民らに話が聞かれない様に注意を払いながら話を進めて行く彼らは、途中で大通りを外れ、裏道へと入って行く。


「私の方で必要な物資は買い揃えておく。だからラドルス、お願い」


「……お嬢にそこまで言われて不服を言ってなんて居られませんよ。それに俺も、結構ごねましたけど腹は括ってましたから。覚悟もなしにお嬢に今まで付いて来たりはしません」


「そう、ありがとう。ラドルス」


「そのように言って頂き恐悦至極です。では、各々仕事が終わったら宿に集合しましょう」


「分かった」


 互いに硬い表情で、真剣な雰囲気を纏った二人が別れようとした、その時。





「おい、聞いたか!? ついさっき街の東で白儿(エトルスキ)が捕まったらしい!」


「エ、白儿(エトルスキ)だと!? 馬鹿言え、なんだって聖都(ここ)に居たんだ!? てか本当なんだろうな!?」


「本当だって! 俺は見たんだ! 紅い染料(・・・・)の落ちた、白い髪をしたガキをよ!」


「ほ……本物なのかよ? ただ似てるってだけじゃねえの?」


「だったらプブリコラ様やパピリオス様に直接訊いて来い! 聖職者や貴族様の言葉を疑えるのか!?」


「それは……じゃあ、本当なんだな!? 信じられねえ、あの伝説の悪魔の残滓がまだ居ただなんて……」


「俺達、悪魔と同じ空気を吸って、下手すれば話していたかもしれねえんだろ? (おぞ)ましいったらありゃしねえな」





 大通りを行き交う人々から発せられる数々の言葉。


 それは大通りの東側から西側へと広がっている様で、段々とその騒めきも大きくなっていく。


 その只事では無さそうな様子に、二人は大通りへと顔を出して人々を窺う。


 余程急ぎの用でもない限りは多くの人が手近な者を捕まえて噂の確認や、ああでもないこうでもないと言った話を始めており、普段以上の騒がしさを醸成していたのだった。


 巡回の兵士達も、その話は寝耳に水だったらしく、驚いた様子で市民を捕まえ情報を集めていた。


 その場に居た誰も彼もが、その意外性と話題性、突拍子の無さに興味を魅かれていたのである。


「お嬢、こりゃあとんでも無い事になりそうですぜ」


「そうね。ちょっと……いや、かなり作戦に影響するかも」


 情報を求めてか、話をもっと広げるためにか、人々はより一層活発に動き出し、人によっては白儿(エトルスキ)が捕えられたと言う東方面へと駆けて行く姿もあった。


「それにしても白儿(エトルスキ)、か……」


 青年は記憶を探る様に顎へ手を当て、一人の少年の姿を思い起こした。


 紅髪紅眼、短槍を持った少年の姿だ。


 彼は確か、奇妙な魔法を使っていて、己の素性を放したがらなかった。それどころか目立つ事を極端に忌避していた覚えがある。


「……まさか、な」


「もしかしたら、もしかするかも」


 青年と少女。


 ラドルス・アグリッパとシグは、まさかあり得ないと思いながらも、とある可能性を拭い切れなかったのだった。





◆◇◆





『ねえ、だいじょうぶ?』


『……』


 夕暮れの公園。


 太陽は雲だけでなく空そのものを赤く染め、逆光で黒く見える鳥たちが茜色の世界を飛び回っていた。


 我が家へ帰ろうとする人影や車の姿は段々と増して行き、体から伸びる影は見る見るうちに細長くなっていく。


『ねえってば! そこでいつまでないてるの!?』


『うるさいなぁっ! わたしのことはほっといてよ!』


『でも……』


 遠い、朧げな記憶。


 正確にはどんな景色があって、どんなことを喋っていたのかは、一字一句覚えてはいない。


 ただ、人も疎らな夕方の公園で一人の女の子を見つけて、言葉を交わした事は覚えている。


 そしてそれが、彼女との初めての出会いだった事も。


『けいじ、もういいんじゃない?』


『そうだよ。こんなやつほっといてあそぼうぜ! もうすこしで、おかあさんもかえろうっていってくるよ?』


 周りの友達は遊びが中断されたのが不満なのか、うずうずした様子で手に持ったボールへ視線を落としていた。


 偶々ボールが転がった先で見つけたのが公園の隅、遊具の影で泣いていた彼女であったのだ。


 何となく、本当に何となく、恐らくは幼子の気まぐれで声を掛けた女の子は相当に泣いていたのだろう。


 彼女は目も鼻も真っ赤で、顔は涙と鼻水だらけだった。


『これ、あげる』


『……ありがと』


 取り敢えず、ポケットに入れて置いたティッシュを手渡すと記憶の中の俺は友達と一緒に踵を返していた。


 俺自身、それっきり遊びに夢中でその事はすっかり忘れていたのだが、ある時ふと気づく。


 その女の子が、じっとこちらを窺っているのだ。


 ブランコの上で、涙も鼻水も拭き取った顔で退屈そうに足を揺らしながら。


 それを見て、自然と足がそちらへ向いていた。


『ねえねえ』


 今思えばその時、自分は本当に無邪気な子供だったのだなと思う。


 こちらの意図が分からず小首をかしげる女の子に、手を差し伸べていたのだから。


『あとすこしだけだけど、あそぼ?』


 お互いに名乗りもしないで、でも子供らしく出し抜けに誘う。


 理由なんて無い。いや、今まで生きて来た中で忘れてしまったのかもしれない。


『……うんっ!』


 彼女もまた、満面の笑みを浮かべてこの手を取り、友達の居る方へと一緒になって駆け出した。


 高田 麗奈。


 その名前を知ったのは親に叱られながらも、しこたま遊んだ後であった。


 親御さんの姿も見えず、心配に思った俺や友達の親が最終的に警察を呼び、彼女の親が慌てて駆け付けて来たのである。


 その場に居た警官や大人たちに麗奈の親は何度も頭を下げ、感謝の言葉を述べ、安堵の表情を浮かべていたのを覚えている。


『君が麗奈を遊びに誘ってくれたのね、ありがとう』


『――――』


 麗奈と手をつないだ彼女の母親が、俺と目線を合わせる様に屈んでくれた。


 柔和な笑みを浮かべる若い女性の言葉に、果たして俺は一体何と答えたのだったか。


 靄が掛かった様に思い出せなくて、けれど途轍もなく幼稚な事を言った気がする。


 ただ、まだ小さな子供だった俺にとって、何を言ったのかではなく、毎日どれだけ楽しく遊べたのかがより重要だったらしい。


 だから、意外と近所に住んでいた麗奈を混ぜて遊ぶようになったし、今となってはそれが漠然と楽しかったと言う記憶しかない。


 でも、今となっては時々思う。


 俺と、長崎 慶司と出会わなければ、あの時声を掛けなければ、彼女はあの日あの場所で死ぬ事は無かったのではないかと。


 あんな殺され方を望む人など、ほぼ誰も居ないだろう。


 誰が好き好んで友達諸共殺されたいと思うものか。


 何度目とも分からない後悔のせいか息苦しくなって、俺は水面から顔を出す様に意識を覚醒させた――。






「っ!?」


 ハッと目を覚まし、体を動かそうとするのだが、何故から腕が動かない。


 全身のあちこちが痛み、少し体を捻ろうとするだけでもやって来る鈍痛に顔を顰めていた。


 思考も寝起きの様に定まらず、今の自分が一体どのような状況にあるのかも分からなくて――。


「ようやくお目覚め?」


「お前……タリア? ッ、クソ!?」


「気付いても遅い。既に魔力の流れを阻害する錠を掛けられているから、魔法も使えない」


「……っ!!」


 背筋が凍る思いをしながら、両手を拘束する手錠に視線を落とす。


 仰向けになって砂が剥き出しの路上に転がされ、どうやら足にも枷が付けられているらしい。


 蹴られた腹の痛みに顔を顰めながら起き上がって確認してみれば、ご丁寧にも右首に鎖でつながれた鉄球が装着されていた。


「散々私が痛め付けたし、魔法も拘束具で封じた。おまけに身軽な動きも出来ないと来れば、分からない?」


「分からないって……何が!?」


 必死で、なけなしの体力を振り絞って拘束具を外しに掛かるけれど、金属で出来たそれらを子供の純粋な腕力で破壊出来る訳無かった。


 身体強化術(フォルティオル)での突破を図りもしたが、体内の魔力が攪乱されて、針の穴に糸を通すようなもどかしさが募るばかり。


「幾ら足掻こうが、喚こうが今更遅い」


「うるせえっ……!」


「お前はもう詰んだ。これでお終い」


「黙れっ! お前に俺を終わらせる権利なんて無いんだよッ!」


 せめて、せめてもう少し魔法が扱える状態になれば、まだ打つ手があると言うのに。


 ただ、仮に拘束を脱出出来たとしても、何の関係もない市民を巻き込みかねない魔法は、使い方を限定させられてしまう。


 ある日突然理不尽な事件に巻き込まれる事への悔しさは、自分自身が十分に理解しているつもりなのだ。


 それは前世でも今世でも、二度の人生で経験し、得たものであった。


 特に、家屋くらいで済むなら良いが命に関わる事であれば忌避したくもなると言うものだ。


 ――でも、それでも、出し惜しみや躊躇などすべきでは無かったと悔やむ己も居る。


 どちらにしろ後悔先に立たず、こうなってしまった以上は今これからどうするかについて考えを巡らせるのであった。


「何で毎度毎度俺がこんな目に……!」


「ふうん、まだ抗う元気がある訳? じゃあ、もう少し痛め付けても良いかな」


「がぁっ!? お前……ゔっ!」


 乱暴に、爪先で横腹を蹴られる。


 衝撃と痛みを堪え切れず、無様に地面を転げ回れば、途端に周囲から悲鳴が上がった。


 何事かと思ってそちらに視線を向ければ、そこには無数の人々の姿が。


 今の今まで気にならなかったが、野次馬がこの場には群がっていたのだ。


 そこには老人も居れば子連れの母親らしき人、老若男女問わず様々な人の姿があった。


 彼らは一様に怯えや蔑み、好奇などと言った無遠慮な視線を向けて来る。


 怯えた声を上げるなら見なければ良いのに、慌てて飛び退(すさ)るなら近付かなければ良いのに。


 奇妙な彼らの行動に、思わず冷めた笑いが漏れた。


「何笑ってるの? 気でも触れた?」


「気が触れてんのはお前らの方だろ。悪魔だ、白儿(エトルスキ)だって……飽きもせず良くまあ騒いでられるな? 暇なの?」


「笑止。私から家族を奪っておいて悪魔である事すら否定するつもり? 呆れるくらいの馬鹿」


「そりゃお前らの家族が、揃いも揃って呆れるくらい身勝手で馬鹿だったからに決まってんだろ。お(つむ)が足りないのを人のせいにすんな……っ!?」


 肋骨の中心を乱暴に踏みつけられ、言葉どころか息が詰まった。


 体は更に咳を出そうとするけれど、既に空欠となった肺から出るものは何も無い。声すらも出なかった。


 しかも胸部の痛みはさらに勢いを増していて、もしかすると幾らか骨が逝ったかもしれない。


「っ、……っ!?」


 陸に上がった魚の様に数度口を開閉した後、(ようや)くの思いで肺が酸素を取り込むのだった。


「無様。本当にいい気味。今のアンタに下手な事を言う資格があると思う? 言える状況じゃない事くらい、簡単に分かるものだと思うけど」


「だったら舌抜くなり口縫うなりすれば良いだろ。やっぱお(つむ)足りないんだな、お前」


「……言わせておけばっ!」


 激情をぶつける様に、右頬を蹴飛ばされる。


 体が自由に動かせないので衝撃も逃がせず、大きく仰け反った首からはゴキリと嫌な音がするのだった。


 折れてはいないだろうが、最低でも鞭打ち状態になる事は覚悟した方が良いかも知れない。


 止めどなく口内に広がる血が、途轍もなく不味かった。


 呑み込みたくなくて、堪らず口から血を吐き出していると、不意に頭を衝撃が襲った。


 拳より固く、拳より小さい何かに、頭を殴られたのだ。


「……?」


 じくじくと痛む後頭部を意識しながら背後を振り返れば、そこには石を持つ子供の姿。


 下は四歳くらいから、上は十二、三歳くらいだろうか。拙いながらも敵意を持って、更に一つ二つと石を投げつけて来るのだった。


「くそ……何なんだよ!?」


 それに雪崩を打つように他の野次馬まで加わり、石だけでなく砂や果ては野菜までもが飛んで来る。


 回避しようにもこの不自由な身ではどうする事も出来なくて、ただ体を丸めて耐えるのみ。


 その間、幾つもの硬い痛みに呻きながら、考えるのだ。


 何故、自分がこんな目に遭わなくてはならないのかと。


 何の為に市民に配慮して魔法の使用を制限したのか、それなのに市民は平然とこちらに敵意を向けて来る。


 人は、こんなに容易く、考えもせずに人の配慮を踏み躙れるものだったのか――。


「言った筈。状況と立場を(わきま)えろって。私に、悪魔であるアンタが口答えする度に為すすべなく殴られてるんだから、それを見ていた市民がこうして来る事くらい予想出来ない?」


「……知ってるか? 頭の良い奴って、相手も同じ論理で行動するだろうって予想する。だから、馬鹿の行動ってのが予想出来ないらしいぞ」


「減らず口を!!」


 煽り過ぎただろうか。相対した当初は感情が乏しかった筈の顔には明らかな憤怒が彩られ、振り上げた右手には短剣が握られている。


 次の瞬間にはやって来る痛みを想像しながら、どうする事も出来ずにそれを眺めて居た、その時。


「タリア、そこまでにしなさい」


「……はい」


 人垣の中から、重みを感じさせる男性の声がしたかと思うと、途端に彼女の怒りが萎んだ。


 同時にあれだけ騒いでいた野次馬も静まり返り、ただ人の隙間から現れた一人の男性を凝視していた。


「やあ、先程ぶりですね、白儿(エトルスキ)?」


「パピリウス……お前!」


 知る限りではグラヌム村の中年司祭、水造成魔法を操る群青色の髪と眼を持つ男。


 相も変わらず人の良さそうな雰囲気を纏い、しかしこちらに近付いて来る様は、俺からすれば悪役さながらであった。


 その後ろからは馬車と配下らしき者を引き連れた肥満体――プブリコラの姿もある。


「パピリウス殿、準備出来た様ですぞ。参りましょう」


「承知しました。タリア、お前も私達と共に乗りなさい。労ってやろう(・・・・・・)


「……はい、畏まりました」


 先程まで感情があった事が嘘のように、機械の如く感情の伴わない返事をした彼女は、パピリウスらに連れられて馬車へと消えて行く。


 一体どうしたのか――疑問に思いつつも訊ねる訳にはいかず、仮に訊ねたとて答えてくれるとも思えず。


「ほら、とっとと立って歩け!」


「……」


「何だその目は!? この白儿(エトルスキ)風情が!」


 傲慢な態度の兵士達に囲まれながら、無言で道を歩かされるのだった。


 まるでモーセの十戒のみたく、規制されている訳でも無いのに市民達は綺麗に道の(そば)に居並んでいて、相変わらず無遠慮な視線を向けて来る。


 そして歓声なども上がる中で、やはり決まって出て来るのが投石だった。


 感情が昂り過ぎたりでもしたのだろうか。


 非常に興奮した様子で何かを喚きながら投げ付けて来るのを、暴動になりかねないからと兵士達が制止していた。


 しかしそれでも時折の投石は止まないし、直撃した石のせいで頭を切り、血が顔面を伝う。


「何で……何でこんな事を見ず知らずの人からされなくちゃいけないんだ」


 誰にも聞こえない呟きが、漏れた。


 周囲を見渡せば、道だけでなく建物の窓などからも覗く、人の姿。もう周囲には、人しかいない。


 喜ぶ者。叫ぶ者。蔑む者。嘲笑う者。怒鳴る者。喝采する者。怯える者。畏怖する者。


 ズラリと見える幾つもの顔と、十人十色の感情。


 それが余りにも耐えがたくて、そしてそこはかとなく怖くて、ただただ俯く事しか出来なかった――。







 息が詰まりそうな程に騒がしい人だかりの中を歩かされ、着いた先は広場だった。


 ここにも多くの野次馬が詰めかけていたが、混乱を警戒してかこの場には多くの兵士の姿があり、一定以上の立ち入りを制限しているらしい。


 俯いたままだった視線を持ち上げれば真正面には巨大な門が立ち、城壁の向こうに見える屋根には金色に輝くものすら見える。


 明らかに只の庶民が暮らせる様な場所では無い事が、その他の建物の屋根を見るだけでも分かる程だ。


「宮殿……?」


白儿(エトルスキ)と言えど名前くらいは聞いた事あるだろ? ビュザンティオンの大宮殿(メガ・パラティオン)と言えば世界に誇る壮麗さだかなら」


 どこか誇らしげな兵士の一人が嫌味を滲ませながら、ご丁寧にも教えてくれた。


「左後ろは大聖堂(メガレ・エクレシア)。貴様のような白儿(エトルスキ)を滅する、聖なる神に祈りを捧げる場所だ」


 言われるがまま振り向いてみれば、背後にはアーチ工法が多用され、またドーム型の屋根が特徴的である巨大な建築物が佇んでいた。


 あちこちに恐らく採光窓らしきものが見え、今まで見慣れた街の建物とは明らかに一線を画している。


「見事なものであろう?」


 不意にその言葉を掛けて来たのは、でっぷりと肥え太った中年の男だった。


 アラヌス・カエキリウス・プブリコラ。


 何故かは知らないがグラヌム領主だった筈の彼は、このビュザンティオンでそれなりに待遇されているらしい。


 もう少し身の上話に耳を傾けて置くべきだったかなとも思うが、口も利きたくない相手に質問するのは気分が良くない。


 愉悦を滲ませる彼に対して、ただ無視で応じるのだった。


 だが相変わらずこの男は傲慢で、堪え性が無いらしい。


「この下民が……私を無視するなッ!」


「……ッ!」


 振るわれた平手が、回避も出来ずに頬を直撃した。


 両手に枷を嵌められ、足には引き摺る様に鉄球まで着けられているのだ。体力も消耗していて、体を動かす体力が余り無かったのである。


「いつに! なったら! お前は! 立場を! 弁えると! 言うのだっ!?」


 音節ごとに区切りを入れて、その都度倒れている体を足蹴にして来る。


 元々体重があるからだろう、その威力は思っていたよりも高くて、体を丸めて痛みに耐える事しか出来なかった。


 ただでさえタリアに痛め付けられた傷口に追い討ちが掛けられて、表情にも声にも苦悶が滲む。


 早く止んで欲しいと痛みに耐えながら願っていると、駆け足で近付いて来る音が一つ。


「プブリコラ様、その辺に為さって下さい。これ以上汚れを作っては皇太子殿下へ見せる際に尚更見苦しくなってしまいますよ」


「……分かっておりますともっ。しかし、こやつは!」


「分かっていらっしゃるのであれば自制なさって下さい。ここで何かあっては、途方に暮れていた貴方を登用し推挙した私にも累が及びかねません」


「む……それは失礼した。時にパピリウス殿、こやつが見苦しいと言うのであれば一度そこに入らせてみては如何かな?」


 そう言って彼が指差す先には、もくもくと湯気の立ち昇る石造建築物があるのだった。


 位置的には大聖堂(メガレ・エクレシア)の向かい、大宮殿(メガ・パラティオン)の門から見れば左手。


 立ち入り制限のせいか静まり返ったその場所には、共通語――“偉大な言語(マグナ・リングア)”で「公衆浴場(テルマエ)」と書かれていた。


「血や土が付着して酷い有様なのですから、傷の手当ても兼ねて一度湯の中に放り込んで纏めて落としてしまいましょう。特に、染料などはサッパリしてしまわないと」


「……それもそうですね。そこの貴方、申し訳ないですが公衆浴場(テルマエ)の職員に事情を説明して来て下さい。一時的な貸し切りにする事と、必要であれば入浴料も払う、と」


「は、畏まりました!」


 聖職者と言う者は、他者から尊敬が集めやすいのかもしれない。


 パピリウスの指示にハキハキと気合の入った声で応じる兵士は、駆け足で浴場へと駆けて行く。


 今までの様子を見た限りプブリコラの部下であるらしいのだが、気になって彼の方を見れば案の定どこか不服そうであった。


 大方聖職者が己の部下に指図するななどとでも思っているのだろう。しかし、そもそもこの男は人を率いる器ではない。


 魔法の技量や儀式の儀礼などが身について居ようと、他者を平然と踏み躙る様な男では付いて来る者など碌にいない。或いは形だけ従うのみで、自発的かつ精力的に動いてくれる者など居ない訳である。


 そんな人物を、パピリウスは登用して推挙したと言っていた。


 一体誰に推挙したのかは分からないが、こんな男の何処に利用価値があったのかと思わずには居られない。


 痛みに顔を顰めながらのろのろと起き上がって待っていると、ついさっき公衆浴場(テルマエ)へ走っていった兵士が駆け戻ってくる。


「パピリウス様、浴場の者に話は通しておきました。代金は結構と言う事ですが……少し話をする時間を頂きたいとの事です」


「そうですか、分かりました。では向かうとしましょう。ほら、プブリコラ様も」


「あ、ああ。分かっていますとも……しかし、この者達は私の部下なのだが」


 最後に誰にも聞こえないような呟きを溢しながら、ほんの少しだけ寂しそうな表情を見せたプブリコラを、見逃しはしなかった。


 正直恨みしかない相手だが、その表情を見て溜飲が下がると共に、僅かばかり憐みの視線を向けずには居られないのだった。


「……何だ、私の顔に何か付いているか?」


「いや、別に」


 会社で除け者にされる仕事の出来ない冴えない中年みたいな光景を想像して、こんな状況なのに頬を緩めそうになる自分が居た。


 ぶっちゃけ、現実逃避以外の何物でもなかったけれど。




◆◇◆


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