ロトカ・ヴォルテラ⑤
◆◇◆
状況は最悪だった。
まず、巨獣が予想通り非常に凶暴で強力であった事。
全くと言って良いほど反撃の隙が見えず、あったとしても自分の実力ではとても衝く事が出来ない。
そして、もう既に上空を雷鳴轟く積乱雲が覆い、降雨まで、つまり土砂降りまで秒読み段階である――染髪料が落ちてしまう恐れがある事だ。
折角今の今まで強化術以外の魔法を使わず、己の素性を秘匿して来たというのに、これではその全てが無に帰してしまうだろう。
幾ら白い肌を汚れで誤魔化そうとも雨に洗い流されるし、染めていた髪だって降りしきる雨水で落ちてしまう事に間違いないのだから。
仮に最初は誤魔化せたとしても、その姿を見られてしまえば、正体を看破されるのは時間の問題の筈だ。
それ程まで白儿、そしてその血を引く末裔と見做される者達は有名で、悪魔で、狩りの対象とされている。
彼らなら分かってくれるかもしれないけど、と何度考えても踏み出せなかったそれが、結局強引に明らかにされてしまう訳だ。
でも、これは丁度良かったかもしれない。
これを機に、正体を明かしてみようか。彼らなら、サルティヌスのように大丈夫なはずだから。
前世で同郷であったとか、そんな事は関係ない。ミヌキウス達はこの世界の人間なのに、助けてくれていた。この世界だって、日本に比べれば生きづらいけど、確かに善意は存在している。
賭博と娼婦に入れあげ、一番金遣いの荒いアロイシウス。
賭博にのめり込むあまり、宵越しの金すら無に帰すようなアドルフス。
娼婦にのめり込み、聞いたら卒倒するほどの額をつぎ込んで居たコンラドゥス。
皆負けず劣らず阿呆で、最初その話を聞いた時は心配になったものだが、でも一緒に居てあれ程楽しいと思えたのは何時ぶりだっただろう。
そして彼らも、俺の望んだ形では無かったけれど、こうしてここに残って共に化け物と戦ってくれている。
ここまでの誠意を見せてくれる彼らなら、信頼できる、いや信頼しなくては彼らに失礼だ。
その時が来たら、雨が降って紅い染料が落ちたら、彼らに打ち明けよう。全てを。
そうすれば、もっと楽しい日常を過ごせるようになる筈だから。
「――っ!」
巨獣が、二度目の咆哮を上げる。
その凄まじい声量は耳を劈かんばかりに響き渡り、堪らず耳を塞いでしまうし、動きも止まってしまう。
けれど、もうこの胸を鷲掴みされるような感覚は無いし、呼吸は浅くならないし、つまりは怖くない。
絶対に生き残って、皆でこれからも狩猟者を続けていくのだ。
幸いにして今のところ怪物はこちらのみを標的にしていて、他の三人には目もくれていない。
それはつまり彼らが何ら痛撃を与えらえていないという事だが、その状況は正直とてもやりやすい。
何より、回避に徹していれば強化術の身体能力で攻撃を喰らう気配もなく、それによって巨獣はムキになった様に尚更、俺しか狙ってこない状況になる。
必殺の、即死の威力を誇る前脚の薙ぎ払いを伏せる事で難なく避け、体の下を駆け抜けて翻弄する。
本当に苛ついた様子で唸り声を上げるソイツは、もはや他の三人など完全に眼中にないようだった。
良い調子だ――。
「……!?」
そう思った時、不意に頬へ冷たい何かが当たった。
しかもそれは一つだけで留まらず、腕や脚、額や髪、そして地面に打ち付けていたのだ。
それらは、昨日の夕立から乾きかけていた地面に斑点模様を描いて行き、またその勢いを更に増して言っていた。
そう、これは雨。これ以上隠し通すにも時間切れだ。
それを認識した瞬間、俺は覚悟を決めた。
「お前ら! いったんソイツから離れてくれ!」
「っ、何する気だ!? さっきも言ったが、お前を残して……」
「そうじゃねえから一旦離れろ! 死にたいのか!?」
怒声を上げる彼に被せるようにして怒声を発し、言葉を強引に打ち消す。
すると抗議を押し切られた形となった彼は舌打ちを一度しながら、大人しく後退した。
「嘘だったら覚えてろよ!」
他の二人も下げつつそう叫んだ彼に右手の槍を掲げて応えた俺は、巨獣の攻撃を避けながら左手に魔力を集中させる。
――そして、再度巨獣の懐へと潜り込み。
自分の頭一つ分より更に一回り大きいくらいの白弾を、それの腹目掛けて撃ち出していたのだった。
『――ッ!?』
直後、遭遇してから初めて悲鳴らしきものを上げたそれは、その体を大きく打ち上げられていた。
着地の体勢を作ろうにも間に合わなかったのか、無様に左脇腹から地面に叩きつけられた巨獣は二度目の悲鳴を上げる。
「おいおい、嘘だろ……?」
呆気にとられたような、アロイシウスの呟きが微かに聞こえた。
だがそんな呟きに感心を示さず、更なる追撃――槍による刺突を行う。
強化した膂力で、無防備に晒された腹を思い切り突き刺したのだ。
すると途端に巨獣の体が跳ね、その痛みに悶えるようにして暴れ出し、振り回された四肢が地面を抉る。
「……っと!」
それを見て慌てて距離を取るものの、それでも追撃は緩めず、今度は遠距離から三発の白弾を連続で撃ち出した。
魔力が物体に激突して爆ぜる音が三度、雨空に響き渡る。
更に更に追撃を加えてしまいたいのも山々だが、辺りには雨が降り始めた中で土ぼこりが舞い、一時的にだが視界が最悪になっている。
無駄弾になってしまう可能性を考え、一旦距離を取って化け物の様子を窺った。
「……?」
だが、不思議な事に十秒近く待てど埃の向こうで何かが動く気配が無い。
一体何処へ――そう思った時、ぐらりと地面が揺れた。
「は!?」
足元が一気に隆起したかと思えば、火山の噴火みたく地面から飛び出し、巨獣が姿を現したのだ。
後ほんの少し、反応が遅れていれば間違いなく足元から突き上げられ、空を舞うか大口に呑み込まれていただろう。
幸いにも、後ろへ跳んだお陰で一撃必殺の威力が籠ったそれを受ける事は無かった。
だが、想定外の事態に目を剥きながら回避して安心たのも束の間、尻尾に存在する顔の無い蛇の大口が迫っていた。
ガバっと開いたその口の大きさは三十CMほど、人の頭なら一飲みにしてしまえそうなそれを、咄嗟に槍の柄で受け止めて間一髪危機を免れる。
「ぐぅう!?」
ギラリとした鋭牙がこの目前にまで迫り、それをどうにか防いだものの、押し負けて弾き飛ばされてしまう。
尻餅をついて無様な隙を晒さない為にも、両足で踏ん張って衝撃を殺そうと努めるのだが、それでも地面には二条の線が数Mも出来てしまうほどに。
「……!」
体に強化術を施して居なければ、まず間違いなく勢いは殺せなかった筈だ。
ついでに言えば、牙を受け止めた槍の柄はそこだけが大きく削られて、まだまだ耐えられるにしても四度五度と受け止めてしまえば分からなくなって来る。
当たれば強い。その理不尽さを目の当たりにして、舌打ちが飛び出す。
しかし、一旦距離が開いた事で場が切れ、体勢を整える。つまり、受けに回るのはここまで。
今度は再び、こちらから攻撃を仕掛ける番である。
殊更強く踏ん張って地面を蹴ると、槍の穂先を向けながら一直線に肉薄するのだ。
仕掛ける番に回った以上、敵を対応させる側に回す。
乱暴に振り回される鋭爪を躱し、潜り込み、斬る、突く。
折を見ては腹目掛けて白弾を撃ち、巨獣に苦悶の悲鳴を上げさせる。
巨獣の図体に対して圧倒的小柄なこの身は、小回りを生かして三つ四つと攻撃を加えていくのだが、しかしそれらはいずれも命に届かない。
「強化しても駄目かッ……!」
痛撃足り得ない。
腕力や脚力を強化した所で、固い鱗と脂肪、筋肉に阻まれて内臓へ碌な傷が付けられていないのだろう。
けれども相手に付け、積み上げていく小さな瑕疵はやがてそれの命を奪う筈だ。
力任せに振られる攻撃を苦も無く避け、大きな血管の通って居そうな箇所を突いては離脱し、また別の場所を突く。
段々と地面が泥濘と化し、頬を打つ雨も大きさと勢いを増していく中で、巨獣のあちこちから出血させる。
それら流れる血もまた雨によって洗い流され、この髪から流れ落ちていく紅い染料と混ざって、泥水を染めて行く。
「――チッ!」
質素な靴に纏わりつく泥に眉を顰めながら、それでも攻撃の手を緩める事はしない。
届くから、コイツの命にあと少しで届くから。
確かに強いけれども、それでも持てる力を以ってすれば勝てない事は無い、狩れない事は無い筈だ。
狙うはがら空きになった巨獣の右目。損傷の積み重ねが功を奏したのか、僅かに反応が遅れたのを見逃しはしない。
行ける――っ!
そう思った、丁度その時だった。
「おぉーーっと、そこまでだガキンチョ!」
喧しいほど強く雨が打ち付けて、泥と血飛沫が舞う中。不意に遠吠えのようなよく通る声と共に、ローブを纏った人影が一つ割り込んで来た。
それも、巨獣の右目を潰さんと繰り出した槍の一突きを片手で掴んで、である。
「――!?」
見た事も無い、見ず知らずの顔と声の持ち主に介入された。その事実に驚愕し慌てて槍を引き抜こうとするのだが、何をしたところでピクリとも動かない。
己の体に身体強化術を掛けているにも関わらず、だ。
幾ら未熟である自覚がるとは言え、普通の人間ならあり得ない出来事を前にして、その不審者へ問わずに居られない。
「何なんだよ、お前……!」
「うるせぇなぁ。んなことぁどうでも良いだろ?」
心底煩わしそうな言葉をその男が発したと同時に、腹部を凄まじい衝撃が唐突に襲い掛かる。
「あがっ!?」
それが何なのかを悟る間も無いまま浮遊感に見舞われ、背中に強い衝撃を覚えた時に、ようやく自分が蹴り飛ばされたのだと悟っていた。
どうやら後ろにあった木の幹へ背中から激突したらしい。突然の事で受け身も取れず、後頭部もまた強かに打ち付けてしまった。
一瞬、息が止まる。この体に泥が付く事を気にする余裕など無い。ただ痛い、痛む場所を押さえたまま動けない。
「おーおー、面白れぇように飛ぶなぁ。しかも頑丈と来たもんだ。ひょっとしなくても強化術のお陰だろ? 一部始終見てたから、流石に分かるぜ」
強かに背中を打ち付けたせいだろう、派手に咳き込みながら立ち上がれば、彼は愉快そうな笑みを浮かべる。
しかもその手には、さっきまでこちらが持っていた槍が握られていた。
「お前……っ!」
目の前に立つこの人物が何者なのかは分からないけども、それでもコイツは敵だ。断定できる、明確な害意を持って今し方ここへ乱入し、攻撃を仕掛けて来た。
まるで奥に居る巨獣を庇う様にして、だ。
だが彼はこちらが何を言っても答える気が無いらしく、不敵な笑みを浮かべてこちらの様子を窺って来るのみ。
「大丈夫か、クィントゥス!?」
「平気だっ、だからこっちに来るんじゃねえぞ!」
非常に焦った様子で気遣いの声を掛けてくれるアロイシウスに、彼らの安全を守る意味でも強い牽制の言葉を吐く。
ここで彼らに死なれては、何のために自分の持てる技術と能力全てで巨獣と対峙していたのか、分からなくなってしまうから。
だがそこへ割って入る、何処か愉快そうな男の声。
「なぁお前、白儿だろ? 確かめねえと分かんねえが……こりゃとんだ掘り出しモンかもしれねえな」
「……そう言うお前は何だってんだ!?」
「焦るな。大人しく俺についてくれば教えてやるからよぉ」
そう言いながら、彼は片手だけで簡単に槍を握り折ると、空いている左手で手招く。
当然だがそれについていく気など毛頭ない身としては、一歩たりとも前へ出るつもりが無かった。
すると男は少し身を屈め、言う。
「拒否したって事で良いんだな? んじゃ、こっちから行くぜ。……後悔すんなよ?」
気付けば、男が目の前に迫っていた。
視界一杯に映る、ニヤニヤと柄の悪い笑みを浮かべる彼の年齢は二十代後半くらいだろうか。青年の言って差支えの無いその人物は、技の起こりを一切悟らせないままに目と鼻の先へ肉薄していたのだ。
咄嗟に両手で生み出した二つの白弾を見舞うが、それが児戯の如きであると言いたげな嘲笑と共に、易々と躱されてしまった。
「――っ!?」
数瞬、視界が真っ白になる程の衝撃が左の頬に走り、バチャっとした音を立てながら無様に泥と化した地面へ転がる。
顔面を大粒の雨が打ち、服の背中へと泥水が染みこんでいくのが何となく、それでも間違いなく知覚できた。だが、それへ何かしら感情を抱く前に、今度は腹に激痛が走った。
「ぅあっ!?」
強制的に肺から空気が絞り出され、己の腹が踏みつけられたのだと気付いた時には、腹を抱えて悶えていたのだった。
しかし男の手はそれで緩んではくれず、今度は胸倉を掴んで持ち上げていた。
「ガキは大人に勝てねえんだよ、分かったか?」
「……」
至近距離で紅い眼と、狼のような黄色い目が交錯する。
しかしそれに気圧される事無く、寧ろこの頬を微かに緩ませずには居られない。
何故なら、あと少しだから。
あと少しで、先程放った二つの白弾が誘導されて、背後で呑気に待機する巨獣に直撃するから。
「あぁ? んだその顔は!? テメエ、殺されてえのか……っ!?」
己の背後で何が起こっているのかも知らず、舌打ちしながら拳を振り上げる男だったが、直前になってその手が止まる。
彼の背後から、唐突に何かが二つ直撃する音と、巨獣の大きな悲鳴が上がったから。
「何だ!? 何がっ……テメエ何をした!?」
一瞬だけ当惑したような顔を見せた彼は、先程まで大人しく待機していた巨獣が勝手に動き出したのを見て、苦渋の表情を浮かべていた。
そして、その隙は幾ら実力差があろうとも十分なものであって。
一瞬で造り出した白弾をお返しと言わんばかりに彼の右頬へ撃ち出すと、蹈鞴を踏む彼の拘束から抜け出し、距離を取っていた。
「何をしたとか、答えてやる義理も無いだろ?」
「忌々しいガキが……! この事、忘れねえからな」
凄まじい敵意をその目に宿し、彼はそれだけ告げる。そして不意討ちを受けたせいか滅茶苦茶に暴れ出した巨獣を追い駆け、森の中へ消えていくのだった。
後には、振り続ける雷雨の下で呆然と立つ自分のみ。
先程まで命を賭けた遣り取りが行われていたのがまるで嘘のように、土砂降りの雨音だけがこの場を支配していた。
「何だったんだ、あの男……!?」
控えめに言っても、アレは異常だった。強すぎる。
あの巨獣だろうとこちらにも攻撃する機会があったというのに、あの男にはそれが無かった。
もし真正面から相対したら、きっと何も出来ず一方的に負けてしまう筈だ。だから、最初に放った二発の白弾も男ではなく、ぼうっとしていた巨獣を狙った。
背後から攻撃したとしても、当たる気がしなかったから。
もし次会ったら、勝ちは疎か逃げすらも取れるか怪しいだろう。
「……」
おまけに、アロイシウス達だけでなくその彼にまで自分の本当の髪色を晒し、魔法まで使ってしまった。
緊急時だったから仕方ない、いつか打ち明けるきであったとは言え、それでも一番避けたかった事態である。
だが、その一方で対価を払った価値はあったのかもしれない。出し惜しみをしない事で仲間の、友人の安全を守る事が出来たのだ、その点では十分であると言っても過言ではなかった。
彼らの方へ目を向ければ、三人とも一様にほっとしたような表情をして駆けよって来るのが見える。
「クィントゥス、大丈夫そうで何よりだぜ! いきなり変な奴が乱入した時には、どうなるかと思ったけどなぁ」
「ああ、槍も壊されちまったし、買い直さないと。どうにかなったが、溜まった金がまた減るってのは寂しいもんだ」
尚も雨の降りしきる中、一時的に退避していたアロイシウスが俺の安全を確かめるように、強く抱きしめてくれる。
こうして生き残れたことがそれ程までに嬉しかったのだろう。だが、それにしても些か苦しい。
「おい、そんな強く締めないでくれよ。身動きがとれねえ」
「……なぁ、一つ訊きたい」
「何?」
強い雨が降る中でも声を張らずに会話をする為だろう、顔を近付けて何かを聞こうとする彼の顔は真剣で、自然とこの表情を正さずには居られない。
「お前、髪を染めてたんだな」
「ああ」
「じゃあ、魔法が使えるって事も隠してた?」
「……ああ」
「クィントゥスって白儿、だったんだよ、な?」
「そうだ。黙ってて悪かった」
真剣だけれども、いつもと変わらず何処かこちらを気遣う様な声。
そんな彼につられ、答えながらもどんどんと申し訳なさが募っていく。
「その……黙ってて悪かった」
「気にすんな。なぁ?」
より一層強くアロイシウスが俺を強く抱きしめ、彼はその上で他の二人に同意を求めていた。
それに間髪入れず二人の返事が聞こえたが、それは何故か背後からしていた。
どうしてあの二人は、視界から外れる位置に居るのだろう。不思議に思って、首を捻ってギリギリ視界に二人の姿を捉えてみれば――。
そこには、今まさに剣の鞘を俺の頭へと振り下ろしているコンラドゥスの姿があった。
「いい金になりそうだな?」
「えっ……」
囁くようなアロイシウスの声が鼓膜を揺らした直後、衝撃が頭蓋骨を揺らしていた――。




