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キオクノカケラ  作者: 新楽岡高
第三章 ウタガワシキハ
49/239

ACCIDENT ②

◆◇◆



 商業都市とはよく言ったものだと、身に染みて思う。


 今まで見て来た都市とは人、建物、金、そして活気。何から何までが違う。


 勿論その規模は前世世界の都市には遠く及ばないけれども、それを知っていても尚、驚かずには居られない。


 擦れ違う人から物を盗られないよう注意しながら、アグリッパを先頭に街の大通りを行く。


「宿は決めてる?」


「勿論ですよ、お嬢。さっきの入市待ちの列で、情報は集めて来ましたから」


 左手で馬を引きながら、一列になって彼の後をついて行くが、彼らの会話の内容など今は耳に入ってはいなかった。


 露店などの棚に並ぶ商品はまさに選り取り見取り。鮮やかな装飾品や見た事もない物品まで、その豊富さに視線が釘付けになってしまうのも無理からぬ事だった。


「あ、メルクリウス商店……と、鍛冶屋ウルカヌス」


 中でも最も目を引いたのは、以前訪れた事のある商店の名前が書かれた看板。


 次いで目に付いたのが、その看板に劣らぬ巨大な店舗。


 その光景が、今まで他の都市で訪れていた店が只の支店でしかないと言う事を、何よりも如実に表していた。


「ねえナガサキ、置いてくよ?」


「……あ、悪い。ちょっとこの店寄って良い? 今の内に買い出しとかもしとけば後々楽だろ?」


「……そうかも」


 怪訝そうな顔をして先を急かす彼女らに提案をし、認められるや否や、店先に馬を繋いでそそくさと入店する。


 それにつられてか、慌てた様子でシグも馬を繋ぎ、続いて来た。


「ラドルス、馬を宜しく!」


「えっ!? あ、はい、承知です!」


 背後から酷く慌てた声が聞こえたけれども、そんなものは無視。


 タルクイニにはあの商店と鍛冶屋の本店があるとは聞いていたが、その中身もまた想像以上であった。


 ここまで来ると前世の百均すらも霞む様に思えて仕方がないくらいである。


 万引き対策なのか、店に詰めている警備も相当の実力者と見え、様々な意味でしっかりしているのだ。


 初めて見る品物は非常に多く、非常に好奇心がそそられるけれども、迂闊に触って壊してしまっては困るので、大人しく我慢。


 ただ棚を見て回り、精巧な物や高そうな物を見ては感嘆の溜息を漏らしていく。


「ナガサキ、アンタ収集癖とかでもあるの?」


「いや、別にそう言う訳じゃねえけど。ただ素直に凄いなって。そっちこそ思わねえの?」


「……まぁ、数は凄いと思うけど、そこまででも無いんじゃない?」


 身元が気付かれるのを警戒してか、口元を隠す覆面をしたシグは、肝心の身元が隠せていない呟きをポロリと溢していた。


 その発言だけで大分彼女の身分が絞られてくるのだが、それには聞こえなかった振りをして更に陳列された商品を見ていく。


「シグ、そっちはそっちで必要なモン揃えとけよ。俺は俺で、揃えるモンがあるんだ」


「……分かった。確かにこの店、品揃えは良いしね。用が済んだら入り口で待ってるから」


「おう」


 声のする方へは目もくれず、返事をしながら棚に沿って歩く。時折こちらを警戒してか警備の人が鋭い視線を向けても、正直気にならない。


 ここまで珍しく、好奇心を呼び起こし、また前世を思い出させてくれる商品の量を前にしては、大した事ではないと思っていたのだ。


 そうして店の中を巡って、どれほど経っただろう。恐らく十分は経っていないくらいの時だった。




「――何か、お探しですか?」




 音も気配もなく、背後からこの耳元へ囁かれた声に、肩が竦み上がったまま動かなくなった。


 まるで心臓を鷲掴みされたような感覚に陥って、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなったのだ。


 ようやく体の緊張が解け、体ごと振り返ってみれば、そこには青黒い――(ゆう)色の髪と眼を持った、柔和な笑みを浮かべた青年が立っていた。


 当然だが、その出で立ちは恐怖とは無縁に思えて、だからこそ一旦解(ほぐ)れた緊張は更に緩んでいく。


「な……なっ、何です、か、急に?」


 どうにかして絞り出した言葉は、それでもびっくりした事を引き摺ってか、尚も震えていた。


 すると、それを認めた青年は申し訳なさそうに苦笑し、一礼。


「これは失礼を。少々悪戯が過ぎましたかね。余りにも夢中で見ておられたので、少し遊んでみたくなりまして」


「あ、そうですか……あの、貴方は?」


 人懐っこい笑みを浮かべ、柔らかな口調の青年が心底申し訳なさそうな顔を浮かべているに至って、この身を一瞬でも支配していた緊張は霧散した。


 スラスラ出て来る合槌と、その上の質問が己の口から出て来た事で、普段通りの態度が取れている事を認識しつつ、青年をまじまじと観察する。


 年の頃は二十代前半と言ったところか。やや垂れ目である点が彼に愛嬌を与え、その表情と口調も相俟って取っ付き易い印象を与えてくれるのだろう。


 身長は頭一つ分以上も違い、百八十CM(ケンチ)前後はあると見て間違いない。


 出で立ちはその辺の市民と大して変わらないものの、被服の材質自体は上等な様に見える。また彼自身の体格から推測するに、それなりに戦える様には見えないものの、魔法があるこの世界では一見して実力が分からない。


 ただ一つ言えることは、この柔和な笑みを浮かべる好青年が戦っている様子など、とても想像が付かないと言う事だけだ。


「申し遅れました、メルクリウス商店の主、メルクリウスと申します。ま、先祖代々、店主はこの名を襲名する仕来(しきた)りでしてね」


「店主さん!? そうなんですか……あ、ケイジです。ケイジ・ナガサキ」


「ナガサキ様、ですか。さて、話は回りますが、当店に何か御用で?」


 再び告げられた彼からの問いに、当初の目的を思い出す。


 余りの品揃えに圧倒され、見入ってしまった己を恥じつつ、店主を名乗るこの青年へと要望を伝える。


「染料を探してまして……色は、(くれない)です」


「ええ、ございますよ。どのような種類をご所望ですか? 宜しければ、置いてある棚まで案内しますよ」


 言いながら手招きされ、導かれた先は店舗の更に奥。恐らく従業員以外は立ち入れないと思われる、在庫置き場の中であった。


 思っても見なかった場所にまで連れて来られ、キョロキョロと辺りを見渡せば、棚には置かれていなかった無数の品物があちこちに置いてある。


 それらを眺めていると、微笑するメルクリウスが心を読んだかのように問うた。


「珍しいですか?」


「ええ、まぁ、そりゃあ……」


「ここに置いてあるのは棚には置けない、尚更高価な物ばかりですよ。一品物なんかも非常に多い。ほら、例えばそこの剣や槍は、それだけで豪邸が建ちます」


 彼が指差す先にあったのは、壁に立て掛けられた幾らかの武器。


 それらには余り装飾が見られず、然程高価そうにも見えないのだが、店主である彼がそう言う以上、そうなのだろう。


 豪邸が建つ云々言われては、下手に触って確かめる気にもなりはしない。


「触って見ます?」


「……え? いや、けっ、結構です!」


 本気か冗談か分からない笑みを浮かべて提案してくる彼に、慌てて辞退する。これで下手をして賠償などになれば目も当てられない。


 触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものである。


 だが、それでも尚メルクリウスは食い下がって来た。


「別に壊したとて責めはしません、大丈夫ですよ。なぁ、ウルカヌス?」


「……ああ。少し雑に扱った程度で壊れる程、(やわ)な物は作ってない筈じゃ」


 これもまた、いつの間に居たのだろう。ウルカヌスと呼ばれた髭面の男性は、気付けばメルクリウスの真横に立っていた。


 恐らく緊張で縮こまっている間に入って来たと考えられるが、その気配を微塵も感じ取れないとは、自信を喪失しそうまである。


「小僧、お主のその槍、粗悪品であろう? その上、大した手入れも為されていない。そう遠くない内に寿命が来るぞ」


「え?」


 ウルカヌスと呼ばれた男性の指摘に、慌てて己の槍を確認してみれば、確かに柄や刃に消耗が見られる。しかし、それはほんの僅かな消耗にしか見えなかった。


 何を適当な事を言うものかと、反論しようとしたところで、それよりも先にメルクリウスが口を開いた。


「ウルカヌスはその名の通り、鍛冶屋ウルカヌスの親方ですよ。ついでに言えば、この浅黒い肌からも分かる通り剛儿(ドウェルグ)でもあります。その彼の指摘である以上、まず外れる事はあり得ません」


「……」


 そう言われてからまじまじと見つめ、気付く。


 彫りの深い顔に蓄えられた顎髭と、浅黒い肌。そして筋骨隆々の、鍛え抜かれたと一目で判る体。


 確かに彼は鍛冶師なのだろう。しかも製鉄技術に優れると話に聞く剛儿(ドウェルグ)で、鍛冶屋の親方。


 それ程までの人物に断言されて、武器の作り方に関しては素人でしかない己に反論出来る訳もなく。


「ウルカヌス、こちらはケイジ・ナガサキさんだ。挨拶を」


「先程紹介に預かった通り、ウルカヌスだ。しがない工房の親方をやっている。宜しく頼む」


「あ、いえこちらこそ宜しくお願いします」


 一体何に宜しくなのかさっぱり分からないけれど、それでも一応話の流れに合わせて礼を返す。


「ではナガサキさん、親方の勧めもありますし、そこの槍の一本くらいは握ってみてはどうですか?」


「……いや、握るのは良いですけど、買いませんからね? 冗談抜きで買いませんよ。ってか買う金が無いです」


「ええ、それは重々承知の上です。ささ、どうぞ」


 強く勧めて来るメルクリウスの手には、もう既に槍が握られていた。


 どうやら何が何でも槍を握らせる気らしい彼の様子に、もはや逃げ場はないと悟ると溜息を一つ。


「分かりましたよ、持ってみれば良いんでしょ?」


「ええ。ですがその前に」


 槍を持つ手とは反対の手で、つまり左手で、彼はこちらの額へと、唐突に手を押し当てていた。


 そしてそのまま無言となり、瞑目したのだ。


「……な、何ですか?」


「少し、失礼しますね」


 短い断りだけを入れられ、行われた奇行を前にして呆気に取られていた、その時。


 意識が、途切れた。





「……あれ?」


 気付けば、目の前には街の雑踏が広がっていた。


 周囲を見渡しても、メルクリウスやウルカヌスの姿はない。


 それどころか、ついさっきまで居た筈の場所は何処にもなく、どういう訳かメルクリウス商店の軒先に立っていたのだ。


 どういう訳かと暫し呆然と立ち尽くした後、思い出したように周囲を見渡せど、やはりあの二人は影も形もなかった。


「どうなってんだ……?」


 思い出せ、最後の記憶を。


 メルクリウスに連れられてウルカヌスと会い、強引に槍を手渡そうとした寸前で、額に手を当てられて――。


 そこから先の、記憶がない。


 白昼夢でも見たのではないかと、もしくは今、白昼夢を見ているのではないかと、頬を抓っても、叩いても、しかし変化は起きなかった。


 ふと、己が右手に握る槍を見遣る。


 だがこの手に握られていたのは、今まで手に持っていた短槍では無かった。


 傷一つない、新品の短槍だったのだ。


 もっと言えばそれは、気を失う前の最後の記憶の中でメルクリウスが持っていた、あの槍であった。


 それが、今この右手にしっかりと握られている。


 もはや意味が分からなかった。


 夢なのか否か。それはこの手に握った槍のみが知っていて、かつこの槍を持っていると言う事は、あの記憶が幻と言う可能性が低い訳で。


 けれども、この槍以外には何一つとして証拠が見当たらない訳で。


 もう全く以って、何が何だか分からなくなってしまった。


 だがそんな時に、横から聞き慣れた声が掛かる。


「なぁ……お前、何してんだ?」


「アグリッパ! なぁ、俺ってさっきまで何してたんだ!? 頼む、教えてくれっ!」


「はぁ!? 何だよ急に!? 遂に頭でもおかしくなったか!?」


 まるで狂人でも見たかのような表情を見せる彼へと喰い付くように問い質せば、単純な罵声が返って来る。


 だが、それでも尚アグリッパへ繰り返し訊ねれば、眉を顰めながらこう告げた。


「店から無言で出て来たお前は、新品の短槍を持ってそこで立ち止まったんだ。俺が二回話しかけても上の空で、不意に眼の焦点が合ったと思ったら、今みたいに騒ぎ出した」


「店から、出て来た? 他に変な所は?」


「ねえよ。そもそも、馬が盗られないか警戒してた俺が、店の中に入れる訳ねえんだから、何があったかとか知らんわ」


 自分の事だろうが、と鼻を鳴らしながら目を逸らしたアグリッパは、退屈そうに雑踏を眺め始める。その態度から察するに、どうやら知っている事は全て話したらしい。


 これ以上は聞くだけ無駄だと判断し、今度は自分の体について調べて見る事にした。


 しかし、隅々まで調べたところで何処にも異常は見当たらず、店内を覗き込んでも特に変わった様子もない。


 商品棚に置かれた商品がいずれも記憶通りのは一である以上、店に入った記憶も幻でない事が確かめられたとも言える。だが、それだけでは記憶の空白に何が起こったのかを知る事は出来なかった。


 少し考えた末に、見かけ以上の容量を持つ魔拡袋の中を確認してみれば、そこには購入した記憶の無い紅の染髪料の入った袋が一つ。


 金もまた、だいたいその代金分の所持金が消えていて、それ以外に変わったものは見当たらなかった。


 一応、この店に入った目的は達せたらしいが、それにしても腑に落ちないのが槍である。


 どう見ても安物ではないのにも関わらず、その分の代金は抜かれていない。染料の分はしっかり抜かれているというのに、だ。


 もしかすれば自分の脳味噌がおかしくなったのかもしれないと、何度か頭を叩いてみるが記憶は戻らない。


 染料を買って、その対価として金を払った覚えなど無いのに、その分しっかりと等価交換がなされて、いま己の手元にある。


 しかも槍は新品へと変わり、今も夕日に照らされて赤く光っている。


 一体これはどういう事なのだろう。


 考えても考えても、全く答えが、結論が出ない。


「お嬢、早く来てくれ……ナガサキが怖ぇよ」


 頭を抱え、空を仰いで唸り続けていれば、心の底から気味悪いと思っているかのような声が横からする。


けれど、そんなものに構っている余裕など無い。


 ただ、すっぽりと抜け、生じた記憶の空白を埋める為に、ある筈の記憶を必死に探すのだ。


「クッソ……もう一回この店であの人を見つけるしか……」


「……何してんの、こんな所で?」


 心当たりは自分には無い。だとすれば他に当たるしかないと結論付けた直後、少女の声が意識に割って入った。


 思考を邪魔されて思わず睨み付けてみれば、そこには幾らかの生活必需品などを持ったシグが居る。


 どうやら買い物が終わったらしい。


 そんな彼女を見て、怯えた様な表情を見せていたアグリッパの表情に喜色が宿った。


「あっ、お嬢! 遅いじゃないですか! 大変だったんですよ、コイツがいきなり発狂するから!」


「発狂はしてねえよ。勝手なこと言うな!」


「いや、こんな所で頭抱えてれば普通に考えて奇行の類にしかならないんじゃない?」


 言いながら、彼女は自身やアグリッパの馬へと調達した物資を積んでいく。


 彼ら二人の馬に積むだけでこちらにその負担を分けようとしないのは、それが彼らだけの物資だからか。将又(はたまた)、こちらを警戒して近寄って来ないのか。


 その答えは神のみぞ知るという訳だが、自分が傷つかない方向としては前者の方を望む。


 折角少しは心理的距離が縮んだと思ったのに、また開いたとしたら流石に悲し過ぎる。


 親しくなりすぎるよりは遥かにマシだと思うけれど、深い溝が生じると言うのは最初から一匹狼で居るよりも、遥かに心理的ダメージが大きいのだ。


 だから、心理的安心を得ようと口を開いたのだが。


「なぁ、シグ……」


「ごめん、今は近寄らないで。ホントに」


「……」


 偶にいる、ヤバい奴を相手にした時の他者の反応が自分に向けられて、返す言葉が出ない。


 ちくしょう。


 やはり他人と仲良くするべきではないのだなと、涙目になりながら思う、今日この頃であった。





◆◇◆





「あの槍をタダであげて、良かったのか?」


「構わん。あの小僧なら上手く使えよう、長さ的にも仮に背が伸びたとて問題あるまい。良き使い手になるじゃろうて」


 旅の仲間らしい二人に置いて行かれる紅髪の少年を見送る、二つの影が夕日に照らされていた。


「けど、それにしてもあの少年が本当にそう(・・)だとは思わなかったぜ。まさかとは思ったけど、確かめるまでは半信半疑だった」


「そりゃ儂の台詞じゃ。お前があの部屋に連れて来たもんだから、慌てて来てみれば……あれで外れだったらどうするつもりだった?」


「そりゃ愚問だね。当たりでも外れでも俺がやる事はただ一つ、いじる(・・・)だけだ」


 それを言いながら華奢な体格の青年は自身の頭部を軽くつつき、もう一方へ笑いかける。


 対して筋骨隆々の髭面の男は鼻を鳴らすだけで、それ以上の反応を見せる事は無かった。


 ただ、代わりに話題を転換するだけ。


「それでお前は今後どうするつもりだ?」


「どうするってのは?」


「しらばっくれるな。お前の事だ、このまま何もしないって訳じゃ無いんじゃろ?」


「……」


 目を眇める髭面の男の問い掛けに、青年は只々微笑を浮かべ、無言を保っていた――。





◆◇◆





 一旦シグ達との間に生じてしまった溝を埋めるのに、三日ほど掛かった。


 どうにかして今まで通りの仲へと修復する事に成功したのは、つい最近。


 それまであの時の記憶を思い出す事と、彼女らの誤解を解く事に集中していて、何だかんだ忙しかった。


 ついでに言えば“狩猟者ケイジ・ナガサキ”として活動して、前世世界の人探しも並行して行っているのに、誰も引っ掛からない。


 サルティヌスと出会った都市よりも人口も密度も高いというのに、一人も見当たらないとは何と言う虚しさであろう。


 名乗る度にナガサキという姓が虚言であると嘲笑され、それでも名乗り続けているというのに、これでは全く意味がないではないか。


 碌に意味を為さなかったので、そろそろ登録名を変えても良いのではないかと何度思った事だろう。


 そも、サルティヌス以外に前世が同じ世界の者が居るという確証が一体何処にあると言うのだ。


 もっと言えば、この世界だってかなり広い。仮にいたとしても偶然遭遇できる確率など無いにも等しいだろう。


 やはり、彼を亡くしたのは惜しかった――。


「……いや、止そう」


 感傷的な気持ちに浸り掛けたところで、頭を振ってそれを打ち消す。


 今は己の無力さを一々呪っている場合でも、世界の無情さを呪っている場合でも無いのだ。


 ボリボリと頭を掻きながら視線を持ち上げれば、対面に腰掛けたアグリッパが皿に乗った料理を貪り食っていた。


 貪ると言ってもその所作は粗野には程遠く、ただ単純に食べる量が多い。


 そんな彼の左手側に座っているのは、天色の髪をした少女、シグ。彼女が食事を取る様子はアグリッパ以上に整っており、絵になる。


 彼女自身が端整な顔立ちである事もあって、近くの卓に座るものや、テーブルの横を通った者の視線が時折向けられている程だ。


 正直、全く以って身元が隠せていない。前々から思ってはいたのだが、やはりもっと早くに注意くらいはしておくべきだったのだろう。


 特に、今居る安い食堂などに入るのであれば、注意は必須であった筈だ。何せ、こう言った店に来る客には碌なのが居ない場合が多いのだから。


 事実、周囲を見れば、やや遠くの卓でシグを注視するガラの悪い連中が目に付く。


 アグリッパからすれば背後になるので、死角となる……筈なのだが、聞こえて来る下卑た笑い声から色々察しているらしい。


 彼の手に握られた、空になったコップがミシミシと悲鳴を上げている。


 下手に壊せば賠償だが、それは張本人である彼が払うべきもので、わざわざ制止する必要もない。


 そう遠くない内に握り潰される未来を想像しながら、輩の一団を見遣っていると、不意にその内の一人と眼があってしまった。


 絡まれてはかなわないと即座に目を逸らしたものの、もう時は遅かったらしい。


 壁際に座っているこちらの卓へと、男たちがわらわらとやって来始めてしまったのだから。


 皆酒が入っているのか赤ら顔で、且つ酒臭く、ついでに言えば汚い。前世世界に比べれば誰もが汚い世界だが、それにしても汚い。


 少しは体を洗うなりすれば良いものをと、何処か他人事に思っていると、いつまでも反応しない事に業を煮やしてか男の一人が臭い口を開いた。


「おうガキンチョ、こっちを見て何の用だい?」


「……」


「無視か? 連れねえなぁ。ちょっと表出ろや」


 壁側の卓の、通路に面した席に座ってしまったが故に、こうも絡まれてしまう。全く悲しい事である。


 アグリッパに目を向ければ、先程まで悲鳴を上げていた木のコップの悲鳴が止んでいる。


 どうやら握り潰すのは思い留まったようだ――と思った時、この卓を凄まじい衝撃が襲った。


 お世辞にも上質と言えない、寧ろ粗末な卓は木の割れる音と共に脚が二本折れ、左手側へと傾く。


 当然重力に引かれて空になった食器類が動き出し、さながら滑り台の如く、剥き出しの地面へと滑り落ちていった。


 無事だったのはアグリッパの握る木製のコップと、もう一方の手で保持されている、まだ彼が食べ掛けの皿が一枚だけ。


 残りの平らげられた皿は悉く落ち、そして割れた。


 食物が無駄になっていない事に場違いな安堵を覚えながら、アグリッパへ目を向ければ。


「……」


 彼の目には明確な殺意が宿っていた。


 だが、男たちはそれに気付かず、卓が壊れた事が余程面白いのか捧腹絶倒している。もし彼らが知り合いだったら早急に逃げる事をお勧めするが、生憎彼らは食事の時間を邪魔した不届き者。


 おまけに店の備品まで壊している。


 忠告してやる義理など在りはしなかった。


「お前ら、こう(・・)なりたくなかったら大人しく俺に従え!」


 椅子に腰かけたままリーダー格、かつ卓の破壊者らしい男に目を向ければ、その風貌はまさにならず者。


 その体は確かに鍛えられていて、力は強そうだけれども、身構え方がとても戦闘術の心得があるとは思えない。


 どうなっても知らないぞと思いつつ、彼から目を逸らした直後、胸倉を掴まれた。


「おい、無視すんじゃねえよ。……てかお前、中々可愛い顔してんじゃねえか。決まりだ、そこの雌ガキ共々可愛がってやるよ」


「え」


 まさかソッチの気があるとは想定でありました。


 呆然として碌に言葉が出ずにいると、耐え切れなくなったのか、アグリッパが口を押えながら噴き出した。


 もっと言えば、その更に奥からは噛み殺した笑いが聞こえる。


 人の不幸を笑うとは、コイツら人として最低であると言っても過言ではない筈だ。


 胸倉を掴まれ宙に持ち上げられたまま、思わず苦笑が漏れてしまう。


 当然ながら、これらの様子は男達も見ているし、気付かない訳が無いので。


「おいテメエら! 俺達が何処の誰だか分かってんのか!?」


「いや、知らんわ」


 思い切り目を覗き込まれてまで、無視を決め込む気にもなれず、視線はそらしながらも素気無く応えてやる。


 それに、何処の誰であろうと所詮はチンピラ風情。大した権力があるでも無し、真面に相手をしなかったとて問題はないだろう。


 どうにもならなくなったら都市を警備する兵士に通報でもして、面倒事は全部投げてしまえばいい。


 ……と、思っていたのだが。


「俺達はこのタルクイニ市を警備している傭兵だ! それに歯向かうのがどういう意味か分かってんだろうな!?」


「警備、兵……?」


 恐らく男の容貌からは程遠いであろう職業の名が飛び出して、呆然とする事しばし。


 言葉の意味を咀嚼して飲み込むのにたっぷり三秒ほど要して、まじまじと男の姿を見遣った。


 筋肉の付いた、太い腕。その体を覆い切れてはいない、粗末な皮鎧。そして凶悪な人相。


 そこから導かれる答えは一つしかなかった。


「山賊の間違いじゃなくて?」


「傭兵だって言ってんだろうが! 同じことを二度も言わせんな!」


「またまた御冗談を」


「嘘じゃねえわ! ……なぁ?」


 同意を求めるように野次馬の一人へ水を向けられ、縮こまったその人物は上擦った声でそれを肯定する。


「旅の方だと思いますけど、彼の言う事には従った方が良い。彼は……アウルスさんは本当に強い人だ。殺される事はないだろうから、大人しく従っておいた方が身のためだ」


「だ、そうだ。分かったか?」


 臭い吐息が掛かる程の距離にまで顔が近付けられ、その大きな左手がこちらの左右の頬をガッシリと掴む。


 なるほど、見た目通りその力は侮れないものがあるらしい。この状況になっては、自分の本来の筋力では振り払う事など到底無理だと容易に分かる。


「大人しくしてりゃそんなに痛い目は見ないだろうさ。ま、全く痛くないとは言わねえけどな」


(ちげ)ぇねえや!」


 アウルスの言葉に追従して、その取り巻きもまた呵々大笑する。


 その彼らはいずれも武器を身に帯び、その様はどこからどう見ても賊でしかなかったが、言うだけ野暮なので黙っておく。


 だがそうやって笑っていたのもほんの僅かな時間で、すぐに笑い声は失速し、凄味のある目をアグリッパへと向けていた。


「そこのお前も、話は聞いてただろ? さぁ、その背に庇っている雌ガキを渡せ。なぁに、その内に帰してやるさ」


「……」


 こちらが抵抗する気配を見せない事に味を占めたか、胸倉を掴んでいた手が放され、ここでようやく地に足が付く。


 引っ張られたせいで服の襟がよれてしまい、そこを手で撫でながら、新たに水を向けられた青年を見遣る。


 彼が自身の背にシグを隠す様にして椅子に腰かける様子は様になっていて、明らかに容易く近寄れる風には見えない。


 少なくとも、近寄りたいとは思わない。


 だがアウルス達はそう思わなかったようで、彼の配下らしい男が一人、横柄な態度でアグリッパを睨みながら歩み寄っていた。


 そしてそのまま、少女を庇う邪魔者を退かそうと言うのだろう、乱暴な動作で手を伸ばし――。


「おい、聞こえてんのかテメエ!? 言葉が分かんねえなら無理にでもっ……」




「うるせえ、下がれ下郎」




 ドスの利いた声が聞こえたと思ったら、そのチンピラが宙を舞っていた。


 右フックを決められて、面白いように錐揉み回転しながら飛翔したその物体は、短いフライト時間の後、華々しく卓の一つへ着地した。


 その勢いたるや素晴らしく、卓に乗っていたあらゆるものを吹き飛ばし、遂には卓そのものを派手に粉砕。


 辺りには多種多様なものが壊れる音が響き渡っていたのだった。


「……」


 それからしばらく、食堂内では壊れ行く器物が奏でた残響だけが残り、誰もが無言でその場に立っていた。


 ただ確かな事として、その場に居た中で賠償費云々を気にした者は自分を含め極少数だったのだろう。


 他の人達は一様に目を剥き、半開きになった口からは二の句が継がれる事は無かった。


 そしてその他の例外としては、自身の配下を殴り飛ばされたアウルス。


 彼は分かりやすく蟀谷に青筋を立て、凶悪な笑みを浮かべている。


「……自分が何をしたか、分かってんだろうなぁ?」


「下郎を殴り飛ばしただけだろ。それ以上でもそれ以下でもない。何か文句でも?」


「俺の部下を下郎だと!? 抜かしやがる、覚悟は言いようだな!? 今更泣こうが喚こうが許さねえぞ!」


 憤怒の滲んだ声で怒鳴る彼に、しかしそれを前にしたアグリッパは冷笑で返す。


 大方彼の考えは、この程度どうとでもなる。問題はこの不届き者共をどう料理してくれようか、であろう。


 如何にもそんな事を考えていそうな酷薄な表情に、思わず背中が粟立つ。


 けれども、それに気付けたのは曲がりなりにもアグリッパと付き合いがあったからこその様で、相対するアウルスらは気付いた気配もない。


 皆一様に武器を手に、殺意と嗜虐的笑みを浮かべて、大人数で少数を甚振る未来に舌なめずりをしているのだ。


「……知らねっ」


 もうどうなっても知った事ではない。なる様になれ。


 出来る事ならば、どう転ぼうとも赤の他人で居たいものだと、怯えながらも野次馬根性を見せる客らに羨望を覚えていた。


 そんなこんなで乾いた笑いを浮かべながら現実逃避をしていると、とうとう戦端が開かれる。


「テメエの命で俺らへの非礼を詫びな!」


 荒々しい言葉と共に、無数の男達がアグリッパへ殺到し、武器を振るう。


 同時に一人の青年が血祭りに上がる未来が浮かんだのか、野次馬の中に悲鳴のようなどよめきが上がる――のだが。


 アグリッパは一人目から振り下ろされる剣を素手で往なして胸倉を掴み、更には後続の二人目を無造作に蹴飛ばして転がす。


 それから間髪入れず、向かってくる三人目には胸倉を掴んだ一人目を突き飛ばす事でカチ合わせる。


 それだけで、一度に三人の男が食堂の地面に転がった。


 またも人が派手に宙を舞い、都合二つの卓が断末魔の悲鳴を上げたが、想像の埒外を行く展開に誰もがアグリッパから視線を放せずにいたのだった。


「どうした、俺を殺すんだろ?」


「や、ろう……!?」


 最初に右フックで殴り飛ばされた男よりはダメージが少なかったのか、地面に転がった三人の内一人が悪態を吐きながら立ち上がり、再度武器を構える。


 もう一度斬りかかろうとしたのだろうが、その時にはもうアグリッパの拳が鼻先にまで迫っていた。


「ふぅぐぉあッ!?」


 まさに言葉にならないしゃがれた声を上げて、その男は二度目のフライトを楽しみ、今度は食堂の壁へと体当たりを実行していた。


 老朽化のせいか、そもそも余り造りが良くなかったのか知らないが、伴って壁の一部は破壊され、男諸共店の外へと消える。


「……」


 修繕費等々については考えたくもない。事が片付き次第、この店からはトンズラするのが最善だろう。


 そんな事を考えている間にもアグリッパは動いていて、未だに地面に転がって呻いていた男二人の股間部をそれぞれ無造作に踏みつけ、容赦なく追撃を加えていく。


 余りにも無慈悲なそれに、野次馬からは先程とは違った悲鳴が上がり、男たちは青褪めた顔色で自分達のモノにそっと手を当てていた。


「……次」


 まるで何か作業でもしているかのように淡々とした表情で、彼はチンピラ共に目を向ける。


 既に、残っているのは取り巻き二人とアウルスのみ。


 瞬く間に半減してしまった己の戦力に、苦々しいと言った表情を浮かべるアウルスは、切っ先を向けると宣言する。


「もう良い、そこまで言うなら俺が直々に斬り刻んでやる。いや、半殺しにして目の前でそこの娘を犯すのも悪くない」


「なぁ知ってるか? 寝言は寝てないと駄目なんだぜ? 少なくとも今は起きてるテメエが、言える事じゃねえって事だ」


「減らず口を! 寝ぼけたこと言ってんのはテメエの方だろうが!」


 同時に、振り被られる剣。


 しかし当たり前と言うべきか、その雑な狙いの元に振り回される軌跡は簡単に見切られて、アグリッパに掠りもしない。


 直撃の軌道であっても、簡単に剣の横腹――鎬に触れられて、往なされてしまうのだ。


 そうして呆気なく懐に入られ、アウルスの左脇腹に拳が減り込む。


「ぐぁ……?」


 だが、流石にその筋肉達磨のような巨体は伊達ではなかった。常人なら軽く飛んでしまう様な一撃を受けても、少し後退るだけで平然と立っている。


 その上、痛みに悶えて隙を晒す事もしない。


「頑丈な木偶(でく)だ」


「言わせておけばッ!」


 アグリッパが瞬時に距離を取って吐き捨てるように罵倒すれば、それで尚のこと怒りの炎に薪がくべられたらしい。


 憤怒で顔を真っ赤にしたアウルスが、大きく剣を振り被って足を踏み出した、その瞬間。


 それを待っていたかのように彼の踏み込んだ右足が蹴り払われて、上体が前のめりに崩れる。


 余りに急で予想し得なかったのか、彼は声を上げる事もなく唖然とした表情のまま、重力に引っ張られて倒れていくのだ。


「――さぁ、早く寝ろ」


 そんな彼の後頭部へ優しく乗せられる、アグリッパの右手。


 どちらが悪人か分からなくなるほど凶悪な笑みを浮かべたその青年は、その右手へ力と自重を乗せて、思い切り地面へと叩きつけていたのだった。


 ボキリ、という確実に鼻が折れたであろう音が辺りに響き、アウルスは顔面を地へ押し付けられたまま、ピクリとも動かない。


 完全に沈黙した事を確認すると、彼は残ったチンピラ二人に目を向け、言う。


「次」


「「ひ……ひぃぃぃいっ!?」」


 直後、彼らは見っとも無い悲鳴を上げてその場から逃走していたのだった。





◆◇◆


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