The Beginning ③
それは、ただの虐殺劇だった。
誰もが必死になって逃げ惑い、それでも呆気なく追い付かれて背中から心臓を一突き。
老若男女、その区別もなく鮮血を垂れ流し、血生臭い匂いを充満させたそれが横たわる。
「…………」
しかしそれだけの事をやってのけた当の本人は、それに対して特にこれと言った興味を示す事は無く、ただ無言でショッピングモール内を歩き回っていた。
暗褐色のローブを纏いコツコツと硬質な足音を響かせ、辺りに人は居ないかと辺りを睥睨していたのだ。
そして。
「たっ……助けてくれ、命だけは……せめて、妻と娘の命は……」
不幸にも、柱の影から怯えて動けない所を見つかってしまったのだろう。夫妻と幼い娘を連れた家族連れの内、その父親が他の二人を庇う様にして前に出る、が。
「妻と娘っ……がっ!? なん、で、こんな……こ、と……」
「い、いやぁぁぁぁぁぁあっ!!!」
剣で男性の胸を無造作に貫き、それを目の当たりにして、その血を浴びた男性の妻が頭を抱えて悲鳴を上げた。
大事そうに女性の腕に抱えられた幼い女の子は怯えて声も出ないのか、もしくは目の前の出来事が理解できないのか、目を開いたまま何も言わない。
「あなた! 返事してよっ!! ねぇ、返事し……て?」
直後、泣き叫んでいた女性の首が斬り飛ばされ、噴水の様に血が飛び散る。
「………パパ、ママ? ねぇ!? ねえってば!」
鈍い音を立てて倒れ、それきり反応の無い両親が信じられないのだろう、まだ七歳程度の女の子は物言わぬ死体に呼び掛けていた。
そこへ女の子に止めを刺そうとしているのか、剣を持った殺人鬼がゆっくりと迫る。
「……だれ?」
「…………」
あどけない顔で、涙目の女の子が問うものの、彼は一切の言葉を発さず剣を振り被った。
――それが今にも振り下ろされんとしたその瞬間。
「!?」
出し抜けに、殺人鬼目掛けて幾つもの物が投げ付けられていた。
「…………」
しかしそれも彼からすればただ煩わしいだけなのだろうか、不機嫌そうに首を巡らせるとそれら飛来物を剣の腹でいとも容易く叩き落としていく。
靴や、刃が出たままのカッターなど、それらにはいずれも商品としてのタグが付けられたものであったが、だがそれを咎める者など誰も居ない。
「――五百蔵!!」
「おうさっ!!」
物を投げる手を休めずに俺がそう叫べば、少し離れた柱の影から見知った顔の少年が飛び出す。
彼の名は五百蔵 朋紀。サッカー部のエースであり、部内一の俊足である。五十メートル走のタイムはよく覚えていないが、六秒を切っていたと俺は記憶している。
そんな訳だから、彼のその動きは迅速そのもの。殺人鬼が投擲物を剣で防いでいる内に女の子を確保し、そのまま一気に離脱を図った。
「良いぜ、長崎!!」
「分かった! 全員、逃げろ!!」
十分に距離が取れたところで五百蔵がそう言うと、最後にもう一度、盛大に物を投げて他の連中に撤収の指示を出す。
その声で俺と共に物を投げつけていた者たちも一斉に踵を返すと、一目散に階下へ続くエスカレーターと走り続ける。
途中で嫌でも視界に入って来る、無数の死体。誰もが怯え、泣き、おおよそ安らかでない死に顔で、その開き切った瞳孔で、俺達を見ていた。
「......っ」
折り重なるように倒れた、カップルらしき高校生の男女、子供を庇おうとしたのか背中から一突きされた女性と、買って貰ったばかりの玩具の箱を抱えた男の子。その中には見知った顔だって居た。
皆、例外なく血に濡れ、もう二度とそこから動き出す事など無いのだ。
どうしてここまで残酷な事が出来るのかと、濃厚な血の匂いが充満する中で自然と拳を握り締めていた。
そして何より、あの殺人鬼は一体何が目当てなのか。それが見ていてもイマイチ分からない。ローブを被っていて表情もフードのせいで窺えないし、おまけに仮面まで着けているようだった。
どこをどう見ても、快楽殺人や頭のネジが外れた様には見えない……まるで、殺人そのものが何かを成す上での作業のような、そんな印象を受けた。
――胸糞が、悪くなる。
同時に、コイツらを死なせる訳にも行かないと、自分の前を走る友人たちに目を向ける。
先頭から五百蔵とその後輩四人、アレン、興佑、麗奈。
「おい、聞こえるか慶司?」
「ああ。下は大混雑って感じか。皆もはぐれないように気をつけろ」
今も目指しているエスカレーター、その階下からは今も尚悲鳴や怒号が聞こえ、どうやら余り避難が捗っていないようだ。
もっともこれだけの大量殺人が行われれば、混乱してしまうのも致し方ないのかもしれないが、何にせよ階下へ降りれば俺達の生存率も跳ね上がる事だろう。
そう思って最後尾にいた俺もエスカレーターを駆け下りたのだ、が。
「は……?」
階下に降り、眼前に広がっていた光景に、俺を含め誰もが驚きの余り絶句していた。
何故ならば。
「おい! 早くここから出せよ!!」
「ドアが開かないってどういう意味だよ!?」
「電波も入らねぇんだぞ!? お陰で碌に連絡も取れやしねえ!」
「誰か、私の娘を知りませんか!? 十歳くらいの、赤いスカートをはいた女の子です!!」
「うるせぇ! んなもん知らねぇよ!!」
「皆さん、落ち着いて下さいっ! 今、係りの者が原因を探って居ますので……!」
「これが落ち着いて居られるかよ!? ドアが開かないどころか、窓ガラスだって蹴破れないんだぞ!? 幾ら強化ガラスだとしても、ヒビ一つ入らないのはおかしいんじゃねーか!?」
そこにあったのは、未だ誰一人として建物の外へ逃げ果せていないと言う衝撃的な光景であった。
一刻も早くここから逃げ出したい、そう思う余り出入り口の程近くには多くの人が犇めき、怯えた人々の怒号が飛び交う、そんな状況だったのだ。
「おいおいどうなってんだよ、こりゃあ?」
「出られないって言ってるけど本当かな? どうする、ケイジ?」
「どうするもこうするも……他の出口を当たるしかないだろ」
参ったと言わんばかりに頭を掻く興佑と、周りを見回しながら訊ねて来るアレンにそう答え、幾つかある内で最寄りの出口へ向かおうとするのだが。
「先輩、向こうも駄目みたいです。あと、ケータイも通じません」
「こっちもっす! 聞いた話だと皆閉じ込められているみたいですよ!?」
「はぁ? んな馬鹿な事があるかよ!? 何とか逃げ出せる場所はねーのか!? その辺の窓とか……!」
どうやら一足先に後輩たちを情報収集に走らせていたらしい五百蔵が、先程救出したばかりの女の子を抱えながら彼らの報告を聞いて目を剥き、かつどうにか出来ないものかと質問していた。
しかし後輩の報告はその望みすらも容易く断つ。
「無理ッス! どういう訳かどこも開きませんし、割れしないんで!! そこの窓を見ても分かる通り、どうやっても出られないみたいッスよ!!」
そう言って後輩の一人が指差す先には、ガラス製の自動ドアや周囲のガラス張りからどうにか穴を開けて抜け出そうと言うのだろう。必死に体当たりをしている人々の姿があった。
だが何をしてもヒビなど入る気配が無い。蹴っても、殴っても、物を叩き付けても、ビクともしないのだ。
「どんな事が起きたら、窓ガラスに罅すら一つも入らない状況になるんだ!?」
彼らの眼前にはガラス一枚、若しくは自動ドアを二つほど隔てて外の景色が広がっていると言うのに、そこへ出る事が出来ない。
外側の人間もショッピングモール内に入れない様子で困った様にウロウロし、駆け付けた警察官などが外から必死に蹴り付けたりしているが、破られる気配は無かった。
たった一枚二枚のガラスを隔てているだけなのにどうしてなのかと、その場に居た誰もがもどかしい気持ちを抱いていた事だろう。
「慶司、このままだとマズいよ。アイツがそのうちここへ来るかも……!」
「分かってる! ひとまず皆、ここから離れるぞ。五百蔵、その女の子の様子はどうだ?」
「ああ、まだ思考が追い付いていないみたいで……何の反応も無いな。目の前で両親が殺されりゃ、そうもなるって」
麗奈の言葉にハッとさせられ、取り敢えず騒いでいる所からは離れるのが吉と見た俺らは、幼い女の子の様子を気にしながら入り口から少し離れた場所に身を隠す。
漸く一息つけると、腰を落ち着けて皆の顔を見ても、全員の表情は優れない。
アレンや興佑、麗奈の顔には不安が覗いて居るし、五百蔵は不安そうな女の子をどうにか落ち着けようとしている。
「パパは? ママは?」
「大丈夫だ、大丈夫。まずは君自身がここから逃げ延びる、生き延びることを考えよう」
「五百蔵先輩、ちょっと俺......吐き気が」
「あぁ? しょーがねえ奴らだな。気持ちは分かるし、俺も同じ気持ちだが我慢しろ。トイレで吐く余裕なんてねえんだぞ」
彼の後輩四人組はと言えば、今頃になって恐怖感と凄惨な光景に対する嫌悪を覚えたのだろう、四人とも青い顔をして口を押えていた。
だが、それも無理の無い事だろう。今日一日だけで一体何人の人間が目の前で刺され、斬られ、殺された事か。
自分より遥かに年上の老人が、遥かに年下の子供が、その腹に命を宿した妊婦すらも、目の前で殺された。
泣こうが、叫ぼうが、喚こうが、潔く諦めようが、首を斬られるか胸を一突きにされて死んだ。
「何でこんな事が......まさか俺たちがこんな目に遭うなんて」
惨たらしく殺されるよりは良いかもしれないが、皆誰もが一撃で呆気なくその命を散らされるその様子は非常に淡々として、そこには命を奪う事に対して一切の感情が生じて無いようだった。
あれは一体何者なのか。そもそも、人としての感情を持ち合わせているのか?
人を家畜のように屠殺し、死屍累々の通路を無言で歩いていた彼の人物の姿を思い出し、その常人離れした身体能力に戦慄していたその時。
出入り口付近で騒がしくしていた集団の中から、誰かの叫び声が聞こえた。
「おい、奴が来たぞ!!」
――その言葉に誰もが固まり、そして俺達が先程降りて来たエスカレーターの方へと顔を巡らせる。
もっとも、俺達はエスカレーターの昇降口の裏、つまりは死角になる場所で身を隠して入り口付近の集団の様子を窺っていた為、この目で“奴”を直接確認する事は出来ないのだが。
しかし、それを確認せずともそれが事実である事はすぐに分かった。
それと言うのも、出入り口に群がっていた彼らが青い顔をしたと思えば、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らす様に逃げ出していたのだから。
「来たぞぉぉぉぉぉおっ!!」
「逃げろッ、逃げろぉぉぉおっ!!」
「畜生! 外はすぐそこだってのに、どうして出られないんだよっ!!?」
「いや、アイツを倒せば或いは……!」
「馬鹿、あんな化けモンに敵う訳ないだろ!?」
抵抗など、とうにした。あの殺人鬼へ、少し前に二十人程が凶器となり得る物を片手に待ち伏せ、奇襲した事があったのだ。
その結果、十秒と経たずに全滅。誰もが皆、一太刀の下に絶命させられていた。
俺はその一部始終を見ていたが、他でも似たような事をして似たような結果になっていたのだろう。もうそこに居た人々に、抵抗という文字は見当たらなかった。
「う、うわあああああっ!?」
「ぎゃっ!?」
「た、助けて」
人々は逃げ惑い、逃げ遅れた者は片端から刺殺、斬殺されていく。
繰り返される阿鼻叫喚は、殺人鬼が動き回る事でその後も三度ほど、あちこちに存在する出入り口に群がっていた集団を蹴散らす事で、地獄絵図のように展開された。
――もはや誰もが脱出を諦めて僅かな望みに賭け、ショッピングモール内で身を潜めて助けが来るのを待つのみ。
閉じ込められた人々がそう判断するのに、そこまで多くの時間を要す事は無かった。……ただし、待つ代わりに多くの犠牲を要す事となったのだが。
「警察はまだ来ないのかよ?」
「知らん。ここからじゃ外の様子なんて見えないし。電波も圏外じゃ、新しい情報なんて全く入ってこないからな」
どちらにせよ出口を探して動き回り、それで殺人鬼に見つかってしまうリスクを負うより、ジッと身を潜めた方が確実だろう。
俺もそう判断して、ショッピングモールの一階にある洋服店に全員で身を隠したのだった。
「ねぇ、パパは? ママは? どうしてまだ居ないの? あいたいよぉ……」
「おう、よしよし、分かったから泣くのをちゃんと我慢しとけよ。そうじゃ無いと会えないかもしれないぞ?」
五百蔵はそうやって女の子をあやしていたが、会える筈なんて無い。何故なら彼女の両親は、俺達と彼女の目の前で殺されたのだから。
もう既にべそを掻き始めた女の子をどうにか落ち着かせようと彼が心苦しさを滲ませながら言葉を尽くしていた。
そんな彼の様子を並べられた服の影から窺っていると、不意に横から話し掛けられる。
「ねぇ、慶司……こんな時だけど、キーホルダーありがとね。お礼言おうと思ってたんだけどさ、言いそびれちゃって」
「ホントだよ、こんな時に何言ってんだか。……どういたしまして。まぁ、感謝の言葉は改めて無事に脱出できてから頂戴しようかな」
「……おい、こんな時にリア充してんじゃねーよ。ったく、こっちは真剣だってのに、少しは緊張感持て」
「キョウスケの言う通りだ。イチャつくのはここから上手く逃げ果せてからやって欲しいかな?」
「「別にイチャついてない」」
何だかんだ言って茶化してくる興佑とアレンに心外だと言わんばかりに抗議するが、何の悪戯か麗奈と同時に同様の返答をしてしまった。
明らかに彼ら二人が余計に面白がっている気配が増す中、俺はそこで暗褐色の影を遠くに視認する。
「っ! ……全員、静かに。アイツが来た」
『……ッ!!』
その言葉だけで弛緩しかけていた空気が瞬く間に張り詰め、隣に居た麗奈だけでなく少し離れた場所に隠れている興佑とアレン、そして五百蔵やその後輩たちもその呼吸が一瞬止まる気配を感じた。
静まり返ったショッピングモール一階。現状この耳に聞こえるのは煩いくらいの鼓動と、こちらへと少しずつ近付いてくる硬質な足音。
カツン、カツンと死を振り撒く――まるで死神のようなそれが、こちらへ向かってきているのだ。
俺達が隠れているこの服屋まであと三十メートル、二十メートル……こちらの精神を意図的にじわじわと削っているのではないかと思いたくなる、彼の人物の足音と、気配。
「............」
早く通り過ぎてくれと思っても、そもそもまだ店の前にすら通り掛かって居ない、一秒が一分にも感じられる、今の心情。
そして恐怖の足音がこの洋服店の前に差し掛かり、それも半ばまで過ぎた時。
「…………」
殺人鬼の足音が、止まった。
その事実に俺は思わず自身の背中を粟立たせ、同時に唾を飲み込んでいた。喉が更にも増して急速に渇き始め、早鐘を打つ心臓のせいで手が震え、視界が震え、思考も定まらない。
今にも、呼吸が大きく乱れてしまいそうだ。
「…………」
ここまでの至近距離で気付かれたとあれば、恐らくもう逃げ場などない。あの身のこなしを考えれば、本気を出されたら一瞬で殺されて終わりだろう。
――これが、死に対する恐怖か。
今にも激しくなりそうな息を殺して完全な無言を維持しつつ、俺はゆっくりと服の隙間から店の外の様子を窺う。
だが隙間から覗いているのもあって視界が狭く、最後に足音がした辺りを見ていると言うのに殺人鬼の姿は何処にも無い。
もしや、足音のした位置を想定ミスしたのか……?
俺がそう思った、まさにその瞬間。
――俺が外を覗いていた服の隙間から、金色の目が覗き返していた。
「――ッ!!?」
息が、止まった。体が、動かない。目が放せない、閉じられない。言葉なんて、出る訳もない。
『気取られた』
認識するのを拒もうとする思考から強引にその答えを導き出し、屈んでいたその身を立ち上がらせようとしたその瞬間。
「ッ!!」
……剣が、身を隠していた服飾ごと俺の左腕を刺し貫いていた。
「う……がぁっ!?」
「慶司ッ!!?」
俺の横で同じく屈んで隠れていた麗奈が、酷く狼狽した声で俺の名を呼ぶ。
ただ幸いと言うべきか、俺は見つかってもすぐに動ける体勢であった事もあり、刺されたのは上腕。早い話、左腕が使い物にならなくなっただけである。
「……逃げろッ!!!」
即死を免れたものの、激痛で悶えたい気持ちを堪えながら、俺は絞り出すようにそう叫ぶ。
その指示を受け興佑、アレン、麗奈、五百蔵とその後輩らは女の子を連れて二手に分かれて逃げだした。
俺と麗奈も同様に走り出し、興佑、アレンの二人に合流。女の子はもう一方に逃げた五百蔵と四人の後輩たちに任せ、もう滅茶苦茶に走りまくった。
「......!」
だが無情にもと言うべきか殺人鬼が狙ったのは、俺達五人組。それも執拗に、絶対に逃がさないと言わんばかりの執念で、されど走らずに歩いて、である。
追跡者はただ歩いている速度、対する俺らは出来る限りの速さで逃走し続ける。
だがどう逃げても、黒ローブの殺人鬼が絶対に俺達を見失わない理由は単純だった。
故に俺は、走りながら三人へ唐突に口を開く。
「……お前ら、ここから俺は別行動で行く!」
「ケイジ!? 何で!? 一体何を考えてるのさ!?」
「何もクソも無いさ。あの殺人鬼が俺らを追跡出来るのは、この腕から流れる血が原因なんだ。このままじゃどう逃げても捕まっちまうし、この辺で別れとくのが良いだろ」
言いながら周囲を見回せば、この辺でも殺戮劇が繰り広げられたのだろうか、無数の死体が転がり多くの血だまりを作っていた。
良く見れば倒れている彼らの手には鈍器と成り得るゴルフクラブなどが握られており、どうやら彼らは殺人鬼に戦いを挑んで悉く返り討ちにされてしまったらしい。
何にせよこれだけの血があれば、俺の腕から垂れる血も簡単に隠れる。その上で他の四人が別行動を取れば、十分にやり過ごせる確率は上がるという事だ。
「そう言う訳でごめん……後は頼むわ。上手くやれよ?」
「うん、そっちもね」
作り笑いを浮かべてそう言えば、寂しそうに笑うアレンが短く答えた。
それっきり会話を終え、追って来る殺人鬼の目に付かないうちに俺達は二手に分かれたのだった。
俺一人と、アレン、興佑、麗奈の三人。
片や血に塗れた場所に身を隠す為に、片や隠れる場所の多そうな場所を目指す為に、それぞれが別々に動き出したのだ。
◆◇◆
「…………」
べちゃりと、水のようなものを踏んだ音が耳朶に触れる。
鼻につくのは、咽返りそうになるほど濃厚な血の匂い。
周囲に目を走らせれば数十にも上る、物言わぬ冷たい抜け殻が転がっていた。
「…………」
その中にあって動く影は僅かに一つ。それと、息を殺して潜む影が一つ。
剣を右手に歩き回る黒い影は非常にゆっくりな、どうやら警戒しているらしい足取りで死体を跨ぎ、まだ完全には固まって居ない血を踏む。
それを俺は、無残に転がる死体の中に混じりながらジッと睨んでいた。
あと十歩、九歩、八歩、七歩……。
早く通り過ぎてくれよと願っていたのに、着実に殺人鬼の影はこちらを目指して真っ直ぐに歩いてくる。
間違いであってくれと、何度念じた事か。
しかし俺が身体を横に倒して死体のフリをしている場所はフロアの隅の方であり、壁しかない場所へ向かってきていると言うのに、殺人鬼の目的地が俺以外に何かあると思えるのだろうか?
「...........」
……いや、もう既に死んだフリをしているのは気付かれていると考えて良いのだろう。
思えば、服屋でも完全に姿を隠していたと言うのに呆気なく看破されたのだ。
どう考えても常人では絶対に不可能であろう芸当を再度見せつけられ、驚くと同時に何処か笑い出しそうになる自分が居た。
「…………」
「…………」
俺の転がっている場所まで、残りゼロ歩。
もはや気付かれていない可能性など微塵もなく、薄っすらと開けていたこの目には血に濡れた黒い靴が目前まで迫っていた。
そして。
俺の首目掛けて振り下ろされた剣は、凄まじい音を立てて、床を叩き斬って終わった。
「……ッ!?」
「危ねっ!?」
僅かに目を見開いた相手に対し、その瞬間を見計らったかのように跳ね起きると、その右手に持ったゴルフクラブを斜めに振り被り……ひと息に振り下ろす。
そうして振り下ろされたゴルフクラブの先端は、過たずに勢い良く相手の側頭部を直撃していた。
「よっしゃあ!」
「……!」
それによって相手もそれなりに打撃を被ったらしく、僅かばかり体勢を崩していた。
その確かな手応えと共に俺は一気にその場から離脱すると、その先端を油断なく相手につきつける……いわゆる残心を取る。
仕留め切れていなかった場合の相手からの反撃に備えるそれは、俺が中学時代剣道部に所属していた頃に教えられたものだ。
高校では帰宅部だし、竹刀とゴルフクラブでは勝手が違う、ましてや片手打ちのために敵が完全に沈黙してくれるとは思えなかった。
故に残心を取った訳だが、結果的に見るとそれはやはり最良の選択だったらしい。
「……」
「っ!!?」
気付けばすぐ近くにまで迫って来ていたその影に驚倒した俺は、咄嗟に右へと緊急回避をしていた。
直後には俺の頭があった場所を剣が通り抜け、無理な体勢で避けた為に無様に死体と血の上に転がるが、そんな事を気にする余裕もあればこそ。
ほんの少しでも回避が遅れていれば一瞬で死んでいたという事実に、ただゾッとする。俺が残心の為に相手と取った距離は、決してその場からひとっ跳びで行けるような距離では無かったのだ。
「化け物がっ!」
どう考えても取りすぎなくらいの、六メートル以上の距離は取っていたと思う。だと言うのにあの殺人鬼は、その距離を一瞬で喰らい尽し、こちらを殺そうと剣を薙いできた。
その身体能力も、分かっては居たが到底人間とは思えないものだった。
……こんなの勝てるかよ。
技とか、技巧とかがもし仮に自分にあったとして、しかしそれらを駆使して戦う間もなく一気にやられてしまいそうだと、死体の上から跳ね起きながら俺自身の圧倒的形勢不利を悟っていた。
「畜生がッ!!」
だがそれでも、俺は振り慣れないゴルフクラブを右手一本で振るい、力の入らない左腕をぶら下げながら相手へ挑んでいく。
いや、挑んで行かざるを得ない。
逃げるにもこの腕では血を流した後を付けられるし、そうでなくとも馬鹿げた身体能力を持つこの人物相手に追いかけっこで勝てるとは思えないのだから。
逃げても精々生き延びる時間が少し長くなる程度で、下手すれば何もできずに殺される可能性の方が大きい。
……だったら、せめてもの抵抗を。
もう既にここで死ぬかもしれないと感じていた俺は、それでも持てる力を総動員し、我武者羅にゴルフクラブを振るった。
「こんのぉぉぉぉぉおっ!!」
「…………」
力一杯に振るわれるそれを、殺人鬼は無言で無造作に剣の腹で受け止め、時折反撃と言わんばかりに突いてくる。
人の首すらも簡単に切断できるその剣ならば、刃筋を立ててゴルフクラブを受け止めれば、それだけで切断するに足るのは想像できると言うのに、である。
何よりあの剣は切れ味だけでなく、耐久性もおかしい。
「この、このっ!」
「............」
実際、死体のフリをしていた俺の首を落とそうとして振るわれた剣は床を破壊し、しかも刃毀れしていないのだ。
それだけ素晴らしい性能を持つ剣なら、その身体能力も併せて簡単にこちらを斬れそうだと思いながら、それでも俺はゴルフクラブを振るう手を休めはしなかった。
フードを被っている上で仮面までも付けているそいつの素顔を窺い知る事は出来ないが、果たしてその下では何を思い、どんな表情をしているのか。
「............」
多分、こちらは遊ばれているのだろう。
余裕など殆ど無い頭の中で、丁度その考えが勝手に過って来たその時。
「……かはッ!!?」
気付けば俺は、殺人鬼によって腹を蹴飛ばされていた。
肋骨が嫌な音を立てて軋み、強制的に息を吐き出させられた事で、宙を舞いながら体をくの字に曲げる。
自分はここまで簡単に飛ぶほど軽かったものかと、無様に背中から床に叩き付けられながら思うが、すぐに腹の奥からせり上がって来る何かの感覚に思考が塗り潰される。
「げほっ、げほっ!! ……これ、は?」
その咳を手で塞ぐことも出来ず、そして喉から吐き出された相当量の吐瀉物、そして血を見て俺は愕然とした。
生まれてこのかた血なんて吐いた事が無いのだから当然だろう。
どちらにせよ、腹の中が焼けるように熱い。これまで味わって来た腹痛などとは訳が違う、明らかに重傷のようだ。
「っ」
強かに打ち付けた背中の痛みと、蹴られた腹の激痛。それらを必死に堪え、ゴルフクラブを握り直した俺は蹴飛ばしてくれた張本人を睨み付ける。
ゆっくりと歩んで来る殺人鬼との距離は七メートルほどだろうか。
その後方には纏まって殺された数十人の死体がある事を考えると、俺は実に十メートル近くも吹き飛ばされたらしい。
「全く……どんな、威力だよ」
口腔内全体が血の味がする事に不快感を覚えつつ、立ち上がった俺はそう零していた。
自分が吐血した事で明確に意識できた、死。もう逃げても意味がないと分かっているのに、怖くて仕方ないし、震えが止まらない。
蹴り飛ばされた事で開いた距離を幸いと、俺は無駄だと理解しつつも逃げ出す。
「……っ」
けれど、やはり振り切れない。
そう思いながら到達した場所は調理用品店のコーナーで、投げ付けるに適した中々硬そうなものが幾つも揃っていた。
これなら或いは…………。
そう思って今も迫りくる殺人鬼を睨みつつ、最も近くにあった俎板を掴もうとした、丁度そこで。
突如、俺を目指して歩いていた殺人鬼に左右からそれぞれ二本ずつ……合計四本の包丁が、投げ込まれていた。
「……?」
商品を並べた棚の影から奇襲に近い形で投げられたそれを、しかし殺人鬼は黒ローブを靡かせていとも簡単に避けてしまう。
だが咄嗟の事でもあったのだろう、彼が少し体勢を崩してやや後ろに体重が乗ってしまったところで、二つの見慣れた人影が飛び出していた。
興佑とアレンだ。
「「うぉぉぉぉおっ!!」」
二人共片手にフライパンを、もう片方に包丁を持ち、彼らは躍り掛かって居たのだ。
振るわれるフライパン、突き出される包丁。
もしかしなくても、隠れた丁度その場所に吹き飛ばされた俺を見て耐え切れずに助けに来てくれたのだろうが、ハッキリ言って彼らの動きは素人そのもの………どう見ても、なっていなかった。
「何してんだよ、お前ら!? そんな事してないで逃げろ! どうして、こんな場所に居る!?」
「こっちが隠れてたところに来るからでしょ!? それに、アンタこのままじゃ死にそうだし!」
「……っ!」
俺を庇う様に、殺人鬼の前進を阻む様に滅茶苦茶な攻撃を加える彼ら二人に下がれと伝えるのだが、そこで背後から聞き慣れた少女の声が耳朶に触れた。
実際のところ、その指摘はもっともであったから一瞬だけ言葉に詰まってしまうけれど、それでもすぐに彼女へ言い返す。
「このままじゃ全滅だろーが! 麗奈、お前だけでもすぐにここから走って逃げろ!! 良いな!?」
「嫌だよっ! シーグローヴ君達が、慶司の為に戦ってるんだし! こんな所で引き下がれる訳無い!!」
「それが余計なお世話になるってんだよ! 徒死になるぞ!! これじゃ二手に分かれた意味ねぇってんだ!!」
と、腹の激痛を堪えて俺が言っている傍から、明らかに手加減している殺人鬼の一振りをフライパンで受けた興佑が大きく体勢を崩していた。
そしてそこへ更に追い討ちが掛けられんとするが、そこを俺が俎板を投げ込む事でカバーする。
「わ、悪い、助かったぜ慶司……」
「んな言葉は良い! とっとと下がれ! 死にたいのかよ!?」
「……くっ!」
その一喝で強引に興佑を下がらせると、俺は空いた右手に再度ゴルフクラブを持ち直し、未だ戦うアレンに加勢した。
「ケイジ! 血が出てるけど、大丈夫なの!?」
「大丈夫な訳ねーだろ! お前らが余計な事するから無理してでも動かなきゃいけねーんだよ!」
「けど、こうでもしないと君が危なかったじゃないか!」
怒鳴れば、今度は怒鳴り返される。
確かに彼の言う通りではあるが、先程麗奈にも言った通り、分かれたのは生存率を上げる為であったのだ。
なのに俺の為に力を貸していては、全く以って途中で二手に分かれた意味を成さない。最悪俺だけ死ぬのであれば、それはそれで嫌だが他の三人が助かればまだマシであった。
だというのに彼らは手負いの人間を態々庇って、自らの生存率を下げる真似をしてくれたのだ。
「危ない危ない言って助けるのは勝手だけどな! それで死なれた俺はどうすりゃ良いんだよ!? 分かったらここから離れろ!」
「「嫌だ!」」
「この……言うこと聞きやがれやぁ!」
梃子でも動かないと言わんばかりの返答に苛立ちそう叫びながら、俺は力任せにゴルフクラブを振るっていた。
「………」
だがここに至って殺人鬼は方針を転換してきたらしく、その一振りに対して刃筋を立てて受け止めると、あっさりゴルフクラブを両断していたのだった。
そうなると、ゴルフクラブという鈍器の持つ性能は皆無となってしまって、つまるところ俺の戦闘能力が低下した事を示していた。それも、剣の届く間合いで、だ。
これがどれほど致命的なものであるかは、素人にだって簡単に分かるものである。
「やべっ――」
「「「慶司ッ!?」」」
たった一度、刃を立てて受け太刀されただけで俺の得物を両断され、勢い余って蹈鞴を踏んでしまい、他の三人が悲鳴でも上げるかのように俺の名を呼ぶ。
当の俺も一瞬で状況のマズさを悟り、仮面の下から覗く殺人鬼の金眼がこちらの左胸を見据えると同時に、死を覚悟していたのだった。
「――――ッ!」
やられた……そう思ったその瞬間、剣が胸を刺し貫いた。
――ただし俺のではなく親友の、桜井 興佑の胸を、であるが。
「きょ、興佑ッ!?」
「がはっ!?」
一拍置いて大量に吐血した彼に、俺は突き飛ばされて無様に転がった姿勢のまま、その名を叫んでいた。
だから下がれと言ったのに、おまけに俺が無理に相手へ斬りかかったせいで、アイツは俺を庇って胸を刺された。
「……あと、宜しく」
胸に刺さった剣が引き抜かれそのまま一気に脱力し、膝を折って背中から倒れ込んでいく。
そして彼は微かに笑いながら一つ言い遺すと、それきり動かなくなっていたのだ。
「……」
あとに訪れるのは、僅かな時間の静寂。
空気の流れすら止まったのではないかと言いたくなるそれと、一気に俺の心を支配する凄まじい悔恨の情だった。
あの時こうしておけば、或いはこうだったら――。
ちょっと前までの、見ず知らずの他人が目の前で殺されたのとは訳が違う。正真正銘、自分の良く知る親友が、今ここで、目の前で自分を庇って殺された。
「嘘、だろ……?」
「ケイジ! ダメだ、そんな所で固まったら狙われるぞ!」
こんな事、信じられない。すぐ近くでアレンが何事かを必死で叫んでいるが、しかしそんな事を気にしている余裕なんて無い。
興佑は、桜井興佑は、中学校の入学式で知り合った俺の親友だったのだから。
そこから一度も違うクラスになる事無く、そして互いに憎まれ口を叩きながら笑い合った、アイツ。
教室で、通学路で、休日で。
今は別の高校に進学した奴らと一緒に、心地の良い、気の置けない時間を過ごした親友が、殺されたのだ。
俺のせいで、俺を庇って、彼が殺された。
出会ってから四年と少し。
見慣れた人懐っこい笑顔が、聞き慣れた声が、もう二度と俺に知覚される事は無いだろう。
だって彼は、俺の目の前で殺されたのだから。
「あ、あ......」
俺のせいで、桜井興佑は死んだ。
それらの昏い、後悔の沼に沈んでいた俺の思考は、しかし唐突に引き戻される。
――何故ならば。
「ケっ、ケイジ! ……に、逃げ、て……」
肉を刺す音と、血の滴る音。そこから一拍置いて、苦しそうに言い遺された、もう一人の親友の言葉。
その悲しそうな、吐き出すような言葉を最後に、アレン・シーグローヴの体は斃れていた。
ハッとして目を向けてみれば、丁度その、斃れた彼の大きな背中が見える。剣が心臓を貫通したのだろう、紅く空いた細い穴からは止めどなく鮮血が溢れ出し、床を紅く染めていた。
「あ、アレン!?」
その彼の死に顔は、どんなものだろうか。
悔しそうだろうか。悲しそうだろうか。辛そうだろうか。それとも、恨めしそうだろうか。
しかし俺を庇う為に背を向ける形で俯せに斃れた彼の顔を、目の前に殺人鬼がいる状況で知る術など在りはしなかった。
ただ真紅の液体を垂れ流し、急速に冷たくなっているであろう彼の身体を眺めるのみ。
「嘘、だろ? 冗談だよな?」
興佑だけじゃない。アレンも、死んだ。
殺された。剣を持った、殺人鬼に。無慈悲に、無造作に。家畜のように。
アレンと知り合ってから一年と数か月。興佑に比べれば短いと言えるかもしれないけど、それでも俺にとっては間違いなく親友だった。
金髪蒼眼の欧米人然とした、体格。話してみれば非常にフレンドリーな、性格。
「嘘だ、嘘だっ!」
こちらが困って居れば、自然とフォローに入ってくれる、非常に頼りになる、アメリカ出身の少年。
しかしそんな彼も、もう居ない。
抜け殻だけを遺して、もう二度と会えない。
「あ、ああ……!」
彼もまた、俺と出会わなければ、俺がここで不覚を晒さなければ死ぬ事などなかっただろう。
俺が家族の話を振れば、両親の事を心底大切そうに、笑いながら語っていた親孝行な彼は、俺のせいで死んだ。一切の物音が失せ、静寂が辺りを支配する中で、俺は自然と涙を流していた。
悔しい。悲しい。辛い。痛い。赦さない。憎い。
……何よりアイツを、殺してやりたい。
ピクリとも動かなくなった親友たちの亡骸。
それらを足元に転がす、剣を持った黒外套の殺人鬼を睨み据え、今も身体を駆け巡り続ける激しい後悔と激痛に抗う。
――あの時、俺が無闇に斬りかからなければ、こんな気持ちにならずに済んだのだろうか。
友に庇われるくらいなら、むしろ庇ってやりたかった。
彼らと、もっと一緒に過ごしたかった。
まだまだ続く腹に熱湯が溜まっているかの様な痛みを堪えつつ、自然と頬を涙が伝う。
「......!」
なんて情けない奴なんだ、俺は。自分の為に、親友を二人も死なせてしまった。果たして俺に、そこまでして守ってもらう価値なんてあったのか? むしろあの二人の方が守られるべきじゃ無かったのか?
仲の良い二人の親友を間近で殺され、その原因を作ってしまった俺は自責の念に押し潰されそうになり、俺はもはや抵抗も諦めようとしたのだ、が。
「けい、じ? ……嘘でしょ、桜井も、シーグローヴ君も、二人共、死んじゃっ、た……の?」
「っ!!」
不意に耳朶に触れた麗奈の呆けたような、まるで眼前で起こった事実の受け入れを拒むような声が、諦めかけていた俺の意識を引き戻す。
そうだ、せめて幼馴染で親友のコイツだけでも――。
それに五百蔵は? いや、アイツの姿は無い。後輩たちと逃げたのだろうか? ならば良かった。これだけの犠牲を払って、誰も生き残れないよりは何倍もマシだろう。
「そうだ」
そこで更に俺が時間を稼いで、麗奈も逃がそう。俺を含めてたった三人の犠牲で麗奈と五百蔵、そして後輩四人と女の子の命が守れるなら、やって見る価値はあると言うもの。
絶対に、彼女を生きて帰す――そう思って先の無いゴルフクラブを握り直し、殺人鬼を睨み据える、が。
「居ない……?」
「……どうしたの、慶司?」
先程まで俺のすぐ近くに居て興佑とアレンの命を無造作に奪ったクソ野郎の姿は、もう既にそこには無かった。
ならば、アイツは一体何処へ行ったのか――。
そう思いながら辺りを見回した俺は、それを見て呼吸が、動きが、視線が、止まっていた。
「……麗奈、後ろォッ!!?」
「え?」
首を傾げ、不思議そうに問うてくる麗奈。
そして、その後ろに立っている――親友の、仇。
暗褐色のローブを纏い、剣を持った、憎き殺人鬼。
ダメだ、逃げろ。
余りに想定外だった事で反応が遅れ、漸く言いたい事が浮かんできてそれを叫ぼうとした、矢先。
「………」
――剣が、彼女の胸を貫いた。
一拍遅れて彼女の口から溢れ出す、大量の鮮血。
その咳き込む様に吐き出された血の飛沫は、俺の顔にも僅かに付着するが、もはやそれは些末な事だった。
「れ、れい、な……ッ!」
「ごめ、んね……慶司。あんなに逃げろ、って……言って、くれてた、のに……」
手を伸ばし、漸く声を絞り出して彼女の名を呼べば、少女は口から血を流しながらニコリと微笑む。
痛いだろうに、辛いだろうに、彼女は俺は向けて笑って見せたのだ。
「アンタは、生きてね。……だか、ら、私の……」
そして、彼女が全てを言い終わる前に、その身体が俺の方へと力無く倒れ込んでいたのだった。
胸から鮮血を流し、かつ弛緩したその身体は慌てて駆け付け受け止めた俺の体の肩に力無くのし掛かり、そして糸の切れた人形のように一切動かない。
「……あぁ」
死んだ、彼女が。
麗奈が、死んだ。
俺は無力だ。無能だ。今さっき、守ろうと心に決めたばかりの幼馴染の少女一人救えやしない。むざむざと親友を二人も目の前で殺され、挙句はたった一つの決め事すら守れない。
どうして俺はここまで無力なのだ。何も出来ないのだ。
それだけじゃない。何で? どうして? 何故彼らは死んだ? どういう訳で殺されなきゃいけなかった?
……そんなものは、いくら考えても分からない。
ただ、俺が変なミスをしなければ、強引にでも下がらせておけば、そして、殺人鬼のコイツさえいなければ、こうはならなかった。
そうだ。そもそもコイツさえ居なければ、誰も死ななかったのだ。
このショッピングモールに居た客や、興佑、アレン……そして麗奈が、死ぬことは無かった筈なのだ。
「............」
けれども、まだ終わって居ない。何処かに、五百蔵がまだいる。……守らなくては。
何度も俺の頭を過ったその考え方たちが、もう殆ど余力など残っていない、ただ猛烈な後悔と痛みだけが残って居た俺に、なけなしの力を絞り出させた。
気付けば、先が切り落とされた事でより鋭利になったゴルフクラブを逆手に握り、一気に飛び掛かっていた。
「お前がぁぁぁぁあっ!!」
「…………」
もはや構えも何もないただ滅茶苦茶な、愚直な攻撃。
当然それは殺人鬼も分かっているのか、もう面白くもなさそうな態度を明らかに出し、無言で冷めた目を向けていた。
完全に油断している、俺と言う存在が自分に勝てるとは思っていない――確かにその通りだろう。
この胸糞悪い奴が思ってる通り、勝つ事なんて出来やしない。
けど、一噛みくらいはやらせて貰おうか。
剣を腰だめに構え……どう見ても首を飛ばそうとしているヤツの、その技の起こりを狙い澄まして、俺はゴルフクラブを投擲していた。
「うぉらぁっ!!」
「……ッ!?」
こちらが完全に頭に血が昇っているとでも思ったのか、俺が投擲してくるとは考えなかった様で、殺人鬼は投擲されたそれを弾くのが僅かばかり遅れてしまう。
そしてそこへ、剣を振るうにも近過ぎる程の至近距離まで近付いた俺は右腕を大きく振りかぶり――――。
「あぁぁぁぁぁぁッ!」
「……ッ!!」
相手の左頬へと叩き込まれた渾身の右ストレートは自分の拳が壊れるのも厭わず振り切られ、そして彼の付けていた黒塗りの仮面を吹き飛ばしていた。
カラン、という仮面の落ちた音と共に露わになったのは想定外の苦痛と屈辱に歪む、男の表情。
「っ!」
「へへっ、やったね。ザマぁねえや!!」
今の今まで声の一つも漏らさなかった相手に僅かでも声を出させ、素顔さえも晒させた。
正直、右ストレート自体はそこまで効いている様には思えなかったが、それでも相当に屈辱を与えた事は確実だろう。
「ぐぅっ!?」
「............」
何故なら直後には男が憤怒の表情で剣を振り被り、俺は肩口から腰にかけてを斜めに斬られる――袈裟斬りを受けていたのだから。
もっとも、これで俺がすぐに死んだかと言うとそうでも無く。
「……雑魚だなぁ、俺に一杯食わされてやんの」
傷口の辺りを焼けるような痛みが走り、力無く仰向けに倒れて行く中でも、俺はまだ生きていた。
未だ鮮明な意識は右手でアイツを指差して、煽る様な顔で、口調で、言いたい事を言わせてくれていた。
「………!」
すると自分が馬鹿にされた事だけは分かったのか、忌々し気に聞いた事も無い言語で何かを呟くと、男は右手の剣を逆手に持つ。
どうやら、止めを刺す気らしい。
その、やけに遅く感じる動作と時間の中で、俺はふと思う。
――そう言えば、麗奈が最後に言った『生きろ』って言葉、守れなかったな――。
そんな事を思った直後、俺は心臓を、止めを刺されていたのだった。