ロトカ・ヴォルテラ④
◆◇◆
日はまだ昇り切らず、森には明けきれぬ夜の静謐さがある。
けれども視界は十分で、仮に危険が差し迫っていたとしても早期発見するに足る程度であった。
「どうだ、居る?」
「分からんな。少なくとも今のところは見当たらねえ」
コンラドゥスの問いに、アドルフスが首を横に振る。
困った事だと二人して首を捻る気配を感じながら、俺とアロイシウスは周囲を見渡していた。
「……どうなってやがる? 全然いねえぞ」
「ここ数日、狩猟依頼が急激に減少したとは聞いてたけど、そりゃここまでスカスカなら無理もないな」
おかしい、と顔を顰める彼に同意し、一向に見当たらない妖魎に考えを巡らせる。
普通なら小さい獣は見かける事は出来る筈なのに、どういう訳かそれすら居ない。空を飛ぶ鳥の鳴き声も疎らで、今まで以上に森の中が静かである様に感じられた。
この森に棲んでいる筈の妖魎は、一体どうしてしまったのだろうか。死体すらも残さず、忽然と消えてしまったそれらに疑問は募るばかりである。
「連中の集団に襲われたかと思えば、今度はぱったりと見なくなるってのは、何かあるんだろうな」
「だろうな。同業者があれだけ惨たらしくやられてるんだ、この森には何か居るぞ」
「……そう思うならどうして依頼を受けたんだよ。訳わからねえ状況で森に入る事がどんだけ危険か、分かるだろ?」
アロイシウス達のやり取りを耳にして、思わず溜息が出てしまう。
昨日だけではない、今日組合で依頼を受ける時にも、止めた方が良いと何度も諫めたのだ。なのに、彼らは聞く耳を持たなかった。
忠告を無視された身としては「言わんこっちゃない」と声を大にして言ってやりたいが、さりとてここは森の中。
大声を上げて獲物が逃げてしまったり、思わぬ奇襲を受ける訳にはいかないのだ。当然、彼ら三人へ向ける言葉も小言程度のものになってしまう。
「あともう少しくらい、様子見したって良かっただろ?」
「そうは言ってもなぁ、金がねえんだよ。待とうにも先立つモンがねえと、仕事せずには生きていけねえ」
「どんな金の遣い方をしてんだ……いや、やっぱいい。お前らの事だ、大体分かる」
聞きたいか? と口端を吊り上げるアロイシウスらが何かを言う前に、機先を制して黙らせる。
どうせ賭博と女だ。娯楽の少ない世界で命を賭けて金を稼いでいれば、それらに走ってしまうのも無理からぬ事だろう。
だからこうして今、依頼を受ける羽目になっている。正直なところ自分の懐はまだまだ余裕があるのだが、この三人だけでは何となく不安で、ずるずると付いて来てしまっていた。
今日受けた依頼は、『妖魎五体の狩猟』。つまり妖魎の種類は問わず、何でも良いから五体狩猟する。
最近、森が静かになっている事もあって狩猟依頼が激減する中で、常時張り出されるようなものと採集依頼以外は掲示板から消えてしまっていたのだ。
故に余り実入りの良いとは言えない依頼を受け、こうして森へ赴いている。
因みに、こうして常時貼ってある依頼と言うのは、領主などと言った権力者が補助金を与えているからこそ、存在している。
強力で強大な存在だと判断されたり、特定の素材が欲しいとなればそれを対象とした依頼が張られるものの、実際問題脅威は常に存在しているのだ。
それらを出来る限り取り除き、通行や領民の安全を守る。だが領主の兵だけでは手に負えず、故に民間へ委任する。
その結果として存在するこのような依頼は、前述のように余り実入りが良くない。
報酬金は一定。どれほど強力な個体を狩っても一体としか数えられず、その逆もまた然り。弱い個体ばかりを狩ればまだ効率がいいかも知れないが、自然を相手にしている以上、弱いものばかりを狩れる訳でもない。
よって難易度にバラつきが生じる、だから効率が悪い。因みに、このような依頼は安全確保の為に存在しているので、何度達成しようと消える事はない。
ある意味では、仕事が少なくなっても安定して存在してくれている、有難い依頼とも言えるだろう。
現にこうして、受注出来ているのだ。ただし雲行きが怪しくて、達成できるか分からなくなってきているのだが。
「困ったもんだ……っと!?」
「どうした?」
苦笑しながら頭を掻いていたアドルフスが不意に声を上げ、それにアロイシウスが反応する。
直後には喧しい甲高い声が聞こえ、即座に武器を構えていた。
この耳障りな声、恐らく矮猿。その数は一つか二つだが、その奥から更に何かが迫って来る気配がする。
「全員、気ぃ抜くな!」
アロイシウスの押し殺した声に、無言で頷き返す。
幸いな事にこちらへとそれらの気配が向かって来てくれているのだ。そのまま待ち受けて討ち取ってしまえば楽に討伐数を稼げるだろう。
各々木陰に姿を隠し、ここへ至るのを待っていると、案の定奥より矮猿が二体、姿を現した。既に手傷を負っている様だが、それでも生きようと足掻いているらしい。
そしてそれらを追い立てる様に続いて姿を現したのは、明確な殺意を持った四頭の狼。
ナイフのような剥き出しの牙から推察するに、牙狼だろうか。
前者と後者、あわせて六体の妖魎。依頼は五体なので一つ余分だが、恐らく狩る事になると思われる。
「――掛かれ!!」
その号令一下、四人は武器を手にして一斉に躍り掛かった。
真っ先に屠られたのは、逃げ惑っていた二体の矮猿。
それぞれアドルフスとコンラドゥスの矢と剣を受けて、呆気なく散った。
一拍遅れてこの手に持つ槍が一体の牙狼を貫き、命を奪う、が。
「ちっ、仕損じた!!」
手負いの矮猿を仕留めるよりは難しかったのか、アロイシウスは牙狼への斬り付けが出来ても、致命傷を与えられなかった。
自分だけ仕留められなかったのが不満なのだろう。彼の顔が悔しそうに歪み、振り抜いた剣を引き戻し構える。
残りは、牙狼が三体。一体はアロイシウスが今さっきほど手負いにしている。
手負いの方は傷をつけたアロイシウスが憎いのか、彼に向かって唸り声をあげ睨みつけていた。
一方、他の二頭はまだ状況が読めていないらしく、戸惑ったように急制動を掛けて、仕留められた矮猿を見ていた。
「……!」
その隙を、見逃がしはしない。
まず一体の首を横から深々と貫き、仕留めた事を確信してから手から放すと、腰に差した短剣を左手で引き抜く。
跳躍し、逆手に持ったそれを突き立てるのは、当然二体目の個体。
短剣を持つ左手に右手を添えて振り被り、狼の頭部目掛けて振り下ろす。
『――ッ!?』
体重をかけて振り下ろされた短剣は、固い手応えを伝えたかと思えば、次の瞬間にはそれを突破する。
――殺った。
頭蓋を貫き、ビクとも動かない程に刺さった短剣を手放して確信する。脳を破壊されたのだ、生きて居られる筈がない。
その予想通り、短い悲鳴を上げた牙狼はすぐに脱力し、ふらつくようにして地面へと斃れた。
だが油断はせず、予備の短剣をもう一本引き抜きながらアロイシウスに目を向ければ、彼もまた狼を仕留めたところであった。
「やってやったぜ、見たかラウレウス!」
「ごめん、見てなかった」
「何ぃ!?」
ほんの十秒にも満たない時間に、六体の妖魎を屠る事に成功したのだ。
もしかしたらノルマ達成できないかもしれないと思っていたところで、唐突に達成されてしまった。
運はどう転ぶか本当に良く分からないなと思いつつ、周囲に危険が無い事を認めると短剣を鞘へと納める。
何はともあれ、依頼は達成したのだ。後は討伐証拠かつ売れる素材の剥ぎ取り、そして組合で達成を報告するだけ。
「……上手く剥ぎ取れればいいんだけどなぁ」
アロイシウス達に解体方法を教えて貰うようになってから、既に大分経つ。サルティヌスから教えて貰った読み書きの方は身についたのだ、こちらもそろそろしっかり覚えておきたい。
深々と突き刺さった槍と短剣を引き抜きながら、解体手順について四日ぶりに思考を巡らせていた。
◆◇◆
すん、と男は鼻を鳴らした。
「……こりゃ、一雨来るかもなぁ」
面倒くせえと言いながら足元にあった石ころを蹴飛ばし、空を見る。
森の中にあって、空を見るには些か枝葉が邪魔であるものの、それでも分厚い雲の姿が認められる。
「ここんところ余り妖魎を見かけなくなったし、困ったもんだ。狩猟者も手応えはねえし……適当に通り掛かった旅人で時間潰すかね?」
暇だと言いながら、夏だというのに外套を纏った男は巨大な獣に話しかける。もっとも、その獣は言葉の意味を理解出来ていないのか、獰猛な声を漏らすだけで何も言わない。
男はそんな様子でも気分を害した様子はなく、体高だけ三Mはあろう獣の前脚を小突くと歩き出す。
それに不快そうな声も出す続いていく姿は、人の目から見ればいっそ不気味で、恐怖すら呼び起こしそうなものであった。しかし、辺りには人影は疎か妖魎の姿も無い。
動くものは彼ら以外、何も存在しないのだ。
「……お、血の匂い?」
ふと、彼は足を止めた。
同時に口元を獰猛に歪め、歩く方向を少し転換する。
「こっちだ、行くぞ」
風の吹いてくる方へ、風上の方へ、彼は不気味な巨獣を連れて駆け出していた――。
◆◇◆
短剣で太い血管のある首などを切り裂き、まずは傷口を下にして血抜き、そしてそれを暫く待ってから腹を裂いて、胸部から妖石を取り出す。
残りは放棄するか、売れそうなものは剥ぎ取って持ち帰り、買取商に引き取って貰う。
折角六頭も狩ったので出来る限り持って帰って売り捌きたいのだが、魔拡袋でも流石に容量の限界がある。それでも尚、余分に素材を持ってしまおうとすれば、今度は両手が塞がって武器が振れない。
結果、いつも通りある程度の取捨選択を行うしかなった。
「あーあ、もってぇね」
「何言ってんだ、これだけでも十分だろ。お前の袋が無かったら尚更捨てるモンが多いんだからな。何よりそこに入道雲だって見える、チンタラしてる間はねえぞ」
贅沢言うなと、同様に剥ぎ取りをしているアロイシウスから窘められてしまった。
確かに雲行きは怪しいし、先程から風が吹き続けている。彼の言う通りあまり時間的余裕は無いだろう。
だがそうは言われても自分が苦労して狩ったのだ、それが無駄になってしまうと言うのは正直少し悲しくあった。
「おっ、良い剥ぎ取り方じゃねえか。上手い上手い。こりゃ、その内俺らが抜かされちまうかも」
「そりゃ、今日だけで何体の剥ぎ取りしてると思ってんだ。それに、この前の剛爪熊に比べたら全然難しくないしな」
肉も骨も、あの熊に比べたら固くないし、太くないし、重くない。
これまで何度も剥ぎ取りの練習をして来た身としては、この程度慣れたものだった。
「そうかそうか、なら良かった。ホントに教え甲斐のある奴……っ?」
「どうした?」
「何か聞こえねえか? 地面を叩くような……足音?」
「足音? ……ああ」
首を傾げるアロイシウスの言葉の通り、確かに遠くから何かの音と、微かにだが地面が揺れているのも確認できる。
しかもそれらは段々と大きくなり、まるで巨大な何かがここへ一直線に向かって来ている様だった。
「……?」
ただならぬ気配を感じ取り、各々剥ぎ取りを中断して武器を構える中、確かに一瞬だけ黒い影を見つけた。
それの体長は推定するに剛爪熊と同じかそれより少し大きいくらいだろうか。一目で分かる程、凶悪なシルエットだった。
そしてそれは、進路上にある木々すらも簡単に圧し折り、薙ぎ倒して明らかにここを目指していたのだ。
思わずと言った様子で、アロイシウスが目を剥く。
「なっ、何だありゃぁ――!?」
彼の叫ぶ通り、果たしてあれは何なのか。
不意に、ぞくりと背中が粟立った。
その理由は単純。何となくだが、分かってしまったのだ。
――こいつが、今までの異変の原因で、これまで遺体で発見された狩猟者らを惨殺した犯人だと。
「にっ、逃げろっ――!!」
口を衝いて出た言葉に、他の三人はしっかり反応してくれた。
だからだろう、この最初の“攻撃”で一人として死者が出なかったのは。
俺の絶叫に弾かれるみたく全員がバラバラの方向へ散った直後。巨大な影が、木々すら軽く跳び越える程の跳躍を見せ――全体重をかけて、さっきまで皆の居た場所を粉砕していた。
同時に土砂が飛び散り、放置されていた矮猿や牙狼の死体もまた、肉片と変わり果てて空を舞う。
べちゃり、と土塗れになった血濡れた何かが、俺の足下へ落ちて来た。
それは恐らく狼の上体なのだろうが、もはやそれは恐ろしいまで徹底的に破壊され、知らなければ元がどうであったのかすら窺い知れないほど。
「ぜっ、全員無事か!?」
酷く狼狽した、アロイシウスの声。
しかしその姿は、今しがた凄まじい着地をした巨獣の影が邪魔で認める事が出来ない。
それでも声を出せたという事は生きているという証であり、俺を含めた三人は彼に向かって無事であると告げていた。
ただ、全員無事だと安堵したのも束の間、すぐにその意識を目の前の存在に切り替える。
「……何だよ、コイツ?」
それは酷く異質で、異常だった。
獣のような姿をしているのに殆ど毛皮が無く、そのほぼ全身を蛇や蜥蜴のような鱗が覆う。
尻尾には蛇のような、しかし目の無いそれが三つ、意思でもあるかのようにそれぞれバラバラに動いていた。
次に何をして来るのかと様子を窺いつつ、手に持つ槍を構えていつでも即応できるようにしていると、不意にそいつが鼻をヒクつかせ、こちらを見る。
そして、まるで何かがある様に天に向かって大咆哮していた。
その声量たるや凄まじく、途端に耳を塞いて思わず蹲ると共に、脂汗がどっと吹き出て心臓を鷲掴みされたような錯覚に陥っていた。
――狙われた!?
本能的にそう感じ取ったこの身体は全身の肌を粟立たせ、背中に薄ら寒いものを覚えさせる。
何だ、何だ、何だ、何だコイツは?
何十分、何時間にも感じられる、凄まじい重圧を伴った咆哮が終わった時、もう既にこの喉はカラカラに渇き切っていた。おまけに、心臓は頭痛を覚えるくらいの早鐘を打つ。
「クィントゥス!!」
浅い呼吸の中で、誰かが俺の偽名を呼ぶ。
いや、誰かじゃ無い。アドルフスだ。
彼もまた青い顔をしながらこちらを見ており、そして何かを訴えている様だった。
でも、一体何を訴えているのだろう……?
そう思った所で、ふと頭上に影が掛かった。
「えっ……?」
どうしたのだろうかと、頭上を見上げてみれば。
そこには、大口を開けた巨獣がもう目前まで落ちて来ていて――。
声を上げる暇なんて、全く無かった。
只々、「死」に追い立てられて、意識よりも先に体が動いていたのだから。
咄嗟に飛び退った事で、ソイツの口に飲まれる事態は避けられた。
ガチン、という音と同時に閉じられた口は鋭牙がずらりと並び、もしも反応が刹那でも遅かったらと想像しないではいられない。
「無事かっ!?」
「な、何とかな!」
切迫した声で確認してくるアロイシウスに応じながら更に二度三度と後ろへ後退し、十分な間合いを取った所で再度槍を構える。
構えながら、相手の威圧に飲まれてしまうという、つい先程の自らの不注意に歯を噛んでいた。
さっき助かったのだって只々運が良かった、多分もう次は無い筈だ。
もっともこれ程の怪物が相手となれば、全力で行かなければ手も足も出ない気がしてならないのだが。
「アロイシウス、どうする!?」
「て、撤退だ! こんなバケモンと真面にやり合える訳ねえ!!」
回避に動いた事で、ようやく見えるようになった彼に問い掛けてみれば、至極真っ当な答えが返って来る。
しかし、こんなものを相手に果たして逃げ切れるかどうか。
誰かしら殿が必要だ。
だとすれば、ここに自分一人が残って、人目のない中で存分に魔法を使ってしまえば良い。
それでも届くかは分からないが、少なくとも他の三人は無事逃げ切れるだろうから。それに、上手く行けば自分も逃げ果せられるだろう。
しかし、そこで牽制するようにアロイシウスが告げる。
「言っとくがクィントゥス、またお前が残るってのはナシだからな?」
「どうして!?」
「どうしてじゃねえ! 俺達が何度お前に助けられたと思ってんだ、それなのにここでまた頼ってなんざ居られる訳ねえだろ!」
その彼の言葉に、コンラドゥスとアドルフスもまた続く。
曰く、これ以上は甘えられないと。
「何言ってんだよ!? コイツはマジで危ないってのに!」
「だったら尚更だ! 何度も言わせんな、俺らより年下のガキに、いつまで負ぶって貰う訳には行かねえっての!」
思わず言葉に、詰まった。
ここまで考えてくれていたのは確かに嬉しいが、しかし一方でこの状況ではいつまで経っても魔法を使えない。
ありがたい一方で迷惑でもあったのだが、そこまでの意地と気持ちを無碍に出来る筈も無く、それ以上反論出来なかったのだ。
嬉しいが、嬉しくない誤算。
思わず腹の中で悪態を吐いてしまうが、その心情を表す様に遥か上空では暗雲が立ち込めつつあった……。
 




