第五話 失踪FLAME①
彼は、アロイシウスは、焦燥に包まれながら一人で走っていた。
いいや、遁走していたと言った方が正しいだろうか。
兎にも角にも、怯え、震え、全身の肌を粟立たせながら勝手知ったる街の中を走り続けていたのだ。
何だ、何なのだ、あの子供は。
確かに油断できないとは思っていた。だから魔力の流れを阻害するやや特殊な縄を使ったし、その状態で十人もの兵士を応援に貰い護送していた。
奴は先程謎の妖魎を相手にして疲労状態だったし、もう脱走は絶望的と言って良いほどだった筈だ。
なのに、突然凄まじい白光を空に向かって放ったと思えば、呆気なく拘束を解いて十人居た兵士を悉く沈黙せしめた。
それも無造作に、無感情に思える程の動きで。
これは勝てない。蹂躙されていく兵士を見ながらそれを悟った彼は、逃げ惑う市民に紛れてその場を立ち去っていたのだ。
「こっ、こんな所で死ねるかよ……!」
偶々手近なところにあった見知らぬ市民の家へ、家主と共に強引に駆け込み、強く扉を閉める。
当然、そんな事をすれば家主とその家族からは警戒するような、非難するような視線が一斉に注がれるものの、意図的に無視する。
「アンタ、さっきまであの悪魔を捕まえたって言った狩猟者だったんじゃないのかよ? 何で逃げてんだ!」
「うるせぇ静かにしろ! 殺されてえのか!?」
どうやらあの群衆の中に居たのだろう。アロイシウスを非難する家主の男性に、彼は腰に下げた剣を引き抜く事で威嚇する。
すると途端に静かになった一家を見て「それでいい」と頷き、剣を納めていた。
後はここに潜んであのバケモノから隠れ果せれば良い、ただそれだけ。
逃げ惑う市民に紛れて逃げたのだ、幾らバケモノとは言え何処へ逃げたかなど把握できる筈も無いのだ。
だから大丈夫、見つかりっこない。一体この都市の中にどれだけの建物があると思うのだ――。
自分に言い聞かせるように、何度も何度もそれらを心の中で繰り返す。
壁に背中で寄り掛かり、何度も呼吸を繰り返す。
そんな彼に只ならぬ何かを感じたのか、家主一家も無言でその様子を見守って居り、屋内は完全なる沈黙が支配していた。
だが、そんな固まり切った空気を、外からの振動によって動かされる。
「……何だ?」
何かが破壊されるような、重い音。
まるで瓦礫が崩れるよな、喧しい音。
それが鼓膜に、空気に、体に、確かな振動となって届いていたのだ。
しかも、その音は段々とこちらへと近付いて来る。
「おいお前、外を見て来い!」
「はぁ? ふざけんなアンタが見て来いよ! 狩猟者なんだろ!?」
「黙って俺の言う事を聞け! 今度こそ殺すぞ!?」
たまったものじゃないと文句を言う市民に、再度脅しをかける。
すると短い悲鳴を漏らしながら身を縮こまらせた家主は、青い顔をしながら何度も頷き、大人しく従う。
震えた、ぎこちない動作でゆっくりと扉を開け、如何にも恐る恐ると言った様子で顔を覗かせたのだ。
その様子をアロイシウスは固唾を飲んで見守っていると、家主の顔が見る見るうちに青褪め、殊更体が、膝が震え始めた。
「おい、どうした?」
目を見開き、荒い呼吸を繰り返す様子に訊ねてみるのだが、反応は無い。
それから更に二度、三度と声を掛けても、開けた扉の右を凝視し続けて応答しないのだ。
「聞こえてるのか!」
「ひっ!?」
四度目の呼びかけでようやく肩を跳ねさせた家主は、ハッとした顔をして勢いよく扉を閉める――が。
閉まり切るほんの直前、掌の厚さ一つ分程度のところで、扉は止まってしまっていた。
それの原因は特に白く見える、何者かの手。
「――ッ!!?」
その肌の色が意味するところを悟ったアロイシウスは、一瞬で全身から熱が奪われたような感覚に陥っていた。
一方で家主の男は情けない悲鳴を上げ逃げようとするのだが、その前に白い手がその胸倉を掴む。
「い、命だけは……!」
「アンタに興味ねえよ。それよりアロイシウスって狩猟者の男を見たか見てないか答えろ。茶色の髪をした若い男だ」
そこからさらに続け、アロイシウスの特徴を告げる声の主は、言うまでも無く彼自身が良く知る人物――クィントゥスのそれだった。
どうして、どうしてここが気付かれたのかと思考を巡らすものの、それすらも深く考えている余裕はなかった。
まずこの場で第一に為すべきは、一刻も早くこの窮地を脱することにある。
「そ、ソイツなら知ってるぞ! 今この家の中に居るんだ! これで良いだろ!? 早く出てってくれ!」
「そうか、分かった」
「……畜生が!」
当然の事ながらあっさりと口を割った家主の言葉を背にしながら、アロイシウスは粗末な木の窓から家の外へ逃げ出していた。
◆◇◆
先に倒した十人の兵士から無事な槍と剣を一つずつ奪い、アロイシウスを追う。
幸いな事に彼の逃げた方角は、ある程度把握して居る。
だから、追跡に当たってはその方向へと足を向けたのだが、流石に都市は広いし入り組んでいる。
まさか自分の目で探しまわる程の暇がある筈も無いので、結果として彼方此方の市民に訊いて回った。
もっとも普通に訊ねたところで誰も答えてくれないし、家の中に固く隠れて出て来る事すらしない。
なので扉や壁を強化術の施された拳や脚で破り、中に居た住民に訊いて回る。
中には半狂乱になる者や、ひたすら平伏して会話にならない者、兵士と共に襲撃を掛けて来る者もいたが、それでも順調に情報は集まり、遂にアロイシウスの影を見つけた。
偶々家の扉から顔を出していた男を掴みあげて訊ねてみれば、丁度そこがアロイシウスの潜んでいた場所だったのだ。
「――情報提供、感謝する」
情けない声を上げ続ける男を放り投げ、駆ける。
アロイシウスが今逃げているのは、そして今追い掛けているこの道は、薄暗い裏路地。
恐らく向こうはこの都市の地形に精通しているだろうから、逃げられると踏んでいるのだろう。
実際、余り遠くへ行かれると何処へ行ったのか分からなくなってしまうので、早いところ捕まえる必要がある。
両脚に強化術を施し、一度大きく屈んだ俺は、石畳の地面に罅が入るほど踏み込み――跳躍する。
軽く四階建ての建物を跳び越える程の高さから見る景色は、建物の間を縫うように通る裏路地を丸裸にしてくれた。
「……居た」
三階建ての建物の屋根に着地し、先程視認した人影の方向に体を向ける。
そして、屋根が抜けない程度に調節しながら跳躍していく。
そうやって三度も繰り返せば、逃げ惑うアロイシウスの影はもう眼下にまで近付いていた。
向こうもこちらがしっかり捕捉している事に気付いている様で、時折チラチラと視線を寄越し、その度に大きく接近されている事実に顔を青褪めさせていた。
けれども、だからと言って見逃す訳もなく、その行く先を塞ぐように進路上へ着地する。
「なあ、まだ逃げる気?」
「クィントゥス……!」
進路を塞がれ慌てて制動を掛ける彼に問いかければ、苦虫を嚙み潰したような顔をしながら、僅かに後退る。
どうやら、もはや彼に戦意など無いらしい。
「ゆ、赦してくれよっ! ほんの出来心だったんだ!」
「出来心で知り合いを三人も殺せねえだろ、普通」
「済まなかったとは思ってる! 特にお前には申し訳ないし、けど悪いのはあの二人だ! コンラドゥスとアドルフスがお前を捕まえようって言いだしたんだぜ?」
愛想笑いのような、薄っぺらいそれを浮かべた彼からは、サルティヌスについて触れる気配はなかった。
あの人の命は奪ったうちに入らない、気にならないとでも言うのか。だとすれば、本当に馬鹿げている。
コイツと話す価値など無い。時間と感情の無駄にしかならない。
槍が軋む強さで拳を握り一歩を踏み出せば、彼は一歩後退り、尚且つその重心がどんどん後ろへ傾いていく。
「お前の持ち物も返すからっ! ほら、魔拡袋だ! 中身だって弄っちゃいねえよ!」
「それは俺が人から貰った大切なものだ。返して当然じゃねえか。で、言いたい事はそれだけ?」
二歩、三歩、四歩と距離を詰め、槍の穂先をアロイシウスの鼻っ面に向ける。
「ひっ、ひぃぃぃいっ!?」
すると情けない悲鳴を上げた彼は足をもつらせると盛大に尻餅をつき、多くの物品の入った魔拡袋を震える左手で差し出して来た。
それを受け取って更に言葉を続けようとしたところで、彼は震える声で涙ながらに主張を始める。
「仕方なかったんだ! 俺は村に家族を置いて来て……そいつらに良い暮らしをさせてやりたいからっ、金が必要で! でも、俺が馬鹿だったばかりに金は溜まんなくて、そんな時にお前が……」
自分は悪くない、どうしょうもないじゃないか、良いじゃないかそれくらい、赦してくれ。
並びたてられるのは、言い訳、自己弁護。自分自身の仲間やサルティヌスの命を奪っておきながら今更この男は何を言っているのだろう。聞くに堪えない言い訳を、槍を向けながら話半分に聞き流す。
「――な? だから、俺は……」
「もう、いいんだよ。黙れ」
「は?」
言われた言葉が理解できないのか、言葉を断たれた彼はキョトンとした顔を晒しながら訊き返してくるが、冷たい声で更に説明を加える。
「もう良いって言ったんだ。いつまでそんな下らない話を聞かされれば良いんだ、俺は? 三人に対する個別の謝罪の言葉も口にせず、只々自分は自分は……。聞く価値の話をどうもありがとう」
「……えっ??」
槍の穂先を、アロイシウスの右腕に突き刺す。
すると彼は一拍……いや二拍置いて、間抜け面に代わって苦痛に歪んだ顔を浮かべ、悲鳴を上げた。
「あああああっ! なっ……何で!?」
「何で、じゃないだろ? お前は仲間を二人殺し、サルティヌスも殺した。結果、人の怒りを買って俺に殺される。おかしい事でもあるのかよ? 何より、その手に持ってるモノは何だ?」
その言葉と同時に突き刺さった槍を引き抜けば、カランと彼の右手より取り落とされる、刃渡り二十|
CM程の短剣。
それを確認し、今度は右脹脛を突き刺せば、彼は倍増した痛みに凄まじい悲鳴が上げて居た。
流石にこれは周囲に良く聞こえたらしく、兵士らしい声と足音が、あちこちから段々と近付いて来ている。
当然、悠長にしている時間に大幅な制限が掛かってしまった訳だが、そんな事はもはや些事としか思えなかった。
「それで、その短剣をどうして持ってた? 答えろよ」
「こ……このガキっ!」
「どうせ上手く俺を言いくるめて、とか考えてたんだろ? 楽観するのもいい加減にしろ。身の丈に合わない事をしようとするからこうなるんだ」
ふと、脳裏を過ったのは以前に受注した『剛爪熊一頭の狩猟』という依頼。
明らかにアロイシウスと仲間二人の力量にそぐわない難易度の依頼を、彼は受注していたのだ。その身の程知らずな行動が、今ここでも発揮されていると思うと、笑わずには居られなかった。
「何で笑ってやがるっ!白儿の分際で!」
「自分の力量も分からない無能に言われたくねえよ」
どうして、こんな奴と仲良くしたいと思っていたのだろう。大事にしたい仲間だなんて、こんな男のこんな本性を前にして言える筈も無いのに。
やはり、大抵の人間はクソなのだろうか。クズなのだろうか。ゴミなのだろうか。
信頼し合う価値もないのだろうか。
仮に仲良くなったとして、理解して貰えたとしても、結局のところ理解者はその大抵の人間の悪意によって奪い去られてしまうのだろうか。
無残な骸となってしまったサルティヌスの姿を思い出し、また槍を握る手に力が籠る。
「……おいまさかお前、本気で俺を」
「当たり前だ。俺の素性知ってる奴をここで生かす理由がねえんだよ」
そしてこの男は、人の仇でもある。気持ち的にも、生かしておけそうになかった。
一方、こちらの気持ちが変わらないと悟ったアロイシウスは、無事な方の手足でもがき、一生懸命逃れようとする。だが、そんなものに大した意味がある訳もなかく、一度大きく引いた槍を、一気に突く。
「そんなっ、まっ、待ってくれ……!」
突き出された槍は彼の胸、その中心を過たず貫いた。骨を砕き、肉を突抜ける、その感触が柄から手へと伝わって来ていた。
じわり、じわりと夥しい量の血が流れだし始める。
こんなもの、誰がどう見ても致命傷だ。
嘔吐するように彼の口からも多量の血が吐き出され、辺りが血生臭い匂いに支配される中、血走った目がぎょろりと俺を捉えた。
「ゆ……る、さねぇっ、テメエ……クィン、トゥス!」
「残念、俺の名前はラウレウスだ。赤の他人の名前に向かって呪詛吐いてどうすんだよ?」
「……な、っ……!?」
最後まで愚弄された事を悟ったのか、血走った眼により一層の憎悪と殺意が乗る。
しかしそれを受けても尚、この心も表情も凪いだまま動かない。気にならないのだ。ルキウスをこの手で殺めてしまった時とは、天と地ほどの差だった。
命を奪った。人を今、この手で殺している。なのに何も、感じない。
ただ無造作に、槍を引き抜いていた。
「じゃあな、クソ野郎。地獄に堕ちろ」
勢いよく噴き出す、血。その飛沫は体にも付着し、生温かい感覚を伝えてくる。
一方で、槍と言う支えを失ったアロイシウスの体は石畳に生み出された血だまりに沈み、斃れる。
もはやその抜け殻に生気は感じられず、今こうして見下ろしている間にも、急速に体温を失って行くのだろう。
不意に思い起こされる、ルキウスの末期の言葉。
――「悪魔、テメエは……人殺し、だっ」
血走った目で怨みを込めて告げるその顔を幻視して、けれどもこの口は吊り上がった。
「……人殺し? 上等だ糞野郎」
もっと何かあると思っていた。
グラヌム村から逃げ出すときに間違ってルキウスを刺殺した際は夢ですらも魘されたというのに。
致命傷を与えた直後もそうだったけれど、何も感じない。ただ死体が一つ出来上がったという認識をするだけ。悲しさを押し殺そうとか、そんな気持ちすら沸いてこない。
今日この日、この手で、槍で、自分の意志で、一人の人間を確かに殺めたというのに――。
◆◇◆
その日、シアグリウス王国の南西部に位置する内陸都市・ボニシアカは、揺れた。
無論それは精神的にであるが、その動揺は計り知れないものであった。
一体の白儿が暴れ回り、市民・兵士二十名以上が死亡もしくは重軽傷を負った上、下級狩猟者のアロイシウスが惨殺されたともなれば、それも当然と言えた。
しかもその殺された彼が生前、殺される数十分前に語った証言も残って居るのだ。
即ち、『森の中で発見された数人の狩猟者を惨殺した犯人である』と。
更にアロイシウスの仲間二人も殺されたと証言した事を考えると、実に三十人もの死傷者が出た事になる。
そんな物騒な情報が出回れば、誰だって動揺するだろう。
しかし、数多の死傷事件を引き起こした白儿は、どうやらアロイシウスを惨殺した後、この街から姿を消したらしかった。
兵士や市民が警戒し、あちこちを探し回っても、遂に都市内に見出す事が出来ず、しかも門の一つを何者かが強引に突破したとの報告も上がったので。
それでも尚捕縛しようと努めるが、分かっているのは当初アロイシウスらと行動を共にし、「クィントゥス」と呼ばれていた事、そして紅く髪を染めた十五歳ほどの少年という事だけ。
都市の領主は、己の領内のあちこちに人を派遣してその足取りや身柄を確保しようと奔走するのだが、杳として知られる事は無かったのだった。




