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キオクノカケラ  作者: 新楽岡高
第二章 イテツクココロ
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失踪FLAME②


◆◇◆



 木々の隙間から日が照る中、通行人など何処にも見当たらない、獣道のようなそこを一人で歩く。

 目的地なんて無い。ただ、漫然と。


 ボニシアカ市から離れられればどこでも良かったのだ。


「……」


 まだ、アロイシウスを殺してから二時間と少し程度しか経っていない。


 この手は未だに人の肉を突き刺した感覚を鮮明に思い起こさせ、しかしそれだけだった。


 もう少し時間が経てば少しは何か思う事があるかと思ったのに、こうして時間をおいても無感動のままだ。


 それどころか、疲労のせいかもしれないが、もはや何を目にしても何の感慨も無い。


 ただひたすら、何も考えられない頭で何処へ続くのかも分からない廃道のような荒れた道を、重い足取りで行く。


 そうして、更にどれくらい時間が経っただろうか。


 陽も傾き始めて来た事に気付いた時、この耳が微かに水音を聞きつけていた。


 聞き間違いではないかと、一度足を止めて耳を済ませれば、やはりそれは左前方に存在するようだ。


 何の感情も湧いてこないとは言え、喉は渇くし腹も減る。


 漫然と動いていたせいで疲労を無視できていたが、そうして居られない程疲れも蓄積していたらしい。休憩も兼ねてそちらへ足を向けていた。


 あわよくば水浴びや水の補給もしてしまいたいし、髪を紅く染め直したい、そう思っての事だったのだが、無作為に生える木々の間を抜けた先にあった光景は。


「チッ……!」


 眼下を流れる濁流は、今日激しく降った雨のせいか荒れ狂い、幾らかの木々を押し流していた。


 しかも川面までは断崖絶壁を下り、大雑把に見積もっても四M(メトレ)以上ありそうであったのだ。


 仮にこの流れが普段通り清流だったとしても到底利用する事は叶わないであろう事は想像に難くなく、思わず溜息が漏れた。


 同時に、その落胆と言う感情が起こった事に伴って、疲労が倍加したみたいに体へ圧し掛かって来る。


「今日はこのくらいで、いいな」


 休憩ではない。そのまま野営してしまおう。


 断崖から身を翻し、少し離れた木の幹に寄り掛かってそのまま座り込む。


 ぼうっと、そこから対岸や赤くなりそうな空を眺め、ゆっくり息を吐いた。


 ずっと右手に握っていた槍を手放して地面に寝かせ、完全に無防備な格好になる。


 静かで、どうしてか心が安らぐ。


 轟々と流れる濁流の水音も、気にならない。空を飛ぶ小鳥の囀りと変わらない、子守歌のように感じられた。


 一人で居るのは楽でいいと、不意に思った。


 裏切り信頼云々ではなく、ただ静かで、常に自分の調子で居られるから。


 思い返せばここ暫くは都市暮らしだったし、ほぼ常に周りには誰かいた。


 宿で寝泊まりしていても、隣の部屋には誰か居る訳だし、街を歩いていても人だらけ。


 そのせいで知らず知らずの内に気疲れしていたのだろう。


 肉体的な疲労もあって心地良さに負け、気付けば舟をこぎ始めていた時、それ(・・)は来た。


 ――パキリ、と何かが折れる音が耳朶に触れる。


 元々ボニシアカ市に滞在する前は散々野宿してきたのだ。その音にすぐに反応し、素早く意識を覚醒させた。


 けれども下手に動いて音の主の気を引くわけに行かない。両眼を開いて耳を澄ます以外、下手には動かない。


 果たして、この音の正体は何か。


 何が目的か。


 それを突き止めるまで、自分から居場所を主張するような真似をしたくなかったのだ。


「……」


 再び聞こえる、何かを踏み割る音。それに、人間とは思えない思い足音。


 極め付きは、獣のような粗い呼吸音。


 それは何かを嗅ぎ分けている様で、最悪な事にここへ真っ直ぐに迫ってきているらしかった。


 気付かれ、狙われている事実を認識した時、背中が一気に粟立つ。


 只事では無さそうな気配を感じ取って、尚更音を立てないよう細心の注意を払い、出来る限り息を殺した。静かに武装を持つと、座り込んでいた場所から移動を始める。


 しかし、距離を取ろうとしても足音は絶対に離れず、必ず付いて来た。


 それも着実に距離を詰めて、だ。


「何だ、何なんだよ……っ!」


得体の知れなさに尻を叩かれる様に、疲労の溜まった体に鞭打って兎に角逃げて、とうとう駆け出す。


 このままでは絶対に追い付かれてしまうと思ったからこその事だった、が。




「――ッ!?」




 こちらを追跡してきていた何かは、進路を阻む木々を薙ぎ倒しながら突進して来ていた。


 その速度は驚異的で、瞬く間に差を縮めると首筋に獣の荒い吐息が掛かりそうに思える程、近い距離に迫って来ていたのだった。


 鼓膜を揺らす獰猛な呼吸音に、本能が警鐘を鳴らし続ける。


「……!」


 遂には俺の背中が攻撃範囲内に入ったのか、あんぐりと開けられる大口と、ギラリと生えそろった鋭牙。


 くらえば一溜りも無いであろうそれを、受け身を取り損ねるのも覚悟で、右側へ身を投げ出していた。


 一拍も置かず、元居た場所からは歯の打ち鳴らされる音が聞こえ、靴先が微かに何かと掠る。


 ヒヤッとしたのも一瞬、すぐに全身を無茶な体勢で回避した代償が襲い、無様にゴロゴロと地面を転がった。


 それでも痛みを堪えて槍を片手に起き上がり、構えてしっかり襲撃したものと対峙してみれば。


「コイツ……あの時の!」


 獣のような姿なのに毛皮の無い、鱗を持つ怪物。


 気色の悪い、目を持たない三匹の蛇のような尻尾を持つ怪物。


 今日、アロイシウス達と共に遭遇し、そして裏切られる原因となった存在。


 そして、これが居るという事は――。




「なーんか血生臭ぇ匂いがすると思って探ってみれば……まさか今日会ったクソガキとはなぁ?」




「お前っ……!」


 あの気色悪い怪物を従えているらしい、ローブを纏った男の姿もまた、そこにあった。


 その顔には相変わらず余裕の表情が見て取れ、舐め腐った様な目で俺を見据えて離さない。


「幾らこっちが油断してたとは言え、あの時は良くもやってくれたな? お陰で暴走した二十六番(コイツ)を鎮めるのに結構な時間と手間が掛かっちまったんだぜ?」


「自業自得だろ。それより、俺に構わないでくれ。こっちは疲れてんだ」


「ハンっ、無理な注文をしやがる。白儿(エトルスキ)を前にしてどうして見逃す事が出来ようか、ってな」


 肩を竦め、しかしそれでいてその目は細めながらも一切外さないその姿勢は、もう油断しないという彼の意思表示なのだろうか。


 それに負けじと睨み返して、同時に全身へ魔力を行き渡らせる。


 勝てるかは分からない、でもやらなければ勝てない。


 抗わなければ全てを失う。


 無力な者に、世の中は慈悲を掛けてはくれない。寧ろ、更に奪い掛かって来る。


 最初から、抗う事を投げ出す訳には行かないのだ。


「……ところで、都市から昇ったでっけえ白い光、アレお前の仕業だよな? ばっちり見えてたぜ」


「あっそ。別にお前如きに見せたつもりねえよ」


 面白そうに、楽しそうにニヤニヤと凶悪に思える笑みを浮かべる男。彼へ嫌悪感を隠さず応じるが、しかし不快そうな雰囲気を纏う様子は見えない。


 挑発が不発に終わった事を理解しつつ、いつでも攻撃を仕掛けられていいように白弾を形成していると、不意に気付く。


 男の笑みが、更に深くなっている事に。


「……何だよ?」


「いやぁ、お前がそこまで素質(・・)あるんなら、益々逃がす訳に行かなくなっただけだ。絶対にここで、俺に捕まって貰うぜ?」


「言ってろ。出来ると思うんじゃねえぞ」


「生憎、俺は出来ると思った事しか言わない口でね」


 ゴキリ、と男が拳を鳴らし、首を鳴らす。


 次いでだらりと脱力したと思った、その次の瞬間。


 ……男の姿が消えていた。


 あっと思った時にはもう、獰猛な色を宿した男の瞳が眼前に存在していたのだ。


「――ばっ!?」


 馬鹿な。ありえない。やはり何度見てもあり得ない。人間業とは思えない。目ですら負えないなんて事が、あるなんて。


 それが至近距離ならともかく、相互の距離は十M(メトレ)はあった筈なのに。


 気付けば、首を大きな手でがっしりと掴まれ、それだけの事で動きを封殺されてしまっていた。


 言うまでも無く、勝負が決した。


 首と言う人体の急所を掴まれ、生殺与奪を握られ、動けない。


 動くなと、この目に映る男が無言で告げているから。


 動けば命は無いと、言外に脅し掛けているから。


 動きたくとも動けない。


 握った槍の一本、指の一本すら、動かすのを憚れるほどに。


「よしよし良い子だ。ちゃんと俺の言わんとしてる事が分かる見てぇだな。頭だけ小賢しい雑魚餓鬼とは言え、従順な奴は嫌いじゃねえぜ」


 驚きと恐怖で身動きどころか声も出せないのを見て、彼は愉快そうに笑う。


 そしてやや強く首を絞めて来つつ、面白そうに告げた。


「脈拍が早くなってるぜ? 怖いのか?」


「そっ……そんなこと!」


 圧迫感を覚えつつ、それでも意地で嘲りの言葉へ噛み付くが、この声は上擦ってしまっていた。


 より一層、面白そうに細められる彼の目は、その顔つきと相俟って非常に恐ろしく見える。


「また心拍が上がってら。別にそんな怖がらなくたって殺しゃしねえよ。無駄な抵抗すりゃ別だけどな」


「……無駄だって言える理由が何処にあるって?」


「あぁ?」


 彼の顔が怪訝そうなそれに変わった直後、男の頭上から白弾が一つ、落下した。


 密かに背後から打ち上げたそれの大きさは、拳大ほど。何かを察して見上げた彼の顔面へと、過たず直撃して衝撃波を巻き起こす。


 拘束されていた首は呆気なく男の拘束から解放され、衝撃に弾かれた形となって地面に背中を打ち付ける。


 同時に受け身を取りそこなって強かに後頭部を打っていたが、だからといって痛みに悶えてなど居られなかった。


 あの攻撃が果たして男に効いたのか、それを見極めながら残心をとる必要があったから。


 後頭部の痛みを無視して様子を窺ってみれば、果たして男は大の地となって仰向けに倒れていた。


「……ふぅ」


 攻撃が無事命中し、しかもそれで仕留められた事実に一息。乱暴に拘束されていた首を、確認するように首を撫でて、尚も震えそうになる体を落ち着けようと努めた。


 一方で本当に上手く行って良かった、虚を衝けて良かったと、心の底から安堵する。


 それから少し離れた場所でこちらを窺っている巨獣を見遣れば、どうやら乱入する気配が無いらしい。


 これ幸いと、そそくさこの場から逃走を図る、が。




「……待てよ。絶対捕まえるって言ったろ?」




 不意に聞こえて来たその言葉に、踏み出そうとした一歩が、そして体が、凍った。


 慌てて振り返ってみればあの男が立っており、しかも一切ふらつきの無い足取りでゆっくりと歩み寄って来ていたのだった。


 そんな、どうして、確かに直撃したのに、何故倒れない? 威力が弱かった? いや、人間相手には充分な威力の筈だ。


 頭から湧いて来る言葉が氾濫して、もはや口からは何の言葉も出てくれない。


 ただ、唖然と開いたきり動いてくれないのだ。


 さっきの一瞬は、隔絶した実力を持つ相手を退ける最高の機会だったのに、仕留め切れなかった。


 額から血を流している以外は大した外傷も見当たらず、ギラギラした目でこちらを見据えるその姿は、まさに絶望そのもの。


 敵う訳が無い、今まで相対して来た奴とは格が違い過ぎると、気付けば体の重心は後ろへ傾いてしまっていた。


「無駄な抵抗はすんなって言ったのに……ま、悪くない奇襲だったとは言っとくぜ。だが自由自在に魔力の弾を動かしても、俺を倒すにゃ威力が足りねえな」


 それでも傷を付けた事は褒めてやると、彼はやけに尖った(・・・・・・)歯を見せて笑う。


 まるで獣――獰猛な狼を前にしたような錯覚に陥り、引き攣った口から情けない悲鳴が小さく零れた。


「怖いか? けどもうおせえな。お前は抵抗を選んだ。穏便で安全に済ませる道を無為にした対価、払って貰うぜ?」


 男はその身に纏っていた外套を脱ぎ捨て、地面へと放る。


 そうして明らかになる、引き締まった男の体。服の上からでも十分にそれは窺い知れ、しかし筋肉は決して異常なほど発達している様には見えなかった。


 なのに、身体能力は異常に高い。


 何故なのか――そう思ったこの目が、男の頭部にある耳へと向かう。


 人が本来あるべき場所に、それは存在していなかった。側頭部では無く、獣がそうであるように、頭頂部近くに生えていたのだ。


 それも、短い毛に包まれた犬のようにピンとした耳。シルエットだけ見ればそれは角のようにも見えなくは無かった。


 またこの目は更に、男の腰から伸びる何かを捉える。


 それは長毛。いや、尻尾。


 狼のような毛色をした、尻尾だったのだ。


 長さは男の臀部から膝ほど、今まで気付かなかったのは外套で上手く隠れていたのだろう。


 人の体を持つのに、獣の部分を持つ見慣れぬ姿を前に、好奇と畏怖、その両方が混在する。


 話には聞いていたが、生まれて初めて見る存在、人種。


「……化儿(アニマリア)?」


「その様子じゃ、生で見るのは初めてだろ? どうだ、怖いかよ? 俺らを初めて見る奴は大抵怯えた目で見るからなぁ」


 諦観、呆れ、侮蔑、怒り……様々な感情の入り混じった表情と声の男は、肩を竦めた。


 恐らく彼もまた、今まで生きてきた中で様々な経験をして来たのだろう。


 下手をすれば今の俺よりも、だ。


 地域によっては、彼ら化儿(アニマリア)は迫害や差別の対象となっていると聞いた事は、一度や二度ではない。


 今まで人生の殆どを村という閉鎖空間で暮らして来た身なので、実際は知らない。人から聞いた情報だけだが、そうであっても少しは知っている。


 白儿(エトルスキ)ほどではないが、彼らも迫害の対象とされる民族である、と。


 しかし、そうであれば尚のこと解せない事があった。


「どうして迫害される側のアンタが、俺を狙う?」


 寧ろお互いに助け合った方が良いのではないだろうか。


 ここで潰し合うなどどう考えても余計な事にしか思えて仕方無い、そう思って男に問い掛けてみるのだが。


「今の俺は化儿(アニマリア)の為に働いている訳じゃねえからな。まぁ、そうでなくとも白儿(エトルスキ)のお前を逃がすような真似なんてする訳ねえだろ。例え腕の一本でも、どれだけの価値があると思ってんだよ? 人種なんざ関係なく、皆が欲しがる素材だったんだぜ?」


「……あっそ。じゃあ、誰の為に働いてんだよ?」


「気になるか? 付いてくれば分かるさ。ただし、お前を十分に痛め付けた後でな」


 言いながら額の血を拭い取り、彼は口元まで流れた己の血を舐め取る。


 それに続けて、待機させていた怪物へ視線を向けて追い払うように軽く手を振り、この場から退去させていた。


「さてガキンチョ、これで同じ手は使えねえな。 一対一の勝負と行こうぜ?」


「ああ……もう始めて良いんだろっ!?」


 先手必勝と言わんばかりに、言うが早いか一発の白弾を撃ち込んだ。


 しかし案の定それは容易く反応されて、同時に一歩、距離を詰めて来る。


 だがそこへ空かさず、予め軌道を定め待機させていた白弾を一発、側面から撃つ。


 これもまた、当たらず。


 身を低く屈めてやり過ごされ、更にまた一歩と距離を詰められた。


 けれど、この程度ではまだ勝敗は決さない。


 「この程度かよ」とでも言わんばかりに、余裕綽々と言った姿勢を崩さない男。そんな彼の背後へ、直前に回避されていた白弾が、設定されていた軌道をなぞって襲い掛かったのだ。


 しかし、不意に背後へ巡らされた彼の目はしっかりとそれを捉え、体を右前にずらして避けてしまう。


 これで更に半歩、近付いて来る。


「もう終わりってか?」


「このっ……!」


 挑発するように、いや実際挑発として発されたその言葉に、堪らず右手の槍を突きだす。


 既に槍の間合いから見れば十分な範囲であった事もあり、当たらずとも牽制として放った刺突は、簡単に躱されてしまう。


 その隙に、槍の取り回しが全く効かない、懐にまで接近を許してしまった。


「……ちょこまか避けやがって!」


 しかし、だからといってそれで詰む事は無い筈だ。空かさず左腰に引っ掛けていた短剣を、左の逆手に引き抜く。


 一息に斬り付けるのだが、それすらも驚異的な反応速度で躱され、右脇腹に男の拳が直撃していた。


「ぐ……!?」


 カランと、この両手から取り落とされる槍と短剣。


 余りの痛みに、武器の保持どころか立っている事すら困難で、脇腹を押さえた格好のまま倒れ込んでしまう。


 そうやって痛みに悶える一方で、思考はけたたましく主張する。


 駄目だ、立たなくては、動かなくては、ここで終わってしまうと。負けてしまうと。


 けれども、腹から響き渡る重い鈍痛が身動きを許してくれない。


 ともすれば、その思考すらも鈍痛が覆ってしまいそうになるほどだった。


「ったく、いい加減格の違いって奴を分かれってんだよ。万が一勝てるかもとか、そんな希望が持てる程度の実力差じゃねえんだよ、俺とお前は」


 痛みの余り視界が滲む中で、退屈そうにぼやく男の声が頭上から降り注ぐ。


 段々と痛みが引いてきたので動こうとすれば、今度は左脇腹に走る衝撃。


 乱暴に蹴られたと気付いた時にはもう鈍痛が腹を支配し、続けざまの激痛に思考は停止寸前になってしまうそうだった。


「くっそぉ……こんな、こんな所でっ!」


 吐き出すように、そんな言葉が飛び出す。


 そこに大した意識なんて無い。ただ、思考がそのまま漏れ出しただけ。


 ついこの間もこんな事があったなと、ふと頭を過ったのは嘲笑を浮かべたルキウスの顔だった。


「ふざけやがって……!」


 どうして、毎度毎度邪魔が入る。ただ、普通に暮らせればそれで文句も無かったのに。貧しくても、危ない生活でも、心が満ち足りた生活が出来ればよかったのに。


 どうして全て壊されなくてはいけないのか。どうして全て失わなくてはいけないのか?


 どうして、こんなに痛め付けられなくてはいけないのだろう?


「抵抗されても面倒だ、両手両足の骨は居らせて貰うぜ?」


「うっ……ぁ、あああああっ!?」


 乱暴に踏みつけられる、右上腕。乗せられた足からの圧力は段々と強まり、骨が軋みと言う悲鳴を上げ始めていた。


 痛い、などと表現するのも生温い。この男はゆっくりと骨を破壊する事で激痛を与え、屈服させようとでもしているのだろう。


 腕を通して激痛が頭の中を暴れ回り、思考をかき乱す。考えようにも、それ以上の事には考えが回ってくれない。


 折らないでくれとか、頼むとか、唾液を撒き散らしながら願っても、男は止めてくれない。自由な手足を振り回して暴れても、ビクともしない。


 もう、彼の中では骨を折る事は確定事項なのだろう。


 だから何を言っても無駄なのだ。


「うぐぁあああああ!!」


「はははっ、そらそら! もうじき折れるぞ! いや、粉々に踏み砕かれるって言った方が良いか!?」


 駄目だ、痛みで頭が真っ白になってしまいそうだ。どうにか、どうにかしてこの男を退かさなくては。吹き飛ばさなくては。


 さもなくば、まずこの右腕が粉砕されてしまう。


 兎に角、退かさないと――。




「……んっ!? おいクソガキっ、何だソイツは!?」




 尚も強烈な痛みが思考を妨害する中、誰かが酷く慌てた声を出しているが、そんなものは些事でしかない。


 ただ、この場を切り抜けたい、痛みから逃げ出したい。骨を踏み砕かれたくなどないのだから。


「――そこから退けって言ってんだよっっ!!」


「糞餓鬼が……っ!!」


 俯せの状態で顔だけを持ち上げて絶叫した直後、ふっと右腕の圧力が消失した。へこんで、平べったくなっている様に感じられたそこが、急に戻った様な気がする。


 即座に体を起こし、立ち上がりながら腕を押さえて男を睨めば、信じられないものを見たかのように呆然としていた。


「どうなってやがる……!」


「どうなってるも何もねえよ! よくも俺の、腕……を……?」


 苛立つように声を荒げる彼に、俺もまた同じくらいの声量で怒鳴り返すが、しかしその途中で勢いは霧散する。


 信じられないものを見たのは、自分もまた同じだったのだ。


 己の周囲を浮遊するのは、雪のように白い球体たち。しかしながらその大きさは一つ一つが拳ほどで、数は十を少し超えている。


「何だこりゃ?」


 微動だにせず宙に固定された様に浮かぶ白球の一つに触れてみれば、果たしてそれは馴染みのある自分の魔力の塊――白弾であった。


 それが、どういう訳か十以上、空中に浮いている。


 痛みでそれどころでは無かったというのに、白弾など形成させた覚えなどなかったのに、そこに在るのだ。


 どういう事だと、男もこちらを窺いながら視線で問い掛けて来るものの、そんなもの俺だって知った事ではない。寧ろ何があったのか訊きたいくらいだ。


 それに、自分はその掌からしか撃ち出した事が無い。どうして体から少し離れた空中でこれらが生じているのか、全く意味が分からなかった。


「その様子だと……へっ、なるほどマグレって事か?」


 戸惑っている事を悟ったのだろう、彼は一本の木を見遣りながら呟いた。


 男が視線を向けるその先へ追従してみれば、そこには恐らく無意識に放った白弾が一発直撃したのだろう。確かに、枝が派手に吹き飛んでいた。


「警戒した俺が馬鹿みてえだな。もうこれ以上変な気を起こさねえように、もっと叩きのめすか」


「……っ、ふざけんな!」


「可哀想なくらい怯えてんじゃねえか。だがもう決めた事だ、諦めろ!」


 ぐっと男が沈み込んだと思えば、一気に距離を詰めて来る。やはり、早い。


 目で追えず、慌てて白弾を掌から撃ち出そうとしても、間に合いそうになかった。それに、漂ったまま動かし方の分からない白弾など、当てになる訳がない。


 視界に大写しとなった彼が獰猛に笑い、その拳を振り上げる。


 ――このままでは、やられる。どうにかしてこの男を吹き飛ばさなければ。


 酷くゆっくりに感じられる時間の中で歯を噛み締めた、その時。




 男の顔面を白弾が襲った。




「ぉあっ――!?」


 ドンと、腹から響くような重い音と共に、驚愕の声が上がるが、それも無理からぬことだ。


 反応する時間どころか、声も上げる瞬間すら許さず、宙に浮いていた白弾が一つだけ、前触れもなく動いていたのだから。


「なん……だっ……てんだ!?」


 実際多少の警戒はしていたのだろう。しかしそれでも反応しきれなかった事実に、男は蹈鞴を踏みながら呻く。


 鼻血が出ているところを見るに、多少なりはダメージが入ったのかもしれないが、倒れるには至らない。


 だが、それは充分に隙であった。


 ここで一気に畳みかける――と心に決めた瞬間、他に待機していた無数の白弾もまた動き出していた。


 まるで意思に反応した様に、男へ殺到する十を超える白弾。


「く、おおおおおおっ!?」


 大きさは拳大とは言え、その威力自体は侮れないものであるという自覚はある。


 おまけにそれが一つ二つでは利かない数であれば、尚更だろう。幾ら猛者らしい人物だとしても無視できない様で、腕を交差させて守りの体勢に入っていた。


 それらは衝突すると凄まじい衝撃を生み出し、辺りの砂を巻き上げて男を覆い隠していく。


「このまま……!」


 倒れてくれれば、戦闘不能になってくれればどれだけ良い事か。そうでなくとも、せめて先頭に支障をきたす程度の手傷を負ってくれればどれだけ有難いか。


 重たい音と振動が連続する中で、男の方を見ながらその様に願わずには居られない。


 頼む、折角の好機なのだ。とにかく何かしらの傷くらいは――。


 それからすべて撃ち尽くすのに、五秒も掛からなかっただろうか。シンとした森の中でただ砂埃が舞う中、咳き込む声が聞こえた。




「……やってくれんじゃねえか! 面白ぇ、俺をここまで手古摺らせやがって、余程痛め付けられたいと見

える」




 じゃり、と砂を踏み締めて埃の中より出て来たのは、服を着た狼(・・・・・)。おまけに二足歩行で、俺の二倍はあろうかという身長は凄まじい威圧感を誇っていた。


 その衣服は幾らか傷付いている様だが、毛皮のせいか碌な負傷は確認できない。そもそも、傷一つ見当たらないようである。


「お、おい、嘘だろ……っ?」


「残念、これは現実だぞ。ウザってえ餓鬼には躾が必要らしいなぁ!?」


 言うまでもなく、その狼は先程の男だった。


 容貌は明らかに人とは一線を画すものへと変わっていて、ずらりと並んだ鋭牙は容易く肉や骨を砕くだろう。


 毛むくじゃらの指もまた酷く鋭い爪を持ち、引っ掛けるにも引っ掻くにも、そして引き裂くにも、困りそうな代物では無さそうだ。




「俺は狼人族(リュカンスロプス)でね。少しは聞いた事くらいはあるだろ? その種族の精強さって奴をよぉ」




 歯茎が見える程に大きく凄絶な笑みを見せ、彼はそこに一切の油断を認めさせなかった――。





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