逆恨み小僧 ③
◆◇◆
「ねえ、クィントゥス君に何かあった?」
「い、いや別に。レメディアこそ急にどうした?」
「どうしたも何も、物凄く落ち込んでるから……」
「あぁ……そっかぁ」
思い出すのは、昨夜の出来事。
幾ら年上の娼婦とは言え己の股間を弄ばれ、客観的に見てかなりな痴態を晒したのだ。
クィントゥスくらいの年頃の男子には、色々と精神的に来るものがあったのである。
例え同性相手でも厳しいだろうに、同世代の女子に言える訳もなく。
「取り敢えず、そっとしてあげてな。その内落ち着くと思うから」
「……よくわかんないけど、分かった」
首を傾げ、困った様に笑うレメディアだが、彼女は物分かりが非常に良い。地球であれば真面目な成績優秀者となっていた事だろう。
それよりも、クィントゥスの方が気掛かりではある。
幾ら一夜明けたとは言え、あの有様は精神的に甚大な損害を齎した事は想像に難くない。
事実、今日は朝も昼も飯を摂らずに毛布を被ったまま動かないのだ。受け答えもしてはくれるものの、非常に素っ気ない。
下手に毛布を引き剥がそうものなら無言で殴られる。非常に痛かった。
そんな状態であるからレメディアらはおろかロサですら手を焼いて、結果として放っておくという結論に達したのである。
こちらを意図的に避けているグナエウス達も困った様に苦笑していて、その笑みが自分に向けられたものでもないのに少しだけ気が楽になった。
だからだろうか、昨日までと比べて自然と己の表情が崩れてくれる。
比例して口もかつての様に動くようになって、会話も弾む。
「……やっぱり何かあった?」
「何が?」
「クィントゥス君だけじゃない。ラウ君も、急に笑うようになったから。昨日は夕食の時だって塞ぎ込んでたし……昨夜、何してたの?」
「い、いっ、いや、ナニもしてないっ! ナニもっ!」
物分かりの良い彼女は、同時に察しも良い。そこまで察せるなら心内も読み取って欲しいと思わなくもないけれど、この分では無理そうだった。
かなり純粋な彼女は、余りこの手の事にまで考えが及ばないのだ。
だからグイグイと問い詰めて来る。
「幾らなんでも露骨すぎるよラウ君。今までの旅で結構変わったと思ったけど……嘘が下手なのは相変わらず、かな?」
「んっ、なぁ、落ち着けって。それ以上訊いたところで誰も幸せにならないんだぞ? ほら、クィントゥスを見れば分かる通り、只事じゃ無いんだよ」
そう言ってこれ以上の追及を煙に巻こうとしても、しかし寧ろ逆効果だった。
「だったら尚更じゃない? グナエウス達がクィントゥス君みたいにならない為に、話してくれないと」
「アイツらがあんな場所に行く訳無いだろ……」
「あんな場所? もしかして昨日の夜、何処かに出かけたの?」
「違う! それは違くて! 言葉を間違えたんだっ!」
口を開けば開く程に状況は不利になっていく。
慌てて言い間違いだと訂正しても、レメディアの緑眼は明らかにその弁明を信じていない。
状況は最悪だった。
思わず後退ってしまって、その分だけ彼女が距離を詰めて来る。
心理的にも、物理的にも、どんどんと押し込まれて逃げ道が潰されていく。
「さあ、吐きなさい」
「何のことでしょうかねぇ……?」
下がり続けていた脚が、動きを止める。背中に軽い衝撃を覚えて、それ以上下がれなくなったのだ。
壁際に追い詰められたと察してももう時遅し、目と鼻の先にはレメディアの顔が迫っていた。
「……」
余りの近さに、ふと脳裏を昨夜遭遇した娼婦の一人を思い出す。
そう、レメディアと同じくらいの少女の顔だ。
同時に、昨夜見た様々な煽情的光景がフラッシュバックして、体温が急速に上昇するような感覚に見舞われる。
というか、結構不味い。
大至急前屈みになるか、当該部位に手を当てて誤魔化さなくては、クィントゥスの事を笑えなくなってしまう。
「やべぇっ……」
触られたりするよりはマシかもしれないが、幼馴染の少女に見られると言うのも、結構な破壊力を持っているのは間違いないだろう。
多分、数日は立ち直れなくなる程度の致命傷を負う筈だ。
もしも前世で幼馴染――高田麗奈に見られたなら、残る高校生活は不登校になったかもしれない。
いや流石にそれは言い過ぎだが、一週間以上は顔も見られないのは想像に難くなかった。
何はともあれ、それだけの精神的ダメージを被る事態は、どうやっても回避しなくてはならない。
「さあ、吐きなさい」
「嫌ですっ!」
「あっ、コラ!」
一瞬の隙を衝いて屈むと、上体を曲げた低い姿勢で逃走を図る。
だが、レメディアの方が一枚上手だった。
「逃がさないよっ!」
「何ぃぃぃぃぃいっ!?」
しゅる、という音がすると同時に、無数の蔓が手足に巻き付き、行動を阻害する。
一本、二本の内はすぐに引き千切れたのに、十本単位で巻き付かれてはどうする事も出来なかった。
以前似た様な事があったなと回想しながら、しかし今は室内である以上、魔法を使っての離脱は現実的でなかった。
大人しく捕まっておく以外には、撃てる手が無かったのだ。
取り敢えず、巻き付いた数多の蔓が腰から下を巧く隠してくれている事に安堵しよう。
「さて、じっくり話を聞かせて貰うわ」
「は、話す事なんてねえよ! クィントゥスが話したがらない以上、俺から言える事なんて無いんだ!」
「しぶといなぁ……」
「そりゃこっちの台詞だっての!」
面倒臭いとでも言うかのように眉根を寄せる彼女に、そっくりそのまま返す。
しかし、その間にも体に巻き付く蔓は数を増し、家の中とは言え一階部分は剥き出しの地面であるのに、緑地が形成されていた。
「おい、家の中で魔法使ったら怒られるんじゃねえのか?」
「そんな事は今どうでもいいの」
「良いのかそれで」
よく見れば、急激に植物を成長させたせいで床――地面が掘り返されてしまっている。
まず間違いなく、ロサに見られたら雷が落ちるだろう。
ほんの少しレメディアの事が心配になったけれど、自業自得だ。本人が良いというなら、それ以上は制止してやる理由もない。
しかし、見れば咎めるであろうロサも、今は買い物に行っていて居ない。
このままではレメディアの尋問に耐えられなくなって、いずれは白状してしまうだろう。
「もう逃げられないわよ、覚悟なさい」
「覚悟って……」
「さぁ吐けっ!」
「しっ、締まる……苦じい……」
四肢と胴体に巻き付いた蔓が、その圧力を増していく。しかし、その強さは精々が息苦しい程度。
正直、耐えようと思えば耐えられなくもないものだった。
やはり、なんだかんだ言ってレメディアは優しいのだ。変わらない彼女の手加減に、グラヌム村での生活の日々を思い出す、が。
「ひょっとしてこのくらいなら耐えられるとでも?」
「あ? いや別にそんな事は……」
「大丈夫、そこは重要じゃないから。ただ、脱出できない程度に締めただけだからね」
「へえー……え?」
それはつまりどういう事だろう。
そこはかとなく嫌な予感がして、答えを求めるように彼女を見据えれば、その緑眼が妖しく光った。
「実はさ、ラウ君の食べた昼食にはちょっぴりオマケが入ってたんだよね」
「オマケ? ……って、それ?」
悪巧みをしているかのような邪悪な顔を見せるレメディアは、その手に見覚えのある何かの葉を持っていた。
青々と茂っているそれは、恐らくまだ刈り取ってからそう時間も経っていない事だろう。
どこで見かけたものだったかと記憶を探れば、思い当たる出来事が一つ。
旅商人から食べられる食材について訊いた際に聞き出した、“毒草”であるという情報であった。
「――げぇっ!?」
やられた。まさか彼女が料理に毒を混入させて来るなどと、どうして想像出来ようか。
ここまでえげつない、強かな人間になっているとは思いもよらず、何も疑わずに昼食を摂ってしまった己の迂闊さを呪った。
こうして拘束された状態では鳩尾を突いて吐く事も出来なければ、解毒剤も飲めない。
ただし、絶体絶命なのは命ではない。己の尊厳だ。
「謀ったな、レメディアぁっ!?」
「ラウ君が中々喋らないから悪いんだよ?」
「そうまでして聞き出すようなもんじゃないぞ!?」
策謀家のように微笑する彼女へ叫んだ直後、腹が大きな音を立てる。
しかしそれは腹の虫ではない。
何を隠そう、降り龍だ。物凄い勢いで腹の中を暴れ回り、徐々に降って迫る。
瞬く間に“その時”が訪れて危機に陥ったのだ。
「腹が……腹がッ、げちゅびぃっ!!」
――持つか? いや持て、持ってくれ! 頼むから耐えてくれ!
尚も凄まじい急降下音を立てている己の腹に全力で喝を入れ、とにかく堪える。
「さあ、早く吐いた方が良いと思うけど?」
「レメディアてめえ、この悪鬼羅刹がっ! っつかここは飯食う場所だぞ!? 冗談抜きで何考えてんだよっ!?」
一歩間違えれば色々と大惨事だ。尊厳が云々どころではない。というか相乗効果で更なる精神的ダメージを及ぼしかねない。
もしここで粗相をする事があったならば、場合によっては自決も覚悟しようか。
「大人しく白状したら解毒剤をあげるのは吝かでもないよ? 私だって、最悪の事態は回避したいもの」
「最悪の事態に陥り兼ねない状況にしたのはお前だよな!?」
どの口が言ってやがるのか。おのれレメディア、もう絶対に許さん。覚えていろ。
決壊へのタイムリミットが段々と近付く中で、走馬灯のように怨嗟の言葉が湧いては流れていく。
「さあ吐きなさいっ! さあ早く早く!」
「待って! その前に蔓の締め付けを緩めてくれねえ!? このままだと下からも白状しちゃうから!」
「……汚いなぁ」
「いや誰のせいだと思ってんだよ!?」
やれやれと肩を竦め、顔を顰めるレメディアは、それでも一応緩めてはくれた。
脱出しようと思えば出来なくもないが、余り無理をすると危険。下手に体を捩ろうものなら内臓が圧迫されてジ・エンドになりかねない。
どの道、動くに動けなかった。
「さ、話して?」
「そうだなぁ、今日っていい天気だと思わない?」
「……あ、そう」
「いや悪かった分かった話すからぁぁぁぁぁっ!?」
再び締め付けを増す蔓たちに、堪らず悲鳴を上げていた。もはや彼女に容赦と言う言葉は無いらしい。
ほんの三カ月離れただけで、人とはここまで変わってしまうものなのだろうか。余りの変貌ぶりにブツがちょちょ切れてしまいそうだ。
「……もはやこれまで、南無三」
「なに訳のわからない事を」
瞑目し、心の中でクィントゥスへ何度も謝罪しつつ、覚悟を決めて目を開く。
見据える先は、レメディアの緑眼――では無く、そのもう少し後ろ。
「やっと話す気になった?」
「……ああ」
勝ちを確信したのか不敵に笑う彼女に、しかしこちらもまた負けじと笑い返していた。
するとそれに違和感を覚えたらしく、疑問を呈するように怪訝そうな顔を向けて来る。
「……どうしたの、急に笑い出して。もしかしておかしくなった?」
「失礼な。俺は至って健康だし健常だぞ。……腹は除いて」
そう言いながら無理に大きく笑って見せるけれど、その笑顔が引き攣っているのが自分でもよく分る。
おまけに、特に凄い音が腹から周囲に響き渡り、それに相応しい程の猛烈な便意も押し寄せて来た。
それを見透かしたのか、レメディアはすぐに余裕を取り戻すと何度目とも知れない脅しをかけるのだった――が。
「ふぅん、まぁいいや。それよりもほら、早くしないと大変な事になるよ?」
「大変な事? それはまたどういう訳かねぇ、レメディア?」
「……え?」
出し抜けに彼女の右肩へ置かれる、大人の女性の右手。
全く気付いていなかったレメディアは驚きの余り絶句して直立不動だ。
「ウチの一階の床、酷いモンだねえ。どうして、誰がこんな事をしてくれたのか、レメディアは知らないかい?」
「ろ、ろろろろロサさん!? いつ戻ってこられたんですかっ!?」
「ついさっきだよ。何か騒がしいと思ってみれば、蔓が生えて地面はボコボコ。おまけに何だい、ラウレウスの様子を見るに下剤でも飲ませたって?」
顔面蒼白となったレメディアを睨みつけるのは、ここの家主であり最大のボスと言っても過言ではないロサ・ミヌキウス。
彼女のその一睨みで下手人は竦み上がり、震えだす。
「取り敢えず、ラウレウスは解放してやんな。漏らされちゃ堪ったもんじゃない」
「は、はいっ!」
手に握っていた毒草の葉は瞬時に没収されて、直後に指示が飛ばされるとレメディアはそれに従う。
次の瞬間には四肢と胴体の拘束は解け、自由の身となる。
そうなれば、残りは用を足す場所へと大至急駆けるのみだ。
「取り敢えずレメディア、お前もこれを食べなさい」
「わ、私もですか!? そんな!」
「ラウレウスに食べさせといて自分だけ平気だと思ったのかい? 室内で勝手に魔法を使って地面をボコボコにした事も含めて、こってり絞らして貰うよ!」
「そんなぁっ!?」
腹を押さえながら一階の隅っこ、連結された離れに急行する中、背後からはレメディアの悲痛な叫び声が聞こえていたのだった。
◆◇◆
「……見つかった?」
「はい、それにとても有益な情報も伴っています」
「聞こう、但し取るに足らなけりゃ貴様を殺す」
荒々しい容貌をした男が、今は想像もできない程に小さく縮こまって跪いている。
それとは対照的なのが、椅子に腰かけて机に脚を投げ出している青年だ。
殺すと言ったその表情は事もなさげであり、やろうと思えばすぐにでも実行に移しそうに見える。
事実、この青年――カエソニウスはそれをやるだけの人物であり、故に報告者の男は戦々恐々としているのだ。
しかし、ここで黙っていては増々殺されてしまう恐れも高くなってしまう。
なるべく噛まないように、澱みなく報告出来るよう努めながら、彼は報告を続けた。
「指名手配のガキは……信じられませんが、かの白儿だそうです。匿われている場所は上級狩猟者であるガイウス・ミヌキウスの家」
「白儿か。なるほど、貴様の話は嘘じゃねえって事かよ、エクバソス?」
「ああ、だから言っただろ? ようやく信じてくれたか」
「まだ半信半疑だ。だがそれはこの際置いとこう。それよりもミヌキウスの家に匿われてるってのはマジなのかよ?」
「はっ、既に密告者のそれを確かめるべく人を遣り、確認済みです」
頭を下げ続け、一切カエソニウスらと目を合わせずに報告を続ける彼は、しかしその一方で驚愕していた。
何故、追っている少年の正体が白儿であると既に知っているのか、と。
だがそれを訊く気など毛頭ない。下手に藪を突いて蛇を出したいと思う訳がないから当然だ。
ただ、生き残るために報告者に徹するのみ。
「しっかしミヌキウス……そうなると厄介だな」
「そんなに強いんか?」
「ああ、まぁな。流石に上級狩猟者なだけあって、このタルクイニ市じゃ指折りの実力者だ。おまけに、他にアウレリウスとユニウスって仲間もいる。その二人も上級狩猟者。勝てねえとは言わんが、相応の被害は覚悟しねえといけねえ」
碌に狩猟依頼の舞い込まないこの都市に居る意味が分からん、とカエソニウスは憎々し気に吐き捨てた。
「……はーん、中々な強者らしいな。そうなると力技は賢いとも言えねえ、か」
「はい。それなのでカエソニウス様の指示も仰ぎたく」
大した面識もないのにカエソニウスの横に立っている狼人の男に、気に食わない思いを抱きながらも報告者は安堵していた。
余り喋り過ぎてカエソニウスの癇気を被っては堪らないので、こうして話を進めてくれる存在が有難かったのだ。
「あんまり損害は負いたくねえし……そうだな、追ってこちらから指示を出す。それまでは静観を厳命してろ、分かったな?」
「はっ、畏まりました!」
顎に手を当てて思案するカエソニウスの言葉に、より一層低頭すると、報告者は素早く退出していく。
五秒とせず開けられたドアが閉じられ、後に残されるのはカエソニウスとエクバソスの二人だけ。
「慎重に行かねえとなぁ……何せ白儿だ。生け捕りにして売り払えば、莫大な富が舞い込んで来るってもんよ」
「ああ、そうだな」
「勿論、捕らえた暁にゃあお前にも分け前はやるよ。ただ、奴は俺らの面子を潰した連中でもある。身柄はやれねえけどな」
「分かってるさ。お前とはそう言う取り決めだからな」
言葉を交わす二人は、しかし一切視線を合わせていない。互いを意図的に見ていないのだ。
何を思ってか彼らは、それぞれ見えない位置にあって不敵な笑みを浮かべていた――。
◆◇◆
一階の居間では、緑髪の少女が机に無言で突っ伏していた。
話しかけても碌に反応が無く、ただの屍の様だった。
いや、辛うじて背中が上下しているので瀕死くらいだろうが、それにしても一切の生気が感じられない。
「レメディア、何があった……?」
「お前が部屋に籠ってる間、色々あったんだよ」
心配そうに彼女を見遣るクィントゥスに、心底疲れ切った声で搔い摘んだ説明をする。
この前、夜の街へ繰り出した事と、クィントゥスの身に起こった事を拷問によって白状させられかけた、と。
「で、家の床をボコボコにしたのと俺の料理に下剤を仕込んだ罰として、レメディアもその下剤を飲まされたんだ」
「流石ロサさん……女だろうと容赦ねえ。だからこいつは腹下して体力使ったって訳か」
「ついでに言うと、ロサさんはレメディアに暫くトイレに行かせないって罰則も掛けてたぜ」
大惨事にならない程度に設定されたトイレ禁止時間のせいで、彼女の体力と精神力はさぞ大きく削られた事だろう。
相互に粗相しなかったから良いものの、人前でやらかしかねないという恐怖は凄まじい緊張状態を齎す。
特に今くらいの年頃であれば、それが尚更であるのも想像に難くなかった。少女であれば、少年以上にそれへの忌避感は強いのだろうから。
「自業自得って言っても差し支えねえけどなぁ……少しだけアイツが可哀想だ」
「俺としちゃ、当然の報いなんだけどな」
危うく居間で決壊しかけたのだ。あの時の恐怖と怒り、晴らさずにいられようか。
その結果としてレメディアは、こってり絞られて三日経っても尚、精神的に立ち直れていなかった。
ざまあない。
「けどラウ、お前が良く笑うようになったってのは本当らしくて安心したぜ。俺は酷い目に遭ったが……あの散歩が少しでも良い影響を与えられたなら一安心だ」
「それ、レメディアにも言われた。ガイウスさんなんかはもう一回行こうとか言ってるけど、行くか?」
「……いや、止めとく。オンナコワヒ」
「あ、そう」
途端に自分の肩を抱いて震えだしたクィントゥスに、そのトラウマの深さを垣間見ていると、視界の隅に映るのは四人の子供の姿だった。
階段のある廊下からこちらを見ていて、しかし気まずいのか窺うだけで何かをして来る事もない。
話しかけるべきかそちらを見たまま迷っていると、状況を察したらしいクィントゥスが椅子に腰掛けながら言う。
「行ってやれよ」
「え?」
「行ってやれって。アイツら、どう見たって話しかけたがってるだろ?」
「……いや、けど」
思い出すのは、彼らから向けられた冷たい視線。
とても友好的とは思えないし、お世辞にもそう言えないほど冷めきった再会だった。
だからこそ彼らの方へ行くのに尻込みしてしまうのは、至極当然だと言えた。
しかし、躊躇しているのを察してか、クィントゥスは殊更笑って言う。
「大丈夫だ、グナエウス達もラウとは仲直りしたいのさ。ここ三日、俺が部屋の布団に引き籠ってる間、困った顔して相談して来たんだぜ? お前へ話しかけるにはどうしたらいいかってな」
「……そうそう、私も話しかけないでって雰囲気出してたのに、あっちも真剣な顔して訊いて来るんだよね」
「レメディア?」
先程まで突っ伏していた彼女も、彼の言葉に同調しながら顔をあげて、苦笑する。
「確かに気まずいかも知れないけど、だからと言って私達が家族である事に変わりは無いし、あの村で一緒に笑い合ってた事は紛れもない事実だよ。この絆は、そう簡単に途切れて良いものじゃないって思うんだ」
「そっか……」
頬杖を突きながら力説するレメディアに、思わず同意するような合槌が飛び出していた。
同時に、少し強張っていた肩の力が抜けて、口端も解れていくのが分かる。
余裕が生まれて、自覚していなかった緊張が解れたのだろう。
「ほら、行って来いよ」
「分かった、ありがと二人共」
短くそれだけで謝意を示すと、グナエウスらの居る階段の方へと足を向ける。
それに気付いてか、彼らは一様に緊張した面持ちになったけれども、それを打ち破るように笑顔で話しかける。
「よう、グナエウス! それにルピリウスにラピア、ホルティア――」
意識して声を出したせいで、ややわざとらしい口調になってしまったけれど、ここまで来てしまえば後には引けない。
この家族とも、絆を再構築するために。
◆◇◆
ささやかだけれども聞こえて来る笑い声に、階下の居間で卓を囲う六人は破顔する。
「この調子で仲直りと行けば良いんだがな」
「大丈夫ですよ、ラウ君は勿論、皆は本当に賢い子達ばっかりですから」
「この前、険悪な空気になったのも嘘みたいに、村でやってた生活に戻ると思いますよ」
腕を組んで天井を見上げるガイウスに、レメディアとクィントゥスが笑いながら答える。
他の三名もまた、それぞれ口端を緩めたりして相好を崩していた。
「そうとなればラウをどうするか、だねぇ。流石にずっと家に押し込んどく訳にもいかないよ。精神的にも参っちゃうし、余人に見つかる危険も常にある」
「変装にも限界はありますからね。それに、市外へ連れて行こうにも門で身柄を確保される恐れがある」
「まあまあ、難しい話は追々ってね。ああだこうだ議論するのは構わねえけど、まずはラウ達が蟠りを無くせるかどうかだし」
顎に手を当てて考え込むロサとマルクス。そんな彼らの真剣な話を打ち消すかのように、プブリウスが明るい調子で言っていた。
緊張感の欠片もない彼の言葉のせいで、真剣さが少し滲み始めていた空気が弛緩し、全員がまた微かな笑い声が聞こえる天井へと視線を向ける。
「……平和だな」
穏やかな沈黙が続く中、ガイウスは誰へともなくそんな事を呟いていた。
◆◇◆
秘密の場所がある。誰にも知られたくないので、夜になったら一緒にそこへ行こう。
午後、グナエウス達と話して居たら、そんな提案がなされた。
色々な意味で危険だと思ってその提案には反対したけれど、何度も行ったことがあるから大丈夫、と彼らは強弁して聞かない。
本来ならばレメディアやクィントゥスらに相談すべき案件なのだろうが、ユルスの件で負い目を感じている身としてはそこまで強く出る事が出来なかった。
その結果として、押し切られる形で夕食後の夜半に外出する事が決まってしまう。
流されてしまった己の優柔不断さに不甲斐ない気持ちを抱えながらも、しかし一方で心が浮ついても居た。
久しぶりに彼らとここまで話せるのが嬉しくて、そして彼らと秘密を共有出来ることが途轍もない安心感を与えてくれて。
五歳は年齢の離れている子達相手に情けないとも思えて来るけれど、元々が血の繋がった家族のように深い仲であったのだ。
こうしてかつてを思い出させてくれる今の状況は、どうしようもなく心地が良かった。
「……皆、周りには気付かれてない?」
「少なくとも俺は平気だぞ」
グナエウスの声を抑えた問い掛けに、小さく答えながら頷く。
もっとも、月明かり以外に碌な照明もないので、頷いたかどうかなど中々判然としないのだが。
ついでに言うと、三日前のように髪は紅く染め直して顔を隠す外套を纏ってあるので、尚更身元が気付かれる心配はないだろう。
「それじゃ行こう。ラウ兄ちゃん、付いて来て」
「おう。けど、本当に大丈夫なんだろうな? こんな時間に外出したら、犯罪が……」
「大丈夫、最近は犯罪者の取り締まりが厳しくなって安全になって来てるんだよ」
「へえ、良く知ってんな」
すっかり以前のような調子で接してくれるグナエウスに応じながら、その後を追う。
歓楽街でもないこの場所は、もう既に住民が寝静まって何処にも灯りがともっていない。
三日前にも出歩いた時と変わらない、静かな世界だった。
「そろそろ冷えるようになってきたな。風邪とか気を付けろよ?」
「分かってるよ。けど、まだ夜は涼しいなって思うくらいだし、大丈夫だと思う」
「ま、そうだな」
村での暮らしと違って都市には多くの食物あり、魔法や生物を用いた汚物の処理も為されている。
ここに辿り着くまでの道中でもあったのだが、特にトイレは驚愕ものだった。
何故かと言えばボットン便所のような穴の下には粘体が無数に蠢いていた。
聞くところによれば汚物処理をしてくれるので便利らしいのだが、そうやって“餌”を与え続けたそれをどうやって処分するのだろう。
自分の記憶が正しければ、粘体はアメーバのように増殖していくし、餌があればそれこそ限がない筈である。
しかし、ガイウスに訊いても問題はないとの事で、彼が言うならとそれ以上の思考は放棄した。
何にせよ、都市と言うものがかなり清潔であると言う事に変わりは無くて、少なくとも大通りであれば不衛生過ぎるものを見かけると言う事は無いのだ。
「唯一の問題とすれば、人が多過ぎて狭いくらい?」
「何言ってんの?」
「いや、考え事。独り言だから気にしないで」
怪訝そうな声で訊ねて来るグナエウスに誤魔化し笑いをしながら、慌てて思考を切り替える。
だがそこでふと、先程までぼうっと歩いていた周囲を見渡せば、気付いた事が一つ。
「……グナエウス、お前どこ向かってんだ?」
「だから秘密の場所だって。どこに向かってるかなんて教えられないよ」
「いや、その言い分は分からなくもないけど……どうして態々(わざわざ)街の中心部に向かってんの?」
秘密の場所だと言うのならば、普通人通りの少ない場所にありそうな物なのに、どういう訳かグナエウス達は領主などが住まう居館がある方向へと進んでいる。
何を考えているのだろうかと、彼の目的を考えて見えても、答えは出なかった。
「ほら、ゆっくりしてると置いてくよ?」
「いや待てって!」
そもそも都市は、夜間の外出に制限を掛けているものだ。場所にもよるけれど、普通の大通りなどで見つかれば流石に注意もされると言うもの。
領主の居館に近付くと言う事は、もしかすると気付かれて注意される可能性も高くなる訳である。
なので引き返させようとも思ったのだが、幾ら子供とは言え四人も居ては連れ戻すのも一苦労。
「行くよ、ラウ兄ちゃん」
「分かってるよ。でも気を付けろ、夜盗とか居るかも分からねえんだぞ」
仕方なく流されるがままに、グナエウスの先導に従っていたのだった。
それから恐らく十分と経っていないだろうか。
夜が更けるにはまだまだこれからと言った時間だが、不意にグナエウスが足を止めた。
「着いたよ」
「……ここ? いやいや、何処が秘密の場所だよ? ただの大通りじゃねえか」
頭上から照らしてくる月明かりを頼りに周囲を見回しても、特に何の変哲もない大通りでしかない。三階以上の建築物が居並び、夜であるが故に人っ子一人居ない、ただの道。
どういう事かとグナエウスに視線を向けてみれば、既に彼はこちらを睨みつけていた。
「そんな顔してお前、何考えてんだ? 仲直りしたいってのは嘘だったのかよ?」
「……うん、嘘」
「……!」
暫しの間を置いて呆気なく首肯されたそれに、絶句する。
驚きの余りと言うのもあるけれど、グナエウスの意図が読めなかったのだ。
だとすれば一体どうして、こんな場所にまで連れて来たのか、全く分からない。
「何のつもりで……」
「ユルスは、お前のせいで死んだんだぞっ!」
真夜中に相応しくない、子供の大声が夜空に響き渡る。
「グナエ……ウス?」
叫ばれた言葉の意味を口に居れ、咀嚼し、呑み込むのに一体どれだけ掛かっただろう。
やっと理解した時には、正面に立つグナエウスの眦が涙に濡れていた。
「お前がっ、お前が悪魔だったせいでっ! 白儿だったせいでっ、どうしてユルスが死ななくちゃいけないんだよっ!? ふざけんな!」
「それは……!」
「お前の話なんか聞きたくないっ! ユルスは……お前さえいなかったら死ななかったんだぞ!?」
グナエウスの握り拳に力が籠っているのか、両腕が震えている。果たしてその怒りがどれほどのものか、どうやって推し量れよう。いいや、量る手段など無い。
胸を突き刺す糾弾の数々に顔をあげているのすら辛くなって、気付けば無言で俯いていた。
だが、一つどうしても確かめたい事があって、無理矢理口を動かす。
「……じゃあ、クィントゥスとレメディアが言ってた話は……」
「全部俺達の演技だ! クィントゥス兄ちゃんも、レメディア姉ちゃんも優しいから止めろってうるさいけど、そんなものはもう関係ない! お前のせいで、家族が一人死んだんだからさ! 大っ嫌いなんだよ!」
「そっ……か。大嫌い、ね。無理もないわな」
全ては欺瞞だった。嘘だった。ありもしない事だった。
また家族に戻れるなどとは、ありもしない幻像だったのだ。願っていたものは、あと少しで届くかもしれないと思っていたものは、ただの蜃気楼でしかなかった。
絶対に戻らない、手に入らないと認識した途端、己の足場が崩れていくような錯覚に陥っていた。
背中には悪寒が走り、思考はグナエウスの言葉を信じるまいと堂々巡りを繰り返して覚束ない。
「……俺、家族も死なせてたんだなぁ」
ふと脳裏を過るのは、己の手で殺めたルキウスとアロイシウス。そして自分のせいで死んだ、サルティヌス。
そこへ更に改めて突き付けられる、ユルスの死。
人を殺したこと自体を後悔する事はもうないけれど、死なせてしまった人には今でも後悔している。
どうすれば良かったのか、救えなかったのか、あの時そもそも自分が居なければ――と。
「ユルスを死なせたお前を、俺は絶対に認めない!」
その宣告は、自責していたものを変質させ、殊更重い糾弾として心に深く突き刺さった。
だからもう、口を開くきすらも起きなくて、只々呆然と立っていた。
「家族を死なせたんだ、死んで償えよ!」
「……死?」
更に思っても見なかった、強い言葉。
思わず顔をあげてグナエウスを見れば、その顔には鬱憤を晴らしたかのような色が見えていた。
「俺を殺すって?」
「そうだよ! けどそれは俺じゃない。流石にお前を殺せる程、強くないからね」
グナエウスがそう言い切った直後、頭上で風に何かがはためく音がした。
すぐに顔をあげてみれば、月光に照らされた一つの黒い影。
それは大した音もなく大通りの石畳へと着地すると、こちらを見据えて言う。
「久し振りだな、ラウレウス?」
「エクバソス!? ……お前!」
薄暗い月夜でも良く分かる程に、その狼人族の男は嗜虐的な笑みを浮かべて立っていた――。




