第二話 Who are you? Who is this?①
がらがら、と騒がしい音が鼓膜を揺らす。
時折、というか頻繁に床は跳ね、その度に体が浮き、そして叩き付けられる。
「…………」
微睡んでは覚醒しを繰り返して来た少女は、疲れ切った目で激しく揺れる青空を眺めて居た。
ふと手元に視線を落とせば、鉄製の錠で拘束された両手が目に付く。
それらは鎖で馬車の縁に固定され、揺れる度に甲高い金属音を奏でていた。
すると、彼女に動きがあった事で注意がそちらに向いたらしい。じっと少女を見ていた者が手持無沙汰な様子の男性へ話しかけていた。
「旦那、一体何なんです、この娘は?」
「秘密だ。依頼主が相当お偉い方である事だけは何度も伝えているだろう? お前達は雇われた金額通りの仕事をすればいい」
「いやそりゃ何度も聞かされてますぜ。確かに俺らは雇われですが、こんな人攫いの片棒を担がされているんですから、少しくらいは教えて下さいよ。あの娘だけ手を出すのも駄目なんでしょう?」
というか何故あの娘だけ馬車にまで乗せられているんですか、と皮鎧を纏った男は問うていた。
それに対し、恰幅の良い中年の男はうんざりしたような表情をしながら答える。
「雑に扱えば首が飛ぶのは私とお前らだぞ。その辺の奴隷なら処女だろうが何だろうが好きに手を出せば良いが……それは丁重に扱えとのお達しなんだ」
「奴隷って……つい数日前に狩って来た連中でしょう? 俺達が村焼き払って捕まえた」
元々は農民であった者達。それを非合法な行為――俗に言う奴隷狩りで奴隷身分に落とされている。
彼らは先導する馬車に縄で数珠繋ぎにされ、俯いたままのろのろと道を歩いて行く。
彼らの表情は一様に暗く、これからの将来にどこまでも絶望している事だろう。
乳飲み子を抱えた母親、子供、少女、少年、青年の男女、壮年の男女。
中途半端に幼い者、年老いた者はこの列には居ない。
移動の邪魔になる上、売っても大した金額にならないのでその場で処分したのだ。
「コイツらはついでだ。勿論報酬は弾んで貰えるが……折角ハットゥシャにまで出張ったのだ、力のある奴隷も売り捌けばより大儲けも出来る」
「ま、確かに。これだけの数の剛儿となれば、鉱山とかでも売り捌き放題ですからねえ」
「追手には注意しろよ。この国の領主からすれば収入を奪われているのも同義だ。いざとなれば集めた奴隷は諦めて逃げる必要もある」
「そりゃ折角狩ったのに勿体ねえな……おいお前ら、監視怠るな!」
『へい!』
褐色の肌を持ち、長さは変わらないが尖った耳を持つ。
他種に比べて力は強く、体力は高く、頑丈。
都市部に暮らして居るならいざ知らず、農民の剛儿であれば特色はこれくらいだろうか。
暫くぞろぞろと馬車の後を続く奴隷の列を眺めた後、男は再び少女視線を向けた。
「この娘、剛儿じゃないんですかい?」
「ああ、我々と同じれっきとした庸儿だ。見れば分かるだろ?」
「まぁ、明らかに普通の人間って感じですからね」
ジロジロと遠慮なく向けられる視線が気持ち悪くて、少女は体育座りをする様な格好で体を丸めていた。
「……中々そそる反応するじゃねえか」
「駄目なものは駄目だ。何度言わせる?」
「分かってますよ。けど、この娘一人捕まえるのに随分大掛かりじゃないですかい? 旦那も頭の上がらない人間となると……結構限られてくるし」
「詮索するのは勝手だが、それに私を巻き込むな。それに、下手をすればお前を抹殺しなくては行けななくなる」
「……おお、こわ」
かなり強い釘を刺され、気まずくなったのだろう。
男はそこで話を打ち切ると馬車の御者に目を向ける。
「おーい、到着まで後どれくらいだ?」
「はい? えーと、そうですね――」
御者も御者で話の流れが不穏に傾きつつあることを察したのらしい。すぐに男の問い掛けへ答えようとしている様だった。
だからだろう。中年の男以外、少女の呟きに気付く事は無かった。
「……ザカリアス」
「おいお前、ここでその名を出すんじゃねえ。良いな、黙ってろ」
「じゃあ、私を最終的には何処へ連れて行くつもり……?」
「さあな? そんなの一介の奴隷商人が知る訳無いだろ。それにお前、自分で視た方が早いんじゃねえの?」
雇い主からはどんな少女であるのか、彼は知らされていた。
故に多くの者を動員し、彼も自ら遠出し、仕事の完遂を目指した。
雇った護衛は勿論、直属の配下にも教えられるものでもない程、これが重要な案件だからである。
「お前は黙って運ばれて居ろ。どうせもうすぐ着く、分かったか?」
「……リック」
念を押す男の言葉に、少女は返事をする事は一切無く、呟きを溢しながら馬車の進行方向とは真逆の方を眺めて居た。
果たしてその呟きは、誰を呼んだものか。
蜂蜜色のその瞳は、一体何を視ているのだろうか――。
◆◇◆
西界と呼ばれるこの地方において、東方に位置する東ラウィニウム帝国。
元々は西界のほぼ全域と言っていい地域を掌握していた“ラウィニウム帝国”の片割れである。
分割統治として東西に分裂後、呆気なく西帝国は内紛で滅び、現在に至るまで東帝国だけが連綿と続いている。
ラウィニウムの名はラティウム半島にある都市ラウィニウムから取られ、都市の創建から現在に至るまでは既に千二百年以上の歳月が流れている程だ。
ただ、東ラウィニウム帝国を名乗っているにも関わらずこの国はラウィニウムを支配下に置いていない。
西帝国の滅亡と共に帝国版図から離れてしまったのだ。
その結果、東帝国は首都をビュザンティオン、そして現在はウィンドボナに置いている。
つまり古都であるビュザンティオンは首都としての機能が離れてしまった訳だが、それでも交易などによって十二分に栄えているらしい。
海に面したこの都市はその全周を城壁に囲われていて、びっしりと高く堅牢なそれが聳え立ち、湾上を無数の船が航行していた。
ただ、よく見れば城壁には部分的に断絶があり、その隙間から船が出入りしている。
その隙間が、陸で言うところの関所や城門らしく、持ち物の確認などが行われていた。
他の船舶と同じようにこの商船もその隙間を通り抜ければ、そこには見た事もない港湾施設の規模と、無数の人々の姿があった。
「すげえ……」
縁に寄り掛かりながら、そんな呟きが思わず漏れる。
ここまで多くの人を見たのは何時ぶりだろう。今世でも都市や多くの人を見て来てはいたが、ボニシアカ市やタルクイニ市のそれを遥かに凌駕するほどの活気であった。
だから、これだけの活気を目にするのは前世ぶりなのだ。
「驚いたか? ま、田舎者には十分過ぎるよな。ここは帝国の首都じゃなくなっても尚、その規模で一位二位を争うくらいなんだぜ」
「随分と詳しいけど、この辺……いや東帝国の関係者だったわけ?」
「ん、別に? こんなの一般常識だ。お前が無学なだけだろ」
韜晦するように肩を竦めたラドルスだったが、生憎声に微かな動揺があった事を見逃さなかった。
東帝国の人間だったのかと推測しながら、しかしそれを表に出す事はしない。
適当に合槌を打ちながら、仕事に入る船乗りたちの姿を眺めていた。
積み荷を下ろす為なのだろう、港岸と船に渡し板が掛けられ、荷物を抱えた男たちが下船していく。
しかしその姿はいずれも疲労が見え、一方で船旅が一応終了した事を喜んでいる様でもあった。
だが、そうなってしまうのも無理はあるまい。
「……何よ?」
「いや特に何でもない」
横に居る少女へ向けていたさり気ない視線を外し、船の外壁を覗き込めば、木で出来ているそれらは相応に痛んでいた。
出航時、この船はそこまでボロボロという訳では無かったのだが、ちょっとした事件があったのである。
あの腕蛸魚に襲われた時、シグが船下から攻撃を受けないように氷の壁を船の周囲に張った結果、船体の外壁下部に損傷が生じてしまったのだ。
それと言うのも、船体を守るように凍った海水は彼女の制御下にあっても、波の揺れなどで船を軋ませていた。
仕方なかったとは言えそれは船の寿命を縮める事となり、その後の航行でも浸水などに目を光らせる羽目になった訳である。
乾いた笑いを浮かべて空を仰ぐ船長の姿が、何とも言えない哀愁を漂わせていたのは記憶に新しい。
何にせよこの事によって航行に遅れが生じ、途中の港で補修などを行いながら予定より三日遅れでの到着と相成った。
「……割と時間掛かったな」
「私のせいだって言いたい訳? それを言ったらアンタだって、腕蛸魚を派手に吹き飛ばしたせいで甲板血肉塗れだったでしょ!」
「船自体に損害は与えてねえんだよ。お前と違って」
「言ってくれる……けど、そのせいで掃除に余計な手間が掛かったのも事実だから!」
その指摘が聞こえていたのか、何人かの船員が俺を見た。
居た堪れなくなって港を行き交う人々に視線を移すのだが、その間にもシグからの反撃は続く。
「あの肉片と血……落とすのがどれだけ大変だったか。船員じゃ手が足りなくて、私やラドルスも手伝ったって事、忘れないで」
「……分かってるよ」
その辺りを指摘されては反論など出来ようもない。
因みに、この商船に乗客として同乗していた三人の下級狩猟者は、つい先程逃げる様に下船して行った。
彼らを纏めてボコボコにしたラドルスと、これ以上一緒に居たくなかったのだろう。何せあの一件以来、ラドルスは事あるごとに彼らへ殺気を向けていたのだから。
等々、色々と思考してシグの反撃を聞き流していると、背後より声を掛けられた。
「いやあ、アンタらには何だかんだで助けられた。ほれ坊主、お前の言ってた依頼料だ。そこの嬢ちゃん達にもな。ただ、船の修理や掃除費用は抜いてあるぞ」
「あ、ども」
手渡された複数の硬貨を受け取りながら、髭面の船長を見遣る。
彼にはやはり疲労が見えるものの、それでも感謝の念と言うものが見て取れた。
「アンタらが居なければ今頃、俺達は奴隷落ちだった。もし切り抜けても魔物に襲われて腹の中だ。俺だけじゃねえ、多くの船員を救ってくれた礼として受け取ってくれ」
気持ちの良い、海の男然とした快活な笑みを浮かべた彼が渡して来た額は、船の運賃としてこちらが支払った額よりも高かった。
間違いなく損である筈なのに、彼はその額を支払ってくれたのだ。
「また会える事を楽しみにしてるぜ。さ、これ以上は船仕事の邪魔になっちまう。降りた降りた」
そう言って船から追い出しに掛かる船長に対し、俺達は軽く礼をしたり、手を上げたりして応じると、渡し板を歩いて下船した。
「じゃあな! 元気でやれよ!」
「また何かあったら俺らを助けてくれな!」
「アンタらと一緒に旅するならどこへだって行けそうだ! 船乗りになりたいってんなら歓迎するぜ!」
「ありがとよ!」
聞いていて気持ちの良い、船乗り達の別れの挨拶に応じながら、港の雑踏へと紛れていく。
これが大都市か、と久し振りの大人数の姿に小さく息を漏らした。
煉瓦などで造られた多くの建築物は高層で、しかし一定以上の高さは存在しない。
家屋の壁に居並ぶ露店からは威勢のいい声が引っ切り無しに上がり、客と店主が談笑している姿も見受けられた。
傭兵や狩猟者なのだろう、俺のように武装した者もちらほら見られ、彼らも露店の品物を物色していた。
それらを横目にしながら人混みを抜け、人通りの少ない裏路地に出て、そこで脚を止めた。
「……で、俺に何の用?」
「お前が何者か、改めて問い詰めに来た」
振り向けば、そこにはいつになく鋭い目をしたラドルス・アグリッパの姿があった。
そこには微塵も油断などと言った姿勢も見えず、ゆっくりとした動作で槍の穂先を突き付けて来る。
「今のところお嬢や俺に害を加えては来ないが……正直、俺はお前を怪しいと思ってる」
「どこら辺が? 寧ろ俺はお前らに巻き込まれた側の人間なんだけど?」
「まぁ、そう言うだろうな。お嬢もそう言っていたが……ここに来てからはそうも言ってられない。後でお嬢に何と謗られようとも、近付く奴らの素性は何としてでも把握しなくてはならないんでな」
一歩、二歩と後退れば、その分だけラドルスは距離を詰めて来る。
「お前の魔法は何だ? 今まで俺も色々見て来たが、あんな魔力は初めて見た。そしてそんな魔法を使えるお前は……何者だ?」
「俺は本当にしがない農民でしかない。魔法だって偶々発現したに過ぎないんだ。これ以上何を聞いて来たとしても、答えられるものはねえよ」
寧ろこちらが、お前らの素性について訊きたいくらいだ、とラドルスの目を睨み返す。
ここまでシグの身辺を警戒しているのを見れば、いよいよ彼らはのっぴきならない事情を抱えているのだろう。
そうでなければ、ここまで過敏になっている事を説明できない。
「お前が俺に答えられないものがある様に、俺にだってある。それで良いだろ?」
「駄目だ」
「……じゃあ、俺はこうさせて貰うぞ?」
このままでは交渉など出来ないと判断し、左掌に白弾を一つ形成する。
途端、ラドルスが凶悪に笑った。
「良いな、そっちの方が分かりやすい」
「残念だが、別に俺はそう言う意図でやってる訳じゃ無い。もしこれ以上交渉の余地がないと判断したら、これを地面に叩きつける。するとどうなると思う?」
一瞬理解が追い付かなかったらしいラドルスだが、すぐに意図を把握したのか顔を顰めた。
「下手に動けば地面に撃ったコイツが爆発を起こす。そうなれば当然多くの耳目が集まって、シグも他の誰かの目に触れるかもな。色々警戒してるんだろ? だったらここで余計なもめ事を起こすのは得策じゃないよな?」
「…………」
不貞腐れた様に顔を背けて構えを解いたラドルスは、大仰に息を吐きだした。
そして一度こちらを強く睨み付けた後で、反転する。
「今まで何度か共闘した誼もある。今回だけは見逃してやるよ。じゃあな」
「今後も見逃して貰えると助かるんだけどな」
「そう思うならもう再会しない事を祈ってろ」
その言葉を残して、ラドルスは雑踏の中へと姿を消すのだった。
だが、視界の外から回り込んで奇襲の可能性も考慮し、暫く周囲を警戒する。
何度も戦いを経て来たから分かるが、彼のあの目は本気だった。
実力的にも、確実に近接戦闘ではこちらを上回っている。
真面に戦っても勝つ事は出来ないだろう。
「…………」
気を張り詰めさせながら警戒していたが、数分経っても何処かから攻撃が来る事は無かった。
もうラドルスからは何も無い事に安堵の溜息を吐き、構えを解くと空を仰ぐ。
立ち並ぶ家屋の隙間から見える、白さと青さの斑模様は、人の心情などお構い無しに流れていた。
◆◇◆
今日の空は、快晴では無かった。
頭上では青と白が入り混じり、流れながらその形を微妙に変えていく。
それを眺めながら、薄鈍色の外套を纏った白髪の旅人は独り言つ。
「ラウ君、本当に死んじゃったのかなぁ? 仕留めた妖と一緒に濁流へドボンだったし……生きてる方が奇跡かもしれないけど」
彼にとって、その人物は知り合いなのだろうか。
心配するような言葉であったが、その口調はしかし極めて軽かった。
呟きはしたものの、死んでいても生きていてもそこまで拘りはしないという様な気持ちが、滲んでいたのである。
そんな彼の表情は、そして歳の頃も、白地の仮面に覆われていて窺い知れない。
そこへ、接近する足音が一つ。
「リュウ、面白い噂話を見つけたぞ」
「どうしたの?」
「ラティウム半島の都市、タルクイニ近郊で派手な戦闘があったらしい。どうやら、相当に規模の大きな戦いだったとか」
リュウと呼ばれた彼が振り返れば、そこには一人の男の姿があった。
身長はリュウと同じか少し高い。ほっそりとした様に見える体躯は、しかし袖から覗く腕を見れば分かる通り引き締まっている。
緑黒色の鋭い目付きをした彼は、片手に瓢箪を持っており、腰には矢筒と弓を提げていた。
その様子に、リュウは仮面の下で小さな溜息を吐いた。
「后、また勝手に酒を買ったね? お金だって有限なんだから、少しは路銀とかの心配もしてよ」
「安心しろ、これは盗んだ! 瓢箪で酒樽から拝借したのさ。ま、この后羿に盗れない酒は無いって事だ」
「……ツッコミどころがまた増えた気がするね」
美味い、と瓢箪に入ったワインらしき液体を飲む男にリュウは、しかしそれ以上指摘する事は無かった。
変わって話題に上げるのは先程、后羿が挙げた噂話だった。
「ところでタルクイニ市の近郊、だっけ? 確かあそこって、白子……いや白儿についての伝説がある所でしょ?」
「ああ、あるな。そこでかなり激しい戦闘と破壊の痕とくれば、“神饗”の連中が居たのかもしれん」
「なら決まりだね」
太陽の位置を確認した後、リュウは西の方角に顔を向ける。
「運が良ければタルクイニ市でラウ君についての情報も手に張るかもしれない。一度は助けようとした訳だし、このままずっと無関心って言うのも勝手過ぎる気がするしね」
「生きていなくても、死んだかどうかの確認くらいはして置こうってか」
瓢箪の中に残っていた酒をぐっと煽った后羿は、それを腰に下げ――次の瞬間には、忽然と姿を消した。
いや、正確には木札となって宙に浮いていた。
「ここからタルクイニへ行くなら海路だな。路銀は?」
「ばっちりだよ。一応お金はあるからね。後は何処の港街から出るか、だ」
「ここからならビュザンティオンじゃね? 距離的にも、あと出入りの船の数から考えても、便の数は多い筈だぜ」
木札が喋るという特異な状況下にあっても、リュウは一切狼狽える気配もなく、平然と后羿と話していた。
そして木札の提案に納得したのか、彼は一度首を縦に振る。
「それじゃ、行き先はビュザンティオンで」
「……ったく、お前が窮奇を出張させなけりゃひとっ飛びの距離なのにな」
「だからごめんて。何回も謝っているじゃあないか」
愚痴る木札を掴み、懐へ仕舞いながら一人の旅人は西へと歩き出す。
背の低い草が小高い丘を覆い、それを踏み締めながら一人と一枚は、他愛のない会話を繰り広げていく。
空はまだ、白と青の入り乱れた斑のままで――。
◆◇◆
最近、記憶と自我がぼんやりとして来ている様に感じる。
特に前世で、楽しかった思い出、誰かの顔、現代的で平和的な光景。
そしてそれが薄れていくと言う事は、己がこの世界で求めるものもぼんやりとして来る訳で。
何故自分は今までこんなに生へ執着して、生きて来たのだろうと考えてしまう。
もっとも、別に生きている事がどうでも良くなったという理由ではない。
これまで散々な目に遭って、だからこそ尚更流されるままに死んでしまうなど、絶対に嫌だった。
「…………」
行き交う雑踏の流れに従いながら、思考は深く深く沈んでいく。
勿論、まだまだ前世の記憶が消えた訳では無いし、あの時に自分を含めた多くに人々を殺した殺人鬼を許しはしない。
今でも可能ならば殺してやりたい。
怒りは、憎悪は未だにこの心の中で燻ぶっている。
けれども今世では、余り前世の事について囚われるべきではないのかもしれないとも、思ってしまう。
ずっと歯を食いしばって、なにくそと誰かに抗い続ける事に、疲れて来たのである。
誰かに意識を向ける事にも、いい加減辟易として来る。
ラドルスから向けられた、警戒の目。
殺意を伴った、鋭い視線。
それなりに話す程度の、顔見知り程度で丁度良い距離だと思っても、相手はそうでなかった。
裏切られたとは話が別だが、人と人の繋がりと温かみを求める事すらも、己には叶わなかったのである。
ガイウス・ミヌキウスらのような、良心的な人物の少なさに呆れ混じりの吐息が漏れた。
「…………」
道端で物乞いをする老人や幼児の前を無言で通り過ぎ、そもそも興味も視線すらも向けない。
助けたところで、手伝ったところで、無駄な事の方が多いのだ。関わり合いになるだけ無駄であろう。
ラドルスやシグとは商船で共闘したが、彼らからは何か探る様な目で見られていたし、もしかすれば船員もそうであったのかもしれない。
口では感謝を述べながら、内心では警戒されていたかもしれない。
自分だけでなく誰かの為に動いても、こんな目に遭ってしまうのだ。
馬鹿馬鹿しくて色々とやる気も無くなってしまう。
夏の暑さも増々弱まるこの季節の中、フードをより一層目深に被りながら周囲へ視線を走らせた。
しかし、見た限りでは宿屋は見当たらない。
もう少し別の区画を見た方が良いのだろう。
懐の財布から硬貨を取り出すと道に露店を構える主人の下へと向かう。
「すみません、この辺りで安い宿屋は無いですか?」
「お、坊主は巡礼か何かか? 敬虔な事だが、この辺りに安い宿は無いな。教会が運用する修道院くらいだぜ」
「……いえ、別に巡礼という訳でも無いので、民間の宿だけでも教えて貰えません?」
ここ、つまりビュザンティオンは、西界東側に取ってみれば天神教の総本山に当たる。
因みに西側ではラウィニウム市に総本山が置かれ、仏教やキリスト教がそうであるように、互いが異なった宗派を持つ。
東の総本山であるビュザンティオンには全体を束ねる総教主がおり、そこを含めた各地を巡礼する熱心な教徒も多いのだとか。
だが残念ながらと言うべきか、そんなものには興味もなければ、そもそも関わり合いになりたくない。
下手を打てば、あっという間にこの都市内で多くに人から追い回されてしまう。
神に仇なしたとされる白儿は悪魔だから、それと同じ形質を持つ俺もまた、悪魔として攻撃の対象となる。
迫害されない訳が無い。
今世で生を受けたグラヌム村での出来事を思い出し、胸の苦しさで微かに顔を顰めた。
だが、目深に被ったフードのお陰で露店商がそれに気付く事は無く、彼は気前よく情報を教えてくれる。
「この辺は商人とかも良く通るんで、宿は何処も高い。もう少し外れの方か、城壁の外の向こうにで出も行かないと安宿は無いぞ。ま、治安は悪いが」
「城壁の外、ですか?」
質問を重ねながら、更に硬貨を渡す。
するとそれを確認した商人は更に話に乗ってくれる。
「ああ、ここは滅茶苦茶古い都市だし、交通の要衝だから人も集まる。住み切れない、泊まり切れない奴が自然と城壁の外の離れた場所にまで溢れ出したんだ」
「ここってそんなに人が居るんで?」
「居るぞ。数十万以上は住んでる。それとこの辺は西界の東側に位置してるんでな、流通通貨と言語も違いがあるぜ。大体の奴は共通語も喋れるだろうが、騙されないように気を付けろ」
お前さんは西地域の出身だろ、と指摘されて思わず男の方を見た。
相好を崩す彼は、「それくらい分かる」と言って、先程受け取った硬貨を見せて来る。
「いま坊主が渡してくれた奴はサリ王国やシアグリウス王国の辺りで流通してるモンなんだよ。東地域で出回ってるのはこっち」
腰に下げた袋から取り出された硬貨は、大きさや模様の意匠など全てにおいて差異が見られるものだった。
しかしその硬貨は、決して見覚えが無い物では無くて。
「これって……」
この地域で流通していると言われた硬貨は、以前シグとラドルスを追撃していた者から剥ぎ取った物と、一緒だったのである。
それから数日。
「……」
必要と思われる情報を集めるだけ集め、いつもの様に雑踏の中を歩き回って行く。
時折手癖の悪い子供と擦れ違い、その子らの手を払い除けながら人の隙間を縫うように進むのだ。
しかし、それにしても中々値段の安い店にまであり付けない。
おまけに海に面した方も、陸に面した方も全周囲に城壁があるという話だったのに、進めど海と真逆方向にある筈の城壁が見えてこないのである。
そもそも、周囲の高層建築のせいで遠くが見えないせいなのだが、だとしても広い。
これが数十万人の住む都市かと、その桁違いな規模にただ辟易とした笑いが漏れてしまう程だ。
ここまで歩いた距離自体は大したものでは無いものの、何せずっと人混みも続いている。
いい加減疲労も溜まって来ると言うものだった。
「……っ」
前世の大都市圏でも見られた、人でごった返す道。
しかも道が狭いうえ、周囲の建物が圧迫感と窮屈さを強調し、見通しの悪さで息が詰まりそうなくらいだった。
一息が吐きたくて横道に入れば人通りは激減し、その代わり余計に薄暗い空気が漂っていた。
壁に寄り掛かり、細長い青空を見上げる。
そのまま何度か呼吸を繰り返していると、雑踏の音とは異質な乾いた音が一つ。
「――?」
距離はそう遠くない、そう判断して素早く周囲を見回すけれど、それからは都市の雑踏に紛れて何も聞こえて来ない。
「何の音だ?」
「さあ? 知らね」
薄暗い裏道に居る何人かも暫く足を止めていたが、やがて何も無いと判断したのか歩き出していた。
だがその中でも、俺はまだ警戒を解く事が出来なかった。
何故ならその音と似た様なものを、何度か聞いた事があったから。
実際にではない。それっぽい音をテレビのニュースなどで聞いた事があった。
「……銃声?」
再度聞こえて来た乾いた音に、確信を強めながらそう呟くのだった。
◆◇◆




