ACCIDENT ③
◆◇◆
「たっ、大変だっ! マニウスの食堂で、余所モンらしい連中がアウルス達をぶちのめしやがった!」
「逆じゃなくてか!? あの大男が敗けたぁ!?」
息せき切って喋り出す男に、周りの市民らは目を剥いた。
それくらい、信じられない事だったのだ。
この都市にて兵として雇用されている数少ない常備兵のアウルスは、その権益にぶら下がって好き勝手する賊のような男。
流石に闇雲な殺人などは起こさないが、略奪や暴行は平然と行う、凶悪な男であった。
本来であれば街の治安を著しく害しているとして解雇・処罰されても文句は言えないのだが、彼の腕っぷしがそれを許さない。
抵抗などしようものなら半殺しは確定と言っても良いほど激しい性格をしている。
おまけに、裏では雇い主である領主とも繋がっているとの噂まであるのだ。戦う術を碌に知らない市民からすれば、抵抗などするべくもなかった。
なのに、そんな彼が余所者に打ちのめされたという。
真偽はともあれ、その話に市民達は溜飲を下げ、しかし一方で“余所者”にも意識を向けた。
「幾ら余所者とは言え、それと仮に正当防衛でも、この市内で兵士を暴行すれば……」
罰則は免れないかもしれない。
都市と言う閉じた世界においては、その中でのみの規則がある。領主が居ればその市域では国王の如き権力を持ち、恣意的に市民をどうこうする事も出来るのだ。
だからこそ人々は面倒な連中に目を付けられた旅人に同情をした。
しかし、それだけである。
面倒事に関わらないが吉と言わんばかりに無関心でいる事を決め込み、内心を語る事はしない。
「因みに、その旅人ってのは何人いた?」
「三人だ。一人は大人の男、後二人は男女の子供。ちらって見えたけど、女の方はエライ別嬪だったぜ」
「……あぁ、その娘が目を付けられたんだな」
それから、一部始終の流れを訊かれるがままに答えた彼は、目撃した出来事の中でも特に盛り上がる点を語っていた。
「で、あのアウルスが呆気なく顔面を叩きつけられて、伸びたんだ。圧倒的だったぜ、あの男」
「あー、失礼。その三人組について、もう少し詳しい話を聞かせてくれね?」
兎に角凄かったと語る男に、一人の少年の声が掛かる。
普段聞き覚えの無い、その声音に余所者であると見当をつけた彼は、その声の主へと目を向けた。
「何だい、何か用?」
「いやぁ、実は探してる人が居てね。ケイジ・ナガサキって人なんだけど……そいつの連れの恰好が、アンタの話と一緒だったんだわ」
礼は弾むぜと言いながら、その少年は外套のフードを外して微笑する。
そうして露わになるのは鳶色の眼と髪を持った、尖った耳を持つ、端整な顔立ち。
思いがけずそれを目にした彼は豆鉄砲を食らったような呆けた顔を晒し、数秒置いて再起動した。
「お前、ひょっとして靈儿……? 何でこんな所に」
その容姿は、まさに噂で耳にする靈儿そのもの。だが、南方の寒冷地域――スカーディナウィアに住む彼らは、余り原住地から出たがらない。
故に多くの人は彼らを目にする事も珍しいのだが、だからこそ男は驚いたのだ。
しかしそんな驚愕を、靈儿の少年は軽く流す。
「まーま、そんな事は今どうでも良いじゃねえか。それより早く、その三人組について教えてくれよ?」
ゴソゴソと少年は外套の下で何かを探り、そして一枚の硬貨を取り出した。
その色は銀――小銀貨と呼ばれるそれは、価値にして千Tにもなる。
情報を喋るだけその金が手に入ると暗示されて、男はすぐにその話に飛びついていた――。
◆◇◆
走る、走る、走る。
驚いた顔をしながら避けていく人の隙間を縫うようにして、街の中を駆け抜けていく。
「待たんか貴様らぁーーッ!」
背後からは野太い怒声が投じられても、それは一切無視。
というか止まる訳がないのだ。捕まれば最悪極刑が待っているのに、大人しく縛につく理由がない。
それよりも、である。
「アグリッパぁ! てめぇの、せいで散々だよっ!」
「何をぅ! 俺が手を出さなけりゃ、お前が手を出しただろうにッ!」
「出したろうけどっ、玉や顔潰したりはしねぇよっ! やり過ぎだ馬鹿野郎、最低限の自衛で充分だろが!」
アグリッパがアウルスらを打ちのめした当日と、翌日は平和だった。ただ、周囲の人の態度が更に余所余所しくなったと思った程度だったのだ。
しかし、更にその次の日からは状況が一変した。
領主から命令が出され、警備兵に激しい暴行を加えたとして罪人認定されてしまった。
激しい暴行とは言うまでもなくアグリッパのあれである。噂では再起不能が数人出たとか。
その結果、各々武器や荷物を抱え、めでたくこのタルクイニ市では今や追われる身となった訳である。
「つーか俺達の馬は!?」
「んなモンとっくに押収されてんだろ! 宿から物が回収出来ただけで、よかったと思え!」
その結果、取り押さえに乗り込んで来た憲兵隊と鉢合わせ、今に至る。
「そもそもお前が加減すればっ、こうはならなかったかもしれねえんだぞ!?」
「ふんっ、立場をカサに着て狼藉働く奴なんざ、ぶちのめされて当然だッ! この街の法律が間違ってんだよ!」
「開き直ってんじゃねええええええ!」
冷めた目で一切会話に加わらないシグを無視し、腹の底から絶叫。
ストレスで禿げそうだ。
だが、そんな時に逃げ道の先から別の兵士が複数、姿を現す。
正直な話ここの兵士の練度なら蹴散らす事は容易だが、一々相手にしていたら限がない。
「アグリッパ!」
「何だ!?」
「俺はこっちに行くぞ!」
「じゃあ俺もそっちに行く!」
「何でだよッ!?」
思わず飛び出すツッコミ。
それを受けた当の本人は冗談であったのか、面白そうに笑うと手を振る。
その姿には余裕が見て取れて、心配などするのも馬鹿馬鹿しく思えて来た。
「お嬢、こちらへ!」
「ええ」
彼とシグは、右の細い路地へと入っていく。
だが互いに姿が見えなくなる寸前で、アグリッパは口を開いた。
「じゃあな、ナガサキ! 運が悪けりゃまた会うだろうさ!」
「だな! あばよっ!」
果たして応じた声が聞こえたかは分からない。
けれど、彼らなら大丈夫だろうという気持ちが、何処からともなく湧いて来ていた。
「そこの小僧、止まれぇぇぇえっ!」
尚も追い縋って来る背後の兵に、白弾を地面に叩きつけて煙幕を作る。
更には身体強化術で脚力を押し上げると、思い切り跳躍。
しめしめと建物の屋根へ上り果せると、追手は完全にこちらを見失ったらしい。
皆一様にせわしなく周囲を見渡し、指揮官らしい男が喧しく指示を飛ばしていた。
「変な技術ばかり手慣れたなぁ……」
農奴として生を受けた二度目の人生。このまま一生土を耕して死んでいくものだと思っていたのに、蓋を開けて見たらおおよそ農奴とは全く関係ない事ばかり起きている。
魔法を使い、多くの人に追われ、裏切られ、訳わからない男と獣に襲撃され、滝を下り、訳アリの二人組とで会い……そしてまた追われる。
十三歳そこらの子供が体験するものとは到底思えない、濃厚すぎる人生。
これ以上の濃厚さは要らないと心の底から思える程だ。
出来る事ならもう誰にも知られず、人里離れた場所でただ一人、ひっそりと暮らしていたい。
現在の状況を総合的に鑑みるに、とても無理なのだが。
ああ、レメディアやクィントゥス達は元気だろうか。未だミヌキウスやアウレリウス、ユニウスの生死も分からないままであるし、気になる事はどんどんと山積していく。
「……」
傾斜の緩やかな屋根の上に寝っ転がり、現実逃避も兼ねて空を眺める。
まだ日は昇りきっておらず、照り付ける日差しが心地良い。
遠くには雷雲らしいものが確認できるが、すぐにここへ来て雨が降り出す気配はなさそうである。
このまま、暫くは日向ぼっこでもしていようか――。
大きな欠伸をしながら呑気にそんな事を考えていた、そんな時。
「アンタが、ケイジ・ナガサキ?」
「ッ!?」
聞き覚えの無い少年の声で、上体を跳ね起こす。
すぐに脚も起こして身構えつつ周囲を見渡せば、隣接する家屋の屋根に、人影が一つ。
身に纏う外套を風にはためかせながら佇むその姿は、こちらの名前を知っていた事もあって殊更警戒心を掻き立てる。
「そうだけど……アンタは?」
「俺はスヴェン。因みに、靈儿だ」
言いながら、彼は自身の頭部を隠していたフードを脱ぎ、鳶色の髪を晒す。
更には、彼が自身の種族を明かした通りその身体的特徴――尖った耳が確認できる。
噂に聞く、かの種族の端整な顔立ちにも一致して、スヴェンという少年の主張には今のところ嘘は見受けられない。
「で、俺に何の用? いきなり攻撃もしてこない辺り、話し合えない訳じゃ無いんだろ?」
「まーね。ただ確認がしたかった。お前が本当に長崎慶司なのかって」
「えっ――」
どうしてその名を――。いや、どうしてその語順でその名を告げられる?
この世界では、姓名の順序が逆なのに。
なのにかつての名を本来の語順に則って告げることの出来るこの少年は、一体? いいや、訊くまでもない。
彼もまた、かつて会ったサルティヌスのように――。
「居たぞ! 屋根だ! 今度こそ逃がすな!」
核心を明確に思考内でつく前に、野太い声が邪魔をする。
ハッとして声のした方へ目を向ければ、兵士の一人と目が合う。虚勢でも何でもなく、完全に居場所が割れてしまったのだ。
迂闊にも屋根の上で体を起こし続けてしまったが故に、目に付いたのだろう。
警戒すべき相手がこの場に居た以上仕方ないとも言えるが、迂闊だったと何度目とも分からない自省をする。
思わず舌打ちが零れる中、それを見ていたスヴェンは軽い調子で言う。
「……何か、余裕無さそうだな。じゃ、お前が落ち着いたらまた接触するわ」
「は!? いやおいちょっと待てよ……!」
慌ててそれを制止するも間に合わず、彼は屋根から飛び降りていた。
すぐにでもその後を追おうとするのだが、それを阻む様に石の礫が飛来する。
忌々しく思いながらそちらを睨み付ければ、下の追手の中には魔導士らしい姿が一つ。
石魔法かそれ系統の使い手だろうと見当を付けながら、再びの逃走を余儀なくされてしまうのだった。
「スヴェン……!」
自然と、彼の名乗った名前が零れる。
彼の中身は、一体誰なのか。
追い縋る兵士から逃げ回りながら、この思考は半ばまでもがその推理に割かれていた。
……だからなのかもしれない。
迂闊にも、右脇腹に石弾を一発、喰らってしまったのだ。
「ぅっ!?」
その余りの痛みに呼吸が詰まり、足も止まってしまう。
直撃を受けた部位は焼けた様な痛みが皮膚は疎か内臓にまで及び、損傷が深くにまで及んでいるらしい。
患部を押さえた右手の隙間からは生温かい血が流れだし、呼吸も荒くなる。
遂には傾斜のある屋根の上に立っている事も儘ならず、バランスを崩して落下。
それでも、どうにか強化した足から着地して追加の損傷自体は防いだものの、その衝撃が傷口に響く。
増加した痛みに獣のような声が漏れ、堪らず片膝までも付いてしまった。
当然それは隙だらけな訳で。
「逃がすな! 今こそ好機だッ!」
飛ばされる指示に、多くの兵士達が殺到してくるのが見える。何もしなければ、ここで呆気なく捕まってしまう事だろう。
しかし。
「この程度でッ!」
頭上に生成する、無数の白弾。
脳を走る痛みに集中を邪魔されながらも、都合十ものそれを展開させる。
突然出現したそれに驚愕の表情を見せた兵士達は、だがすぐに勢いを取り戻し殺到してくるのだった。
そうなれば、もはや迷う事など無かった。
躊躇なく全ての白弾を四方八方へ撃ち出し、直撃した兵士を片っ端から吹き飛ばす。
激痛のせいで余り威力調節が出来ず、ともすれば威力不足で戦闘不能に追い込めたか怪しいものの、そうなれば再度同じものを見舞えばいい。
幸いにも己は、魔力が潤沢にあるのだ。
更にもう一度、同じことをして魔導士を含めた追手を退けると、槍を突得代わりにして血の滴る体を引き摺り、人気のない裏路地へと入っていく。
何の気は無しに視線を上へ持ち上げてみれば、いつの間にか空は曇天。少し前に見た雷雲がここへとやって来ていたのだ。
「降り、そう……」
早く雨風の凌げる場所を探さなくては。
宿などはもはや論外。あちこちから追われる身となったのに、誰が軒先だけでも貸してくれようか。
貸す前に通報されるのが関の山だ。
体が重い。思考がぼんやりして視界もはっきりしない。さっきまであんなに熱かった筈の傷口はもう、痛みしか訴えて来ない。
気付けばいつからそうしていたのか、狭い路地の壁に寄り掛かって、蹲っていたのだった。
情けない。
自嘲が漏れた。普段の自分であったなら、脇腹に一撃を貰う事など無かった筈だ。なのに、スヴェンの話に気を取られて色々と疎かになってしまっていた。
注意していれば避ける事が出来た筈なのに。
「寒い……」
雨が、降り出す。
いつもなら暑い日々に訪れる、涼みの雨。
だけれど今はそれが、とても冷たい。体の震えも止まらない。
段々、体にも力が入らなくなっていく。体育座りで折り畳んだ脚に回していた腕が外れ、脚が投げ出される。
壁に上体を預けたままだらりとした体勢となっても、雨は容赦なく打ち付けた。
頬を、頭を、胴体を、四肢を、激しく濡らす。
ずるりと、壁に寄せていた背中が擦れた。
重力へ引かれるまま左へと倒れ込めば、左頬がひんやりと湿った地面に接触する。
一気に低くなった視界にはいくつかの水溜まりが目に付いて、その内の最も近くにあるものが、やや赤く染まっていた。
自分の血だと思ったが、その紅い筋は己の頭部から生まれているらしい。
染料が落ち始めている、と気付いても何をするでもなく、ぼうっと雨に打たれる地面を眺め続ける。
このままでは死ぬか、捕まる。そんな事は知っている。分かっている。
警鐘を鳴らす思考を敢えて無視して、どれくらいだろう。
恐らくそれ程時間は経っていない筈だが、睡魔は目を開けて居られる限界に達していた。
少し、だけ……。
そう思って降り頻る雨の中、瞼を閉じる。
音以外は何も無い、闇の世界が心地良い。
遠く、誰かの足音が聞こえる。通行人だろうか。いいや、もうそんなことはどうでもいい。
「ラウ君……? ねぇ、ラウ君!?」
聞き覚えのある声が耳元でして、激しく体が揺さぶられるが、全く目を開ける気にはなれなかった。
――煩いなぁ。
沈み込んでいく意識の中で最後に思ったのは、それだけだった。
◆◇◆
「……準備は良いですか、お嬢?」
「大丈夫。行ける」
怪しい雲行きの中、物陰から外の様子を窺うラドルスに、シグは力強く頷き返す。
彼らの視線の先にあるのは、市外へと続く固く閉じられた門。
ここを突破して離れた場所にある森などへ逃げ果せれば、万事安泰。それまでに追撃が予想されるが、相手の練度から鑑みるに問題は無いように見える。
「行きます、合わせて下さい!」
「任せて!」
駆け出すラドルスの後ろから、シグが続く。
当然それに門兵が気付いて誰何の声を上げるが、それに答える事はしない。
ただ黙って、シグが巨大な氷塊を造りだすだけである。
「死にたく無ければ退けええええッ!」
「ひっ!?」
以前、いつぞやの都市で逃げる際にも使用した手を、ここでも使ったのだ。
青い顔をした兵士達は慌てて進路上から退避し、無人となった門扉に氷塊は勢いよく直撃し、破壊する。
年季の入った金属と木でできた扉が砕け散り、門の向こうでは入市出来ず足止めされていた人々の、悲鳴が上がった。
もしかすれば運の悪い人は負傷したかもしれない。
「……っ」
「お嬢、周りを気にしている余裕はありませんよ」
「分かってる!」
少し顔を顰めた気配でも感じ取ったと言うのか、ラドルスは振り向きもせず彼女の感情を当てて見せる。
そんな彼女の不機嫌な返答を受けて、彼はそれ以上の反応を見せずに先頭切って門を抜けた。シグもまた間髪入れずそれに続き、市外へと脱出する。
後はそのまま駆け抜けて、逃げるだけ――。
驚愕の表情を一様に浮かべるのは、入市出来ずに行列を作る一団。
だが彼らの反応には一切目もくれず、遠くの森を見据えるラドルスだが……。
「いきなり門をぶっ壊しやがって、何だお前ら?」
「っ!?」
その声と共に、ぞくりとした感覚が彼の背を撫でた。
後続のシグに後ろ手で制止させ、自身も少し後退した直後。
「「――ッ!!」
寸分先を烈風が駆け抜けた。
それこそ、幾ら踏ん張ったとて吹き飛ばされてしまうだろうと思えてしまうほどの、である。
「何? 急にこんな風が……!?」
「魔導士ですっ。中々厄介な奴だと……」
直撃を免れたとはいえ、その凄まじい風はシグの天色の長髪を靡かせ、彼女の目を白黒させていた。
それを宥めかしながら、ラドルスはこの強風を巻き起こした張本人を睨み据える。
だが、睨み付けられた男はぶつけられる殺気をものともせずに応じる。
「何だ、そんな目で睨んで。寧ろ睨まれるべきはそっちじゃねえのか? いきなり門を壊したせいで怪我人が出かけたんだぞ」
「……悪いな、少し急いでんだ。見逃してくんね?」
「却下だ。怪我を負いかけた連中にしっかり謝罪しやがれ」
そう言う男の周りには、三つほどの旋風が生じていて、砂埃を少しだけ巻き起こしていた。
それを見て彼の属性を推測したラドルスは、乾いた唇を舐めながら、不敵に笑う。
「拒否したら?」
「……残念だ」
その瞬間、強風の吹く音がした。
周囲には遮るものなど何も無く、見切る術など在りはしない。
だが、その風がラドルスに届く前に、氷が遮っていた。
「無事、ラドルス?」
「ええ、助かりました、お嬢」
振り返って礼を言ってみれば、彼女はついでに突破したばかりの門へと氷の壁を張っていた。
これで市内からの追手が来る時間をより稼ぐことが出来る。
しかし、この眼前に居る男はその稼いだ時間だけでも撃退できるかどうか。
ともすれば負ける可能性すらもないとは言えない。
様々な計算を、シグの生み出した氷のシェルター内で考えていると、壁の向こうで男が感心したような声を上げる。
「氷魔法……? 厄介な魔法を使う女の子じゃねえか。しかも中々の強度ってな」
だが、と彼が続けた直後。
氷の壁は砕け散った。
「「――ッ!?」」
まさか、こんな簡単に――。
驚きに目を見開くのは、シグ。
それ程まで、彼女は先程張った氷壁に自信があったのだ。
だというのに、呆気なく破られてしまった。
「もう少し強度のある組み方をしねえと、今みたいに思い切り風圧が掛かって砕けちまう。気を付けな」
「分かった様な口の利き方を……!」
「分かってんだから当たり前だろ。俺がいつから狩猟者やってると思ってんだ」
男へ殺到する三本の氷柱。しかしそれらは着弾する直前で失速。下からの風でふわりと煽られたと思えば、呆気なく地面へと落ちてしまった。
「言っとくけど、俺みたいな奴に遠距離攻撃した所で、届く前に無力化されちまう。接近すれば一番楽だが……近寄れるかな?」
「このっ……!」
「駄目です、お嬢。挑発に乗らないで下さい。この男は厄介だが、話から推測するに追手とは無関係らしい。かかずらってやる理由もありませんよ」
血気に逸る彼女を留めながら、ラドルスは男とその周囲に目を配る。
偶々市外に出ていた少数の兵士が集結しつつあり、城壁の向こう――市内でもやや騒がしい。
それに、雲行き更にも怪しくなってきている。
一雨来る前に距離を置いて、雨によって追跡を切り上げて貰うのが良策であろう。
「ラドルス、放してッ!」
「駄目です。一雨来る前に逃げましょう、急いで!」
「……」
有無を言わせぬよう低い声で小さく告げれば、将来物分かりの良い性格の彼女は押し黙る。
冷静になって今の状況を改めて理解できたのかもしれない。
「ひそひそして、何か作戦でも立ててんのか?」
「まぁな」
窺うように訊いて来る男に、肩を竦めてラドルスは短く答える。それ以上は答えず、こちらの狙いを気付かせない為である。
「何をして来ようが大体対応出来るが……ってオイオイ!? 何だそりゃあ!?」
「氷塊。アンタ、大体対応出来るんでしょ?」
「そりゃ言ったけどよ……お嬢ちゃんまさか……」
したり顔の少女に、男は引き攣った笑みを浮かべる。
そんな彼へ、シグは宣告する。
「列に並ぶ人が大事なら、守って見なよ?」
「あ、悪魔か……っ!?」
直径十Mもあろうかという氷塊が、撃ち出される。
その推定落下先は、人々の並ぶ行列の先。
人々は唖然として、驚きの余り反応出来ている者は極僅か。
面白いように顔を青褪めさせた男は、慌てて自身に纏わせた風を氷塊の進路に向ける。
「間に合えええっ!!」
「そんじゃ、俺らはこれで失礼」
「いや待てやこの外道!?」
そそくさと走り去っていくラドルスとシグ。そんな二人に制止の声を掛ける男は、しかしそれ以上何も出来ない。
氷塊を押さえるので精一杯で、そこまでの余裕が無かったのだ。
当然、男は二人を見送る事しか出来ない。
「畜生ッ! 覚えてやがれぇ!?」
小さくなっていく二つの背を見送りながら、最後にそれだけを叫んでいた。
そうしている間にも、巨大な氷塊は落下を続け、男は自身の風魔法を駆使して必死に押し留める。
その実力はラドルスが見立てていた通り中々のもので、氷塊の進路は段々と人々の直撃進路から逸れて行き――。
そして。
何の前触れもなく、独りでに四散した。
「は?」
瞬く間に飛び散った氷塊は、雪の結晶と言っても差し支えない程にまで微小化していた。なので、辺りにはほんの少しの間だけ雪が舞う。
言うまでもないが、氷が砕けたのはこの男のせいではない。考えられる原因を挙げるとすればそれは。
「……やられたな」
苦笑しながら、彼は己の後頭部を掻く。
その目は、既にほんの小さくしか見えない二人の姿を追っていた。
それから小さく溜息を吐くと、緩慢な動作で振り返る。
「……それで、警備兵さんは何の用?」
「ガ、ガイウス・ミヌキウス!? 貴様何故ここに!?」
「何故も何も、ここは俺の住んでる街だろが。狩猟依頼終えて帰って来たところだ、早く通してくれね?」
遠征して来たから疲れてんだよ、と彼――ガイウス・ミヌキウスは肩を回す。
この男が只ならぬ実力者――上級狩猟者である事を知っている兵士らは、皆一様に表情を強張らせる。
「その前に少し聴取したいんだが……」
「聴取? ああ、さっきの二人か。聴取も何も、ご覧の通り上手く逃げられてちまった。もうあんな遠くだぜ」
「分かった。それと、そこの門に張ってる氷を壊して欲しい。あれではすぐに追手を派遣できない」
「追手を派遣? 馬鹿言え、空を見ろ。もうそろ雷雨が来るぞ。下手に外へ出たらどうなるか分かったもんじゃない。俺は止めた方が良いと思うが」
氷壁を壊すのは賛成だが、と言いながらミヌキウスは笑う。
指摘されて空を見た兵士らは彼の言い分が尤もだと判断したのか、顔を見合わせて話始める。
その間に氷壁を自身の風魔法で氷壁を破壊すると、合議中の彼らに向かって一言、断りを入れる。
「んじゃこれで俺は入市手続きをしたって事で。お仕事頑張れよ」
返事が無いのを了承と取り、彼は門を潜っていく。
だが潜って早々に見知った顔が幾つも整列していたのだった。
「貴様っ、ミヌキウス!? どうしてこんな所に居る!?」
「ああ、アンタらか。雁首揃えてお仕事ご苦労さん」
門の向こうでもまた無数の兵らが構えていたが、皆一様にミヌキウスを見て槍を下げ、敵意が無い事を示す。
そんな兵士らに、彼は言う。
「さっき門の外の連中にも言ったが追撃は止した方が良い、一雨来るぞ。代わりに入市手続きでも再開しとけ」
「あ、ああ……」
「そういや、お前らのとこのアウルスはどうした? 姿が見えないみたいだが?」
居並ぶならず者のような連中の中に、見慣れた乱暴者の姿が見えない。
普段から素行が悪くて目を引く存在なのに、そんな彼が居ない事を意外に思っての事だったが、訊ねられた兵は不機嫌に答えてくれた。
「……さっきのヤツにやられた。鼻の骨を折られて、地面に叩きつけられた衝撃で頭の骨も逝ったらしい」
「へぇ、あのアウルスが? 大方、さっきの連中に喧嘩売って返り討ちに遭ったってか? あの二人、確かに中々筋が良かったぞ。チンピラ風情にはちょっと荷が重いわな」
「馬鹿にしてんのか?」
一気に殺気立つ一団だが、それを受けても尚ミヌキウスは余裕ある姿勢を崩さない。
「いいや、別に。まぁ、アウルスのようになりたくないなら身の程を知った方が良いって事だな。いい教訓になったろ? 人の振り見て我が振り直せってな」
馬鹿にしていないと言いつつ、かなり挑発的な事を口にする、ミヌキウス。
当然、兵士――と言っても傭兵――は一層殺気立つも、それでも襲い掛かる事はしない。
彼の、上級狩猟者としての実力を知っているからである。
だから彼は、平然と彼らの間を通り抜けて街を歩いていく。
「あの二人、災難だったろな。こんな連中に目を付けられるたぁ」
どうせあの少女目当てでちょっかいを掛けたアウルスが、返り討ちに遭ったのだろう。確かに、あの娘の顔立ちは整っていた。
多分、ミヌキウス自身の家に居候している少女に勝るとも劣らない程だ。
「さて、母ちゃんとレメディア達は元気にしてるかね?」
帰宅するのは三週間ぶりくらいだと、大きく伸びをしたミヌキウスは、軽い足取りで家路についていた――。




