第一話 The Way Back⑥
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ハットゥシャ近郊の山に存在する、無数の鉱山。
それらは長い歴史の中で大多数が掘り尽くされ、廃坑となったものも数知れない。
だがそこには幸か不幸か精霊の成り損ないである魔力の塊が集積し、迷宮という存在が生じるに至った。
勿論それは人為的に起こせるものでは無くて、あくまでも自然という確率の低いものに頼る事しか出来ないのだが、多くの坑があるハットゥシャ近郊では必然的に迷宮も多くなるのである。
そしてハットゥシャは、いやハッティ王国は、製鉄技術の他に迷宮を管理する事で新たな財政の収入源を手に入れる事に成功していた。
既にその管理運営の歴史は百や二百ではきかず、狩猟者組合との二人三脚で歩んで来たそれは、数多のノウハウを集積させている。だがそんな彼らを以ってしても現在、血の大地付近で起きている事態を正確に把握する事は不可能だった。
それどころか、欠片も分からないのである。
行方不明者が続出し、やむを得ずそこを閉鎖し、だと言うのにここ二、三日の間は不審な揺れなども確認されていた。
念の為に先遣隊を派遣して軽く調査させたが、それでも結果は空振り。もっと深くに潜らなければ分からないのだろうが、それには準備も掛かるし、深層に到着するまでに時間も掛かる。
結果、ハッティ王国側から派遣された二人の王子、ムルシリとムワタリ以下百余名の兵士と、狩猟者組合側から派遣された五十名ほどの狩猟者は待機を余儀なくされていた。
「……ったくどうなってんだこりゃあ。いつまでも待機なんざ性に合わねえ。俺と少数の部隊だけでも先行して深層に行っても良いんじゃねえの?」
「止めろムルシリ。お前だって王子の身分なんだ、もしもの事を考えろ。それに、糧食や装備の問題もある。幾ら少数で行ったとしても、途中で食料が足りなくなるぞ」
血気盛んな少年と冷静な少年は、血の大地の入り口を眺めつつ、後者は前者を諫める。
どちらも剛儿であることを示す様に耳はほんの少しだけ尖っており、そして特徴的な褐色肌を持っていた。
それに加え、兄弟である事を示す様に顔立ちもよく似ていたのである。
もっとも、性格は似ているとは言い難く、ムルシリと呼ばれた少年は勇ましく拳を握っていた。
「へっ、食料なんざ迷宮に居る妖魎を狩ってその都度食べれば良いんだろ。余裕じゃねえか」
「馬鹿者、その妖魎すら異常なまでに数を減らしているとの先遣隊からの報告があるのに、どこから食料を補充する?」
「む……そこは気合で何とか」
「そりゃお前はそうだろうけどな、兵士はどうする? 多くの者はお前みたいに脳味噌まで筋肉と元気が詰まっている訳では無いのだ」
これだからお前はと、兄の浅慮を嘆くみたくムワタリは溜息を吐く。
しかし、嘆かれている本人ことムルシリはそんな事に興味など無いのか、今にも迷宮に単身で突撃を掛けてしまいそうだった。
それを配下の兵士が必死になって抑え込んでいるのを見て、これ以上言葉を尽くす事の無意味を察したムワタリは、続いて狩猟者の方に目を向ける。
「……重ねて、助力に感謝する。国王である父に代わってここで礼を述べさせて貰おう」
「いえ、この件は我らにとっても重要な問題です。感謝されるような事ではありませんよ。しかし、こんな所で待機命令とは歯痒いですね」
「全くだ。もしかすれば、今もこの中で行方不明者は助けを待っているかもしれないと言うのに」
狩猟者達を統率しているらしい男と言葉を交わしながら、ムワタリは今日何度目とも知れない溜息を吐く。
普通ならこんな態度を王子である彼が平民に見せる訳にも行かないのだが、相手は顔馴染みでもある腕利きの狩猟者だ。
彼の側近もそれを知っているからか、自然体なムワタリの振舞いを諫める事は無かった。
「もう暫くの辛抱だ。父の……国王陛下からの伝令の話では明日にでも必要な装備の準備が完了すると言っていた。それまではここに陣を張り続け、監視をするしかない」
「中で、特に深層で何が起きているかが分からない以上、不測の事態を考えると装備が多くなってしまうのは仕方ないですからね。こちらとしても重々理解はしていますよ。だからここにいる狩猟者からも反発が少ない。装備の手抜きは死に直結しかねませんから」
「宮廷の貴族もそれくらい頭が柔らかければ良いのだがな……全く、そのせいで一々行動が遅れる」
色々な不満が積もり積もって、現在の状況とは関係ない方面で怒りが爆発したのだろう。
ぶつぶつと愚痴を溢し始めたハッティ王国の第二王子ことムワタリを前にして、狩猟者の男は苦笑を浮かべていた――そんな時。
不意に一際強い揺れが辺りを襲う。
「何だ!?」
「この揺れは……地震じゃありませんね。総員警戒しろ! 何が起こるか分からん」
ムワタリが咄嗟に迷宮の入り口へ視線をやる中、狩猟者達のまとめ役である男は、即座に周囲の者へ指示を出す。
だが、以前にも何度かこれより弱い揺れがあっただけに、多くの者は慣れてしまったらしい。警戒しつつも「どうせ今回も何も起こらない」と言わんばかりに、一部では気が緩んでいた。
そんな弛んだ者達を叱咤するように、男は叫ぶ。
「気を抜くな! お前ら、ここがどこだか忘れたってのか!? 油断は死に直結する、死にたくないなら気ぃ引き締めろッ!」
地鳴りを打ち消すくらいの大音声が一時的に辺りを支配し、直後には緩みかけた空気は引き締まっていた。
それは狩猟者達だけではなく兵士にとっても十分な効果を発揮していたのか、欠伸などしていた者がそれを慌てて堪えていたのだった。
男の喝がそれだけ効果覿面である事を見て取ったムワタリは彼の方に目を向け、問う。
「随分な気合の入れようだな?」
「そりゃそうでしょう。今の揺れは明らかにさっきとは違う。深層とかで崩落が起こったのではなく、割と浅い階層が震源の筈です。要するに、何かが近付いているかもしれないんですよ」
「……っ、なるほど。流石は迷宮の専門家とすら言われるだけの事はある。兵士諸君、彼の言う通り気を抜くな! 貴様らの死はそのまま、市民を危険に晒す事と心得よ!」
そう、ムワタリが兵士達に向けて声を発した直後、またも大きく揺れる。
腹に響くくらい、更には頬すら揺さぶられるような衝撃を感じ取り、いよいよ誰もが警戒をより強め、空気が急激に張り詰めていく。
その間にも断続的に振動が続き、それはまるで巨大な獣が迷宮内を駆け回っている様にも感じられるものだった。
「…………」
そして、それからどれくらいの時間が経ったか。
不意に耐え切れなくなってムワタリが思わず固唾を呑んだ、その時。
――迷宮、血の大地が、その出入り口から凄まじい衝撃波を吐き出し、そして爆発したのである。
「なっ――!?」
「これは……!」
それ以上、彼らがその事について話す時間と余裕はなかった。
咄嗟に身を隠したり伏せるなどして身を守れた者は良かったが、反応が遅れた者や運の悪い者は超高速で飛来した石などに体を穿たれ、もしくは衝撃波で細切れにされるのだ。
仮に上手くそれから逃れる事が出来たとしても、強烈な爆音のせいで耳鳴りが中々止んでくれない。
だが、それを気にしている場合ではないと判断したらしい狩猟者の男は素早く指示を飛ばす。
「被害の確認急げ! ぼやぼやするな、第二波が来ないとも限らないんだぞ!?」
「……く、流石に全員無事とはいかないか」
被害状況の確認作業が取られる中、転がる無残な死体を目にしてムワタリは顔を顰める。
とは言え、魔法を扱える者がこの中に複数いた事が幸いしたのか、各所で展開された盾のお陰で全体として大損害を被る事は免れたらしい。
死者はざっと見た限りでも二十人以内には収まっているだろう。だが負傷者とその度合い次第では損耗率が甚大になりかねない為、やはり安堵する訳にはいかなかった。
しかも、突然の爆発で騒然とする彼らに追い討ちを掛ける様に、辺り一帯に何かの咆哮が轟くのである。
『――――!!』
「……何だ?」
それはまるで複数の人間や妖魎の悲鳴のように重なっているようで、耳にしただけで鳥肌が立つような気味の悪さがあった。
「くそ、今度は何が起きている!?」
「分かりません。何より、先程の爆発による土煙のせいで周囲の視界も劣悪で特に遠くは何も見えませんで……」
「そうなると不味いな、ここは一旦後退をかけるべきか?」
尚も咆哮は山彦となって未だに響いており、ムワタリは得体の知れない存在を警戒して思考を整理している、と。
「……?」
「殿下、どうかされたか?」
「いや、今誰かの悲鳴が聞こえた様な……」
不意に周囲を見回し始めたムワタリに、狩猟者の男は怪訝そうな顔をするが、それだけだ。
何にも気づいていないのか、首を傾げて「何も変な音は聞こえない」と言われてしまえば、彼は自分の空耳かと結論づける――が。
「う……わああああああっ!?」
「「ッ!?」」
近い。かなり近くで、兵士の悲鳴が聞こえた。
だが周囲を見回しても悲鳴を上げた兵士の姿は見当たらず、他の者も不思議そうに周囲を見渡していた。
「今の悲鳴は……」
「この状況で冗談を言うのは考え辛いとすれば、やはり何か居ますね。さっきの咆哮を上げた奴でしょう」
そんな遣り取りをした直後、再び人の悲鳴が上がる。
既に兵士達も狩猟者達も近くに正体不明で得体の知れない存在が居る事を察してか、士気が揺らいでいた。
「落ち着け、互いが見える位置に集まるんだ! ここで散り散りになったらそれこそ死ぬ! 周囲の警戒怠るなよ!」
「チッ……ムルシリ、どこだ!?」
「……ここだ、どうにか無事だぜ。死ぬかと思ったけどな」
兵士達は本来この場で指揮を取るべき部隊長が、先程の爆発で負傷か死亡でもしてしまったのだろう。
この場では王子よりも戦闘慣れしている事もあって狩猟者の男がこの場を取り仕切る中、ムワタリは双子の兄――ムルシリを見付ける。
見た限り負傷はしていないようだが、耳鳴りが続いているのか、片耳を抑えて顔を顰めていた。
「考えなしに動き回るからだ。少しは落ち着いたらどうだ?」
「生憎、俺は老人じゃ無いんでね。それより、被害状況は?」
「出来ればすぐにそれも把握したいが……後回しになりそうだ」
再び上がる、悲鳴。
しかし今度は、ムワタリがその目でしかと捉えていた。蛙のような舌がどこかから伸びたかと思えば、それで狩猟者の一人を巻き取って行ったのである。
「殿下、今のをご覧になりましたか?」
「ああ。あそこだ、誰でも良いから矢を射かけろ!」
そのムワタリの指示に従い、狩猟者の一人が矢を射かけようとした――その寸前。
「……は?」
哀れな射手は、突如として現れた大口に呑み込まれていた。
「これが……!?」
「何だコイツ!? 見た事ねえぞ!?」
「化けモンじゃねーか!」
遂に姿を現した妖魎と思しき存在を前に、やはり皆誰もが動揺を露わにする。
だがそれも無理は無いだろう。
普通に見られる生物とは大凡一線を画す、余りにも異様なその風体は目をひき、そしてぞわりとした嫌悪観を湧き起こさせるだけの禍々しさを持っていたのである。
「けどたった一匹か……幾らデカい図体だとして、囲って叩けばどうってことも無い!」
「囲め囲め! 槍衾でハリネズミにしてやる!」
「迂闊な真似は止せ! 明らかにそいつは危険で……」
兵士の一部が、敵の正体を見た事で士気を持ち直したのだろう。大きさと異様さに威圧されつつも即座に包囲を開始していくが、確かにそれは普通の戦場では素晴らしい判断と対応速度と言えるかもしれない。
だが、この状況に限って言えばそれは危険を多分に孕むもので、だからムワタリは兵士達を制止する、が。
時は、既に遅かった。
槍も剣も、魔法すらも簡単に跳ねのける表皮の前には兵士達がどうする事も出来ず、次々に怪物の舌で、或いは前脚で捕まれて大口の中へと消えていくのである。
しかも、そうして一人また一人と捕食する度に、怪物の不気味な表皮には異様な突起が生じる。
言わずもがな、それは取り込まれた人の四肢や体の一部分だ。中には妖魎のものと思しきものも混ざっているが、早い話あれらは取り込まれたのだろう。
「何と悍ましい……!」
「だが、実に戦い甲斐もありそうだ。ムワタリ、お前は他の連中連れて下がってろ。俺が相手する」
余りにも常識の範疇から外れた存在を前にしてムワタリが後退るのとは対照的に、ムルシリは好戦的な笑みを浮かべていた。
だが、彼の発言は誰からしても無理にしか聞こえないもので。
「無茶を言うな! 恐らくさっきの爆発もコイツの仕業だぞ! 下手すれば、数日前からの揺れだってこのバケモノが……!」
「だったら尚更ここに残る奴が居なくちゃいけない。ここで全員が尻尾撒いて逃げて、ハットゥシャに連れて行くわけにはいかねえだろ。お前らは援軍を呼んで来い。そこまでの時間を稼ぐ」
一見血気盛んな行動に見えて、そんな彼の判断の理由を知ったムワタリは息を呑む。
だが悩んでいる時間はなく、だから彼は拳を握り締めながらそれを了承する外に無かった。
「頼む、絶対に耐えてくれよ、兄上」
「双子に対して兄上だなんてむず痒い言葉使うな。良いから早く行け」
こんな事態になれば、幾ら軍の動員などを渋ったり権力闘争に執着する貴族と言えど、重い腰を上げざるを得ないだろう。
それはムワタリとて理解している。だから今すぐに踵を返すべきだとも分かっている。
だけど、どうにも足が重くて――。
「早く行けと言った筈だ! 急げ、市民の命だって懸かってるかもしれないんだぞ!?」
「……ああ、すぐに戻るッ!」
いつまでもこんな所で二の足を踏んではいられない。
天に向け、ただ兄の無事を願いながらムワタリはハットゥシャへの道を急いでいたのだった。
それを、視線も向けずに気配だけで察したムルシリは、対峙する怪物を前にして不敵に笑う。
「さて……どれだけのものか見せて貰うぜ!」
『――――』
既に、この場に居た王国兵と狩猟者の連合部隊は壊滅したと言って良かった。逃亡するか、死亡するか。いずれにしろ指揮系統はボロボロになっていて、組織的抵抗はもう望めなくなっていた。
それでも彼の他にまだこの場に残っているのは勇気ある者か、死体か、或いは怪我などで動けない者か。
何にしろ、この程度なら造作もないと言わんばかりに、怪物は笑い声の様なものを漏らして、ムルシリを見ていた。
だが、それは四つある瞳の内の僅か一つだけで、残りは忙しなく動いて周囲を見渡していたのだった。
「気味わりぃ……おら、余所見してんじゃねえよッ!」
繰り出すのは、炎変成魔法。
体内で魔力を使用する事で体そのものを燃え盛る炎に変え、変成中は基本的に物理的な攻撃が無効化出来てしまう。
造成魔法に比べると相性の不利などの影響を受けやすい、遠距離攻撃が出来ないなどの欠点はあるが、それでも基本的に強力であり、かつ比較的希少な魔法でもある。
実際、ムルシリの目でも見切れない怪物の攻撃が直撃してもどうと言う事は無く、怪物は焦げた己の手を見て首を傾げていた。
そして確かめる様に何度となく怪物はムルシリを掴むべく動くのだが、手が焼かれるばかりで不満そうな唸り声を漏らしていたのだった。
それを見て、彼は得意気に笑う。
「へへ、ざまあねえ! そんな攻撃じゃいつまで立っても俺を食えやしねえよ!」
『…………』
一向に自分の思い通りにいかないのがよほど不愉快なのか、低く唸り声を漏らした怪物は、しかし彼に固執する事はなく、代わりに周囲に残っている兵士や狩猟者に目を向ける。
それが意図するところを即座に察したムルシリは、浮かべていた笑みを消す。
「この野郎、まさか……」
『――――』
慌てて怪物の背に飛び乗って動きを止めようとするも、しかしそれは表皮を炎で焼かれた程度では止まらない。
折角、炎魔法で黒焦げにしても、異常なまでの修復力がそれを無かった事のようにしてしまうのである。
「止まれ、止まれって言ってんだろうが!?」
祈る様に、縋る様に、頼む様に、ムルシリは魔法で怪物を焼くけれど、やはりそれは無情にも効果はなくて。
一人、また一人と兵士や狩猟者が呑み込まれていく。
自分の力ではどうしようもないその現状に、激情をぶちまける様に炎を燃やし、それを効かないと分かっていても怪物目掛けて叩き付ける。
「ふざけんな! 俺は王子だぞ! この国を、この国の民を守るためにこの身分に居るんだ! それを……この場の人間一人すら守れずにいて堪るものか! 吐け、今まで飲み込んだ人間を吐き出しやがれッ!」
そんな思いも空しく、また一人が悲鳴を上げながら飲み込まれていく。
そしてその結果として怪物の表皮へ新たに生じた、人の腕。見れば足元にも人の顔が仮面のように浮かんでいて、何かを呟いていた。
何を言っているのかはムルシリの耳にも聞き取れなかったが、虚ろなその目と目が合ってしまったと思った瞬間、怪物の表皮を焼く手を止めた。
「焼ける訳ねえだろ……クソッタレが!」
そう呟く彼は、先程まで湧き上がっていた激情がしなびると同時に、体を物理的な攻撃から守っていた変成魔法すらも解除してしまう。
直後、呆然自失として無防備な彼の体を強烈な衝撃が襲う。
咄嗟に受け身は取れたものの、それはただ気絶を免れる事が出来た程度のものでしか無くて。
「がっ……!」
背中のあちこちを走る激痛と、視界を横切る火花だけが、彼が地面に叩きつけられたという事実を教えてくれていた。
即座に自分が戦闘の最中に気を抜いていた事を思い出し、起き上がって身構えようとするも、体が動いてくれない。
意識も痛みのせいか朦朧として、霞む視界の中で近付いて来る怪物の姿が映っているのを、ただ眺めて居る事しか出来なかった。
「ふざけんな……俺も、お前が食った連中も、こんな所で死んで……死なせてっ、やらねえ、ぞ……!」
抗おうとする、気持ちはある。でも体が動いてくれない。どうしても反応してくれないし、動いてくれてもそれは非常に遅いもので、ムルシリの要求にこたえてくれているとは言いがたかった。
そしてそのまま、怪物の大口が彼を飲み込む――。
『――ッ!?』
だが、彼が捕食されるその直前、怪物が唐突に耳障りな悲鳴を上げて蹈鞴を踏んだ。
それを、ぼやけた視界の中で眺めていたムルシリは、視界の隅に立つ一人の少年の背中に気付く。
その少年の歳は恐らく自分より少し下と言ったところだろうか。短槍を持ち、そして極めて白い肌をしていて、同じく白い髪が風に揺れていた。
恐らくは狩猟者だろうか。確実に剛儿では無さそうなその少年に、ムルシリは共通語で問う。
「おま、え……は」
「……別に誰でも良いだろ。怪我人は寝てな」
「済まない……感謝する」
食事を寸前のところで邪魔されたせいで、怪物はまたも喧しい咆哮を上げる。
その耳障りなそれに白髪の少年は顔を顰め、しかしほんの少しも怯んでなど居なかった。
そんな姿が少し頼もしく見えて、だけど申し訳なくもあって、だから少年に向けて言っていた。
「もしも、無理だと、これ以上は危険だと思うなら……俺を置いて逃げろ。別に責めはしない」
「煩い。怪我人は寝てろって言ってるだろ」
その余りにも素っ気ない態度に、思わず苦笑が漏れる。仮にも自分は王子なのにと言ってやりたい気分のムルシリだが、この不遜な少年相手にはそれを言っても相手にされそうもなかった。
だが、不思議と悪い気はしない。こうして危地を救ってくれたからだろうが、何よりこの場に留まっている時点で簡単に見捨てる気が無い事を、つまりはこの少年の性格の良さを物語っていると考えたのだ。
だからその善意に甘える様に、ムルシリは言っていた。
「酷い事を言う……なら、出来ればそこに取り込まれた人も、助けてやってほしい……頼む」
「分かった。安請け合いは出来ないけど、出来るだけの事はやってみるよ。だからもう黙って寝とけ」
「ありがとう……」
そう礼を述べた瞬間、ムルシリの視界は暗転する。
しかしすぐに気を失った訳では無くて、その直前にほんの一瞬だけ思う事があった。
――白い肌に白い髪、その特徴はどこかで聞いた覚えがある、と。
だけれど、それから先を考えるよりも早く、彼の意識は深く深く沈んで行ってしまうのだった――。




