ロトカ・ヴォルテラ③
◆◇◆
「なあラウレウス、農奴の生活ってどうだった?」
「どうだった……って、そりゃもう地獄だよ。こんな簡単に人が死ぬのかと思ったくらいだ」
家族同然に暮らしていた子が死んでも、涙の一つすら出ないくらいには慣れてしまっていたのだ。
それこそ、ただ生きる。
領主の勝手で他領へ売り飛ばされてしまった家族や、税が払えないからと奴隷身分へ落とされ、為政者からは人格を認められない。
少なくともグラヌム村での生活はそんなものだった。地球であればまず間違いなく国際社会から非難轟々であろうが、この世界ではそれが普通なのだ。故に、非難する者など居やしなかった。
「孤児の生活がどうだかは知らないけど、農村は本当に酷いもんだった。人権侵害その他諸々、日本じゃ信じられない事のオンパレードさ」
息を吐きながら空を仰ぎ見れば、そこには雲一つない晴天が広がる。
俺とサルティヌス、互いが前世で日本人の記憶を持ち、そして大体同じ時間に同じ建物内で殺された事が判明してから、既に三日が経過していた。
休日は残すところ今日一日。三日の間に文字の読み書きをみっちり仕込まれ、お陰で大抵の文字は読めるようになっている。
何となくテスト前に詰め込み勉強をする、懐かしい学生気分は前世を思い起こさせて、名状し難い感情を抱えずには居られない。
それはサルティヌスも同様だったのか、彼もまた読み書きを教えながら何処か遠くを見ている様だった。
そして今は、最後のテストも兼ねて護身用の槍を片手に街の中を散歩している。無論、無闇に人を傷つけないように布の鞘を被せているが。
「……そこの文字は読めるか?」
「え? あ、“ゲヌキウス商店”ね。素材の買取とかして貰ってたな」
ぼったくりからの口止め料を得てから、こうして店の前を通るのも初めてだ。店の中を覗いてみれば、馴染みの鑑定人の中年男性が見える。
他にも彼の指示の下で重い荷物を持たされ、馬車馬の如く働かされている若い男が居たが、あの男は鑑定品を買い叩こうとした人物だった筈だ。
「何だ、ラウレウスのお得意さんだったのか?」
「いや別に。今はもう特に何の関係もないさ」
挨拶の一つでもしておこうかと思ったけれど、微妙な空気になる気配がしたのですぐに視線を外す。
どうしたのかと訊いて来るサルティヌスには適当に答えて口を噤むと、彼も何かしら察したらしい。それきり質問を重ねる事はせず、代わって別の看板を指差していた。
「んじゃ、あれは何て読む?」
「“酒屋のマニウス”。余裕だな、サルティヌスのお陰だよ。折角の散歩だし、ついでに代わりの服とかでも買おうか?」
「随分高い贈り物だな、嬉しい事言ってくれんじゃねえか。けど、それは俺だけじゃなくてラウレウスもだな」
破顔しながらその手が俺の服を掴む。
なるほど、確かに彼の言う通りこの服はボロボロだ。孤児のサルティヌスに勝るとも劣らないと言えるくらいに、である。
所々落ち切らなかった汚れが見られ、ズボンもシャツも穴が目立つ。日本であれば確実に廃棄するであろうボロ雑巾のような有様だが、農奴として慣れた身ではまだ使えると判断してしまう。
だが、それは孤児とは言え日本人的感覚の残るサルティヌスにとって突っ込みどどころだったらしい。
「その身形じゃどっちが孤児か分からないくらいだ。悪い事は言わねえ、冗談でも俺の服を買うと言ってくれるのは有難いが、先に自分の服を直せ」
服の予備を持っておけば尚いいだろうとの彼の指摘に、理を認めた俺は周囲を見渡す。
だが、目当てのものは見当たらない。困った、という様に歩きながら目当ての店を探してもやはり見当たらない。
「何探してんだ?」
「いや、折角の都市だし服屋を……」
「阿呆かお前、本気で買うつもりだったのかよ? 服屋なんて専門店がこんな下町にある訳ねえだろ。服は大体自家用だよ。知らなかったのか?」
呆れたように指摘され、思わず吃驚した顔をそのままに彼の顔を凝視する。
するとこちらの内心を察したのか、「農奴じゃ知らなくても仕方ねえか」と呟くと丁寧に説明してくれた。
「良いか、この辺は都市であろうと平民と農奴も同じだ。専門店で作られる質のいい服は富裕層の持ち物で、市民の服は基本的に自家製。俺ら孤児は捨て布とかを仕立て直しているけどな」
「……都市なのに? 不便だな、雑多だし汚ねえし」
「そんなもんだろ。余った布とか持ってるんなら、早く解れと穴を繕っておけ。そういやお前ボロいけど予備の服持ってたな。あれも拾いモンだろ?」
直す当てが無いなら切れ端くらいはやるぞ、との有難い申し出を丁重に断り、尚も談笑しながら街の中を歩いていく。
それに、この魔拡袋の中には確かに用途不明な布があった事は確認している。針と併せて裁縫用だったのだろう。
手拭として使っていたが、ここに来て漸く本当の用途に気付いたのだ。
「やっぱ、一つの場所から動かねえと情報も少なくなるもんかね?」
「そうだな。サルティヌスだって妖魎と直接戦った事は無いだろ?」
「そりゃね。下手に城壁の外に出たら戻れなくなるかも知れないし、精々討伐された死体が運ばれてるのを見たくらいだ」
ここは情報の流通速度が遅い世界だ。ほんの少し生活環境が離れているだけでも常識は違ってくるし、さりとてその違いは実際に見なくては気付けない。
寧ろ地球の裏側の情報すら瞬時に回って来る世界の方が異常なのだ。娯楽だって多かったので、殊更狭く閉じた世界は詰まらなく、そして厳しく感じる。
「余裕は無いし、日々の生活で精一杯、ひょっとした事で簡単に吹き飛ぶ命、少ねえ娯楽。日本で働くために生きるのと、ここで生きる為に生きるのと、どっちもうんざりするほど理不尽だ。嫌になるぜ」
サルティヌスを先頭に、人の行き交う路を進んでいく。先導しながら回想しているらしい彼は軽く溜息を吐くと、顔を顰めた。
「けど、この世界に来て本当の意味で豊かな世界ってものを知れたよ。何もかも、人が一人で生きていくには多過ぎた。それこそ余りまくるくらいに。貧しいってのはその取捨選択すらできやしない」
何になりたいか、何をやりたいか、何が出来るようになるか。ものによっては難しくて、狭き門である場合もあったけれど、あそこには確かに選択肢は存在した。
だが、この世界は選択肢が少なすぎる。初めから容易されていないと言うべきか。
努力で覆せるものも確かに存在している一方でその門戸は極めて狭く、「身分」だけで全てが否定できしてしまう様な世界なのだ。
前世でも理不尽を感じる場面はあった。それでも、ここほどでは無かった。努力すら許されず、努力しても否定できてしまう様な悪夢の世界。
この世界で周囲の定義から外れた者は徹底的に排斥され、命の危険に晒される。陽の当たる所に、逃げ場など無い。
地球上にはそんな境遇であれば避難させてくれる場所は存在した。だが、ここには無い。あったとしても知る事など出来やしない。
地球上であれば、少なくとも日本であれば、忌避されるような容姿であったとしても、命の危険を感じる場面は少ない。
だけどここは、人の温かさを感じるには余りにも素っ気なくて。無情で。冷酷で。
だからだろう、同郷の者に向かって言葉が漏れてしまったのは。
「時々、思う事があるんだ」
「ん?」
つい口を衝いて出た言葉に、サルティヌスが足を止めて振り返った。
怪訝そうに歪んだ眉は話に興味がある様に感じられて、更に口を動かす。
「出来たら元の世界に戻りたい。夢であって欲しい。いっその事死んでしまえば、元に戻れるんじゃないかって」
「……馬鹿言っちゃいけねえよ、これが夢な訳ねえだろ。十四年も夢を見続けてるなんざ、おかしいだろうが」
「でも、死んだら元の世界に戻れるかもしれない。こうして生まれ変わってるんだ。全く期待の持てない仮説とは言えないだろ?」
変な事を言っている自覚はある。死んでしまいたいなど、それではミヌキウス達の努力を無に帰すような行いだ。罰当たりだと思うし、不義理だと思う。
でも、こみ上げて来るこの気持ちはどうしようも無くて、止めどが無くて。
「もううんざりかな、とか思ったりして……」
きまり悪くて、恥ずかしくて、サルティヌスから目を逸らしながら呟いた言葉は、果たして聞き取れたのだろうか。
聞こえていなくても、どちらでも良いと思って放り出した言葉に対して返って来たのは、強烈な衝撃だった。
「!?」
唐突に動き出した何かが左頬を叩き、それを認識する前に乱暴に視界が揺さぶられる。
蹈鞴を踏み、平手打ちを食らったのだと認識した時には、今度は胸倉を掴まれていた。
「お前、この世界でその歳になるまで生きて来られた価値、分かってねえのか? 殆どの子供が七歳前には死ぬんだ、農村暮らしだった奴がそれを知らねえとは言わせねえぞ」
「何を……!」
「うっせえ黙って聞け。今まで生きて来て、お前は幾つの死を見て来た? 幾つの絶望を見て来た? 幾つの悲しみを見て来た?」
胸倉を掴んだのは後退れない様にする為なのだろう。額と額の体温が互いに分かる程の距離で、サルティヌスが低い声で問うた。
そこにあるのは、憤怒か。いいや、それだけではない様に見える。
「良いか、意識しろ。今のお前は、俺は、そいつらの絶望や悲しみの上にあるんだ。そいつらの死にたくないって感情を散々に見て来たんだぞ」
「それはそうだけど……俺が殺した訳じゃねえんだ。どうしようも無かったんだ!」
「んな事は百も承知だよ! お前は、命を欲しているヤツの前で命を捨てるとか言えるのかって話だ! 無駄遣い出来るほど安っぽいものなのかって訊いてんだよ!」
都市の中でも割と大きめの路で、サルティヌスが感情を爆発させる。段々大きくなっていく彼に声に、道行く人たちは何事かと視線を向け、そして通り過ぎていく。
傍から見れば孤児同士で揉めているとでも思ったのだろう。何より、交通の邪魔にならない路の隅だったので、咎める者も見当たらない。
「お前が看取った奴は最後に何を言った!? 何を願った!? 今も何処かで生きているだろうあっちの世界の連中も、何を願っているだろうな!?」
「……」
前世だけではない、長らく思い出して居なかった今世の母親の顔が、不意に頭を過った。この世で生を授けてくれた女性。今から五年前に死んでしまったけれど、優しかった覚えがある。
彼女は今際の際で何を言い、果たして何を思っていたのか。
本心でどう思っていたのかは正確にはする術などもうないけれど、でも何を言っていたのかは覚えている。
彼女は悔やんで、俺だけをこの世界に残す事を心残りだと、弱々しい声で告げていた。恐らくだけれど、この先も生きていてほしかったのだと思う。
彼女自身や、既に死んでしまった他の家族の分も、生きて欲しかったのだと思う。
「一人はお前の事を気に掛けながら死んでいった人間が居た筈だ! それを踏み躙る様な事を、そんな顔して呟いてんじゃねえよ!!」
「……」
気付いた時には温い水が、頬を伝っていた。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。頬を撫でたそれらは顎へと続いて、そこから垂れていく。
「何で、こんな……」
「死んでいく奴が、まだ先を生きていく奴の命が続くよう願うのは当たり前だろうが! 生きて欲しいと願って何が悪い! お前はその願いが、希望が、そんなに重苦しいか!? 踏み躙った方が楽だってのか!?」
「そう言う、訳じゃ……!」
当たり前だ、そんな事を否定する気があった訳ではない。そんな事、する訳がない。する訳にはいかないのだから。
母親だけではない、ミヌキウスやユニウス、アウレリウスから受けた恩もある。それらのお陰である今を、簡単に捨てて言い訳が無い。
「良いか! そんな辛そうな顔で命を粗末にする様な事を行ってみろ、ただじゃ置かねえぞ!」
「あ、ああ……」
凄まじい剣幕のサルティヌスに圧され、自分の意識とは無関係に頷いてしまっていた。けれど、すぐにそれに気付いて、不思議と悪い気がしなかった。
ただ代わりに、嬉しく思っている自分が居たのだ。
「一度死んで拾った命だ、次があるなんて思えねえだろ?」
「全くだな、いや悪かった。初めて俺と同じ故郷のヤツと会えたから、ちょっと弱気になってたみたいだ」
涙を拭い、叩かれた頬を摩りながら、大人しく頭を下げる。
するとサルティヌスが掴んでいた胸倉を放し、どういう訳か逆にバツの悪そうな顔をしてこちらから目を離していた。
「や、悪い。ついつい熱くなっちまった。死にたくないって言いながら死んでったガキどもを散々見て来たからかな。暑苦しい説教ですまんな、本当は軽く注意するくらいで済まそうと思ってたんだが……」
「謝るなって。お陰でより強く生きて行こうって思えたんだから。感謝はしても怒りはしないさ」
精神的に追い込まれていた所に、降って湧いたように現れた同郷者。しかも白儿である事を知っても黙ってくれて、変わらず接してくれるのだ。
引き摺られる様にして弱音を吐いてしまっていた。
けれど彼はそれに迎合するでもなく、こっぴどく叱てくれた。
「伊達に俺より年取ってる訳じゃ無いんだな」
「当たり前よ、俺は人生の先輩だぞ。前世でも今世でも、下手すりゃお前より沢山の死を見たかもしれねえぞ」
冬の時期には毎日のように誰かが凍死していたと言いながら、彼は暗さを吹き飛ばす様にカラカラと笑う。
時には、生きる為に仕方なく物を盗み、それを咎められて殺される者だっている。農村では奴隷落ちだが、ここでは下手するとより簡単に死が与えられるのだ。
「死にたくない、助けてくれって言う奴が死んでいくを見るのは、前世から数えてもこの世界が初めてだったな」
だから彼は、命を粗末にすることに怒れる。
日本に住んでいれば当たり前の事だと思えるかもしれないけれど、実際に沢山の死を目の当たりにしても尚、怒れるのだ。
根拠も挙げず非難をするだけのような下らない偽善でも無く、そこに理由を挙げて思い切り怒鳴る。
そこには確かに感情が籠っていて、殴られたというのに反抗心が寧ろ薄れて行ってしまうくらいだった。
「……アンタとこの街で知り合いになれて良かったよ。本当にありがとう」
「何だ、畏まって。恥ずかしいだろうが」
歩みを再開しながら、今度は二人並んで路を行く。
苦笑を浮かべながら頬を掻く彼の姿が何処か微笑ましく思えて、気付けば頬の痛みも忘れて破顔している自分が居た。
日は半ばを漸く過ぎた辺り。まだまだ、この世界で出来た親友とこの街を散策して居られるだろう。
話し足りないことは幾らでもある。時間もたっぷりある。おまけにお互い前世の記憶を持つのだ、話のネタは尽きそうになかった。
――この街で彼と共に、孤児として暮らすのも悪くないかもしれない。
この身の素性を知っても黙ってくれている人物だ、信頼度も抜群に高い。間違いは起こらないだろう。
「……何だよ?」
「いやぁ、頼れる人がいると本当に安心が出来るなと」
「止めてくれ、別に俺はお前の恋人でも無ければ親でもない。同郷の奴に頼られて悪い気はしねえけど……ん?」
不意に言葉を切ったサルティヌスが脚を止め、その目を細めた。
つられてその方へ目を向けてみれば、なるほど確かに人だかりが見える。その上、辺り一帯が何処か騒がしい。
「……どうしたんだ、何があった?」
「分からん。ちょっと寄ってみよう」
騒ぎが起こっているのはこの路の先。どうやら進んでいる様で、段々とその喧騒はこちらへと近付いて来る。
だが、辺りの人を捕まえて事情を訊こうと思った時になって、逆にこちらが呼び止められていた。
「クィントゥス……と、お前はサルティヌスだったか? こんな所で何してんだ?」
「ちょっと散歩をね。それよりこの騒ぎは何? 只事じゃ無さそうだけど」
逆に質問を返されて、その見慣れた顔を顰めるのは下級狩猟者のアロイシウス。彼の背後にはアドルフスとコンラドゥスの姿もあり、どうやら三人で行動していた様だ。
此方の質問に対して考えを纏める様に少し黙り込んだアロイシウスは、通りの邪魔にならない様に路の隅へ移動する。
「……実はついさっき、中級狩猟者の惨殺体が二つ発見された。死後数日、遺体はズタズタに引き裂かれてたらしい」
「それって……!」
「ああ、この前にも見つかった死体と特徴が一致する。商人なんかは大騒ぎだ。これでは怖くて買い付けにも行けねえってさ」
苦笑しながら肩を竦める彼は、今まさに脇を通り抜けようとする集団に目を向ける。
荷台を曳く音と、人々の騒めき。それから少し遅れて強烈な腐乱臭が鼻を襲うが、匂いの元は話から考えるに想像しづらくないだろう。
「なぁアロイシウス。こんな状況でも明日は狩猟依頼受けるつもり? 元々その予定だったけど、ずらしても良いと思うぞ」
「駄目に決まってるだろ! しっかり休憩取ったは良いが、金は幾らあっても困らねえんだ。稼ぐぞ!」
同業者の死にも関わらず、大した動揺も見せない彼に、後ろの二人も続く。
だが、最近だけでも多くの狩猟者が惨殺体で発見されている。これだけ物騒なのだ、少し様子を見るべきではないかと思わずにはいられない。
だというのに、アロイシウスらはその事など思案にいれていないようだ。
「……」
この身にだって何も起こらないという保証はないのに、彼らは危険を顧みない。
稼いだ金を何に使うかで盛り上がり始めた三人を尻目に、サルティヌスと目を合わせながら肩を竦める。
「苦労してんな、お前。禿げるなよ」
同情の色が滲む彼に、苦笑を返すので精一杯だった。




