ロトカ・ヴォルテラ⑥
◆◇◆
ああ、またか。
記憶にある景色が視界一杯に広がり、ぼうっとそんな事を思う。
ボニシアカの街並みよりも遥かにゴミが少なく整然として堅牢な高層建物群と、その隙間を走る大きな道。
その大通りを馬車以上の速度を誇る無数の箱が走り抜け、俺は白い息を吐きながらこの街を歩いていた。
そして当然の如く、その周りには例の三人も歩いており、四人で然も面白そうに談笑していた。
相変わらず何を言っているのかは聞こえないが、それでもこの四人の仲の良さをはかり知るには充分。
季節は冬らしい。路肩のあちこちには雪が残っており、俺を含めた四人は自分が転生してからこの方、見た事が無いような防寒具を身につけていた。
『――!』
一番活発そうな顔立ちをした少年――桜井 興佑がアレンに何か言われたらし。雪が解けた事によって生じた薄い氷の上を歩き、盛大にすっ転がる。
途端に俺達は腹を抱えて笑いだし、痛みに悶えていた彼も起き上がりながら笑う。
その様子を、かつての自分の視点から眺め、あの時の事に思いを巡らせる。
己の記憶が間違って居なければ、この日は学校帰り。アレンが興佑に対して「氷の上を歩いて転ばなければコーンポタージュを奢る」と言った時の一幕だ。
結果はこの通り興佑が派手に転がった事で、奢って貰う事が叶わなかった。
けれど、話はそれだけで終わらず、続いて――。
『――』
笑っていた俺が麗奈に向かって口走った時、不意に彼女から背中を押され、凍結しきった路面へと足を踏み出す羽目になっていた。
結果、不意を衝かれたせいで見事に背中から転倒し、強かに打ち付けた背中の痛みに悶える。
あの時、不用心にも麗奈を刺激する事を呟いてしまった事は、今も後悔している。背中がどれくらい痛かったのか、未だに覚えているくらいだ。
『――』
麗奈が、何かを言う。声は聞こえないけれど、不機嫌そうに言い放たれたその内容は確かに覚えている。
――「幾ら幼馴染でも、デリカシーとか無いわけ?」
腕を組み、睨みつけながら彼女はそう言ったのだ。
しかし、この時の俺が彼女の話をしっかり聞いていたかと言えばそうでも無くて。
氷の上で大の字になって仰向けに倒れたまま、吸い込まれるように目を一点へ固定していた。
即ち、見えそうだったのだ。
悪意はない。もっとも、スケベ心が全く無かったとは言えない。ただそれでも、声を大にして主張する。
これは事故だ。
俺は悪くない。悪くないったら悪くない。悪いのは麗奈だ。学校のスカートを折って丈が短くしてしまえば、人が倒れた際には場合によって見えてしまうと、少し想像すれば分かるだろうに。
事ここに至って麗奈もそれに気付いたのか、大きく一歩後退ると憤怒で顔を染め上げる。
『――!』
『……っ、――! ――!』
やはり声は聞こえない。でも覚えている。これでもかくらい罵られ、必死になって弁解したのを。
その場で正座して、氷の上でも気にせず兎に角謝罪などを繰り返したのを、覚えている。そしてそれを見て、アレンと興佑は肩を竦め、呆れた様に顔を見合わせて笑う。
当時は散々な日だと思った。だが、今となっては大切で、楽しくて、戻りたいと思えるような、かつての思い出だ。
そうして老人のように回想する間にも言い合いは激化し、我慢ならないと言った様子で麗奈が手に持った鞄を振り上げる。
『**!』
『~~~~っ!!?』
終ぞこちらの主張は一顧だにされず、容赦なく俺の顔に鞄が叩きつけられていたのだった。
「おいアロイシウス、こいつ目を覚ましたぞ」
「コンラ、ドゥス……?」
「あぁ? テメエその口で俺の名前を呼ぶんじゃねえ、この悪魔がっ!」
ぼんやりとした思考の中で出し抜けに、左頬へ衝撃が走る。
そして意味が分からずその叩かれた頬を手で摩ろうとして気付く、両手が背中で拘束されているという事実に。
けれども、それに気付いたところで状況が呑み込めないのは変わらない。
精々、目を覚ましてみたら土砂降りだった雨が止んでいた事が分かったくらいか。
「な、何だよ、これ!? どうなって……!」
「見ての通り縄だよ、魔力にも耐性がある強い縄だ。お前みたいな奴を捕まえとくには丁度良いだろ?」
言いながら姿を現したのは、倒れたままの俺を虫けらかのように見下す、アロイシウスだった。
そこには先程まであった筈の仲間思いの表情は欠片もなく、良い獲物を捕らえたと言わんばかりのそれを浮かべていた。
「そんな……! どうして、俺は仲間じゃ無かったのかよ!?」
「黙れ、お前が仲間のフリをしてたんだろ。悪魔が人の真似事をしてんじゃねえよ」
「それにしても、生け捕れて良かったぜ。コイツを売りに出せば三人で山分けにしても一生遊べらぁな」
「全くだ。俺らの命を救ってくれた上に、その身柄で大金をくれるんだからよぉ。これで女も囲い放題だ」
下卑た笑いを浮かべるコンラドゥスが染料の落ちた俺の髪を撫で、紅い眼を覗き込んで来る。
彼らは一様に金しか目に浮かんでいない様子で、そこに一切の情けなどは見受けられない。
ほんの少し前まで彼らが向けてくれていた感情は、そこに微塵もなかったのだ。
呆気なく、裏切られた。
信じていたのに、頼れると思ったのに、彼らなら大丈夫だと思ったのに。
それらは全て、彼らにとっては簡単に崩れ、無くなって、捨ててしまえるものだったのだ。
「そういやちょっと前に喋ったよな、サリ王国のグラヌム領で白儿のガキが見つかったんだって。道理でお前が興味津々な訳だ」
「……」
「このボニシアカはグラヌム領と近いんだ、逃げて来たお前がここで一旦休んでいた……違うか?」
無言を貫くが、全てを見透かした様なアロイシウスの目に、堪らず逸らしてしまう。
するとそれを以って答えを導いたのか、彼は愉快そうに笑うと二度、三度と頷く。
そして短剣を引き抜き――近くに居たアドルフスの喉を切り裂いていた。
「……ぁが?」
まさか凶刃が自分に向くと思わなかったのか、破顔していたアドルフスから一切の表情が消える。彼は間を置かず夥しい血を吐き出しながら、血走った目を犯人へ向けていた。
しかしそれを成した当の犯人――アロイシウスは悪びれる様子もなく、アドルフスの返り血を浴びた顔を歪める。
「じゃあな、アドルフス」
「……!」
喉の傷と口、その両方から血が噴き出してものも言えないのか、恨めしそうな目と手を伸ばし、何かを訴えようとしていた彼は、唐突に事切れた。
ガクリと膝をつき、俯せに力尽きたのだ。
「……何をっ!?」
唐突に目の前で起こった惨劇に言葉半ばで絶句し、さっきまで活発に喋っていた死体を凝視する。
剣だけでなく弓も扱え、賭博にかまけて多額の金をすっていた、それでも借金は作らない様に立ち回る器用で愉快な男。
今朝組合で話した際には気さくな表情を浮かべていた彼は、もう動かない。
幾ら裏切られたとは言え、それでも全てのつながりを無かった事に出来ない身としては、信じられない気持ちで一杯だった。
だから、声も出せず、ただこの状況を静観する事しか出来なかった。
「お、おい、アロイシウス……?」
「どうした、そんな怯えてんじゃねえよ。三人で山分けだったのが二人になっただけだろ? 取り分が増えたんだぜ、喜べよ」
「あ、ああ……」
驚愕したのはコンラドゥスも同じだったのか、青い顔をしながらも引き攣った笑みを浮かべ、合槌を打っていた。
そんな彼に飛ばされる、高圧的な指示。
「ほら、お前がコイツを連れていけ。俺は戦闘に対応できるよう警戒しとく、早くしろ!」
「わっ、分かったよ!」
足でも竦んだのか、一向に動き出す気配の無かった彼は、アロイシウスから叱責を受け慌てて駆け寄って来る。
しかし一方で自分は助かった、取り分があるとでも考えているのか、微かに笑みが浮かんでいた。
それこそ、以前俺を一時的に捕らえたグラヌム子爵ことアラヌス・カエキリウス・プブリコラのような、欲に歪んだ汚い笑みを浮かべていたのだ。
だが、その笑みもまた唐突に、痛みと驚きを浮かんでそれに変わっていた。
「え……?」
ぽたり、ぽたりと俺の顔と衣服に血が垂れる。
呆けた顔を晒すコンラドゥスの左胸からは剣先が飛び出し、傷口からだけでなく、思い出したように口からも血が飛び出していた。
丁度俺を起こそうとしていた事もあり、それらの血は悉く体を汚し、そこを伝って地面に染み込んでいく。
「金は全て俺のモンだ。誰にも渡す訳ねえだろ?」
「こっ……この……!」
どうやら致命傷に至らなかったのだろう、憤怒に燃えた表情で斬りかかろうと振り返るコンラドゥス。
だが、それよりも先にアロイシウスは左手で短剣引き抜き、それで以って喉を横一文字に切り裂いた。
「へへ、これで俺は億万長者だ」
「――ぉあっ?」
途端傷口からは血が噴き出し、彼の目が大きく見開かれ、喀血すると覆い被さるようにして斃れる。
溢れ出す生温かい鮮血は、雨に濡れて冷えたこの体にはとても熱く感じられ、しかし同時にむせ返る様な血生臭さで顔を歪めていた。
「お前……何考えてやがる!」
「訊くまでも無いだろ? 金が欲しいんだよ。お前、白儿ってのがどれほど貴重だと思ってんだ? それを生け捕りにして売り飛ばせば一生を遊んでどころか豪遊して暮らせんだぞ」
それを独り占め為には二人の犠牲など安いものだと、悪びれもせず言う。
仲間で、苦楽を共にして、笑い合ってきた仲であろう筈なのに、彼はそこに微塵の後悔も見られないのだ。
「さて、じゃあ街に戻ろうぜ。英雄様のご帰還ってな」
「英雄……?」
「そーだ。お前には今回の殺人事件全ての真犯人になって貰う。それこそ、悪魔と呼ばれた種族の末裔にふさわしいだろ? で、俺はそれを突き止め、仲間を二人失いながら捕まえた英雄って訳だ」
妙案だろ、と彼は自慢げに言うが、しかしそれでは問題など全く達成されていないに等しい筈だ。
「じゃあのデカブツはどうなる!? あんなのがまだ居るのを野放しにするってのか!?」
「カンケーねえな。俺はお前を売っ払った金と謝礼を貰うだけ貰って王都に住むんだ。そこで没落貴族から貴族位を買うってのも良い」
「お前……!」
全ては自分の為。人の不幸など知った事ではない。
全てを踏み躙る。どうなろうが知った事ではない。
余りにも身勝手な言い分に頭へ血が昇るが、しかし特殊な拘束具のせいで魔力が十全に使えなかった。
「正直、白儿ってのは俺に縁のない話だと思ったんだがなぁ。まさか伝え聞いた通りの容姿で、しかもここまで強いとは思わなかったぜ。お前を弱らせてくれたアイツらに感謝だな」
「ふっ、ふざっけんじゃねえぞ! ここまで一緒に過ごして来て……しかも自分の仲間まで殺した!」
「あーあー、うるせえな。お前がそうじゃ無かったら今まで通りだったろうさ。全部お前がいけねえんだぞ。大体、勝手に期待して裏切られといて何言ってんだ。それだって全部お前が悪いんじゃねえか」
後ろから剣の鞘で小突かれ、戻りたくもない街へと強制的に歩かされる。
今のところは人の影も見当たらないが、その内段々とそれが見え始める事だろう。
その時、擦れ違う人は俺を見てどう思うだろうか。
嘗てのグラヌム村の兵士や、背後のアロイシウスのような、敵意の籠った目や、他にも好奇や恐怖、欲の目を向けて来るのだろうか。
そんなことなどもう分かっているから、俺は彼へ向かって声を荒げるのを止めた。
もはや、無駄だから。
「言っとくが、お前が道中で何言ったって意味ねえぞ。全部、俺の言い分が通るだろうさ」
「……だろうな。誰も狩猟対象である俺の言い分なんか聞きやしねえよ」
味方する人なんて、居る訳が無い。
暫く一緒に行動して、信頼できると思ったアロイシウスですらこの有様なのだ。もはや、何を信じれば良いのかも分からない。
それにもし味方してくれる人が居たとしても、声を上げないで欲しい。
あの時の、命まで賭けたミヌキウスの姿を思い返せば、こんな状況になってまで助けてくれる人は居なくて良いのだ。
自分の為に、自分のせいで、他の人が頭を悩ませ身を危険に晒して良い理由なんて無いのだから。
「やけに諦めが良いな。俺だったら嫌だ嫌だと喚き散らすぜ」
「いい加減慣れた。ただ、別に諦めた訳じゃねえぞ」
「言ってろ。ただでさえさっきの戦いで消耗してんだろ? その拘束から抜け出せる訳ねえ」
そうこう言っている間に街の門はもう目前に迫り、それと比例して通行人も増えていく。
最初は何事だと見て居て人々も俺の容姿を見て「信じられない」といった表情を浮かべ、時には強烈な罵声や投石を向けて来る事もあった。
これが、俺に対する扱い。白儿に対する扱い。
ただ存在するだけで罪とでも言わんばかりの敵意が数多向けられ、しかしなにくそ敗けるかと胸を張る。
存在して何が悪い。生きて何が悪い。ふざけるんじゃないという怒りを込めて、それがせめてもの抵抗だった。
衛兵との入市手続きを終えて都市の門を潜れば益々衆目が集まり、話を聞きつけた市民が群がって道に姿を現す。
そしてやはりここでも向けられる、数多の罵声と投石。
流石に後者は近くに居るアロイシウスや、入市の時から新たに加わった護送の兵士に当たりかねないので少ないが、一方で前者は非常に多い。
「すげえ騒ぎだな」
「黙って歩け、悪魔が」
「へーへー、努力しますよ」
独り言を聞き咎めた兵士の一人に、仕返しがてら舐めた態度で返事をし、居並ぶ市民達を見て行く。
その中には街で何度か擦れ違い、中には話した事がある様な人物が居たが、その目には怯えと敵意が入り混じった様な色が浮かんでいた。
向こうが気付いているかどうかはともかく、普通に話した事のある人からもそんな態度を取られるのは精神的にも来るものがある。
そんな中、ふと目に付いたのは、一人の少年。
やや薄汚れた服装の彼は、驚いた様子でこちらを見て居るものの、それ以外の感情は見えなかった。
「サルティヌス……!」
聞こえてないだろうけれども自然と、その名を呟く。
一方、その名前の持ち主は強いまなざしで俺を、そしてその背後に立つアロイシウスを見据え、そして前へと歩き出していた。
その進路は、丁度俺達の進む先。
おい、と口が動いた。何をするつもりだ、とも。
唯一、俺が白儿である事を知って尚も姿勢を変えなかった少年は、じっと俺を見据えて離さない。
そして、まるでこちらの前進を阻む様に両手を広げ、前へ立ち塞がっていたのだ。
当然、そんな行動に対して兵士は声を荒げる。
「退け小僧!」
「退かねえ!」
「そこに居るのはあの白儿なんだぞ!? それを庇うって事がどういう意味か分かってんだろうな!?」
「知ってるよ! 俺が孤児だからって馬鹿にすんな!」
唐突に前進を阻んだ少年の出現に辺りが困惑した様な空気に包まれる中、サルティヌスはその体で精一杯声を張る。
「アロイシウス、これはどういう事なんだ!? どうして仲間の筈のクィントゥスがこんな事になってる!? 他の二人はどうした!?」
「あの二人は死んだ。この凶悪な白儿によって殺されたんだ! ……皆も良く聞け、ここ最近見つかっていた狩猟者の惨殺死体、アレの犯人もコイツだ!!」
自分が話す際に、より多くの注目を集めるようにと、天に剣を掲げて殊更強調するようにそう言えば、途端に辺りは喧騒が再生していく。
だが、それを前にしてもサルティヌスは退かない。
「クィントゥスがそんなことする訳ない! コイツは、俺の依頼を受けて仲間を救ってくれたんだぞ!?」
「白儿っていう悪魔が、人のふりをするのは当然だろ? お前はコイツに騙されてたんだよ!」
「違うッ! そんな訳無い!」
頭をふり、尚もサルティヌスは主張する。
「大体、白儿が何だってんだ!? クィントゥスが何したって言うんだよ!? たったそれだけで犯人にして、お前らはそれで満足なのかっ……!?」
投石が、彼の額を直撃した。
それに続き、二つ三つ、更に数は増える。
「このガキ、神の御言葉を否定しやがった!」
「不信心者がっ、さては背教者か!? 異端者か!?」
「殺せっ!」
投石と、罵声。
しかし頭を両腕で守りながら走り出した彼は、緩急と小回りの利く動きで警備の兵士の隙間を抜ける。そして、気付いた時には俺の目の前にまで来ていた。
「サルティヌス! 止めろ、俺に構うな!」
お前まで危険を冒す理由はない筈だ。今ならまだ間に合うだろう、大人しくこの場から退いて欲しい。
そうでなければ、彼の命が危ない。
しかし、サルティヌスは関係ないというふうに声を荒げ、乱暴にこの胸倉を掴んだ。
「何言ってんだよ!後輩のお前を見捨てるとか、出来る訳無いだろ!? 困った時には大人を頼れ!」
「ふざけんな! それが迷惑なんだよ! 自己犠牲なんてされたって嬉しくも何ともねえ!」
「じゃあ助かりたくないってのか!? 今のお前は死にてえのか!? そんな訳ねえよな、そうじゃなきゃどうして今も生きてる!? ガキのくせして人生しててんじゃねえよ! いいか、この……ッ!?」
不意に俺の背後から飛び出した人影が、サルティヌスを蹴飛ばす。
言うまでも無く、その犯人はアロイシウス。
その目に呆れた様な色を浮かべながら、無造作に十四歳の少年を蹴飛ばしていたのだ。
「邪魔なんだよ、いつまでそこに居るつもりだ? 早く退けよ、せめてもの情けで殺さないでやるからよォ」
「……アロイシウス、お前って奴は!」
瞬間的に腹の底が沸騰するような感覚に見舞われ、彼を睨み付けるが、当人はどこ吹く風と無視する。
一方、蹴飛ばされたサルティヌスは後ろから迫る兵士の手を巧みに避け、警告を無視して突っ込んで来る。
「……忠告、したからな?」
「まっ……待て! 止せ、止めろアロイシウスっ! サルティヌスも、お前の気持ちも分かったから止まれ!」
鞘に収まっていた剣が引き抜かれ、太陽に反射して鈍色の光を放つ。
全く殺す事に躊躇の気配を見せないアロイシウスを目にして、背筋が凍る。慌ててサルティヌスを制止した、のだが。
彼は止まらずにここへ向かい、向けられた剣線を躱して俺を助けようとする。
「止めろ! 死ぬぞ!」
「嫌だッ! クィントゥスを、放せっ!」
「ちょこまかと……!」
何度言ってもその制止も空しく、駆けて来るサルティヌスを迎え撃つように、一閃。
一拍遅れて彼の胸から斜めに噴き出す、鮮血。
その血飛沫は、然程離れていなかった俺の頬にまで飛んできていた。
「サルティヌス! だから言ったじゃねえか!!」
「う……ぁ」
慌てて彼の下へ駆け寄ろうとしたのに、アロイシウスに縄を掴まれてそれ以上の移動を制限される。
まるで寄りたい場所へ寄らせて貰えない、飼い犬のように、だ。
「おい、死ぬな! しっかりしろよ!」
「……」
膝をつき、俯せに倒れた彼の体からは止めどなく血が流れだし、投げ出された指が弱々しく動くばかり。
それはもう、誰の目から見ても致命傷だった。
だから言ったのに。構って欲しくなかったのに。もっと強く拒絶しておけば良かった。
自分のせいで関係の無い誰かが死ぬ――なんて、そんな光景、見たくなかった。
「ラウレ、ウス……」
弱々しく動いた頭から発せられる、同じくらい弱々しい声。
苦しそうに細められた目と、繰り返される浅い呼吸は、彼がもう長くない事を如実に表していた。
けれどもそれを拒む様に、駄々を捏ねる子供のように何度も首を横に振り、待ってくれと呟く。
どれほど久し振りか分からないけど、頬を涙が伝い、この心が彼に死んでほしくないと訴え続けていたのだ。
しかし、現実はどうしょうもなくて、残酷で。
「ごめ……ん、救え……なくて、俺……大人なのに。折角出会った、同郷の……お前を……」
「サルティヌス!? おい! 何してんだよ、起きろッ!!」
「二度目、の、人生は……余り面白く、無かった。でも、ラウレウス。いや、慶司っ! お前と……会ってから、は、久し振りに……笑え、たぜ。……ありがと、な」
広がり続けていた血だまりの勢いが段々と弱まり、それと比例して彼の声も小さくなり、力も失って行く。
止めろ、だめだ、そんなの赦さない、死ぬな。
あの時に見た地獄と重なって見えてしまうから。
為すすべなく、どうする事も出来ずに親友たちが死んでいく無力感、絶望感。そして、孤独感。
「あぁ……ぁ、何で、こんなっ……!」
あんな思いは、もう二度と御免だと思っていたのに。
腹から突き上げて来る、熱い感情。それは急激に鼻と目頭を熱し、頬に塩辛い水を伝わせていた。
「寛之ざん、早く起きて……下さいよっ!」
声が濁り、鼻水が垂れ、見苦しい顔になるのも厭わず彼を見、湿った声で呼びかける。
けれど、サルティヌス――牛膓 寛之が言葉を返す事は遂に無かった。ただ彼は、こちらを見て力のない苦笑を浮かべていて。
やがて血溜まりの拡大が止まった時、その場には事切れた少年の死体が一つ、出来上がっていたのだった。
「……ったく、手間かけさせやがって」
「全くだぜ。どうするコイツの死体、晒すか?」
サルティヌスの死体を見下ろし、煩わしそうに蹴飛ばす。槍の石突で突く兵士達は、いずれもその顔に申し訳なさの欠片も無くて、ただ死体を憂さ晴らしの標的としか見て居ない様だった。
それはアロイシウスも同じらしく、彼らに倣って一度大きく蹴飛ばすと死体に向かって唾棄までしていた。
「……ろ、よ」
市民がそれを見て沸き立つ中、手酷く扱われる同郷の友の死体。これは全て俺のせい。ミヌキウスだって、そうなっているのかもしれない。
彼は悪くない、悪くないのに、どうして死んでまで悪く扱われなくてはいけないのか。
ふざけるんじゃない。
「や…ろ、よ」
棒で、脚で、激しく打ち据えられる死体は、糸の切れた操り人形の様で。
体内にまだ僅かながら残って居たであろう血が飛び、人々の足の隙間から見える四肢が、だらりと転がっていた。
「やめろ、よ」
腹の底に、何かが溜まっていく不思議な感覚。
これが魔力だと気付いた時には、心臓部から湧き出る魔力が全身を満たし、今にもはち切れんばかりに詰まっていた。
けれど、それに気付く人は誰一人として居なくて。
きっと、両手を拘束された白儿の子供など、大した脅威ではないと誰もが思っているのだろう。
若しくは、ただ単にサルティヌスの死体へ注意が向き過ぎているのか。
「やめろって言ってんだ!」
喧騒に包まれた一帯の中で、この声を聞き取れた人はどれだけいるだろうか。
いや、腹から叫んだところでそれに反応する人など誰も居なかった。
仮に聞こえていたとしても、無視されているのかもしれない。
だから、有らん限りの力で絶叫する。
この身体に溜まった、魔力を解き放つ意味でも。
「――寛之さんの……その人の死体で、遊ぶんじゃねぇよっ!!」
天に向かって、吠えた。
頭から爪先まで満ち足りた魔力を体外へ開放して、空へ解き放っていたのだ。
それは一直線に雲を突抜け、眩いばかりの白い光を放ちながら、一本の白き柱となる。
グラヌム村から逃げる時に、魔力を夜空へ向けて放出した時のものよりも更に大きく、高い。
空を突抜け、更に遥か高くへ。太陽が照らしているのにも関わらず、それよりも尚、明るい。
「お前らみたいな奴がいるから、死ななくても良い人が死ぬんだよ……っ!」
光る柱の中にあって、自分でも驚くほど底冷えした声が、呟きとなって漏れていた。
それから十秒も経たないくらいで、やがては白く発光する柱は細くなって消えていた。
けれども余りにも唐突で、かつ衝撃的だったのか、先程まで死者を寄って集って甚振っていた人々は、呆気にとられた様子で俺を注視していた。
「お、おいっ、何だクィントゥス、さっきの光は!? お前には魔力の巡りを阻害する縄を掛けてたんだぞ!?」
「……だから何?」
ぶちりと音を立てて、酷く呆気なく縄が千切れた。身体強化術の効果もあるが、実際に魔力を阻害できる量を越えた事で、これ自体が壊れてしまったらしい。
余りにも呆気なくゴミと化した拘束具を一瞥すると、両の手首を交互に撫でながらサルティヌスの死体を目にして、顔を歪めていた。
こんな簡単に拘束から抜け出せるなら、どうしてもっと早く行動して、彼を救ってやろうとしなかったのか、と。
理由自体は分かっている。サルティヌスが死んで、その死体が嬲られて、そこで漸く自分の中で何かが吹っ切れたのだ。
しかし、それでも納得は行かない。今出来ているのだ。つまり最初から出来る能力があったのだから、彼が死ぬ前にどうしてそれが出来なかったのか。
その心当たりを言葉で表せば、“躊躇”だろう。
周りにどれくらい人が居るとか、どれくらい死ぬとか、それの責を背負う事になるかもしれないとか、考えてしまっていたから。
自分が人の命を奪う事に、未だ怖かったから。
以前、呪いの言葉を吐きながら死んでいった、ルキウスの顔が過ってしまうから。
だから、こんな結果を招いた。
遭いたくもない裏切りに遭い、死なせたく無い人、死んでほしくない人が死んでしまった。
己が、関わってしまったばかりに。知己となってしまったばかりに。
「おっ、お前ら、コイツを取り押さえろ!」
上擦った声でそう指示を出すのは、アロイシウス。
それに従い、護送していた十名もの兵士が槍を構えて襲い掛かって来ていた。
しかし、それらは今まで森の中で戦ってきたどんな妖魎よりも殺気が弱くて、怖くなかった。
「突け、生死は問わん!」
部隊長らしい男の号令一下、一斉に突き出される十の穂先。
それらを頭上へ跳躍する事で全てを躱し、自分が先程まで立っていた場所に、人の頭ほどの白弾を一つ見舞う。
「――そっか。俺が奪わなかったから、奪われたんだ」
凄まじい勢いで地面に直撃したそれは、雨に濡れた土砂を巻き上げ、また弾道上にあった八本ほどの槍の穂先を悉く消滅させていた。
「……は?」
余りにも一瞬の出来事で、尚且つ信じられないものだったのだろう。兵士達は軽くなった槍を見て目を剥き、硬直していた。
その間に、今しがた地面に生じた着弾点の窪み、その中心に着地し、何を思う事も無く白弾を一つ造り出して一人の兵士に撃つ。
「ふぐぁっ――!?」
吹き飛ばされてピクリとも動かなくなる様子を確認し、更に一発二発と撃つ、撃つ。
けれど、もうそこには大した感情も籠ってはいない。
ただ、自分の邪魔を出来ないような状態になってくれれば、大怪我しようが死のうが知ったことではなかったのだ。
……もう、誰も信じない。裏切られるから。誰とも距離を詰めたりはしない。失いたくないから。
一人の方が、ずっと楽だ。だって誰がどうなろうと、関係無いから。
「俺から奪ったんだ。奪われる覚悟も、あるんだろ?」
辺りを見回しながらそう言うが、もうそこに立っていた十人の兵士の姿は一つもなかった。
ただ、倒れ伏し無力化された人間が、十人ほど転がっているのみ。
さっきまで喧しいほど騒ぎ立て、子供の死体を甚振っていた市民達も蜘蛛の子を散らす様に逃げ、姿はない。
だから、その場に立っているのはただ俺一人だけだった。
そして他には、辛うじて五体満足な状態で残って居る、サルティヌスの死体。
「……ごめんな、俺のせいで」
歩み寄り、その死体を覗いてみれば酷い有様だった。
体のあちこちが擦り傷や切り傷に塗れ、四肢の関節はあり得ない方向へ曲がっている。
しかし、既に物言わぬ死体である彼は、痛みを訴えるような事はせず、ただ虚ろな目で空を、そして覗き込んでいる俺の顔を映すだけ。
「……」
無言で、この右手に白弾を生成する。
大きさは人の胴体ほどくらいでいいだろうか。人一人を跡形も無く消し飛ばせる大きさを想像しながら、彼へと届かぬ言葉を紡ぐ。
「文字を教えて貰って、秘密を守ってくれて、悩みを聞いてくれてっ、故郷が同じだからってだけで俺に良くしてくれたのに……っ! なのにっ! 何でアンタが死ななきゃいけないんだよ!?」
吐く息に、熱が混じる。声に、湿っぽさが混じる。言葉には、震えが混じっていた。
先程、怒りに任せたせいで止まっていた涙が再び押し寄せて、目鼻を中心が帯び始めるのを、強く感じる。
「二度目の人生だろ? 生まれ変わったんだろ? 前世で殺されて、またここでも殺されて……そんなの、あんまりじゃねえか! 殺されるために生まれて来た訳じゃねえんだぞ!」
頭を過るのは、サルティヌスの笑顔。そして彼と交わした言葉の数々。
今世では同年代だったものの、その言葉に端々には年長者としての気配というものが感じられた。
なるほど確かに彼は年長者であると、思えたのだ。
けれどそれは前世の時と同じように、もう絶対に戻ってこないものであって――。
「――チクショウがっ!!」
止めどなく流れる涙が、頬を伝って顎から滴っていく。ひゃっくりが止まらず、荒くなる呼吸を打ち消す様に絶叫した。
悔しい。何でこんな事ばかりなんだ。ふざけるな。いい加減にしろ。
丁度そこで、生成していた白弾が胴体ほどの大きさへと膨張し終わった。
残るはそれを、撃ち出すだけ。
「俺は……っ、俺はっ、また誰も守れなかったっ。どうしてこんなにも、鈍臭ぇ奴なんだろうなぁ……?」
サルティヌスの死体は、答えない。動かず、何も言わず。当然だ、死体なのだから。
死して尚、乱暴に蹴られ、殴られ、辱められた無残な死体でしかないのだから。
これ以上、彼の死体を辱める事は赦さない。彼の意思と行動を馬鹿にさせない為にも。彼の生きざまを嘲笑させない為にも。
「だから、俺はっ――」
その白弾を、撃つ。
至近距離で放たれたそれは、一瞬で死体を包み込む。そして、それから間を置かずに衝撃と爆風が跳ね返って来た。
自己満足でしかないのは分かっている。ただの感傷でしかないのも分かっている。それでも、やっておかなくては気が済まなかった。
例え一部だけだろうと利用され、辱められる事が無いようにと放った白弾は、十分だった。
そこにあった筈の死体はすっかり消滅し、後に残ったのは、ざっくりと地面が抉られた大きな窪みだけ。
つまり、サルティヌスと言う少年が存在したという直接的証拠は、ここに消え失せたのだ。残っているのはただ、記憶だけ。
「ホントにっ、ごめん、なぁ……」
果たしてこの震える声は、跡形も消えて無くなった彼に届いてくれているのだろうか――。




