失踪FLAME④
◆◇◆
それは、信じられない光景だった。
自分よりも遥かに強いと、底が知れないと思えたエクバソスなる男が、リュウと名乗った誰かに容易く敗北していく。
凄まじい速さで斬り合っていたかと思えば自分とよく似た白弾らしきものが飛んで、カウンターを見事に決める。
最後に胸倉を掴みよせて、右ストレート。
その威力たるや凄まじく、男は錐揉みしながら何Mも吹き飛ばされ、ぱたりと動かない。
あれ程の実力者に見えたのに、自分では手も足も出ないと思ったのに、あっという間の出来事だった。
それこそ、一時は痛みを忘れてしまうくらいに、一部始終はとてつもなく衝撃的で、圧倒的だった。
「ど、どうなって……」
この世界には、前世ではあり得ない存在が多過ぎる。
目で追う事も出来ない機動をするなど、もはや人間業ではない。人間を辞めたナニカの所業だとしか思えないくらいだ。
しかも、それを成し遂げた人物は、打ち倒したもう一方を見ながら長々息を吐くだけ。
大して呼吸は乱れておらず、埃でも払うかのように両の手を叩いていた。
「これで一段落っと……もう起きて来ないよね?」
「さぁ? 化儿の頑丈さは馬鹿げてるんでね。少なくとも死んじゃいないだろ」
どうやら、リュウは誰かと話しているらしい。その誰かの姿は全く見えないのだが、恐らくこの近くに姿を隠しているに違いない。
それ以外には気配もしない所を考えれば、俺の近くに居るのはその二人だけなのだろう。
ならば彼らの目的は一体何なのか。
エクバソスとの会話を分析するに、間違いなく彼らも自分が狙いである事は間違いない。では、狙ってどうするのか。
そんなもの、決まっている。
己は白儿であるのだ。それを捕らえて売って、一攫千金。
これ以外に何があろう。
今まで見て来た、会って来た人間は自分の正体を知るや態度を打って変えて身柄を狙ってきた。
初対面の俺が白儿だと知って助けてくれた人など、皆無。もっと言えば、知り合いであったのに正体が分かった途端、態度を変えた者も居たくらいだ。
仲が良くてもそうなのだ。尚更、見ず知らずの誰かが善意で動いてくれる訳がないだろう。
そんな連中が、こっちへ向かって歩いて来る。
「やあやあ、大丈夫かな? 随分酷い怪我じゃあないか」
「早いとこ霊薬でも使ってやらんと、四肢の欠損とかに繋がりかねないぞ」
声は二つ、足音は一つ。不思議な事に視界に映った人影もたった一つ。
そしてその人影の周囲を、まるで衛星のように浮いている木札が一つ。
「霊薬、ねえ……。割と数に限りがあるのだけれど、仕方ないかぁ。これで楽に傷も治るし」
薄鈍色の外套を纏うリュウは、その懐から小さな物体を複数取り出した。
「それ、は……?」
「霊薬だよ。数に限りがあるし、中々補充出来ないんだけれど、そのぶん効果は絶大だと保証しよう。怪我とかに使えば忽ち完治するよ。ただし、急激な治癒は身体に激痛を齎すんだ」
言いながらリュウは、固形の霊薬らしいものをそれぞれの患部へ、握り潰して振り掛けていく。
さらさらと舞うそれらは木々の隙間から夕陽に照らされ、仄かな桃色をしていた。
そして鼻腔を擽る、桃のように甘い香り。このような匂いを嗅げたのは前世ぶりだったかと、かつての食卓に並んだ果物を思い浮かべる。
懐かしい――と思った時、心臓が大きな鐘を一つ鳴らす。
「……っ!?」
その違和感に慌てて胸へ手を当てようとするのだけれど、両腕ともに踏み潰されてしまっている訳で。
当然四肢は、左脚を除いて全てが動かない。
その代わり、思い出したように猛烈な激痛がじわじわと伝わって来る。
あちこちから脳へと激痛が届けられて、もう声だって発する余裕がない。ともすれば痛みにその他の感覚が埋もれて、関係ない所からも痛みが発生している様に感じられるくらいだ。
「あ、ぁぁああ……!」
「痛いだろうねえ。それだけの傷だ、一気に治そうとすれば当然傷口が動くし、伴って痛みも発生する」
痛い。気持ち悪い。苦しい。全身を掻きむしりたい。
しかし、両腕はまだ動かせない。
転がり回ろうにも痛みのせいだけでなく、何故か頭もぼんやりして、体へと指示が出せなかった。
「頑張って耐えるんだ。そうじゃなきゃ、君の両腕と右脚は多分治しようがないからさ」
様々な感覚に悶えていると、励ますようなリュウの声が降って来る。
しかし、これもやはり先程までと同じように、ただ鼓膜を揺らしただけで、意識に中へは入ってこない。
ただただ痛みと気持ち悪さ、息苦しさに体を蹂躙されてからどれ程が経っただろうか。
気付けば己の両腕で肩を掻き抱いている自分が居た。
「……怪我が」
「一応治ったって感じ? まだ完治じゃあないけれど、歩いたり物を持ったりする分には困らないんじゃあないかな」
ペタペタ全身隈なく触り回っていると、先程から聞き慣れた声が掛かる。
その存在を思い出したように目を向けてみれば、そこに居たのは仮面を着けた白髪の人物。
エクバソスと戦っている際には、会話の内容やその容姿の細部までは細かく分からなかったけれど、こうして見ると頭髪が白い。
おまけに仮面の下から覗く眼も紅い。
肌の色だって自分と同じくらいに白いのだ。
「貴方は……」
「僕はリュウ。君と同じように白子……このへんじゃあ白儿って呼ばれる者だ。さて、君は何て名前なのかな?」
「ラ……ラウレウス、です」
「ふむふむ、ラウレウス君ね。いやぁ、君を見つけるのは中々苦労したよ? なんせ、グラヌム領から消息がぱったり消えちゃったんだから」
参った参ったと肩を竦めながら、リュウは自身の顔を隠していた仮面を外す。
そうして明らかになるのは、やはり声音と同じように性別の判定がしづらい中性的な顔立ち。髪型や恰好によっては美青年とも美女とも取れそうだった。
「ところでよぉ、あの狼男は何だったんだ? それなりに実力がある感じだったが……賞金稼ぎ?」
「それは……ってか、何ですかその木札?」
あっさりと誰かの問いかけに答えかけたところで、明らかにおかしな存在へと質問で返していた。
それもその筈、どういう原理か木札が浮き、そして喋っているのだから。これで平然として居られる訳が無いだろう。
するとその質問が尤もだと思ったらしいリュウが一度頷き、「ほら」と促す。
「……俺はただの木札だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「こら、駄目じゃあないか、ちゃんと自己紹介しなきゃ。そんな事をしている様だと、燃やすよ?」
「わ、分かった! ちゃんと自己紹介するから! 燃やすんじゃねえよ! 俺の依り代なんだぞ!」
火を熾そうとでも言うのだろうか、火打石をどこからともなく取り出したリュウに、木札は酷く焦った様子だ。
しかし一方で、その木札の発言に引っ掛かりを覚えていた。
「……依り代?」
「ああ、この木札の事さ。俺は普段、ここに宿る事で力の節約をしてるって訳よ」
ぐるぐると、その木札は俺の周囲を飛び回る。
「俺は后羿。元々人間でなぁ、この身になってから大体八千年くらいは経ってる精霊様だぞ?」
「精霊? 木札の精霊って事ですか?」
「違うわ! これは依り代! 本当の姿はスラっとしたイケイケのにーちゃんだよっ!」
それは果たして本当だろうか。疑いの色を宿しながらリュウへと視線を向けてみれば、しかし端整な顔に苦笑を浮かべるだけだった。
「実際に見せて貰えれば手っ取り早いと思いません?」
「いや、見せてやりてえのは山々なんだけどなぁ。そのためだけに一々姿を現す訳にはいかねえっつーか、なんつーか」
「要するにイケイケのにーちゃんが本当なのかは証明できないと」
「んだと!? コイツ好き放題言いやがって!」
今に見てろとか、覚えてろとか、如何にもサンシタな台詞を吐き募る后羿は、木札であるせいか怒鳴るだけで何もして来ない。
これで本当に人型だったら面倒臭いが、少なくとも今は人型になる気配もない。正直煽ったのに人型にならない辺り、ただ見栄を張った可能性も否定できないだろう。
「それにしても、精霊って……」
「初めて見た?」
「そりゃもう。農奴からすれば大体の人間が一度も見ないんじゃないですかね?」
ただし、この后羿と名乗る木札が本当に精霊であるならば、に限る。
もっとも、木札が浮いて喋っているという時点で明らかに普通の事ではないし、精霊かそれに準ずるものである可能性が高いのだけれども。
「あと一年もすれば俺は依り代から出て、お前をビヨンビヨンに引っ張り倒してやるからな!」
「何故そこで引っ張り倒そうとする……」
それはともかく、彼の口調から察するに依り代から出て来られない事情がありそうだ。
深く突っ込むのは良くない気がしたので、今度はリュウへと顔を向ける。
「それで、あなた達は俺に何の用ですか? 折角傷を治して貰ったところ悪いですけど、捕まえるって言うなら抵抗しますよ。勝てないと分かってても、それくらいはさせて貰います」
「これはまた随分と意志の固い。でも大丈夫、別に僕らはそんなつもりなんて一欠けらも無いからさ。ただ、“神饗”から利用される人を少しでも減らそうと思って」
「……“神饗”?」
何か訳アリな単語が聞こえて来て、鸚鵡返しに訊ねる。
すると至極真剣な顔で首肯すると言う。
「ここ数十年くらい、この西界を荒らしまわっている組織の事だよ。正確な狙いは分からないけれど、取り敢えず目的の為なら人を良く殺す。まるで虫けらのようにね」
その言葉にふと頭を過るのは、前世で虫けらのように殺されていった多くの人々の姿だった。
あれもまた、まるでただの作業の様で、何の感情も無くて、無慈悲。あんな訳の分からないものがこの世界でも起こっていると言うのなら、少しばかり怒りを覚えずには居られない。
「何だい、何か思い当たる事でも?」
「いえ、こっちの話です。特に関係ないですよ」
ある筈がない。あれは前世での、地球での出来事。
科学では無く、幻想的な魔法が存在するこの世界とは、何の繋がりも無いのだから。
それに、今更前世の事を探ろうにもどうする事も出来ないし、仮に繋がっていたとしても知る手立てはない。
気にするだけ無駄と言うものだろう。
結論付けて嫌な記憶を頭の隅に追いやっていると、その間にもリュウは話し続けていた。
「多分、さっきの狼人は“神饗”の構成員だ」
「え、そうだったの?」
「……后羿、君は僕と一緒に行動しているって言うのに、どうしてそう考えが追い付かないんだ?」
心底呆れたというように肩を竦め、わざとらしく溜息を吐く。
一方、后羿はそんな態度を取られた事が気に食わなかったのか、精一杯の良い訳と悪態を吐いて対抗していた。
その間にリュウから受けた説明を纏め、頭へと収める。
「大体分かりました。取り敢えず今の俺はその神饗とやらのせいで尚更狙われやすいって事ですか?」
「その通り。具体的に説明して無い部分まで理解が早くて助かるよ。后羿とはえらい違いだ。見習った方が良いんじゃない?」
「うるせえよ! そもそもラウレウスがおかしいんだ! 農奴の子供だってのに、どうしてこんなに頭が回るんだよ!?」
ただの木札で表情が窺えないというのに、それでも后羿の声だけで大層不満な様子が知れる。
そんな彼の核心を衝いた叫びに愛想笑いを返し、敢えて明言はしない。
「后羿さんは……」
「ああ、別にコウで良いぞ。リュウもそう呼んでるしな」
「……コウさんは、八千年以上存在してるって言ってましたけど、だとすれば農奴の子供に出し抜かれるのはおかしくないですか?」
「黙れ黙れ黙れ! 俺はただ単にその他の可能性を考えていただけだ! 別に“神饗”が居る可能性を想像して無かった訳じゃねえよ!」
心外だと言うように、木札がその大きさに見合わない大声を上げる。
その様子にリュウと二人で思わず表情を崩しながら見守っていると、そこで話題が転換した。
「ラウレウス君。君に訊きたいのだけれど、僕達について来る気はあるかな? 少なくとも一人で居る時よりは安全だと思うよ」
「リュウさん達と、ですか? いや、まぁ確かに強いし、手当までしてくれた人なのは分かるんですけどね……」
どうしても今日、己を裏切ったアロイシウスの姿が、そして己を庇って殺されたサルティヌスの姿が浮かぶ。
深く関わった人は裏切るか、庇って殺されるかという悲惨な結果を生んでしまったのだ。さらに時を遡れば、ミヌキウス達だってそうである。
関われば不幸になるというのに、彼ら二人を果たして関わらせてしまって良いのだろうか。勿論、出来る事なら誰かを頼りたい。
その上で自らも白儿だと明かしたリュウは、信頼するに値する点がある事は否めない。しかし、絶対に裏切らないとは確証を持って言える訳がなかった。
彼らが絶対に殺されないという保証もまた、無い。
散々“人間”を見て来たせいで、俺は他者を“信頼”出来なくなってしまったのかもしれない。
「どうかな、ラウレウス君? まだまだ僕らを知らないせいで不審さがあるのは否めないけれど、少なくとも実力的に信頼できると思うよ?」
「……いえ、実力は確かにそうなんですけど」
「駄目、かな?」
頬を掻きながら苦笑するリュウに、ゆっくりと首肯して返す。
勿論、断ってしまう事にためらいが無かった訳ではない。寧ろ首肯している最中ですら断って良いのかと考えてしまっていたくらいである。
しかし、そんな踏ん切りがつかない思考状況であったにも関わらず、気付けば頷いてしまっている自分が居た。
「僕らが、信頼できない?」
「……分かりません。けど、失うのは何か嫌だなぁって」
交友関係だったり、信頼関係だったり、命だったり。
信じていたものが無くなり、続いて欲しかったものが消え、奪われて欲しくないものが奪われる。
そんなものはもう懲り懲りだ。失いたくない。これ以上あんな気持ちになりたくない。
だったら何にも関わらない方が賢いのではないだろうか。
そんな考えに、「でも」や「しかし」と対立意見が浮かぶけれど、それらは一度口にした考えを翻させるには少し足りなかった。
「ごめんなさい、折角の申し出なのに……」
「いや、別にこれは君の自由意志だ。出来れば“神饗”に捕まったりする様な真似はあって欲しくないけれど、だからって君を縛る権利はないからね」
まるで交渉の決裂を示す様に、リュウは緩慢な動作で仮面を再装着する。
「取り敢えず、気を付けてね。縁があったらまた会おう。その時に心変わりがあるようなら、僕らと一緒に来てくれて構わないよ」
「おいおい、そんなんで良いのかよ? 折角苦労して見つけたんだぜ?」
「良いんだよ。さっきも言ったけど、僕らに彼の自由を縛る権利なんて無い。それに、ラウレウス君の気持ちだって分からなくはないからさ」
不機嫌さを覗かせる后羿に対して、リュウは相変わらずなんて事もない様子で手をひらひらと振る。
そんな彼らに申し訳ない気持ちを表すような控えめな笑みを向けて返し、軽く頭を下げた。
「気にしなくて良いってば。ただ、あっちに転がっている狼人は僕らが貰い受けるよ。聞き出せるだけの情報は欲しいしね」
「構いません。何から何まで、ありがとうございます」
「いえいえ、それよりも――っと?」
殴り飛ばされたエクバソスが居る方へと向かったリュウは、その途中で足と言葉を止めた。
それを不審に思って目を向けてみれば、先程まで転がっていた筈のエクバソスの姿が忽然と消えていたのだった。
「逃げられた……まだ動けたって言うのか。呆れるほどに頑丈だなぁ」
「殺す気で殴らねえと化儿は確実な行動不能にならねえって事だ。まぁ、殺す気で殴ったら死ぬけどよ」
「あちらを立てればこちらが立たずって……面倒臭いね」
大して困った様子もなく、困った困ったと言うリュウは、それだけ自分の実力に自信があるのだろう。実際、痛みに悶えながら目にした彼の戦いぶりは圧巻だった。
あのエクバソスが簡単にやられた事を考えれば、確かに逃げられた所で大した脅威では無いし、どうにでもできるだろう。
何より、あの男はリュウに殴られた事で手負いである。かなり大きなダメージを受けただろうし、逃げるくらいなら自分だけでもどうにかなりそうな気がしないでもない。
そう思ったのだが、リュウは違ったらしい。
「取り敢えず、ラウレウス君に危険があるかもしれない。森を出るまでは送るよ。どこを目指しているんだい?」
「え? あ、ハットゥシャです。ずっと東に言ったところにあるって言うから」
「ハットゥシャ? そりゃあまた随分と遠いね。確かに色んな人種も居るし、姿を隠すには持ってこいかもしれないけれど、移動が大変だよ?」
気遣う様な言葉に、「覚悟はある」と頷いて返す。
善意を無碍にしたというのにリュウは一向に気分を害した様子はなく、自身の白髪を掻いていた。
「ちゃんと確たる意思があるみたいだね。なら止めないよ。じゃあ、行こうか」
「え、でも流石にこれ以上お世話になる訳には……」
「気にしない気にしない。これくらい大した手間でもないからね。さぁさぁ行こう。陽が完全に落ちるまではまだ時間もある訳だし」
有難いけれど流石に心苦しくなってきたのだが、しかしその申し出を撤回する気はないらしい。強引に背中を押されて東へと歩き出してしまっていた。
「あ、ちょっと待って下さい! まだ武器の回収もしてないんで……」
慌てて転がっていた槍と短剣を回収したその時、すぐ近くで木の倒れる音がした。
木に止まっていたのだろう鳥たちが喧しく鳴きながら飛び立ち、枝葉の擦れる音が辺りに響く。
唐突なそれに、思わず武器の回収する手を止めていた。
「……何だ?」
仮面の下で怪訝そうな顔をしている気配を見せたリュウは、音の方へと顔を向ける。つられて俺も顔を向けるが、何も確認できるものは無かった。
「枯木でも倒れたのかな?」
「いいや、違う。青々茂ってた木が倒れたぞ。明らかに作為的だ、気を付けろ」
「当然。あれだけ大きな音がしたんだ、無視なんてする訳ないだろう?」
そんな言葉を交わすリュウと后羿は、しかしその場でもう暫く警戒を続ける訳でもなく、歩みを再開していた。
てっきりもう少し様子くらいは見るのではないかと思っていたので、慌てて彼らの後へと続く。
「良いんですか、あとちょっと様子を見守った方が……」
「大丈夫。強烈な殺気とかでも向けられない限りは大した事もないよ。何か居るのは間違いないけれど、今すぐに襲って来る事はなさそうだ」
それよりも先へ進もう、とリュウは告げる。
そんな彼の歩速に遅れぬよう、早足で続くのだけれど、不思議と体は重くない。
少し前にはアロイシウスを殺し、エクバソスに襲われて大怪我を負っていたというのに、どういう訳か疲労が解消されているのだ。
思い当たるのはリュウが投与してくれた霊薬だが、伴って気になる事が一つ。
今、猛烈に腹が減っている。
先程から小さい音が何度となく鳴っていて、独唱が留まるところを知らない。何となく気まずいので必死に腹を押さえて音の低減に努めたのだが、そこで一際大きな音が鳴った。
「お腹、減った?」
「……」
「無理しなくて良いよ。さっきからお腹が鳴りまくっていたのは聞こえていたし、いつ誤魔化しようのない音が出るかなぁって思っていたんだ」
「おっとそれはどういう事ですかねぇ?」
聞き捨てならない。知って居ながら空腹を隠している姿を見て楽しんでいたと言うのか、この野郎は。いや、女なのかも分からないけど。
遂に大きな音が出たねと仮面の下で笑うリュウに、幾ら恩人であるとは言え殺意にも似た感情が宿る。
「気付いてたならとっとと言って下さいよ。何の為に腹の虫を誤魔化していたと思ってんですか」
「ごめんごめん、悪かったよ。最近娯楽が少なくてさぁ、下らないとは思うけれどちょっとくらいは良いでしょ?」
「……一応俺の恩人なんで、それくらいは良いですけど、代わりにもう飯の時間とかにしてくれませんか?」
「ああ、一応なのね。それと夕餉にするにはまだ早いから、もう少し日が低くなってからにしよう。後もう少し位は時間に余裕あるし」
あとちょっとの辛抱をしなくてはいけないらしい。多分、この様子では何を言っても話を聞き入れて進行を停止しなさそうである。
鳴り続ける腹を押さえながら我慢を言い聞かせ、リュウの後ろを歩くこと暫く。
道を外れ、川の流れが聞こえるやや開けた場所に辿り着いていた。
「ここなら丁度良いかな? お疲れ様、ここで野宿するとしようか。あ、夕餉の準備は僕がしておくから、ラウレウス君は休んでいて良いよ」
「いや、手伝いますよ。至れり尽くせりでこれ以上一方的に施しを受ける訳にもいきませんから」
本音を言えば休みたい。今すぐに。何せ腹が減って力が出ないのだ。
リュウが野宿すると決めた場所に今すぐ腰を下ろして、仰向けに寝っ転がって、四肢を投げ出して寝入ってしまいたい。
もっとも、寝ようにも腹が減って寝付けはしないだろうけれど。
しかし、それは自分の気持ちが許さない。
だから意地で以ってその場に絶対座らず、彼の後に続く。
するとそんな態度を意外に思ったのか、リュウは仮面の下で僅かに紅眼を見開き、そして頷いた。
「そっか、じゃあ有難くその申し出を受けさせて貰うよ。付いておいで、狩りついでに君の実力も見てあげる」
「え、何です? ちょっと最後のはどういった意味で……」
ハッキリ言ってあまり動きたくない。精々ちょっとした手伝いとか、補助くらいの役割が果たせれば十分だと思っていたのに、聞き流せない言葉が聞こえた。
実力を見てあげる、とは一体どのようになのか?
「そんな不安がらなくて良いよ。ちょっとだけ、君の狩猟の様子を見せて貰おうってだけだから」
「俺が、狩るんですか……?」
想像していた中でも最悪な部類に入る宣告に、声にも態度にもどんよりとしたものが掛かっているのが自覚できる。
しかし当人はそんな心の透けて見える質問に対して残酷に首肯して、手を引いていた。
「さ、行こうか。さっきの狼人とは拙いなりに戦えていたみたいだし、実際に見たいんだよね。君から申し出たんだ、言質は取ったよ?」
「下手な申し出なんてするもんじゃないな……」
日本人は、というか自分は、交渉事に向いていないのだなと痛感する。例えば商人は、なるべく自分の得になる様に話を進めるけれど、俺は途中で申し訳なくなって遠慮をしてしまう。
確かに“遠慮”は商談などといった駆け引きでも使える手札だけれど、それは自分の目的を達成するために使われるものである。つまり、気持ち的に申し訳ないから“遠慮”していては損をする。
少なくとも、目的が無いのに遠慮をするのは悪手である。
前世から薄々自覚していた事だが、今更後悔しても後の祭りだ。一度言葉にして、撤回など出来る筈もない。
「ほら、何しているの? 置いて行っちゃうよ?」
「分かってますよ、行けばいいんでしょ……」
空腹に付随する疲労感は更に増し、先程よりも重く感じる脚を引き摺りながら、リュウの後についていくのだった。




