モンスターエフェクト④
◆◇◆
雨。
それは暗雲と雷鳴と共に空から降り注ぎ、大地を、人々を、数多の存在を普く濡らし、洗う。
恵みの雨ともいわれるそれは作物を育て、喉の渇きを潤す源となってくれるものだが、それは時と場合による。
「……最悪だ」
雷鳴を轟かせてどしどしと降り続ける雨を前にして、俺は呆然と立ちすくむ事しか出来なかった。
つい先程、剛爪熊の狩猟を終えて報酬分配後にアロイシウス達と別れたのだが、その直後に大粒の雨が降り始めた。
元々、都市に戻ろうとした辺りからアロイシウスの指摘していた通り、不安な空模様ではあった。だからいやな予感はしていたのだが本当についてない。
現に、大通りの商店の屋根の下で雨宿りをしているこの体は頭から爪先まで水に濡れてしまっていた。
最近は髪を染められたのと、暑いのとで外套を纏っていないが、それでも魔拡袋の中に外套は常備している。
けれど、雨が降った際にすぐ纏ったそれ諸共、水が浸透して中まで濡れ鼠だ。
しかも頭からポタポタと垂れて来る水滴は、微かに紅い色をしている。
大粒の雨が打ち付ける目の前の大通りには、もはや人影は殆ど無く、居たとしても足早に走り去っていく。それを見ながら、気付けば大きく舌打ちをしてしまっていた。
顔を顰めながら額を触ってみるが、どうやら巨熊の頭突きをしたそこから出血してしまった訳では無いようだ。
もしかしたら一旦塞がった傷口が開いたのかもしれないと思ったのだが、違ったらしい。そうであった方がまだ気楽でいられたけれど、仕方ない。
「……」
つまり、と額を触っていた右手を更に上へ持って行き、びしょびしょに濡れたフードの下に隠れている、己の髪を軽く撫でた。
それから右掌を確認してみれば、やはりべっとりと紅い染料が付いてしまっていた。
参ったな、と声に出さず口だけが動き、苦笑が漏れる。染め直すのが面倒だし、何よりこの状況では宿まで戻るに戻れない。
右手に付いた染料を雨で洗い流しながら暫く黙考していたが、正直こうなればやる事は一つしかない。
こう言う時、外套を魔拡袋の中に常備して良かったと思いつつ、尚更それのフードを深く被る。
「ついてねぇな……!」
誰に言うのでもなくそう独り言ちると、降りしきる大通りに飛び出していた。
既にこの都市へ着いてから半月ほども経てば、いい加減この辺の地理は覚えもする。だが、こうして人通りの殆どない、土砂降りの大通りは違う場所の様で少し新鮮だった。
それでもいつも通りの曲がり角で曲がって馴染みの宿を目指す。
だが、そこで一人の少年とぶつかってしまった。
「わっ、悪い!」
「へ、平気……って、あ!」
幸い、互いに倒れる事は無かったものの、その貧相な服を着た少年は何かに気付いたらしい。
声を上げて俺を指差す彼に、何事かと改めて目を向けてみれば、見覚えのある人物の姿に目を丸くした。
そこには、ここ最近文字を教わっている孤児の少年――サルティヌスだったのだ。
「クィントゥス、クィントゥスだよな!?」
「あ、ああ、昨日ぶりだな……」
なるべく紅い染料が見られない様に俯いて答えるものの、それに対して彼は覗き込みながら話を続ける。
慌てて更に顔を伏せるけれど、もはや遅かった。
「何だよ、歯切れの悪い……ってか、お前血が流れてねえか? 大丈夫かよ!?」
「えっ!? いや大丈夫だっ、構うな!」
流れた紅い染料が顔を伝うのを見て、大変だと騒ぎ出した彼。慌てて自分が何ともない事、気にしないで欲しい事を伝えるが、しかしそう簡単に引き下がってくれなかった。
「良いから、頭見せてみろよ!」
「ば、馬鹿っ!?」
意表を衝かれ、反応が遅れて焦った時にはもう遅く、サルティヌスの両手がフードを取っ払ってしまう。
しまったと思った時にはどうする事も出来ず、雨の降りしきる中で彼の目に紅い染料の落ちかかった白髪が、しっかりと見られてしまったのだ。
一瞬でサルティヌスの目が見開かれ硬直している隙に、さっとフードを被り直す。
ほんの僅かな時間。視界も頗る悪い豪雨の中。
けれども、紅い染料が落ちたこの髪を認識するには十分過ぎた。
「……えっ、なぁ、おい……何でお前、髪なんか染めて……?」
「……」
今度はサルティヌスが意表を衝かれたらしく、呆気にとられた顔を見せている。だが、それを悠長に待ってやることはせず、その間に無言でフードをより深く被った。
ただ、彼の驚きも無理からぬものだろう。
この世界では白髪紅眼の身体的特徴を持つ者が、皆無と言って良いほど居ないのだ。
御伽話にも白儿の容姿が語られ、広く知られている事もあって、その特徴を持つ者は目立つ。
だから、すぐにそうであると思い至れる。
「じゃ、じゃあ俺は宿に戻るから……お前も風邪引くなよ?」
そう言って強引に話を切り、愛想笑いと共に手を上げてその場から去ろうとする。しかし一方で内心では動揺しか浮かんでいなかった。
見られてしまった、気付かれてしまったかもしれないと、背を向けた時には己の失敗に憮然とした顔になってしまっていたのだ。
しかし、サルティヌスはそう簡単に立ち去らせてはくれないらしい。
「なぁ、待ってくれ」
「何だよ? 手短に頼むぜ、体調崩せば大事だろ?」
実際、風邪でも拗らせれば危険なのはこれまでの農村生活で味わって来たし、ましてや彼は保護者も居ない孤児なのだ。
努めて平静を装いながら、彼の次の言葉を待って居ると。
「……お前の話が聞きたい、雨宿りついでに宿まで連れてってくれ。別に誰かに言い触らす気も無いって誓うから」
「何の事だ?」
「惚けるな。今更じゃねえか。しっかり見えたぞ」
にへらと笑って誤魔化しに掛かってみると、いつになく真剣な表情を浮かべた彼に素気無く切り捨てられる。
どうやら有耶無耶には出来そうにない。
「分かった。……絶対だぞ」
仕方なく強く念押しすると、サルティヌスを連れて馴染みの宿へ向かうのだった。
◆◇◆
「……ありがとな、助かったぜ」
「き、気にすんなよ、いつも文字の読み書きを教わってる訳だしな」
言いながら、乾いた布をサルティヌスに渡す。
ここはボニシアカに到着してから宿泊し続けている宿、その一階部分。
そこには宿泊客らしい人々がちらほら見られ、皆一様に濡れた体を拭いたり、そうでない者はテーブルに座って酒を飲んでいる。
「ってか、お前その外套ずぶ濡れだけど脱がねえの?」
「脱げる訳無いだろ。取り敢えず、一通り水絞ったら俺の部屋に行くぞ」
周囲に自分の髪色を見られないように注意を払いながら、袖や裾をギュッと絞って排水する。
出来る事なら一旦脱いで絞ってしまえば良いのだが、これだけの衆人環視の中でそんな手段を取る訳にも行かず、非効率に絞るしかなかったのだ。
そうして、二人仲良くポタポタと剥き出しの地面へ水たまりを作り続けて暫く、そこである程度水気を払えると、サルティヌスを連れて部屋へと向かうのだった。
だが、ちらっと見た小さな水溜まりは微かに紅い染料が混じっている様に見え、誰かに気付かれたらと気が気でない。
「クィントゥス……」
「ああ、宿の外で雨を落とすべきだったかもな」
失敗したと思いつつ、それはもう後の祭り。
こうなればもう破れかぶれ、開き直って堂々として居れば良い、そう思って二人で部屋へ行こうとした時。
「待て、クィントゥス」
「なっ……何です?」
ゴロゴロと空が鳴り、上の階へ向かう階段へ足を掛けたところで、背後から宿の主人に呼び止められた。
もしや、水に濡れて落ちた染料に気付かれたか? 自分の地毛を見られてしまったか?
極力不審がられないように努めながら首だけをやや俯きがちになりながら向け、彼へ問う。
さあ、彼は何を思って呼び止めたのか。
煩いくらいの早鐘を打つ心臓を左胸に感じながら、固唾を飲んで次の言葉を待ち――。
「このガキは何だ? お前の連れで泊まるって言うなら一人分の追加料金を貰うぞ」
「べ、別に泊める気はありませんて。夕立から回復したら帰しますから」
「本当に? もしそれが嘘だったら三倍の料金を払って貰うからな。覚悟しろ」
「分かりました、取り敢えず一旦部屋に戻りますね。やりたい事もあるんで」
……危なかった。そんな気持ちが、何でもない風を装った口調と一緒になって流れだしていた。
最後に、「絶対だぞ」と念を押す主人の声に適当な返事をすると、サルティヌスを連れて階段を上る。
そして部屋に入り、扉に粗末な鍵を掛けたところで長い吐息と共にへたり込んでいた。
「助かった……!」
「呼び止められた時はどうなるかと思ったぜ」
何度も頷くサルティヌスの言う通り、本当にどうなる事かと思った。
今この額を流れているのは拭き取り切れなかった雨水か、はたまた冷や汗か。
どちらにしろ、それを拭った左手の甲には紅い染料が付着していたのだった。
これでは着替えるだけに終わりそうにないと、思わず苦笑がこみ上げてしまう。
それも当然だろう。水を拭き取り、服を替え、体や髪が乾くのを待ち、それからようやく染髪しなくてはいけなくなるのだから。
雨に濡れた時点で覚悟はしていたが、そうであっても今から色々やらなくてはならないと言うのは、本当に気が滅入る。
「外套、明日までには乾くか微妙だな」
「最近は夜も気温高くなってるし、ある程度なら平気じゃね? それよりもだぞ、クィントゥス」
「分かってる。この髪の事だろ?」
そう言いながら、腰に下げた魔拡袋から二着の着替えを取り出し、一つを彼へ投げる。
ついでに体を拭く場合に必要だろう手拭を渡し、二人して着替え始める。
サルティヌスは今自分の着ている服より上質な服を渡された事に何か言いたそうにしていたが、着替えなければ体調を崩しかねない事は理解しているらしい。
感謝の言葉を述べると服を脱ぎ、全身の水を拭き取る。
「サルティヌス、お前は俺を見てどう思った?」
「どうってのは?」
「怖くないのか? 悪魔とか、言わねえの?」
その問い掛けに、彼は笑った。
「怖い? んな訳ねえじゃん。本当に悪魔だったら最初に俺の頼み事聞いてはくれねえだろ?」
「いいや。別に条件次第なら、悪魔でも頼みごとを受けるんじゃねえの?」
「かもな。けど、だとしてもお前は仲間を助けてくれたんだ。そんな恩人に仇を返す訳に行かないだろ? 何より、クィントゥスは良い奴だと俺は思う」
だからお前に別に何をする訳でもない、と言う。
そんな彼の言葉と表情が、ミヌキウスと重なる。
彼もまた、そう言って俺を助けてくれたのだ。そして、俺を助けようとして明らかに不利な戦いを挑んだ。
本当の彼の本心と、その行動の結果どうなったか知らないけれど、もう二度とあんな気持ちになるのは御免だ。
そして何より、まだサルティヌスを信頼するには早い。
「恩人恩人って……お前だって、俺に文字の書きとりをさせた時に白儿がどうのこうのって言ってたじゃねえか」
「……ああ、確かにそうだ。でも、それはあの伝承を諳んじただけだ。物騒な文言が躍って居るけど、字数的にも丁度良かったんでな。けど今は違う」
「あの逸話が本当なら、とか言ってたのに?」
あの時、彼が白儿について語ったことは覚えている。
我ながら意地の悪い質問だとは思いつつ、それでも訊かなくてはいけないのだ。もしもこの少年に敵意や害意があるとすれば、今すぐにでもこの街を出なくてはいけない。
一方その指摘が痛かったのか、困った様に顔を顰めるサルティヌスは着替える手を止め、後頭部を掻く。
「正直、お前が白髪を紅く染めているのを見た時はびっくりしたよ。で、ちょっと遅れて白儿じゃないかと思った。だとしてもそれだけだったんだ。嫌悪とか、そう言うのは全然湧いて来なくてさ。だからこうして俺は、誰にも通報せずお前の部屋に来てるんだと思う」
「……変な奴。途中で会った村人なんか目の色変えて襲ってきたのに」
思わず、笑ってしまう。
するとそれにつられたのか、サルティヌスもまた破顔する。
「さっきも言ったけど、お前は俺達の恩人なんだ。孤児の結束力や義理の厚さを舐めんじゃねえぞ。ま、理由はそれだけじゃねえけどな」
恩を仇で返すような奴は、やがて見捨てられる。
仲間を大事にしなくては、自分が大事にされない。
多くの繋がりが無くては、生きていけない。
「何かあったら俺を頼ってくれよ。他の連中には内緒にしとくし、何より俺へ頼みを言ってみるだけならタダだしな!」
「……ああ、頼む。けど、無理はしないでくれよ」
互いに着替えが終わり、何となく込み上げて来る喜びが二人の顔に笑顔を作らせる。
やはり、ちゃんと理解してくれる人は現れるのだ――。
いつか、“白儿”だとか白髪紅眼だとかを気にせずに街を歩ける時が訪れてくれればどれほど良いものか。
いいや、そうでなくとも俺を俺だと、一人の人間であると見てくれる人が彼以外にも一人でも良いから居てくれれば、尚更違うのだろう。
気の好い狩猟者仲間であるアロイシウス達の顔を思い浮かべながら、粗末な木の窓を開けて外を眺める。
もう既に雨は止みつつあり、雲の隙間から顔を覗かせる斜陽が、街の空を赤く染めていたのだった――。
◆◇◆
時は、少しだけ遡る。
大粒の雨が、都市だけでなく森の木々を湿らせ大地を散々に濡らしていた時間。
聞こえるのは枝葉に、幹に、地面に、雨水が打ち付けるざぁっとした音だけで、辺りに動く影は見当たらない。
いや、仮に動いていたとしても木の影と雨音に隠れて中々気付けないだろう。
しかし、だからとてその森は不自然なほど静かだった。
……そして、雨の時にだけ生じる小さな水の流れもまた、不自然なほど赤かった。
「呆気ねえな、雑魚共が。これじゃ碌にコイツの強さも測れねえだろーが」
不意に発された声と同時に、大きな影が木々の隙間から転がり出る。
その大きさは大体五Mほど、見る人が見ればそれが剛爪熊の成れの果てであるとすぐに察せるだろう。この森の中では、最も長命で強力な個体の一つであった。
だがその死体は見るも無残に全身がずたずたで、一カ所として無傷な場所が見当たらないように見受けられた。
「それにしたって、まさか剛爪熊が手も足も出ねえで嬲り殺されるたぁな。しかも下級妖魎ってもその中で最上位だぜ? やっぱお前、すげえよ」
言いながらフードの下でその男は笑い、何かへ話しかける。
彼の視線の先では無数の矮猿の死体を踏み潰し、大角鹿の死体を貪り食う一頭の獣が居た。
その姿は犬や狼のような四肢を持ち、しかし毛は少なく、代わって全身を蜥蜴のような鱗が覆っている様だ。
おまけに尻尾は三本あるいずれもが意志でも持つかのようにバラバラに動き、もしも誰かに見られればその奇怪な姿に、間違いなく怯えと嫌悪の表情をする事だろう。
だが、男は悍ましいその獣に一切の負の感情を抱いた様子が無く、慣れたた手つきで雨に濡れた体をなぞると首輪へ触れる。
「さて、いい加減妖魎は良いだろ。今度は……」
優しく語りかけるように首筋を撫でてやりながら、男は辺りを見渡し――。
降りしきる雨の中、急いで都市へ戻ろうとしているらしい狩猟者の集団――六人ほど――を遠くに視認した。
「おうおう、丁度良いじゃねえか。行け、二十六番」
男がそれだけ告げた瞬間、その獣は貪り食っていた大角鹿の死体を放り出し。
そして、指し示す方へと驀進していた――。




