失踪FLAME③
◆◇◆
ほんの少し時間を遡り、天に白き柱が立っていた頃。
その白い柱は空を切り裂き、雲を押し退け、尚も高く。
未だ陽が高い事もあって、その明るさが際立つ事はなかったけれども、充分に目立つ代物であった事は疑いようがないだろう。
その光景を見上げ、薄鈍色の外套を纏った仮面の旅人――リュウは足を止めた。
「また、上がったね。それに今回は近い。運がいいよ。縁があったと言うべきかな?」
「さぁてどうかね? 縁なんざ俺は信じちゃあいないが、ありゃ何かあったのは間違いねえ」
音もなく彼の周囲を漂う木札が、どこから出しているのかも分からない声を出す。
そんな木札の言葉に、リュウは仮面の下で笑う気配を見せながら再び歩き出した。
「探すのに結構手古摺ってしまったね。白子の男の子って話は聞いていたから、その内どこかで不覚を晒しても不思議じゃあないと思っていたのだけれど」
予想以上にボロを出すのが遅かったと、収束していく白光を見ながら呟く。
「噂じゃ十四歳のガキだったか? 中々どうして賢い身の隠し方をしてたよな。ま、結局あんな光を打ち上げているあたり、年相応なのかもしれねえけど」
「どうだかね。学ぶ機会が少ない農民の子供らしいのに、寧ろ良くここまで逃げ果せたと言うべきだと思うよ。少なくとも僕が同じくらいの歳だったら、とても出来たものじゃあない筈だ」
仮面の下から覗く目を細めながら、リュウは段々とその歩速を上げていた。
彼が視線を向ける先では、既に先程までの発光が面影も無く消え去っている。
「西界で今も迫害され続けている白儿、その末裔クンは……果たしてどんな子なんだろうね?」
「知らん。多分お前に似てるんじゃねえの?」
「そうかな? だとしたら、何て声を掛けようかぁ」
まるでピクニックにでも行くような調子で言葉を交わしていた彼ら。
しかしその姿は、もう既に見当たらなかった。
◆◇◆
<転装>
それは化儿だけが持つ、種族固有の能力。
ただでさえ常人を遥かに凌ぐ身体能力を持つ彼らは、この能力によって更なる高みへと至る事が出来るのだ。
例えば爪が、牙が、嗅覚が、聴覚が、これ以上ないほど鋭くなり。
例えば脚力が、腕力が、持久力が、これ以上ないほど強靭なものへと変貌する。
伴って化儿は一時的に獣の姿へと変わってしまうが、当然の如く個人の武力としては非常に強力だ。
ほんの少数でも、圧倒的多数に勝ててしまうくらいには、化儿は精強で名が通っている。
それ故にただの人間でしかない、しかし数の多い庸儿からは恐れられ、差別され、迫害された。
獣同然の扱いをする地域もある様だ。
『あれは人ではない』
話を聞いた商人の中には、そう語る人に幾つか出会った。前世の知識がある身としては、人種差別など馬鹿馬鹿しいと何度思っただろう。
自身の境遇と併せて、彼ら被差別種族にシンパシーを感じた事も一回や二回ではない。
自分なら彼らを差別はしないと、怖がったり恐れたりしないと、何度思った事だろう。
けれど、しかしながら俺は、かの種族を実際に目の当たりにして大きく自信が揺らいだ。
「どうした怖いか、俺が?」
「あ……」
怖い。恐ろしい。何だこれは。知らない。見た事ない。大きい。悍ましい。
全身が総毛立つ感覚に見舞われ、呼吸が荒くなって震えも止まらない。
後頭部や背中からぞわっとした感覚が引かず、自然とこの足が後ろへと下がってしまう。
今この状況で己がどの様な手を打つべきなのか、それを考えるべき脳味噌は既に思考を停止していた。
じっとりとした嫌な汗が手や足からも噴き出して湿る一方、喉の方は反比例するように渇き切ったまま。
唾の一つも呑み込めるほどの余裕すらも、持ち合わせてはいなかった。
「さっきまでの威勢はどうした? ホントにビビっちまったのかよ。折角こんな姿になったってのに、面白みのねえ奴だぜ」
「あ、あれだけやったのに傷一つ付かねえ奴へ、まだ威勢よく突っ込めるほど、馬鹿じゃねえんだよっ」
嘲笑う男へ、思い出したように慌てて言い返すけれど、彼は内心を見透かすかのように尚更笑みを深めるだけ。
気持ちの時点でも負けている事を、看破されていると見て間違いないだろう。
しかし、それを直そうとしても、中々上手く行かない。自分の体なのに、自分の感情なのに、言う事を訊いてくれないのだ。
「俺はエクバソス。今からテメエを嬲る男の名前だ、良く胸に刻んで精々怯えてくれよ」
「……!?」
音もなく、男は眼前まで距離を詰めていた。
先程までの動きでも、既に十分動きは速かったというのに、それすらも遥かに凌ぐ速度に目を剥く。
もはや認識した時には目の前にいるのだ、指をピクリと動かす間すらもありはしなかった。
ふわりと体が浮いたと思ったら、地面に仰向けで倒される。
足を払われたと思った時には、己の紅眼をエクバソスの狼のような目が覗き込んでいたのだった。
どうやって、どんなふうに倒されてしまったのか。攻撃を受けた筈の自分自身でも、全く分からなかった。
それでもこうしている場合ではないと、慌てて起き上がろうとするのだけれど、そこでボキリという不穏な音が鼓膜を揺らした。
「な、に?」
音のした方へと目を向けてみれば、そこには踏み潰されてぐしゃぐしゃになった自分の右上腕があった。
血肉が飛び散り、粉々になった骨が見え隠れし、もはや右手には一切の力が入らない。
「ぐあああああああっ!!」
状況を認識した事で漸く痛みを感知したのか、焼けるように猛烈な感覚が全身を駆け巡る。
嫌な汗は更に量を増して額からも一気に噴き出し、声が枯れるのも構わずに喉からは声を絞り出す。
余りの痛みで地面を転がり回りたい衝動に駆られるものの、少しでも動かせば腕から激痛が発生して悶える事も儘ならない。
辛うじて上腕から下、右手などは離れていないけれど、これ程の怪我となっては果たして回復は見込めようか。
場合によっては右腕が欠損となってしまう可能性を、覚悟しておいた方が良いだろう。
荒い呼吸でだらりとした右手を見、次いでエクバソスを睨みつける。
「何だ、文句でもあるって? けど残念ながら、それで止めてやるほど俺はお人好しじゃねえんだわ」
直後、ゴキリとした音と共に、俺の右脛が踏み砕かれた。
「ああああああああっ!?」
右上腕から全身を暴れ回っていた激痛が、右脛からのものへと上書きされる。
無論、その痛みは先程の時に勝るとも劣らない。確実に比較したところで負けてはいないし、同等かそれ以上だとしか思えなかった。
「ゆっくりと踏み砕くつもりだったんだけどなぁ。それもこれも、お前が悪いんだぞ? 中途半端に抵抗して、俺の手を煩わせるから……」
やれやれとでもいうように肩を竦めて凶悪に笑う彼は、痛みに悶える姿を楽しんでいるらしい。
どこか弾んだ声のエクバソスは、涙目になって尚ものた打ち回る俺を冷たく見下ろしていた。
それは痛みに支配され沸騰した思考が、一瞬だけでも氷点下に下がったと錯覚させるほど。
しかしすぐに痛みがそれ以外の思考を塗り潰して、或いは流してしまう。
「まぁ聞いてねえやな。とっとと四肢を全部潰して運ぶとしよう」
近い筈の声がやけに遠く感じられる中、一刻も早くこの激痛から抜け出せる事だけを願っていた――。
◆◇◆
「……あ?」
男――エクバソスがそれに気付いたのは、目の前に転がる少年の左腕を、今まさに踏み潰そうとしたところだった。
微かに感じる、誰かの視線。そして風に乗って誰かの匂い。
獣ではない、人の匂いだ。
この辺りは眼前の子供から出た血のせいで生臭い匂いが漂っているが、その中でもほんの少し、違う匂いが風に乗せられてやって来る。
旅人か何かだろうか。子供の絶叫を聞いて駆けつけて来ているのだとすれば、何であれ厄介だ。
「これからが良いところだってのに」
聾唖であるかのように、言葉にならない呻き声を漏らす少年から一旦目を離し、彼は一度舌打ちをする。
そしてぐるりと周囲を見回して誰の姿も確認できない事を知ると、聴覚へと意識を集中させる。
今の彼は狼のように鋭い嗅覚と聴覚を持っているのだ。この能力を駆使すれば、すぐにでも近くにいる人間の情報は割れる。
エクバソスからすれば、化儿以外など基本的には鈍臭い獲物でしかない。対象を感知する能力も、攻撃する能力も、他の人種は一様に劣っている。生まれ持っている自分達に比べれば、それを超える人間は一体どれほどいるだろうか。
その数は余り多くないと言うのがエクバソスの見立てだ。それほど、離れた存在を感知すると言うのは難しい。
だから彼は殆どの相手に対して先手を取れると確信しているし、今回もまたそうであると考えていた。
しかし、たっぷり十秒も聴覚に意識を割いていたというのに、足音や呼吸音らしきものは聞こえて来ない。
ただ直ぐ近くの足元で、白髪の少年が悶えて呻く音が聞こえるだけである。
「う、ぁ、ぁ……」
「うるせぇ、静かにしやがれっ!」
気配は感じるのに、匂いもあるのに、姿が見えない、探知できない。
思っても見なかった、そして事が上手く運ばない事による苛立ちを、満身創痍の少年へとぶつける。
しかし、乱暴に蹴り付けられた少年はそのせいか余計に痛みで悶え、呻き声が聴覚を阻害してしまった。
「うるせえってんだよっ!」
舌打ちをすると再度少年を蹴ろうとするものの、直前でそれを思い留まる。そんな事をしては余計にうるさくなってしまう事が、容易に想像できたのだ。
クソッタレがと、口の中で悪態をつきながら再び周囲へ目を走らせる。
だが、それでも一向に何者かの姿は見当たらない。
気配と匂いは、段々と強くなっているにも関わらず、だ。
「どうなってやがる……!?」
段々と焦りが募る中、とうとう彼の耳は足音らしきものを確認した。しかし一方で、聞こえて来た音に疑問を呈すみたく、眉を顰める。
その足音は到底森の中を歩いている様に感じられない。さながら硬質な床の上でも歩いているみたいなそれだったのだ。
当然ながら、土や落ち葉を踏む音など聞こえない。
大理石の床の上を歩くような足音には、エクバソスも当惑せずにはいられなかった。
おまけに、その音は地面からではなく少し地面から離れた場所より発生しているらしい。
増々訳が分からなくなった彼は、そんな中でも目まぐるしく思考を巡らせていた。
「ただの人間じゃなさそうだな。だとすれば目的は何だ? もしかすると最初からここを目指して……?」
段々と大きくなる、足音。
もうそろそろ常人の聴力でも十分に聞き取れる距離に入るかと思われたところで、不意に足音が止んだ。
てっきりそのまま真っ直ぐ向かってくるものだと思ったエクバソスは、慌てて周囲を見渡す。
先程までの足音の調子は明らかにここを目指していたのだ。余程の偶然でもない限りそれ以外の場所が目的であったとは考え辛い。
だとすればこの足音が消えた理由はかなり絞られ、例えば奇襲などと言った意表を衝いてくる可能性が増してくる訳で。
彼は目を皿にして、血眼にならんばかりに周囲を見回し、同時に殊更聴覚に集中を割く。
「何処だっ?」
全く気配が読めない。匂いはある。しっかり嗅覚は働いているのだ。なのに何処にいるのか分からない。
薄ら寒いものを背中に覚えながら、彼は思わず呟きを溢していた。
このままでは先手を取るどころか、取られてしまう。そうすればこれ程の技術を持ち合わせる奴だ、一撃で勝負が決しかねない。一撃で殺されかねない。
認めよう。いま確実にこの周囲に居る誰かは己と同等かそれ以上の実力者である。
匂いは濃い。人であれば気付かない程度の濃度だけれど、この嗅覚からすれば十分過ぎるくらいだ。もう、姿が見えてもおかしくない。いや普通であれば見えている。
この状況が、姿が見えないという今が、異常なのだ。
焦りだけが募る中で、森の空気は彼に触発された様に張り詰め、静寂を強調する。
今、エクバソスの鼓膜を揺らすのは自身の呼吸音と激しい鼓動、そして――。
「――ねぇ、そこに転がっている子って、ひょっとしなくても白儿でしょ?」
頭上から降り注ぐ、柔和で中性的な声。
その声が聞こえた方へ、彼は弾かれた様にして首を、視線を巡らせ、そして絶句した。
何故、いつの間に、どうやって、どうして、どうなっているのか――。
「ねえってば。僕の話、聞いてる?」
生い茂る枝葉の少ない場所から見えるその人物は、仮面と薄鈍色の外套を纏って空中に立っていた。
足元には、扁平な白い四角形が飛び石のように浮いており、かの人物はどうやらその上に乗っているらしい。
陽に晒された頭髪は白く、旅装の隙間から覗く肌もまた驚く程に白い。
それらを確認し、いつでも攻撃に即応できる姿勢を取りながらエクバソスは問いかけていた。
「テメエ……ここに何の用だ? いきなり攻撃して来ねえって事は話をする気があるんだろうが、目障りだ。とっとと失せな」
「そんな冷たい事を言わないでくれよ。そこに転がっている男の子が白儿かどうか、それを訊いているだけなんだからさあ」
音もなく浮いていた白い足場が消滅し、乗っていた彼はわざとらしく足音を立てながら、地面へと着地する。
それを認めてエクバソスはより一層警戒を強め、狼面の眉間に皺を寄せた。同時に喉からは威嚇するように低い声を漏らし、それ以上近付くなと言外に告げる。
「怖いなぁ。別に僕は君を出し抜けに攻撃しようなんて思っちゃあいないよ? どうしてそんなに剣呑な態度なの?」
「失せろって言ってんだよ。聞こえねえのか?」
「あ、ひょっとして名乗った方が良かった? ごめんごめん、僕はリュウ。宜しくね」
「そうじゃねえって言ってんだろ!?」
一向に進まない会話に、思わず手近にあった木の幹を殴る。相当な威力が籠っていたのか、数瞬置いてけたたましい音がすると、呆気なく一本の木が倒れてしまった。
足元に転がっていた少年はそれに驚いたらしく、びくりと肩を跳ねさせていたが、エクバソスはそれへ一瞥もくれない。
代わりにリュウと名乗った彼がそちらへと視線を落とし、そして少し視線を上げて狼人を見る。
「そこに倒れている男の子は、君が傷付けたの?」
「そうだと言ったら? ほら、さっさとここから失せろ。さもなくばテメエもボロ雑巾の様にしてやるぜ?」
直後、彼は少年の左上腕を踏み潰した。
ぐしゃっとした、おおよそ人体からは中々聞けない音がしたかと思えば、少年は喉が割れんばかりの悲鳴を上げる。
それを見て威圧の効果は十分と見て、リュウを見据えながら凶悪に笑う。
もしも忠告に逆らえばお前もこのようになるぞと、実際に目の前でやって見せる事により、この場から退かせる心算だった。
特に悲痛な悲鳴を上げて泣く姿は恐怖を呼び起こさせるには充分だし、このような惨劇を見せられてはまず大人しく引き下がる。ただの旅商人は勿論、例え腕利きの者だとしても面倒事の気配を感じて退くのが当然なのだ。
しかし、リュウは違った。
「だとしたら、尚更捨て置けないかな。白儿かもしれない男の子が嬲られているんだ、ここで放置して確認を怠るなんて真似が出来る訳ないだろう?」
「……へえ、やるってのか、俺と? 良いぜ、奇襲も掛けずに正面から挑んで来た事、精々悔め!」
攻撃の余波に巻き込まれないよう、エクバソスはだらりと転がったままの少年を乱暴に蹴飛ばす。それから口端を吊り上げたかと思えば、地面を蹴る。
まさに瞬足でリュウとの距離を食らい尽し、己が自慢の鋭爪で切り裂く。
だが、その速さと動きは読まれていたのか空しく外れ、他方リュウは彼の懐へと沈み込みながら抜剣。
紅く光る軌跡が、エクバソスの見開かれた目に焼き付いた。
「――ッ!?」
慌てて右足で踏ん張って跳躍し、横薙ぎを回避する。後ほんの少しでも反応が遅れていれば、上半身と下半身は泣き別れを見る羽目になっていただろう。
想像以上に反撃が鋭かった事に口元を引き攣らせながら、彼は素早く構え直す。
やはり、強い。一筋縄では無いかない。
遭遇前の、足音や気配の殺し方を鑑みるだけでも十分それは予想できていたけれど、それでも驚愕するに値する実力だった。
ほんの一瞬の油断も許されない。読み合いに適当な妥協をする事も当然許されない。愚鈍な事をやっていては命にかかわる。
大きく息を吸い、腹に力を込めながらエクバソスはじっとリュウを睨んだ。
もう些細な事一つたりとも、相手の動きから見逃さないように。そしてこちらの集中を一瞬でも途切れさせないように。
ただ構えて、相対しているだけだというのにかかる重圧は半端なものではなく、心臓が暴れ回って呼吸が苦しい。
それでも、隙を作らないようにと、エクバソスは呼吸を乱さない。
「上手く避けたね。僕はしっかり仕留めたと思ったんだけれど、中々どうして良い勘をしているよ」
「うるせえ、テメエに何を言われても嬉しかねえよ。で、そっちの目的は何なんだ? こっちの忠告まで無視して、一体何が狙いだよ?」
「何が狙いって……そんな事を訊くなら先に君の方が言うべきじゃあないかな? まだ自己紹介だってして貰ってないのに、どうして僕が一方的に喋らないといけないの?」
微かに仮面の下で笑っている様な気配を見せながら、リュウは剣を右肩に乗せながら大仰に、もう片方を竦める仕草をする。
如何にもわざとらしい、煽っているみたいなそれにエクバソスは不機嫌そうに喉を鳴らした。
「下らねえこと言ってねえで、とっとと喋りやがれ。あんまりごねる様なら今すぐにでもぶっ殺すぞ」
「酷い言いようだなぁ……まぁ良いや。僕の目的は最近噂の白儿を回収する事。不自由が無ければ早くその子を引き渡して欲しい」
「そりゃ奇遇だな。俺もあの方の為にこのガキを届けなきゃならねえ。別に命令されてはいねえが、献上すればさぞ喜ばれる事だろうよ」
今更この少年について隠しても仕方ない。そう考えてあっさりと自らの考えを述べるが、偏に目的が重なった事に対する牽制の意味が強い。
つまりもう何を言われても絶対に譲らないと、奇怪な格好をした旅人に言外から告げたのだ。
当然リュウはその意図を察し、「ふぅん」と言いながら一度だけ頷く。
「じゃあ、絶対にその男の子を僕に引き渡す気はないんだね?」
「くどい。何度も同じことを言わせんじゃねえよ。で、だとしたらテメエはどうすんだ?」
「そんなの決まっているじゃあないか。交渉が決裂したんだ、実力行使しか残っていない」
「大人しく諦めるのが長生きの秘訣だぜ? 随分と腕が立つみてえだけど、俺と戦って果たして生きられるかな?」
拳の調子を確かめる様に、そして威圧するように音を鳴らし、エクバソスは正面の人物を見据える。だが、実際のところ彼の言葉とは裏腹に極めて神経が張り詰めていた。
一対一であれ、多対一であれ、近接戦と言うのは気持ちの強さが物を言う。どう転ぶか分からない戦いでは、本当に気迫の違いが生死と勝敗に直結するほどだ。
だから自分の気持ちを高め、且つ相手の気を少しでも削ぐために強気な口調と態度は崩さない。
それは相手が格下だろうと格上だろうと変わらず、そうやって彼は勝利を掴んで来たし、生き延びて来た。これまで戦い抜いたという自負があるし、自信も経験もある。
故に今回もまたそうである事に努めているのだが、どうしても得体の知れなさが拭えず、ほんの少しだけでも嫌な汗が手を湿らせていた。
しかし、そんな馬鹿馬鹿しい事があろうか。今の己は<転装>によって常人とは段違いの身体能力を有しているのだ。
この状態になっているというのに、どうして恐れる事があると言うのか。例えこの目の前の人物が手練れであったとして、身体能力で化儿に勝てる人種など皆無である。
そうであるのなら、普段通りに出来れば負ける筈はない。自分の得意な形に持って行けば、相手の本領を発揮させる前に終わらせてしまえば、何の問題も無い。
「テメエも、白儿だろ? 仮面の下から紅い眼が覗いてるぜ?」
「正解。でも、だから何? それを知った所で君が有利になる訳も無いし」
「有利、な。そら確かにそうだわ。だが献上する白儿が一つから二つに増えるってのは、喜ばしい事だと思わねえか?」
「まだ戦いに決着がついても居ないのに、夢想を垂れ流すのは止めてくれない? そんな将来は多分、ないから」
右手に持った剣の切っ先を向け、リュウが地面を蹴った。その速度は確かに速い。身体強化術を使っているだろうし、常人であれば対応は困難な筈だ。
しかし狼人から見れば十分に応じられる速度でしかないし、ゆっくりに見える。
「トロいんだよ!」
「――そっちこそ、ちょっと見通しが甘いよ?」
迎撃しようと足に力を込めた直後、リュウの姿が掻き消えた。正確に言えば直角に曲がって進路を変更したのだが、思っても見なかった挙動のせいで見失ってしまった。
不意を衝かれて吃驚したエクバソスだったが、しかしそれは僅かに一瞬の事。すぐに相手の狙いを理解していた。
リュウが退避した事で見えたのは、彼の背後に隠れていた無数の白い球体。それはさながら罠の様で。
――置弾。
「チィっ!」
咄嗟に、踏み込んだ右足に掛けていた体重の向きを変えて、左斜め前へと身を投げ出して回避。すると、すぐ近くの虚空を無数の物体が貫通していく。
寒気を覚えながら側転するように地面へと手をつき、危なげなく着地したエクバソスが見たのは、己の目に大写しとなったリュウの姿。
迎撃させられた。回避させられた。
振り上げられようとする紅い剣に対して、着地の姿勢のまま硬直してしまった彼には飛んで躱す術がない。
幾ら鋭いとは言え、爪と牙ではあの剣を防げない事も明らかだ。
しかし、まだ体は動く。
脚は駄目でも上体は動かせる。
「らぁぁぁぁぁあっ!」
気勢と共に左腕を一閃すると、それを察知したリュウは素早く剣を引き戻して爪を受けた。
甲高い音と火花が散り、体に巡らせた魔力によって一時的に強化・伸長させた鋭爪と紅剣が鬩ぎあう。
左から右へと薙ぎ払おうとする力に対し、リュウは身体に届く直前で受け太刀をする事で防いでいるが、しかしここへ来て地力の差が出る。
「……!」
「へへっ、幾ら魔力で体を強化したって、化儿に膂力で勝てるかってんだ!」
カタカタと音を立てる剣は徐々にだが押し込まれ、鋭爪が今にも標的を切り裂こうとしている。
そんな状況に持ち込まれれば、どれほどの猛者だろうと多少は焦るのだが、だのにリュウは焦る気配を見せない。
ただ仮面の下から紅い眼を覗かせ、全く乱れる様子の無い一定の呼吸を続けていく。
まるで、まだまだ打てる手が存在しているかの如き、余裕の見せようであった。
「やはり君も白儿と戦うのは初めてかな? 駄目じゃあないか、こんな所で動きを止めては」
「……あ?」
リュウが何処か面白そうにしている気配を感じ取って、眉に皺を寄せながら睨み付けるが、動じた様子は一切無い。
一方、エクバソスは着実に左手でリュウを追い込んでいて、もうあと少しでその体を切り裂く事だろう。だとすればこの意味深な態度は、単なる虚勢である可能性が高くなる。
無駄に警戒させられたことが何となく癪に触って無意識に喉が鳴るが、それもあと少しで終い。たった一度切り裂くだけで殺してしまうのは何となく味気ないものの、相手は只者ではないのだ。
殺せる時に殺しておかないと、自分の身を危険に晒しかねない。まだまだ、己には使命が、死ねない訳があるのだから。
左腕に全力を込めながら思考を巡らし、そしてリュウの必殺を確信した、その時――。
「んぐっ!?」
エクバソスの視界が揺れた。
それが頭に何かが当たった事によるものだと察した時、更に一度衝撃が頭を襲った。
何だ、何が起こっている――?
剣との鬩ぎ合いを演じていた左腕を引き剥がし、体勢を整えようと思わず後退れば、頭部を襲った衝撃の原因が簡単に割れた。
「小賢しい手を使いやがって……!」
「純粋な腕力では僕に勝機が無いんだから、当然だろ? 持てる手札を使って技巧を凝らさなきゃ、勝つべくして勝つ事は出来ないよ」
もはや剣を振る必要はないと見ているのか、だらりと構えを解いたリュウは直接踏み込んで来る気配がない。
代わりに飛んできそうなのは、その周りを漂う幾つもの白い球。少し離れた場所で転がったまま動かない少年と戦った時にも見たそれは、しかし質と数が違った。
「くそ、たった二発貰っただけでこの威力……あのガキとはエライ違いだぜ」
「その様子だとそこに居る子と戦ったんだね? 出来れば僕としても見たかったなぁ」
「俺としちゃ、テメエにはそもそも来て欲しくなかったんだが? 話に聞く白儿ってのがこんなにウザったいモンだとは思わなかったね」
本当に馬鹿げていると思う。造成魔法のように体内から体外へ魔力を放出できる上、その魔力をそのまま直接操れる。
炎造成魔法や水造成魔法なら、生み出すのはどれも魔力を消費して炎になるのに、白魔法はそれが無い。
だから技の起こりが早いし、ただの魔力だから相性による威力の増減も発生しない。どれに対しても安定して能力を発揮する太古の魔法。
それに、造成魔法は「体外に魔力を放出」して使えるものである。だから「体内で使う」、身体強化術のようなことは不向きである場合が多い。
白魔法は現在の【始成型】に分類されない、異なる区分――【原始型】であるとされている。
体内を巡る魔力の型が、後者の方が古く、今とは違うのだ。
だからなのだろう。白儿であるリュウは造成魔法のように遠距離攻撃も熟せるし、身体能力を強化しての近接攻撃も行える。
万能で、満遍なく安定して戦える存在なのだ。
「何でも出来るんじゃ、昔話で白儿は恐ろしく強かったと語られる訳だわな。こんなん反則だろ」
「いやいや、僕としては器用貧乏な感じがあるよ。何かが特別秀でているって訳じゃあ無いからね」
「……嫌味か」
思わず、舌打ちが漏れる。
遠近何でもござれといった手合いと戦った事が無いとは言わないが、ここまでの実力者と戦った事はなかった。
造成魔導士が近接戦闘を熟すと言ってもそれは精々自衛程度、その辺の狩猟者よりほんの少し強いくらいでしかなかったというのに。
なのに、リュウは近接戦闘一つとっても油断できない実力者。おまけにそこへ遠・中距離の魔法攻撃まで絡めて来るから質が悪い。
ここまで攻め手の幅が広くては、対応するにも一苦労であった。
「そろそろ大人しく僕にその子を渡してくれないかな? もう十分でしょ?」
「ほざけ! 誰がテメエにそいつを渡すかってんだ! そっちこそいい加減退散しやがれ! 俺が先に見つけたんだぞ!?」
「いや、後とか先とかどうでも良いよ。早くその子の手当てをしてあげないと、出血とも酷いし」
「一々うるせえな、この仮面野郎がッ!!」
目の前の奴は、強い。やみくもに突っ込んでも勝てやしない。だが、今のリュウはだらりと構えを解いていて油断している様にしか見えなかった。
一気に距離を詰めて勝負を決さなければ、動きの止まった所をあの白い球で集中砲火されてしまうだろう。
事実、応戦するように放たれる白球はエクバソス目掛けてどんどんと襲い掛かり、躱し、掠り、時に直撃してくる。
それでも狼人の感覚を余すところなく活用し、決定打となり得る危険な攻撃は全て避けて、着実に距離を詰めていく。
「……やるね!」
ここまで躱され、距離を詰められた事が想定外なのか、仮面の下でリュウが瞠目しながら、一方で剣を納める。
近接となれば剣で応戦してくると思っていたエクバソスとしては意外に思うものの、それはほんの刹那の思考。すぐに目の前の事に集中すると、一歩二歩と更に距離を詰めていく。
そうしてリュウの目の前まで辿り着いた時、周囲に浮いていた白球は一つを除いて全て打ち尽くされていた。他に残っているのは、無手の彼のみ。
「余裕ぶっこきやがって! 叩き潰して挽肉にしてやらぁ!!」
「出来るものならやってみ?」
隙を衝くように撃ち出された白球は、しかしエクバソスの頬を掠るだけに終わり、残るはリュウたった一人。
「そらよッ!」
彼の胸へと、引き絞った左の貫手を繰り出す。
狼人の腕力と鋭爪から放たれるそれは誰の目から見ても凶悪で、直撃すれば命はないことが容易に想像できる程。
だが、目にも留まらぬ速さの攻撃であったのに、その腕は虚空を切る。
「残念、君の負けだ」
そして空振ったそれと交差するリュウの右腕は、過たずエクバソスから見て左頬へと届いていた。
腕の交差はほんの一瞬、けれどたった一回のそれだけでエクバソスの上体は大きく仰け反ってしまった。
攻撃に乗せた体重と勢いがそのまま左頬に返って来たが為に、そして反応する暇もなかったが為に、真面に喰らったのだ。
「がっ……!」
「幾ら膂力で劣ろうとも、戦い方は幾らでもある。一々工夫をしないといけないのは面倒臭いけれど、そこで上回れれば勝つのは案外簡単なんだよね」
脳が揺れ、視界が霞む中でも、鼓膜はしっかりとその役割を果たしていた。もっとも彼には、聞こえて来た言葉に注意を割く余裕など無かった訳で。
体勢を立て直す間もなく無防備な胸倉が捕まれ、乱暴にグイと引き寄せられる。
何かをされている。これから何かをされる。反応しなければ。抵抗しなければ。
不味いと分かっているのに、脳が揺れているせいか体が重い。四肢が笑ったように力を失ってしまっている。
「安心して。別に僕は君を殺す気はないよ。だから止めを刺される心配とかはしなくても大丈夫」
すぐ近くで、リュウの声が聞こえる。けれど、それに反応する事すらも出来ない。
「この一撃で君を戦闘不能にしようと思うんだけれど、ちょっと加減を間違えたら死なせちゃうかもしれないんだよね」
何を言っているのかは分かる。こちらが殺しに掛かったというのに、向こうは手心を加える気のようだ。
まったく呑気なものだと思った一方で、朗らかに宣告された言葉に引っ掛かりを覚える。
「な……に、を!」
「まぁその、あれだよ。死んじゃったら御免ね、的な?」
「このっ……!」
ふざけるな、何が“御免ね”だ――。
言葉を絞り出そうとした口は碌すっぽ働かず、凄まじい衝撃と共にエクバソスの意識は消失した。
 




