第一話 心像放映①
人殺し。俺は、人殺しだ。
人の命をたった一つ、されど一つ、確かに奪った。
何を幾ら言い繕っても、この手に持っていた槍をルキウスの首筋に突き立て事に変わりがない。
「............」
傷口から溢れ出た鮮血が槍の柄を伝い、この腕を赤く染めていくドロリとした感覚。網膜に焼き付いた憎悪に染まるルキウスの顔。耳について離れない彼の言葉。
木の根元に座り込み、頭を抱えてそれらが薄れていくのを待つが、そう願えば願うほど尚更苛んで来る。
「ぅあ……あっ……ぐ」
それから嘔吐き続け、どれくらい経っただろう。
漸く収まった吐き気だったが、しかし気分の悪さは相変わらず。もはや歩く気力もなく、近くにあった木の根元に座り込み、背中をそれに預けていた。
この目に染み付いたように感じる赤色を塗り潰すように、俺は青い空を呆然と眺め続け、風に吹かれる。
だが、時間をおいてもなお忘れようと努めても目に焼き付いた光景が消える事はなく、同時に鼻腔内を血生臭さが充満している様な錯覚に陥っていた。
「っ!」
駄目だ、忘れろ、これは夢だ。信じてはいけない。あれは事故だ、自分は絶対に悪くない。寧ろアイツが追い駆けて来たからいけないんだ。
頭を振り、全てを忘れようとして、しかしどうやっても血の匂いとあの景色、あの言葉が記憶から消えてくれなかった。
もはや幻とは思えない、現実味を帯びる血生臭さは、もしかすれば少し離れた場所にあるルキウスの死体のせいだろうか。
尚もこの辺りに立ち込める臭気の余りの濃さに、再び空の胃からこみ上げて来るものを感じずには居られなかった。
「はー......」
もはや口を押さえる気力もなく、完全に脱力すると上体を右へと倒す。
右脇腹が、右腕が、右肩が、順に地面へと触れて行き、最後には右側頭部を地面へと預ける。
すると鼻腔を満たしていた血生臭さは消えて行き、代わりに少し湿った土の匂いが入れ替わって満たした。また、激しい自分の呼吸音と拍動の他に、すぐ近くを流れているらしい川の音が鼓膜を揺らす。
ふと、そのまま目だけを動かして空を見上げれば、さっきまで青かった筈のそれは既に薄暗くなり始めていた。そして枝の隙間から見える雲は綺麗な橙色に染まり、その下を名も知らぬ鳥たちが飛んでいる。
気付けばもう、日没が迫っていたのだ。
だというのに何かをする気は起きず、ぼうっとし始めた頭はそのまま眠り込む事を無条件に受け入れていた。
段々と狭まる視界は薄暗い森の中を映しだし、己の思考はただ無心でそれを眺め続ける。
眠い。頭もクラクラする。体が重い。四肢も頭も、動かしたくなんて無かった。
今となってはもう、何がどうなろうとどうでも良かった……。
そうして、それから更に呆とし続けてどれくらいが経っただろう。
「……」
不意に聞こえて来た虫の鳴き声で、俺は意識を覚醒させた。
いつの間にか寝てしまった間に太陽は殆ど沈んだのか、微かにしか光の差さない森の視界は頗る悪い。
完全に日没となってしまうよりは遥かに良くはあったものの、どの道これではそう時間も掛からない内に真っ暗になってしまうだろう。
そうなれば視界はいよいよ最悪となり、この場から動く事も儘ならなくなるだろうが、その代わり居るかもしれない追手の足も止まっている筈である。
例えどれほど土地勘があろうと、ただでさえ薄暗いのに枝葉で殆ど月光を遮られては、武器を持っていたとしても危険だ。
「やべー、やっちまったか?」
この森には、前世の森とは比べ物にならない程に、身の毛もよだつような怪物が闊歩しているのだから。
故に、この時間以降追手について気にする必要は無いのだ。寧ろ、妖魎の方が遥かに危険で、注意を配るべき相手である。
けれど、だからといって追手への油断は禁物。夜が明けてしまえば、全滅せず残って居るかもしれない彼らだって動き出す筈なのだ。
今日の昼間に見た干乾びた兵士や、この手で殺めたルキウスを計算に入れればかなりの数が死んだと思うけれど、追手全てが死んだとは限らない。
居るか居ないか分からない相手を「居ない」と決めつけて動く訳にはいかなかった。
ただどっちにしろ今は、ルキウス以外の追手には発見されず、こうして今も自由の身である事だけが事実である。
この身が囚われるような事も無く、こうして思考して居られる事は僥倖と言えば僥倖、不幸中の幸いだ。
その上、どうやら一度眠った事で多少なりとも疲労が抜け、思考も鮮明になったらしい。自分でも分かるくらい、ほんの僅かだが頭が動きやすくなっている気がする。
改めて状況を振り返れば、結果的にであれ人を一人殺めてまでして拾った命と自由、それをここでそう簡単に捨てる気にはなれなかった。
ミヌキウス達の献身を無駄にしない為にも、だ。
「……くそ、痛ぇ」
ルキウスの命を奪った直後よりは軽いように思える体を無理くり動かし、すぐ近くを流れる小川に入ると、屈んで服諸共全身の汚れを落としていく。
乱暴に蹴られた背中や腹などの傷口は酷く沁みて、何度か呻き声が漏れてしまう程。だが、それを無視して全身のあちこちに着いた血汚れを落としきると、見た目通り深くない川の対岸へとそのまま渡った。
それから別れ際にミヌキウスより手渡された道具袋を開いて癒傷薬を取り出すと、上半身裸のままその液体を振り掛けていく。
「............」
仄かに漂う植物の匂いで鼻腔を一杯にし、傷口がムズムズするのを感じながら、洗った衣服をきつく絞り排水する。
それらを手頃な高さの枝に引っ掛けようとして、その前に手拭が無い事に気付いて、絞った衣服で水滴を拭き取った。
最後に適当な薪を周囲から集め、火打石などの用具を用いて火を熾すと大きな欠伸を一つ。
「ちょっと横になるか」
袋から取り出した毛布に包まり、そこそこ大きくなった火で体と濡れた衣服を温めるのだが、丁度良い温さのお陰で再び眠くなってきていた。
一息吐いてしまった事がいけなかったのか、眠気覚ましの為に起き上がろうと考えても、木の幹に上体を凭れてしまったまま動かす気が起きない。
自覚してしまうほど不用心に脱力し、まだ昇り切っていない半月を呆然と眺める。
「あー、やばいわこれ」
今までの疲労が蓄積して、夕暮れ時に少し気絶しただけでは到底足りなかったらしい……と思いながら、気付けば寝てしまっている自分が居た。
「……っ!」
慌てて跳ね起きてみれば、昇り始めたばかりだった筈の月は丁度頂へと届き、銀色の光が微かにこの顔を照らす。
一度ならず二度、三度までも同じ轍を踏んでしまい、己の不甲斐なさに嫌気が差しつつ、すぐに周囲へ目を走らせる。
幸いにも焚火は弱くなりつつもまだ消えておらず、そこへ乾燥した薪を投入すると、注意を辺りへ向けた。
素早く視線を走らせて、周囲に危険が無い事を確認したかったのだ。
何せ、今は濡れた体を乾かす為に仕方なく焚火をしているが、本来は余計な獣を呼び寄せない為に火を消さなくてはいけない。
けれど幸いな事に、木々の隙間から差し込む月光を頼りに暫く探しても動物は見当たらず、差し迫った危険はなさそうに見える。
安堵の混じった細く小さい溜息を一つ吐き、月を見上げたところで、出し抜けにむずっとした感覚が鼻を擽った。
「……へくしっ!」
ハッとしてみれば自分が毛布に包まって裸で寝ていた事を思い出し、乾かしておいた衣服へと手を伸ばす。
幾ら最近は気温が高めとは言え、いつまでも裸に毛布では体が冷えるし、何より今は夜であるのだから体調を崩さないとは限らないのだ。
衣服は触った限りだとまだ完全には乾ききっていないものの、風邪を引く危険を考えれば今着た方が良いかも知れない。
少し着心地が悪いなと思いつつそれらを全て身に着けると、火の管理の為に座り込み、薪を足していく。
「今日って六月の……いつだっけ」
木々の隙間から見える星たちを見上げながら、夜は更けていく――。
◆◇◆
遠くから獣の遠吠えが聞こえる、とある日の昼下がり。
雲一つない空に浮かぶ太陽は、枝葉の伸びた森の地面さえも明るく照らしていた。
この場所自体は見慣れた風景でないものの、しかしいつまでも木ばかり立ち並ぶ新緑の風景にはいい加減、屈託としてくる。
もう既に、ルキウスを殺してしまったあの日から何日が経っただろう。時々あの日の事を思い出して魘される事もあるが、それ以外は睡魔を除いて非常に順調なものだった。
また、歩いていく中で幾つかの干乾びた死体を見つけたのだが、そのいずれもがルキウスと同じ装いをした――要するに兵士であったらしく、これらが追手であると見做すのならば、やはり彼らは勝手に壊滅していたらしい。
「ラッキーって、言って良いんだろうな」
道理であの日以降追手と遭遇しない訳だと思うと同時に、追手の危険が減った事に強く安堵する。
もっとも、武装したそれらが干乾びて死んでいるという事実に、あの時遭遇した気味の悪い巨大蔓の存在を思い出さずには居られない。
もしかすると別の個体が居るのかもしれないと想像しただけで、悍ましさのせいか背中が粟立つのだ。
それでも追手の精神的圧迫が減った事は大きく、歩いていて妖魎から不意を衝かれる事は無いし、浅くともしっかりした眠りを取る事も以前より出来るようになった。
しかし当然ながら浅い眠りだけでは完全に疲労が回復してくれないようで、多少は軽減されつつもそれは次第に蓄積され、じわじわとした睡魔が苛む。
このままでは予期せぬ事態を生みかねないのだから、どうにかしてそれを追い払いたい。だが、自分の頬を叩いた程度ではもはやどうにもならない。
「良いことばっかり続かねえよな」
そうであれば水なりを頭から被って目を強制的に覚まさせるのが一番だろうけれど、この森の土地勘が無いので川のある場所など分かる筈も無く。
そろそろ水筒代わりの小袋に入っている水量も心許ないので補充もしたいと思っていると、ショボショボするこの目が進行方向に何かを捉えた。
もしや妖魎かと、慌てて木の影に身を隠してそちらを窺ってみれば……。
そこには、この森の中で齷齪と薪を拾い集める小さな影が、一つ。
年の頃は十二に届いているか居ないか程度に見える茶髪の子は、女の子だろうか。
他に分かるのは、幾らこの森が入会地だとしても小さな子供が入るには些か危険が過ぎるという事。
それを認識しているからなのか、将又疲労のせいなのか、彼女の顔には厳しい表情が浮かんでいた。
こちらの視線に気付く事は無く、集めた薪は一定量が溜まれば背中の背負子を下ろして薪をそこに乗せていく。それ以外にも、彼女の腰に括りつけられた小振りな袋にはパンパンになる程のものが詰め込まれているらしかった。
「............」
そんな少女の姿を見て、危険の少ない存在である事にホッと胸を撫で下ろすのだが、だからとて安易に姿を晒す訳にも行かない。
もし仮にそちらへ行くにしても、まずはしっかりとフードで髪などを隠さないといけないし、そもそもの話をするならば他人と出会わないのが一番良いのだ。
白髪紅眼に白い肌――大凡“白儿”と認識される特徴を持っている今の状態では、迂闊に正体を晒せない。
下手を打てば、またこの前のように追手が差し向けられるかもしれないのだから。
一体自分が何をしたのかと、その理不尽には心内で何度憤慨したか知れないが、そんな事をしても全ては元に戻らないし、追われてしまう身の上である事に変わりはなかった。
兎に角、面倒事は避けるのが安全である――。
そう思いながらフードを深く被り直し、少女に聞こえないよう注意しながら息を吐く。
仮にこの少女に見つからずに通るとすれば、少し迂回をせねばならないと考えながら、緊張を紛らわすように目を閉じた。
だが、空になった肺へと息を吸い込みながらも、どう話し掛けるのが最良なのかと考えてしまっている自分が居た。
頭ではどちらが良いかなど分かっている。そんなもの、そもそも話し掛けなくて良いのだ。
分かっているのだが、こうして三日ぶりに会った人間である。
今日までこの目に映っていたのは物言わぬ木々と土、言葉を介さぬ獣や虫の類ばかりであった事が相当に堪えていたらしい。気付けば自然と、彼女へと話し掛ける方向に舵を切ってしまっていた。
「……なぁ」
「!?」
意を決して呼びかけてみると、出し抜けに聞こえて来た声に彼女は大きく肩を跳ねさせていた。
しまった、驚かせてしまった様だと察した時にはもう遅く、ハッとした表情を見せる茶髪の少女の顔には明らかな怯えの色が見て取れたのだった。
「だっ、だれ!?」
彼女は悲鳴のような声で誰何の声を出しながら腰を抜かし、声の主――つまり俺の方を見遣るのだが、その視線を受けて己の失敗を悟っていた。
もっとも、じゃあどうすれば良かったのかと考えても答えなぞ出る訳もなく、次に言うべき話に事欠いて愛想笑いを浮かべながら頭を掻く。
だが、向こうから見れば鼻から上がフードの影に隠れて見えず、ただ不気味に笑っている様にしか見えなかったらしく、その怯えと警戒の色は尚更濃くなっていた。
「何? 何なの、貴方は……?」
「あ、悪い。別に何かしようって訳じゃ無かったんだ。ただ川の場所を聞こうと思っただけで……」
少し距離を詰めれば、少し離れられる。
又もや失敗した事を悟って反省しつつ、俺は慌てて敵意が無い事を身振り手振りで示しつつ、要件を述べるのだった。
すると、この慌てた姿を前にして幾分警戒心が和らいだのか、先程よりも体の力を抜いた彼女はある一方向を指差した。
「あっちに少し行けば川があるよ。ただ、変な事はしないでね。下流には私達の村があるんだから」
「……分かった。ああ、それとハッティ王国に行きたいんだけど、今ってどの辺? 出来れば道程も教えて欲しい」
「どの辺って……ここはシアグリウス王国だけど。ハッティ王国なんて知らない。それじゃ、私も忙しいから失礼するね」
「おう、ありがとう」
話は終わったとばかりに素っ気なく背を向けた彼女に礼を述べると、指差された方へ向かって歩き出す。
出来る事なら久し振りに会った人ともっと話したかったが、少女にこれ以上喋る意思が無さそうな事と、髪色などが気付かれてしまう危険を考えて断念する。
しかし、顔を誰にも見られないようフードを深く被り直しながらも、この口端は微かに緩んでしまっているのが自分でもよく分かった。
何事もなく現在地を聞き出せたこともそうだし、何より久方ぶりに他人と話せたのが何よりうれしかったのだ。
取り敢えず今得た現在地情報を元に、また違う誰かを頼ってみれば良い。
全てが全て悪い状況にある訳では無いという事実に、安堵していた。
他人に話しかけても割と、大丈夫なもんだな――。
微かに、だけれど確かにそう動かした唇は、しかしその声は自分の耳を含めて、誰にも聞かれることは無かった。
――何故なら、突如として間近で聞こえた遠吠えが、この呟きを掻き消していたのだから。
「ッ!!?」
近い。本当に近い。至近だ。
そう言えば少し前に何処からか遠吠えが聞こえていた事を思い出し、疲労が蓄積していたとは言え聞き過ごしてしまった自分に苦い顔をしてしまう。
素早く身構えると周囲に目を配るが、どこに幾ら目を凝らしても動き回る影は見当たらない。
けれど先程の鳴き声の位置を考えるに、この辺りに居ない訳が無かった。
「何? 何なの!?」
「落ち着け、下手に騒ぐと狙われる!」
パニックに陥った様に辺りを忙しなく見回す少女の下へ、踵を返して駆け寄りながら冷静になれと呼びかける。
そうしながら再度木々の間を注意深く見て行くと、不意にそこを黒い影が横切っていた。
「居た……!」
数は一つ。だが、それだけとは限らない。
油断なく尚もあちらこちらに目を配り続けていると、他にも動き回る影を三つほど確認した。
影の大きさは成人男性の腰ほどで、恐らく狼型の四足歩行。前後左右にその気配が感じ取れるという事は、こちらを格好の獲物として判断した故か。
ここ数日の間、森の中を歩き回ってある程度の習性を把握していただけに、無知で居るよりは対策を講じるのが楽ではあった。
「か、囲まれてるっ?」
「落ち着け。下手に逃げようとすれば死ぬぞ」
ルキウスを殺してから今まで、警戒していたからこそ多くの妖魎を遠目に確認し、用心を重ねたが為に目にする事が出来たそれらの習性。
時には発見が遅れて幾つかの妖魎に襲われる事もあったが、その度に取り乱しつつ上手く撃退に成功してきた。
……ここ数日あたりで漸く感覚を掴めてきた、魔法の力のお陰で。
「どうしてそんなに落ち着いて居られるの!? 死ぬかもしれないんだよ!?」
「そりゃあな。まぁちょっと怖いし、出来ればこんな事態は避けたかったさ」
なってしまった以上は仕方ない。ただただ怯えて次の事を考えねば、命を奪われ食われる側に回ってしまう事は明白なのだから。
ただ生きる為に殺しに来る獣と言うものは、こちらの言い分など聞いてはくれない。人が生きる為、食べる為に鹿を狩るのと同様に、彼らも命を奪い、肉を貪らねば己の命を危うくしてしまうからだ。
だからこちらが幾ら怯えたところで何の利点も無いし、だったらその状況を受けてどのような対応をするのかを考えた方が生き延びる確率も上がる。
チラリと少女の方に目を向けてみれば、彼女は騒ぎこそしなくなったものの、その目を強く瞑ってまだ酷く怯えていた。
「……そのまま目を閉じててくれ。俺が何とかするから、そこから動くなよ?」
「なっ、何か、するの?」
「ああ、だからちょっと待ってろ」
湿った茶色い瞳を向けて来る彼女に、村で一緒に暮らして居た子供達の姿が重なる。
思わず彼女の頭に手を乗せてしまっていたが、その結果多少は彼女の気持ちが楽になったようで、無言のまま一つ、頷いてくれた。
今後の懸念材料となり兼ねない事を考えると、この少女を見捨てる事が一番正しいのだろうが、もはやそんな事など出来る筈も無く。
大きく息を吐き出し、今度は肺一杯に空気を満たすと体内にある不思議な何か――魔力に、意識を傾ける。
心臓付近から最も強く感じるそれはやがて両腕へと広がり、流動的なモノの流れていく感覚が指先まで達していく。
「......!」
それから両手を胸の高さまで持ち上げて掌を空へ向けると、そこにはそれぞれ一つずつ白い球が生じていた。
一方でこちらを包囲している狼の群れは、陽動と思わしき一頭が木の影から進み出て唸り声と共に威嚇をしていたが、そこはもう既にこれの射程圏内である。
……だから、先手を打った。
掌の半分程度の大きさとなった白弾を、そのまま正面に撃ち出していたのだ。
感覚的には目一杯引いた弓の弦から手を放した時に近いだろうか。この手で弓を引いた事が無いから分からないが、凄まじい速さで飛び出したそれは、対象へと攻撃だと認識すらもさせないまま直撃していた。
『――ッ!?』
そしてそれと同時に、陽動を続けていた正面の狼を吹き飛ばす。
着弾の衝撃はそこまでではないものの、くぐもった地味な音と共に血肉を撒き散らした狼は、下肢を除いてもはや原型を留めていない。
ただ、その周囲に鮮血や骨まで拉げた肉が飛び散っている事実が、その死体に上半身があった事を示していた。
余りも無残な、死。
しかしながらそれにも関わらず、今度は背後から飛び掛かる狼が一頭。
一頭目を屠ってからすぐに警戒していたが故に対応は容易で、左手に残って居たもう一つをそちらへ向けて撃ち出す。
その結果、最初の狼がそうであったように吹き飛ばされたそれは、当たった場所が悪かったのか下肢すらも原型が残らずに飛び散っていた。
よく見ればどれが脚で内臓かも分かるだろうが、そんな間はあればこそ、再び油断なく周囲を警戒する。
だが、妖魎も二度も仲間が吹き飛ばされたのを前にして原因も分からず飛び掛かる気は無いのか、後退している様な足音が聞こえたかと思えば、それらの気配はみるみる内に遠退いていた。
どうやらこちらを捕食対象とすることを諦めたようだが、だからと言って一切の油断はしない。
「............」
自然とは、野生とはとても狡猾で、無情なのだから。
運に助けられたと思えば、その次の瞬間にはその運に殺される――それが、人里でない場所の摂理。
そこには願いなどなく、只々厳然とそこに在るのみである。
これが弱肉強食の世界である森の中で目撃した事の総括であり、精々数日いた程度でも身に染みて理解出来た事であった。
そうして尚も周囲を警戒し続けていると、ふと外套の裾が引っ張られる。
「す、凄い……全部やっつけちゃったの?」
「いいや、二頭以外は全部逃げた。けど、まだ気を抜くなよ?」
無残な亡骸となった二つの肉塊に目を向けてそう言ってやれば、少女は再び怯えた様にその両目を強く瞑っていた。
それを見て少し脅しが過ぎたかと思いもしたが、事実間違った事を言った訳でも無し、この子を死なせないという意味でもこちらの方が安心できる。
「……」
ただ、完全に無関心ではいられず、俺は再度彼女の頭に手を乗せ、安心させるように無言で撫でていたのだった。
そして、そこから更に一分ほど時間を置けば、もう周囲からはこちらを窺う気配は消え失せていた。
「もう大丈夫。アイツらもどっか行ったみたいだ」
「あ、ありがとう……」
何度も何度も辺りを見回し、頭上の枝葉までをも確認して安全であると判断したのだが、彼女は礼の言葉を述べた限で動き出す気配がない。
まだ動かないのかなと思いながら待って居ても、一向に足を動かそうとしないのだ。
「……怪我でもした?」
「いや、その……足が竦んじゃって」
そう言ってこちらを見上げて来る少女の茶眼は潤んでおり、頬には涙の伝った跡が見て取れていた。
余程怖かったのだろう。正直その気持ちが痛いほど分かる身としてそんな状態の彼女を放って置く気になどなれなかった。
「お、置いてかないで……」
「分かった。でも、どこに連れてけば良い?」
「こっちの方を真っ直ぐ行けば、私達の村があるの。お礼もするから、お願い」
そう言って指差された場所は彼女を見かけるまで進んでいた方角であった。
それを確認して一度頷くと、その少女が背負った荷物諸共を負ぶう。彼女の体自体はそこそこ軽いのだが、やはり背負子にある薪などはどうしても重い。
出来る事ならこの場で下ろしてしまいたいのだが、村で暮らして居て薪集めの面倒さなどを知る身としては、そんな事を言い出す勇気も、やる気も起きなかった。
「ありがとう」
「気にすんな。ただ、村に着いたら飯を食わせてくれ。最近真面な料理食ってないからさ」
「うん、それくらいなら全然いいよ」
長居するつもりはないと己に言い聞かせつつ、色好い返事に自然と足が速くなる。
勿論、他人の目に触れるという事で素性が露見しないように細心の注意を払う気ではあるが、それでも久し振りの人里に心が躍らずには居られなかったのだ。
転がる二つの死骸に背を向け、木の根が顔を出した不安定な足元を踏みしめていく。
相も変わらず降り注ぐ木漏れ日は、何事もなかったかのように森の中を照らしていた――。




