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キオクノカケラ  作者: 新楽岡高
第二章 イテツクココロ
42/239

失踪FLAME⑤


◆◇◆



 食う、食う、食う、ただひたすら、黙々と、食う。



 無心に肉へと串代わりの枝を伸ばし、それへ突き刺して、口へと運ぶ。


「良く食べるねえ」


「あんな小さい体の何処に収まってんのか、俺としちゃすげえ気になるぜ」


「……」


申し訳程度の肉を手にしている一人と、宙に浮く木札の言葉を無視して、一心不乱に焼けた肉を貪り食らう。


 どういう訳か食っても食っても腹が満たされず、腹は空腹を訴え続けていた。


 勿論、意識全てを食欲に持っていかれている訳では無くて、体が食べ続けている内に、段々と思考はこの不可解な状況に疑問符を浮かべている。


 どう考えても普段食べている量を遥かに上回りもすれば、それも当然だろう。食べ始めは確かに何も考えられなかったけれど、自分の頭よりも大きな肉を腹に収めた時には記憶を疑った。


「凄まじい勢いだ。この調子だと一人で大角鹿(アクリス)を平らげそうなんだけど」


「自分の体よりもでけえ鹿だぞ? 幾ら霊薬の投与で体力を消耗したからってここまで食うとは……」


「……霊薬の投与?」


 木札だけれど、表情がありありと想像できるような


 后羿(コウゲイ)の言葉に、気になる言葉が混じっていた。


 そう言えば、霊薬を投与されて怪我が治ってから、強烈な空腹に襲われたのだ。関係あるのではと思っていたが、今の今までリュウにそれを訊ね忘れていた。


 一旦食べる手を止め、そちらへと視線を向けて無言で問うてみれば、肉を食う為に仮面を外した中性的な人物が、誤魔化すような笑みを浮かべる。


 それっきり何かを言う気配もないので、今度は口に出して問い質してみた。


「どういう事ですかね、リュウさん?」


「そんな気にしなくても大丈夫だよ。ただ、君の怪我を治すのに霊薬を使ったでしょ? あれって結局君の回復力を底上げする訳だから、当然ラウレウス君が体力を消費するって事。お分かり?」


「……なるほど」


 ぼりぼりと骨を噛み砕きながら、その説明に納得する。ただし、それで全て納得したかと言われれば答えは否。


「つまりリュウさんは、猛烈な空腹に襲われるのを知って居ながら俺に飯を食わせず歩かせ、必死に腹が鳴るのを堪えている姿を見て楽しんでいた、と?」


「あー、まぁ、そうとも言えるねえ」


「アンタって人は……」


 恩人だけれど、一度叩き潰しても罰は当たらないのではなかろうか。


 もっとも、今の実力では叩き潰すどころか一方的に叩き潰されて終わるのが目に見えているのだが。


 どうしようもないフラストレーションを飽く事の無い食欲にぶつけ、貪食を再開する。


 そうやって鹿肉の八割方を食べ尽くした辺りで空腹は解消され、代わって腹と脳を充足感が満たした。


「食った食った……御馳走様」


「本当、よく食べたよ。肉どころか骨まで。この鹿さんの供養にはなったんじゃあないかな? 残りは僕が食べておくから、残したとかは気にしなくて良いからね」


 敷物の上にごろりと寝っ転がり、四肢をグイっと伸ばしていると、リュウからそんな言葉が掛けられる。


 しかし、残りの二割を食べておくと言っても、その肉の量は結構あった筈だ。


 本当に食えるのか――と思っていたら、リュウはあっという間に完食してしまい、後には骨だけが残っていたのだった。


「食べられない部分は隅っこに分けて置いとけば大丈夫。ラウレウス君は……鹿の頭部欲しい?」


「要らないに決まってるじゃないですか」


 そんなものを一体何に使うと言うのか。流石に脳味噌を食べるのは前世的な忌避感もあって難しいし、それと無感情に見開かれた(つぶ)らな目がものすごく怖い。夢に見そうだ。


 そんな事はリュウも承知していた訳で、晒した素顔に笑みを浮かべながらまた別の話題を振って来る。


「ところで、中々良い魔法の使い方をするじゃあないか。誰かから教わったのかな? 白弾(ミッスス)だけじゃない、身体強化術(フォルティオル)まで使えるなんて、思っても居なかったよ」


「独学ですよ。使えなかったら生き残れなかったんです。自分でも色々研究しましたし」


「でも二回くらい、空に大きな光の柱を立てたよね。感情が(たかぶ)っちゃったんだろうけど、ああゆうのはしっかり制御しないと後々困るよ?」


 一度に凄まじい魔力を放出するので真上に居れば何であろうと一溜りも無いのだが、効果範囲も狭いし魔力の消費量も多い。


 それに何より目立つ。自分から居場所を教える事に繋がるので、お勧めしないどころか止めろとまで言われてしまった。


「そう言う訳だから、気を付けて。それと、この道が森を抜けるまでは一日あるだろうし、魔法の扱いとかについてもちょっとだけ教えてあげるね」


「本当ですか? 助かります」


 そこまで言ってから、ハッとする。


 今日会ったばかりの人間に、気付けばズブズブにはまり込んでしまっている事に。世話になっているのは勿論、普通に喋ってしまっているのだ。


 あれだけ他人は信用できないと言っておきながら、結局は人と喋る事が好きなのだろう。これでは自戒した意味もないと苦笑が零れるものの、どうやらリュウはそれに気付いていない様子。


 ただ、仮にこの人物に害意があったとしたら抵抗したくても、敵う筈がない。当然敵だと判明したら抗うけれど、すぐに負けてしまう事だろう。


 逃げ切るのも不可能なので、リュウが少なくとも敵でない事を祈って一緒に行動するしかない。


 もしも味方であったのなら、これ程心強い者はいない筈だが……。


「果たして、どうなんかなぁ」


「ん? 何かあった?」


「いえ、何でも無いです」


 つい口を衝いて出た呟きに、耳聡くリュウが反応する。それに手を振りながら否定すると空を見上げた。


 既に暗く、枝葉の間からは月明かりと星、そして薄っすらと雲が見える。


 少し視線を下げてこの森の中を見れば、月光は木々に遮られてほぼ暗闇。焚火のお陰で周囲がほんの少し明るいくらいで、昼間には遠く及ばない程度だった。


「さて、じゃあ変な獣を呼び寄せない様に、焚火も消しちゃうね。ああ、警戒とかは僕に任せてラウレウス君は寝てくれ。僕は寝なくても平気だから」


 何かを言う間もなく、仮面を装着したリュウは焚火を消すと一方的に宣言してしまう。


 身近な光源が消えた事で薄暗くなり、頼りになるのは月光だけ。危険だから下手に動く事も出来ず、反論する機会は失われてしまった。


「随分強引ですね?」


「良いんだよ。君は今日一日で結構な傷を負って、それを一気に治したんだ。かなりの負担になっている筈だし、休んでおきな」


 視界が悪いというのに、まるで昼間のような動きで距離を詰められて、肩へと手が乗せられる。


 だが、優しかったその手の動きが、不意に止まった。


「……何か来る」


「え?」


 直後、足元の土が盛り上がった。




「――不味(まず)い!!」




 先程までとは打って変わって、余裕のない短い言葉。


 全く反応できない俺を抱きかかえると、一気に駆け出していた。


 その瞬間には、野営場所の地面から巨大な物体が飛び出していたのだった。


 直撃は免れたというのに伝わって来る衝撃にリュウの腕の中で肝を冷やしながら、襲い掛かって来た何かに目を向ける。


 だが、暗くて正体は全く窺い知ることは出来なかった。ただ、人よりは二回り以上も大きな存在である事しか、分からなかったのだった。


「コイツは……!」


「よぉ、さっき振りだな。ガキと……リュウとか言ったか?」


 ゆっくりと腕から降ろされていると、そんな声が背後から聞こえる。聞き覚えのあるそれは、姿を見るまでもない。


 俺からすれば余りにも圧倒的な力で捻じ伏せて来た男に、背中を粟立たせていたのだった。


「エクバソス!」


「そーだよ、エクバソスだ。このまま逃げ切れるとでも思ったかクソガキ?」


 背後を見るが、しかし鬱蒼と茂る木々の中に隠れているのか、声は近いのに姿は見えない。何処から来るか分からない恐怖に、思わず踵を返して逃げてしまいたかった。


 けれど、その前にリュウが割って入っていた。


「残念だけれど、君じゃあ僕に勝てないぞ? この子を狙っても、僕をまず斃さなきゃいけないんだから」


「ああ、そうだな。けど、ここは森、しかも夜と来た。分かるか? 今は俺のフィールドって訳よ。果たしていつまで余裕を見せられるかな?」


「むっ――っ!」


 ただ川の流れが聞こえる中で、何の前触れ、気配もなく、出し抜けに甲高い金属音が響き渡った。


 それがリュウの紅剣とエクバソスの鋭爪であると気付いた時には、もう既に数合打ち合った後であった。


「……驚いた。俺の動きに反応するのかよ。一体どんな目をしてやがる!」


「さぁ、どんな目なんだろうね?」


 韜晦するような声で応えながら、今度はリュウが仕掛けているらしい。受け手に回ったエクバソスの苦しそうな声が聞こえ、ともすればこのまま押し切れると思った時。


 俺の背後に、大きな影が覆い被さった。


「げっ――!?」


 失念していた。うっかりしていた。


 襲撃を掛けて来たのは、エクバソスだけではないのだ。先程からエクナソスとリュウが激しく打ち合うばかりで、それへの警戒が疎かになってしまった。


 慌てて横っ飛びに下がれば、そこへ襲い掛かる剛脚。


 暗い中でも十分にその威力が知れる程、凄まじい音がこの耳にまで届いていた。


「ラウレウス君!」


「だ、大丈夫です!」


 気遣ってくれるリュウに返事をしながら、己の両手に白弾(ミッスス)を生成し、そして撃ち出す。結構な速度を持っていたのだが、しかし簡単に躱されてしまった。


 さらに言えば、躱される事を見越してブーメランのように軌道を変更させたのに、それも読まれたのだ。


「って事はやっぱりあのデカブツだ……!」


 コイツからアロイシウス達を守り、結果として裏切られた。因縁浅からぬ相手である。


 今度こそ叩き潰してやろうと心に決め、あの巨獣を見据える、が。


 その姿が、掻き消えていた。


「気ぃ付けろ! 獣ってのは大体夜目が利く! 気配も殺されたら何処来るか分からねえぞ!」


「分かってる!」


 何処からか聞こえて来る后羿(コウゲイ)の助言に、怒鳴り返す様にして返事をする。獣に夜行性が多いのは前世から知っているのだ、当然警戒はしていた。


 今まで一人で旅をしていた時にも、夜に襲われた事は何度もあった。だから落ち着けば対処は容易。


 そう思っていたのだが、巨獣は格が違った。


 全く以ってどこに居るのか分からない。


 喉の鳴る声が右で聞こえたかと思えば背後から聞こえ、たったそれだけで余裕と体力が奪われていく。


 息が荒くなり、額に汗が浮かぶ。喉の渇きも覚え始めるけど、それは押し殺して獣の居場所を探り続ける。


「何処だ、何処に……!」


「馬鹿野郎、焦ってんじゃねえ! そんなんじゃ――」


 后羿の酷く慌てた声が聞こえた直後、後ろより凄まじい衝撃が襲った。


 爪が立てられた訳では無く、ただ押し倒された。


 それでも、たったそれだけでも、背中に掛かる生臭い吐息と共に十分過ぎる恐怖を齎していた。


「う、うわぁぁぁぁあっ!?」


「おい落ち着け、ラウレウス!」


「ラウレウス君!?」


「おっと、余所見かよっ!?」


 思い出したように、少しでも早く恐怖から逃れたいばかりに、白弾(ミッスス)を滅茶苦茶に撃つ。


 それに后羿とリュウが自制するように促していたが、そんなものは知った事では無かった。死んだら、駄目だったらそれまでと思っておきながら、いざ死の恐怖を目の当たりにして冷静で居られなかったのだ。


 相手が人間ならばまだ違っただろうが、いま己に圧し掛かっているのは獣。その事実が、特に恐怖を駆り立てていた。


 形振り構わない攻撃に、流石の巨獣も堪らなかったのか後退し、その隙に走り出す。


「待て、そっちに行くんじゃねえ! 川だぞ!」


 それがどうした――后羿の言葉を内心で斬り捨てながら、槍を片手にただ走る。


 川など、最悪泳いで渡れば良い。前世では水泳の経験もあるのだ、その程度はお手の物。


 だが、現実は想像を容易く打ち砕く。


「増水……!」


 長い時を掛けて川岸を削り、崖となった場所から見えるのは、月光に照らされた濁流。当然、飛び込めるはずもなく、急制動を掛けて立ち止まらざるを得なかった。


 そして何より、陽が沈む前にも自分はこの川を見ていた。濁流となっていて、飲料水の補給を断念したというのに、恐怖に支配されてそれを失念してしまっていた。


 全く、自分の迂闊さに乾いた笑いが浮かんでしまう。


「畜生、何でこうも……!」


 振り返れば、そこには巨獣。リュウからの援護は望めず、今もエクバソスの足止めを受けているのだろう。


 だが、幾ら時間が夜とは言え、真っ暗ではない。月光はある。戦い方次第ではこの巨獣は斃せる訳だ。


 少なくともリュウやエクバソスを相手にするよりは勝機がある筈。


 すぐに四肢へ強化術を施して、槍を構える。


「邪魔すんじゃねえ! 消えちまえよっ!!」


 地面を、蹴る。


 だが、そのまま槍で突くかと思わせたところで、左手に握り隠していた白弾を撃つ。威力自体は大した事ないけれど、しかし充分に目晦ましの役割を果たす。


 短い呻き声を上げた巨獣の隙を衝いて、その喉元目掛けて刺突。ずぶりとした感覚が手に伝わるものの、命を奪うには至らない。


 すぐさま引き抜いてその場から離脱すれば、元いた場所は攻撃に晒され、土塊が飛散する。


 だが、それを確認する暇もあればこそ。


 今度は尻尾へと周り込み、目を持たぬ蛇のようなそれを一つ、串刺しにする。そして更にもう一つも同様に仕留め、三つあるうちの二つを血祭りにあげる。


 出来る事ならもう一つも仕留めてしまいたかったけれど、流石に反応されてしまってそれも叶わない。


「まだかよッ……!」


 やはり、それでも痛撃足り得ない。確かにダメージは与えているのだろうが、悲鳴も上げさせているが、致命傷とは程遠い。


 それに、午前中に与えた筈の傷が見当たらない。恐らく管理者らしいエクバソスが手当てをしたのだろう。


 彼自身もリュウに殴り倒されたとは思えないほど機敏に動いていたし、癒傷薬(メディオル)の一つや二つを所持して使っていたとしてもおかしくはない。


 厄介な事だと思いつつ、大きく跳躍して巨獣の背に乗る。明るい時間に見た通りその全身は毛が少なく、まるで爬虫類のように鱗に覆われた部位が目立つ。


 しがみ付く場所も無いので適当に槍で何カ所か突き刺すと、振り落とされる前に離脱。


 だが運悪く、あてずっぽうに振り回された尻尾の一つが、直撃する。不幸中の幸いと言うべきか、その尻尾は先程槍で突き刺したのでただ鞭のようにぶつかっただけ。


 でも、それだけでも踏ん張る場所の無い空中では吹き飛ばされてしまう。


「ぐぅぅうっ!」


 どうにか足から着地して勢いを殺すが、その間に巨獣の目に付けられてしまう。


 出来れば攻撃が飛んで来る前に動き出したかったのだが、そこへ来て強烈な咆哮が発せられる。


 耳を劈くそれに思わず体が強張り、体の動きも止まってしまう。機先を制されたと思った時には、憤怒を思わせる荒い吐息と共に襲い掛かって来るのだった。


 もはや反撃に転じる余裕はなく、その突撃をただ避ける。


 しかも、そこから更に続いて飛び掛かられては、避けるので手一杯となって反撃の機会を窺う事しか出来なかった。


「これでも喰らえッ!」


 攻撃の隙を縫って撃てる白弾(ミッスス)は、精々牽制程度の威力。既に余り威力がないと見切られているのか、超激しても無視して突っ込んで来る始末だ。


 そんな埒の開かない状況に、巨獣の攻撃に合わせて一か八か前に跳ぶ。


 頬を掠めた前脚に全身の毛が逆立つけれど、それはつまり直撃を喰らわず運良く生き延びた証。賭けに勝ったことで懐深くまで潜り込むと、槍を持つ右腕に渾身の力を込めて直上に槍を突き出していたのだった。




「――――ッ!?」




 深々と突き刺さった槍は、どうやら狙い通り肋骨の隙間を通って内臓に到達したらしい。痛々しい悲鳴を上げる巨獣は体をびくりと跳ねさせていた。


 恐らく、心臓を貫いた。そうでなくとも何かしら重要な臓器に損傷を与えられた筈だ。


 だけれど、その代わり槍が容易に抜けない。すぐに死なない可能性も考えて仕方なく距離を取ると、巨獣の正面に立つ。


 果たして致命傷足り得るかを確認する為なのだが、見れば大量に吐血して、その四肢は微かに震えている。


 夜であるので、昼間ほどその全容を把握しきれないものの、それでも大きな傷である事は十分過ぎる程に分かった。


「お、おい大丈夫か、二十六番!」


 漂ってきた濃厚な血の匂いに只ならぬものを感じたのか、すぐ近くからエクバソスの酷く焦った声が聞こえる。


 そんな彼の声に返事をするように巨獣は喉を鳴らすものの、それは非常に弱々しい。


「ここまでか……!」


「おっと、僕が君を逃がすと思う?」


「うっせぇほざいてろ! テメエじゃ俺の後には付いて来れねえよ!」


 そんな遣り取りが聞こえたかと思えば、剣戟の音が段々と遠退いていく。一方は逃げながら、もう一方は追いながら、己の命を賭して斬り合っているのだろう。


 正確には、必死さが滲んでいるのはエクバソスのみであり、リュウの声には焦った様子も見受けられないのだが。


 一先ず向こうの戦闘に一区切りつきつつある中で、俺は改めて巨獣を見据える。


 低く唸るそれはまだに斃れず、月光を受けて瞳が赤く光っていた。


「しぶとい……まだ死なねえのかよ?」


 呟きながら、己の右手を前に出す。


 そこに発生した白い球は段々と大きさを増し、人の拳一つ分ほどへと膨張していく。


 これが人の胴体ほどにまでなれば、手負いの獣など簡単に屠ってしまえるだろう。


 後もう少しで……。




 そう思った時、唐突に巨獣が動き出した。




 致命傷を負ったとは思えない速さで動き出したそれは、気付けば視界から外れていたのだ。


 その事実に背中から嫌な汗が流れ、何処から来られても言いように周囲へと目を光らせる。


 背中には崖と川を背負っているのだ、背後から来る可能性はまず除外して良いだろう。


 そうなれば気にすべきは前方一八〇度だけ。


 注意を向けるべき範囲が限定された事で、警戒濃度がより密になってくれる。後は、襲い掛かって来たところをこの白弾で吹き飛ばすだけ。


 ただし、外せば命はないかも知れない。エクバソスは己を捕えようとしていたが、この巨獣は余り加減をしないのだ。


 多分、余り知能が宜しくないのだろう。


「……」


 固唾を飲んで、巨獣が出て来るのを待つ。


 木々の闇の中に姿を隠したのだ、果たして右か、左か、正面か、もしくはこちらの裏をかいて背後から来るか。


 そう言えば足元から襲い掛かられた事もあったと思い返すが、手負いとなった今ではあの手を使ってくることはないと思える。


 あれだけの深手であれば、穴を掘って進む余裕などない筈だから。


 ただ、出て来るのを待つ。


 一瞬の油断が、気の緩みが命取り。


 当然気は抜けないし、緩められない。


 濁流の音が聞こえる中で、呼吸すらも極力抑えて、神経を研ぎ澄ます。


 いつだ? 今か? 何処だ? ここか?


 時機と場所を推し量り続けて、極度の緊張で脳味噌と心臓が破裂してしまいそうだ。


 だが、そうやって待ち続けても巨獣はいつまで経ったところで姿を現さない。


 何条目か分からない汗が額から垂れ、何度目か分からない固唾を飲んでだろうか。




 雲もないのに、月明かりが遮られた――。





「ラウレウス、上だッ!!」


 后羿(コウゲイ)の言葉にハッとして顔を上げてみれば、そこにはここ目掛けて真っ直ぐに飛び込んで来る巨獣の姿があった。


 ……迂闊だった。


 跳躍して襲い掛かって来るのも、知っている手だったのに、緊迫した空気に飲まれて予想の埒外になってしまった。


 けれど、今更悔やんでも仕方ない。


 間に合うか分からないけれど、それでもこれを撃たなければ――。




「う、おおおおおおおおッ!!」




 狙うは、直上。


 標的は、既に至近。


 撃っても勢いを殺せるか分からない。斃せるか分からない。


 でも撃たなければ、負けるのは自分だ。


 間に合え。




 一縷の望みを賭けて、白弾(ミッスス)を撃っていた。







◆◇◆






「……逃したか。流石に狼人族(リュカンスロプス)だ。夜の森じゃあ追い切れない」


 月光に照らされて紅色に輝く刀を納め、リュウは踵を返す。駆け戻る先はつい数時間前に発見した、一人の少年の下。


 思えばあの少年を見つけるには想像よりも長い時間探し回り、結構手古摺らされた。もっとも、手古摺ったと言うより自分の見通しが甘かったと言うべきかもしれないが。


 しかし、それでも十五歳にもなっていない見た目だろうに、どうしてあそこまで賢いのかと思わずには居られない。


 ともあれ、今はその少年――ラウレウスの下へと早く駆け付ける必要があった。


 彼には后羿(コウゲイ)が付いているとは言え、あれは戦力にならないし、結構面倒な獣を相手に戦わされているのだ。


 救援に駆け付けなくては、このまま放置すると負けてしまうかも知れない。故にエクバソスへの追撃を程々に切り上げて向かっていた、が。


 月に照らされた空を、巨大な何かが縦に横切った。


「……? まさか!」


 天に昇る様に横切ったそれは、途中でその勢いを止めると、見る見るうちに落下を始める。


 リュウは慌てて白弾(ミッスス)を生成するのだが、時間的にも距離的にも間に合わない。


 こんな事なら追撃はそもそも諦めて、早々に駆け付けるべきだったと後悔しても後の祭り。




「ラウレウス、上だッ!!」




 聞き覚えのある声が聞こえた時には、既に巨躯を誇る影がラウレウスの居る場所へと迫っていた。


 もうあと数秒とせずに落下するのが目に見えていて、それこそ回避するなど絶望的で。




「う、おおおおおおおおッ!!」




 必死の気配を乗せた雄叫びが上がり、白弾らしきものが撃ち出されたようだが、リュウからは木々に阻まれて一切の様子が見えない。


「――ッ!」


 直後、凄まじい轟音が響き渡り、地面を伝って土砂崩れのような振動が伝わって来る。


 その地震のように激しい揺れと、木々の隙間を抜ける爆風についつい足を止めてしまうが、さりとてすぐに走り出す。


「コウ! ラウレウス君! 無事か!? 何処にいるんだい!?」


「リュウ! こっちだ、早く来い!」


 声のする方へと、嫌な予感を覚えながら駆けて行けば、そこには果たして后羿(コウゲイ)だけが居た。


 他には地割れを起こし、川の流れに地面を抉り取られたような大地が、残っているだけだった。


「これは!?」


「土砂崩れだ」


「……ラウレウス君は?」


 既にどうしようもない事を察したのか、力の無い声でリュウは問う。


 その問いかけに后羿もまた同様の口調で答えた。


「土砂崩れに巻き込まれてあの獣諸共、濁流の中に落ちた。ギリギリで反応出来たから、押し潰されはしなかったが……あのデカブツの勢いに地盤が耐え切れなかったらしい」


「そっか、その時点では生きていた、けど……」


 その紅眼が見据えるのは、轟々と流れる濁流。


「農奴の子供がこんな所に落ちて生き延びられるかねえ? 漁民じゃねえんだ、そもそも泳げねえだろ」


「……泳げたとしても、果たして生き延びられるか」


 后羿もリュウも、変わらず声は重い。


 どちらも、川に落ちた少年の生存を絶望視していたのだから当然だろう。


「この森の道を抜けるまでは一緒にって言ったのに、約束果たせなかったなぁ」


「いや、お前のせいだからな。下手に敵を深追いするから」


「だって仕方ないだろう? 放置したらまた襲ってきそうじゃないか。ああ言うのは早目に処分しておかないと」


 はぁ、とリュウは長々溜息を吐く。


 それから「駄目だったものは諦めよう」と白頭を掻くと、何事もなかったかのようにその場から踵を返す。


(えにし)があればまた会えるんじゃないかな。それに、あの子が子の川で死んだら死んだで、“神饗(デウス)”に利用されないのなら良いかもしれない」


「うわ、簡単に見捨てやがった。何度も言うがお前に責任でもあるんだぞ」


「それについては申し開きようも無いけれどねえ。もしまた会う事があればそれなりに責任を果たすつもりではあるよ。別に僕は、血も涙も無い訳じゃあ無いんだから」


 守り切れなかった一人の少年について話題として取り上げながら、彼ら二人は森の闇へと消えていった――。





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