第三話 リコリス②
「ああ、やはり染めてましたか」
「――――ッ!!?」
その瞬間、遅まきながらも己の失態を完全に察した。
慌てて頭髪へ手を当てても、もはやどうする事も出来ないだろう。
体を見下ろせば、髪を染めていた染料が水に溶けだし、身につけていた衣服に染み込んでいる。
腕や手を伝う小さな水滴にも、水で薄まった絵の具の様に薄い赤色が浮かんでいた。
段々と事の成り行きを眺めて居た市民の騒めきが大きくなる中で、プブリコラがその弛み切った頬を吊り上げた。
「もう一度訊くぞ。貴様はラウレウスで、白儿だな?」
「……」
ここまで来てしまえば、もはや語るまでもない。
プブリコラとパピリウスも、俺がどのように答えようともやる事は変わらないだろう。
故にこちらが採る行動は一つだけ。
素早く脚部へ魔力を集中させると、一気に地面を蹴る。
「何と往生際の悪い――」
「チィっ――追え!」
背後から聞こえる二つの言葉を置き去りにして、人混みの中を駆け抜けて行く。
驚いた人々が我先にと道を開け、そうして生じた隙間を縫うようにして走る、走る。
とにかく今は、あの二人から逃げ切る必要があるのだ。
限の良いところで更に地面を強く蹴り、建物の上へと跳び上がる。
この辺は人も建築物も多いのだ。
幾ら人目に付きやすいとは言え、こうして逃げてしまえば目撃証言はバラつくし、逃走経路を正確に辿る事も難しい。
後は適当なところで人気の少ない裏路地に消えて、誰かから外套を拝借すれば良い。
こうなると城門から逃げ出す事は不可能だと思うので、夜の闇に紛れて港から脱出する他無いだろうか。
そんな事を考えながら、ずぶ濡れの体で逃げ回って居た時だった。
「タリア! なんとしてもそのガキを捕らえろ! 逃せば只では置かんぞ!」
「……?」
プブリコラのその指示が何となく気になって、嫌な予感も覚えて、振り返ってみれば。
そこには軽装の、如何にも一般的な庶民の恰好をした少女が追跡してくるではないか。
おまけに彼女も家屋の上を走り、跳ね、こちらを凌ぐ速度で迫って来るのだ。
――何なんだ、あの子は?
あの両手に持つのは短剣だろうか。
短く揃えられた茶髪を揺らし、虚ろな目がこちらを捉えて離さない。
まるで感情が籠っていない表情に見えるのに、しかしその動きには粗っぽさが、怒りがある様にも見受けられる。
ともすれば、怨みすらもあるのではなかろうか。
誰に? いや、この場合自分しかいない。
だが、あの少女に恨まれるようなことをした覚えはないのである。
年の頃は十二、三歳だろうか。体格から推察するにそれくらいが妥当だろうけれど、あどけない顔立ちの奥底に渦巻いているであろう負の感情は大凡その年齢に似付かわしいものでは無かった。
「くそ、どうなってんだ!?」
あっという間に両者の間合いは食い尽くされ、背後からは二振りの短剣が軌跡を描いて背後から襲い掛かって来る。
それを横に跳ぶことで回避したのだが、読んでいたかのように少女もまた追撃を掛けて来た。
しかも更に速度を増して、である。
「……ッ!?」
上体を仰け反らせながら、短剣の刺突を槍の柄で受け流す。
それと同時に石突の方を回転させ、横薙ぎに反撃。
これまで何度も敵に一撃を与えて来た攻防一体の返し技であるのだが、少女には効かない。
彼女もまたもう片方の短剣で攻撃を往なし、反撃を見舞ってくる。
それを飛び退く事で間一髪躱すものの、警鐘は鳴り止まない。
一旦距離を取って戦うか、さもなければ逃げなくては、この状況では不味いと経験が告げているのだ。
まず、この少女自身がそれなりに厄介な実力とを持つ事。
特に短剣二振り持ちで、この足場が不安定な建物の上では槍との相性が良い。
屋根の上で下手に槍を振り回せば体のバランスを崩しかねず、結果として致命的な隙を晒しかねないのである。
おまけに彼女の方は身体能力も高い。
身体強化術を施しているのかもしれないが、どちらにせよこちらよりは早く動けるのである。
牽制の為に白弾を撃ってやりたいものだが、瞬時に接近して斬りかかられては余裕がない。
足場も不安定で狙いも付けづらいので、状況も相性も最悪だった。
それでも一瞬の隙を衝いて槍を振るいながら白弾を撃ち、間合いを切らせることに成功する。
距離にして十Mはあるだろうか。
それぞれ一つの建物の屋根に建ち、小さな道路を挟んで睨み合う。
そんな中、少女が徐に口を開いたのだった。
「……久し振り、ラウレウス」
「久し振り? お前と面識あったっけか?」
どうやらプブリウスらの部下らしいので名前を知っている事に驚きはしないが、それよりも「久し振り」という言葉に引っ掛かりを覚える。
眉を顰めながら訊ね返してみれば、少女は虚ろだった瞳に強烈な殺意を乗せて睨み返してくる。
「忘れたって言うの? ねえ、私の事を忘れたって言うの? 人の人生を滅茶苦茶にしておいて……人殺しの悪魔の分際で!!」
「……何の事だよ。被害妄想も大概にしてくれ。俺はお前の事なんて知らねえし、多分人違いだろうぜ」
チラリと眼下の道を見下ろせば、あちこちで兵士の姿が見受けられ、人混みを掻き分けながらこちらを目指して来ている様子が目に入る。
余りここで話をして長居すれば、忽ち包囲されてしまう事は想像に難くなかった。
これ以上ここに留まって自分から危険に身を晒す必要もあるまい。
今の内に身体強化術を再度施して逃げてしまおうと思ったその時。
「赦さない……!」
「!?」
殺意どころか憎悪の籠った声と共に、二つの軌跡を描いた鈍色が襲い掛かる。
慌てて槍の柄を水平にして受け止めるが、一拍置いて右脇腹を焼ける様な痛みが襲った。
「――――――ゔッ!!」
槍の柄が受け止められたのはたった一振りの短剣だけ。
もう一方は降り下ろすでもなく、真っ直ぐ脇腹を刺して来たのである。
己の判断を又もや先読みされていた事に舌打ちの一つもしたくなるが、続けて放たれた前蹴りがそれすらも許さない。
続けざまの攻撃で体勢を立て直す事も儘ならず、無様に建物から落下。
辛うじて魔力で強化した足から着地出来たものの、手に持っていた筈の短槍はいつの間には取り落としてしまっていた。
「くそ……!」
「まだ私のこと、思い出せない?」
「だから知らねえって言ってんだろっ!?」
いきなり屋根の上から降って来た少年と少女の姿に市民は驚き、そして凶器を持っていると言う事実に悲鳴を上げた。
おまけに片方は血まで流しているのだ。
拍車をかけるには十分だろう。
右手で腰に下げていた剣を引き抜き、左手はまだ短剣が刺さったままの脇腹に添える。
抜こうにも痛みと隙を伴うし、何より失血が酷くなるのだ。
すぐに処置をしたいのは山々だが、今はそうもいかなかった。
焼けるような痛みを堪えながら、正面に立つ少女を見据える。
茶髪茶眼、小柄であどけない顔立ちを持つ体には不釣り合いなほどの負の感情を醸す、彼女。
顔立ちはよく見れば整っている方なのだろうが、目の下の隈や縫合手術の痕の様なものが見受けられる。
よく見ればそれは、四肢に至るまでそうなのである。
もしかしなくても、服に隠された部分にも同じような痕があるのかもしれない。
まるで人造人間か何かの様だと思いながら剣を構え、無数の白弾を形成する。
しかし下手に撃って外したら、関係ない人に危険が及ぶ可能性がある為、相手へ向けて無闇に撃つ事が出来ない。
とっとと倒すか、もしくはいつもの様に煙幕を張って逃げるしかないのだ。
失血やその他の追手を考えると制限時間も短い。
もはや速攻しか残された手段は無かった。
「訳わかんねえ事を……いい加減邪魔なんだよッ!」
「あ、そう。まだ分からないのなら名乗ってあげる」
囲うように白弾を放つと共に剣を振り上げ、少女へ斬りかかる。
逃げ道を潰した上での、上段からの一撃だ。
短剣で受け止め切れるとは到底思えず、逃げ道も無い。
これで殺し切れなくとも深手は負わせられる筈――。
そう、思ったのだが。
「!?」
躊躇なく懐へ飛び込んで来た彼女に、意表を衝かれた。
剣の間合いから更に近付かれ、今や短剣の間合い。
己の失策を悟った時にはもう遅く、彼女が右手に握っていた短剣が右太腿へと突き立てられたのだった。
「がっ――!!?」
皮膚が破られ、筋肉が切り裂かれる感覚。
鮮血が湧き出し、辺りには尚のこと錆び臭く生臭い匂いが立ち込め始めるのだ。
それでも痛みでそのまま足を止める事を良しとせず、残った左脚で地面を思い切り蹴って後退る。
するとその反応が功を奏したか、繰り出された回し蹴りから間一髪で逃れる事に成功する。
しかし、状況は更に悪くなっていくのが、良く考えなくても分かるほどに明らかだった。
そしてそれは少女から見ても当然の事であり、勝ち誇る様な、馬鹿にした様な色すらも浮かべた彼女は告げるのだ。
「私はタリア。レモウィケヌム村のタリア。母の名はロティア。改めて訊く、この名前に聞き覚えは?」
「タリア、に……ロティア?」
彼女の口から出て来た名前を鸚鵡返しに呟いて、そして。
「……あ」
閉じ込められていた箱が内側から破られる様に、記憶が飛び出した。
レモウィケヌム村、タリアとロティア。
そうだ、確かに会っている。
グラヌム村から逃げ出して、森の中を彷徨って、そうして辿り着いた最初の村だ。
そして彼女とその母親は、一人になってから初めて知り合った少女で、その親なのである。
しかしここもまた解せない。
何故レモウィケヌム村に居た筈の彼女が、こんな場所に居て、武器を振るっているのだろう。
彼女は農民の娘である筈なのに。
「お前……どうしてここに?」
「思い出してくれた? そっか、良かった」
安堵の表情を浮かべた彼女は、歪に笑った。
不気味に笑った。まるで何かが壊れているかのような、笑顔だった。
「アンタが私達に金を少しも寄越さなかったせいで……母さんは死んだ! お前のせいで! 白儿のせいで!」
「はは……馬鹿言え、お前らみたいな自分勝手な連中に、どうして金を恵まなくちゃいけないんだ」
人が金を持っていると見るや否や、金を寄越せと居て来たのは彼女たちだ。
もはや強盗の様で、盗賊の様で、一宿一飯の恩義すらも吹き飛ぶほどの身勝手を発揮しておきながら何を言うのか。
白儿がなどはどうでもいい、人としてどうかと思う様な事をして、どうしてこの少女はまだ身勝手な事を言えるのだろう。
呆れて、思わず嘲笑が漏れた。
「ところで、ロティアさんは死んだんだな?」
「そう! お前のせいで死んだ! 金さえあれば、死ななくて済んだかもしれないのに……!」
「それを俺のせいにすんのは違うだろ」
盗賊の分際で取り逃した獲物を恨むなど意味が分からない。
自分勝手極まりない子供の言い分である。
だが、生きたいと思うのはある意味で人として当然の主張であり、自分自身もしている主張だ。
彼女たちについては自業自得がお似合いだが、ある一面ではまだ幼い彼女の主張が理解出来てしまう自分が居た。
「それだけじゃない! アンタは兄さんまで殺した!」
「兄さん? 誰の事だ?」
「惚けるな! アロイシウスだ! ボニシアカのアロイシウス! 兄さんを殺したのは白儿だって聞いた……それ、アンタの事だろ!?」
「――ッ」
より燃え盛る憎悪を溜め込む瞳は、湿っていた。
同時に、ここまで恨まれている理由にも納得がいく。
彼女は俺が、母親と兄の仇であると思っているのだから。
おまけに、後者の件は経緯がどうであれ確かに紛れもない事実である。
まだ十代前半、多感な時期に家族を失い、それに俺が関係していた事で、すぐに結び付けていたのかもしれない。
憎悪し、憎悪の対象とする事でやり場のない怒りのはけ口として、今まで生きて来たのだろうか。
ロティアの死の遠因は、全くないとは言えないかもしれないが、怨まれるのはお門違いだと思う。
しかし一方で確かに、ボニシアカ市でアロイシウスを直接殺した。
下級狩猟者として共に仕事を行い、彼に裏切られ、同じ前世世界の記憶を持つサルティヌスを殺され、怒りに任せて命を奪ってやった。
殺した時の感触は、今でも手に残っているし、彼の最期も記憶には鮮明に残っている。
そんな彼がタリアの兄であった事は初耳だが、思い返せば両者とも、故郷に家族がいるとか、兄が村を飛び出したと言っていた覚えがある。
ただ、それがここに来て結びつくとは誰が予想できただろうか。
「ここ数年、兄さんとは連絡も取れなかったし、でも狩猟者として村を出て行って元気にやってると思ってた……なのに、なのにっ! 何でお前に殺されなくちゃいけないっ!?」
「それはアロイシウスが……」
「アンタの話なんか聞きたくないッ!」
先程右太腿を刺した事で血に濡れた短剣を突き付けながら、彼女は叫ぶ。
「お前が何も悪いんだ……母さんと兄さんが死んだ事も、死亡税が払えなかった事も! 身寄りのない、税の払えない債務奴隷として売り払われた事もッ!!」
「債務奴隷? ……なるほど」
何故こんな場所に彼女が居るのか全く納得がいかなかったが、漸く合点がいった。
売られた先がグラエキアのビュザンティオンだったのだろう。
だが、そんな彼女の境遇に同情などする筈もなかった。
「自分ばかりが不幸だと思いやがって」
「……はあ?」
「自分が世界一の悲劇の人間だとか思ってる痛い奴だって言ってやったんだよ。分かるか?」
辛いのが自分一人だけな訳があるか。
悲しいのが自分一人だけな訳があるか。
そんなものは周りを見ればゴロゴロ転がっている。
ありきたり過ぎて誰も耳を傾けたり、見てくれたりなんてしない。
路傍の石でしかない。
だから自分で動くしか、自分で踏ん張るしかないのだろうに。
辛い事を、悲しい事を誰かのせいにして憎んで、状況には流されるまま。
果たしてこの少女は、奴隷にまで落ちて行く中で何かしら努力でもしたのだろうか。抗ったのだろうか。
まだ幼いから無理、という話では無い。
幼くても、やりたければ子供でもやるのである。
何もせず流れに乗ったまま負の感情だけを垂れ流すような彼女には、嘲りの感情が湧いて来る。
確かに状況はタリアが圧倒的に有利。
もう既に自分は敗色濃厚で、運が良ければ命からがら逃げ果せる程度。
余り相手を刺激しない方が良いのは百も承知だが、それでも言わずには居られなかったのである。
「抗いもしない家畜が、家畜らしく奴隷に落ちるのは当然だろ」
「このっ……!」
その瞬間、タリアが凄まじい形相を浮かべながら襲い掛かった。
速度は一段と上がり、動きのキレもより鋭いものへ。
応戦しようと脚に力をいれようとしても、右太腿の怪我で機動力は半減どころではない。
やむを得ずその場で剣を振り、また白弾で牽制するが、呆気なく背後へ回り込まれ膝蹴りを入れられる。
蹈鞴を踏みながら転倒は堪えるものの、追撃は止まらない。
「やってくれるッ!」
白弾で応戦するが、やはり当たらない。
気付いた時には剣を持つ右手を斬り付けられ、それを取り落とす。
それを認識するや、今度は腰に差していた二本の短剣を逆手に引き抜いて彼女と切り結ぶのだ。
「しぶといっ!」
「そうでも無きゃ、この世界で白儿は生き抜けないんでね!」
「手負いのくせに、人殺しのくせに、まだ足掻こうだなんて不愉快だッ!」
「ッ!?」
右脚も地面には付いているが、もはやほぼ飾り。
殆どの体重は左脚に乗せられているのを見抜いてか、タリアの足払いを受けて路上にひっくり返る。
「このヤロ……うッ!?」
悪態を吐きながら咄嗟に起き上がろうとした矢先、彼女は容赦なく短剣の刺さった右脇腹を踏みつけて来る。
その余りの激痛に一瞬呼吸が止まり、喉からは絞り出すような悲鳴だけが出るのだった。
二度、三度と踏みつけられる度に痛みは増し、瞼を閉じている訳でも無いのに、何度も視界が暗転しかける。
火花の様なものが視界を走り、脇腹を中心に体が声の出ない悲鳴を上げている様だった。
「……っ! ぐ、ぅぅぁ……!」
「安心して、殺しはしない。捕らえろって命令」
尚も傷口を抉る様に、彼女は脇腹に刺さったままの短剣を踏みつけ続ける。
もはや言葉を発する余裕もなく、痛みのせいで体力すらも奪われて、抗う気力さえも湧いてこない。
「でも痛め付けるなとは言われてないし」
「……っ!」
頬を、衝撃が襲う。
途端に痛みもそうだが、口の中一杯に血生臭い味が広がって行く。
「私だけじゃない、母さんや兄さんの恨み、とくと味わって貰う」
年不相応な歪んだ笑みを浮かべた彼女は、まだまだ満足し足りない様子で、そう告げていた。
 




