第五話 Underworld⑦
◆◇◆
戦いは、狙い通りに運んでいた。
一見不利に見える――いや実際不利になる様に状況を動かしたのだが、それによって相手の心へ邪念を割り込ませる隙を生じさせることに成功したのだから。
まず間違いなく目の前の敵――アッピウス・パピリウスとプトレマイオス・ザカリアスは、勝利を確信して、そして気が緩んでいたのだ。
「ここで、殺すッ!」
因みに俺はシグを背負った状態で、更に壁際にまで追い詰められていた。
だけど、まだまだ、全く詰んでなど居なかったのである。
――何故なら。
「シグ」
「……全く、危ない橋を渡るんじゃない」
今この瞬間まで逃げ回っていたのは、シグに魔力を回復させる時間を稼ぐためだったのだから。
「全てを、凍てつかせる」
その瞬間、周囲の気温が急激に低下を始める。
勿論、俺の許へと殺到して来ていたパピリウスの魔法攻撃は、瞬時に展開した魔力盾で全てを受け止めた。
そしてその間にも周囲の気温は下がり、あちこちで常識では考えられない凍結が始まる。
空気中の水分が地面に触れれば瞬時に氷となり、範囲内に居た生物はその血液が、筋肉が凍結し、そして生命活動を次々に停止させられていくのだ。
「……頼むから制御間違えて俺まで凍らせるなよ」
「問題ない、その程度が出来なくてはあぶなっこくて魔法など使えないだろ」
同士討ちを避ける為にごく限られた範囲ではあったものの、その効果は絶大だった。
展開した魔力盾を解いて周囲を見渡せば半径数Mに限って氷の世界が出来上がり、不運な妖魎がまたも氷像と化していたのである。
だが、その中にあって想定外が二つ。
「よくもまあ、やってくれましたね……」
「冷たい……寒いよ。酷いじゃないか、シグ?」
「何で生きてんだこいつらは……」
「一応言っておくが、私は手加減した覚えなど無いぞ」
「そんなん見れば分かる」
体の幾つかは凍結しつつも生命活動を停止しない、二人の異形を前にして、思わず顔が引き攣る。
アッピウス・パピリウスとプトレマイオス・ザカリアスの二名は、やはり人と言う範疇に収まるべき能力ではない。
それは見た目だけでなく、今のこの状況下での状態を見れば一目で判るものだった。
「それにしても随分な冷気ですね……もしかしなくてもそこの反逆皇女シグルティアが行ったのですか? ……確か、魔力消費が激しくてもう魔法が撃てないと言っていましたが」
「確かにその通りだ。だけど、コイツへの魔力の補充だったら出来るからな」
魔力補充。
それは肌と肌が接触する事で人から人へと魔力を送り込む行為だが、第一の制約として血液型のように同じ属性でなければ送れない。
そしてその上で伝導効率が悪い。以前リュウが言っていたが、十送れば七か六くらいしか届かないのである。
とは言え、白儿であればその膨大な魔力量に物を言わせてガンガン送ることだって出来てしまう。
「魔力属性に関する制約も、白魔法なら無属性だから何にも縛られない。逆の場合は無理だけど、そんな事には早々ならないしな」
白儿の魔力は、血液型で言うならO型みたいなものである。
ただし、そうやって魔力を他者へ流し込んでいる場合は魔法の行使に著しく制限が掛かってしまう。
だから途中までパピリウスらの攻撃に対して防戦一方となってしまったし、同時にその不利を演出する材料として利用した。
「なるほど、まんまと嵌められたという訳ですか?」
「そう言う事だ。ラウのお陰で私の魔力もほぼ全快。いつまでもこんな混戦極まる戦場で、魔力切れの状態でいられないしな」
「生意気な……その程度で逆転したつもりか!?」
一度届きかけた勝利が遠のいた事で、お預けを喰らったパピリウスは心が逸っているのだろう。
ただでさえ血走っていた目を更に血走らせ、そして癇癪を起したように魔法を行使する。
「まだ十五そこらのガキに、これ以上私をコケにされて堪るものかッ!」
「……素が出たな、パピリウス。それがお前本来の言葉遣いだろ?」
「煩い煩いッ! 貴様の存在そのものが……もう許せない! 殺す……この手で、消し炭に!」
先程までの丁寧な印象を受ける言葉遣いすら完全に取っ払い、そして彼は自身の周囲に幾つもの魔弾を生成していく。
その属性は勿論、水と炎。
余りに膨大な魔法の数に、少し離れて戦っていたスヴェンらが驚愕の気配を見せていたが、しかし俺もシグも特に慌てる事はしなかった。
勿論、多少なり驚きはしたけれど、それだけだ。
「改造手術というのは、あそこまで個人の魔力量を増やせるのか……大したものだ」
「だな。けど、問題ない。俺が真っ向からぶち破る」
伊達に自分の魔力量は多くないのだ。
その事はパピリウスも理解しているだろうが、長らく白儿という存在が出現しなかっただけに、本当の意味で理解し警戒出来ている訳では無いのだろう。
その事は、俺からシグへと魔力供給が行われている事を見抜けなかった時点で明らかだと言えた。
「頼むぞ、慶司」
「ああ、今度こそ俺は死なないし、お前も皆も死なせない。そう決めたんだ。絶対に……!」
シグを背負うのを止め、彼女は俺の横に立って、そして対峙する二つの異形を睨み据えていた。
そんな彼女の意志を、信頼を受け取る様に、俺もまたパピリウスと対抗するように周囲へ白弾を生成していく。
それを見て取ったパピリウスは、しかし余裕そうな態度を崩そうとしない。
「これはこれは、また大層な数だな? だがその一つ一つは果たして私の魔弾と伍する事は出来るか……見掛け倒しでないと良いな?」
「そんなのやってみれば分かる事だろ。どうした、ほら早く撃って来いよ。俺の事を怖がってる訳じゃあるまいに」
「言ってくれるな。まさか貴様、本気で私に叶うとでも思って言うのか? 私は、自分の命まで削ってこの体になったのだぞ? それが……白儿如きに負ける訳無いだろう!?」
やはりパピリウスのその態度から余裕がはがれる事は無かったが、しかし彼が声を張って行うその主張は、どこか自分に言い聞かせている様でもあった。
だが実際のところはどうであれ、こうして言葉を交わしている間にもお互いの魔弾はその数を増やし、そして。
「消し飛べ、忌々しい白儿がッ、私の前から跡形も無くなれ!」
「……忌々しいのはお互い様だろッ!」
激突。
あちこちで水飛沫や火の粉が舞い、逸れた互いの魔弾が運の悪かった妖魎に直撃し、一撃でその命を刈り取って行く。
それはつまり、お互いに一撃でも喰らえば確実に軽傷では済まないと言う事であり、少なくとも体は普通の人間である俺は、致命傷にもなり得た。
もっとも、パピリウスやプトレマイオスにして見れば一撃程度では戦闘不能になりそうもないが。
「いつまでもいつまでもいつまでも……この私の邪魔をしてくれて、もううんざりなんだよ!」
「ほざけ! 何の権限があってお前は俺が生きる事を邪魔する!? 自分が偉いとでも言うつもりかよ! 冗談じゃねえ、うんざりしてんのは俺の方なんだ!」
魔弾を、生成しては撃つ。
その生成速度はまるで工場における大量生産のようで、それらは一瞬にして大量に消費されていく。
時折、弾幕の隙間を上手く抜けて向かって来るパピリウスの魔弾もあるが、こちらはシグが展開した氷魔法の盾が防ぐ。
そしてそれと同様に、パピリウス側ではプトレマイオスが展開する結界がその役割を果たしていたのだった。
「今度こそ、今度こそここで……!」
「うるせえ! ふっ飛ばされるのはお前だ、パピリウス! いつまでもどこまで粘着されたら堪ったもんじゃないんでね!」
「……ラウ!?」
このままでは埒が明かない。
そう判断した俺は、シグが展開してくれていた氷の盾から身を出し、そして一気に前進する。
勿論白弾は変わらず撃ち続けるけれど、当然それだけで身を守れる筈もなく。
「何してる、早く戻れラウ!」
「このままいつまでも撃ち合ってる訳にはいかない! これじゃ、魔力の無駄だッ!」
パピリウスにして見れば俺を倒す事が目的なのだからそれでも良いのだろう。
しかし俺は彼を倒して終わりでは無いのだ。まだ、周囲では戦いが続いているし、死にたくはない。死なせたくない。
魔力自体には余裕があるけれど、いざという時に使える力と言うものを、出来る限り温存しておきたかったのである。
だから、魔弾を撃ち合いならが俺は前進する。手早く勝敗を着けるために。
「何だ、気でも狂ったか? それとも、もう限界か!?」
「……んな訳あるかよッ!」
防御面積を絞った魔力盾で急所への直撃を避けつつ、俺は更に前進を掛ける。
伴ってパピリウスから襲い掛かる魔弾も激しさを増す中、それでも勢いは少しも緩めない。
だからだろうか。
パピリウスは哄笑しながらも、同時に態度を変化させ、その顔に若干の怯えすら浮かべていた。
「何だ、何なんだお前は!?」
「俺は俺だよッ! 白儿で、魔法が使えて、ちょっと普通とは違う生き方をしてるだけの……ただのガキだッ!」
「冗談ではない! これ以上寄らせるものかッ!」
パピリウスがそう叫んだ時には、もう俺は間合いに入っていた。
具体的に言うなら、この右手に持つ短槍の間合いに、である。
「プトレマイオス! 何している、防げ! 早く!」
「……分かった」
慌てて指示を飛ばすパピリウスに従った彼は、緩慢ながらも立てである結界に更なる強化を施そうとして。
「――あれ?」
前触れもなく飛来して来た幾つもの巨大な氷柱が、プトレマイオスの頭を、首を、肩を、腕を、胸を貫いていた。
当然、そうなれば結界が更に強化を施される事も無くて。
結果、俺はここで一気にパピリウスとの距離を詰め、槍を振るう。
「パピリウスッ!」
「ぐぅッ!?」
突き出した穂先は彼の肩口を抉り、しかしそれ以上の戦果を齎す事は無かった。
何故なら俺の背後から、大きな傷を負っているにも関わらずプトレマイオスが攻撃を仕掛けて来たのである。
「い、痛い……痛い。痛いよ。何でこんなひどい事するの……シグ?」
「自分の胸に訊け。貴様がこれまでやって来た事は、これ以上の事だと何故知らぬ!? お前は父親であるザカリアス三世共々、多くの無道を働いた! だから貴様はカドモス・バルカに追放されたのだろう!?」
「黙れ黙れ黙れ! 僕は選ばれた人間なんだ! それの何が悪い!? 寧ろそれを認めないバルカの馬鹿がよっぽど悪いじゃないか!」
体のあちこちを穿たれた痛みで、意識が少しでもはっきりとして来たのか、プトレマイオスは癇癪を起した子供のように己の主張を叫んでいた。
だが、自我が多少なり明確に戻ったとはいえ、あのように身勝手な有様ではむしろ見苦しさが増した様な気がしてならなかった。
「パピリウス……お前、よくあんなのと仲間でいられるな?」
「どれだけ下衆だろうと貴様を倒す為には大した障害でもない! 私は、お前を倒す為に選り好みなどしないのさ!」
「ああ、そうかよ! 本当に迷惑な奴だな、お前らはッ!」
魔法の撃ち合いから一転、一気に近接戦闘に移行した事で、パピリウスもプトレマイオスも対応が追い付かないのだろう。
言葉を交わし、そして俺が攻撃を仕掛ける度に彼らはその傷を増やしていた。
だが、そうして付けた傷の殆どは、驚異的な回復力で以って塞がってしまう。
「人外め……!」
「それもこれも、全て貴様を殺す為だ!」
「殺す……もう良い! お前も、思い通りにならないシグも、殺してしまおう!」
幾ら攻撃しても致命傷とはならない現実に苛立ちが募る中、俺の攻撃が効かないと悟ったパピリウスとプトレマイオスは反撃に転じる。
だが、所詮彼らは近接戦に置いては素人の同然。
人間を遥かに凌駕する身体能力を持つとはいえ、俺がそんな奴から間抜けにも一撃を貰う筈がなかった。
「どこまでも身勝手で……自分勝手な奴らだな、アンタらは! そう言うのは、見てるだけでも気分が悪くなる!」
「「――ッ!?」」
槍を持たないもう片方の手で、抜剣。
それで以って、彼らの片腕をそれぞれ切り落とす。
子供の胴以上はある太さの腕だったが、業物の剣と身体強化術を施した腕力で無理矢理に叩き斬ったのである。
勿論、断面は荒っぽくなっていて、リュウが刀を振るった後の様な綺麗な切り口ではないけれど、今この状況でそれを気にする必要など無かった。
「貴様……!」
「痛い、よくも僕の腕を……!」
「……蜥蜴みたいな再生力しやがって」
切り落とした筈の腕は、しかし彼らが拾って傷口に合わせてしまえば、あっという間に結合してしまった。
余りにも非現実的な光景に驚きよりも先に呆れの感情が湧いて来るが、そんな事を悠長にしている暇はそれ程ない。
「お前の腕も捥ぎ取ってやろうか!?」
「殺す……僕を散々傷付けた罰だ!」
「出来るもんならなッ!」
「ラウ、伏せて!」
斬っても斬っても、文字通り限がない。
その埒が明かない状況に舌打ちが漏れるけれど、丁度そこでシグの支援魔法が届くのだった。
咄嗟に伏せた直後、巨大な氷柱が杭のようにパピリウス達に撃ち込まれる。
彼らの目にはいきなり氷柱が飛んで来たように見えた以上、当然反応など出来る筈もなく、二人は迷宮の壁へ磔のような姿になっていた。
「が……この小娘が!」
「良くも、いつまでも良い気になって……!」
「調子に乗っていたのはお前達の方だ。いつまでそんな醜い姿で、醜い心でこの世界に留まっているつもりだ?」
パピリウス達は、動きたくても磔にされた状態では体に力も入らないのだろう。
どうにか脱出しようと藻掻いているものの、体に撃ち込まれた氷の杭は抜ける気配が見られなかった。
加えて、よく見ればその氷の杭は凍結範囲を拡大しており、時間が経てば益々脱出が難しくなる仕様の様だった。
そしてそんな悪魔みたいに凶悪な魔法を行使した張本人であるシグは、怒気を纏いながら彼らに歩み寄っていた。
「この世界にも生まれ変わりがあるかは知らないが、お前ら一回死んだほうが良いんじゃないか? そうすればこれ以上不愉快を周りに撒き散らさなくて済むんだぞ?」
「不愉快を撒き散らす……? 小娘風情が偉そうに!」
「偉そうなのは貴様だ。レメディアからも聞いたぞ? お前、グラヌム村では随分とレメディアやその仲間に酷い事をしたみたいじゃないか。ラウが白儿だったとか言うだけの理由で」
そう言いながら、シグは更に氷の杭をパピリウスの体に打ち込む。
だが急所は意図的に外していて、彼は痛みに悶え絶叫するのだった。
「その時の暴力が元で、ラウの家族も同然な子供が一人、死んだらしいな?」
「そ、それの何が悪い? 私は神の意志に……」
「都合よく聖典を利用しただろ? おまけにレメディアを手籠めにしようとすらしたらしいじゃないか。白々しいとはよく言ったものだな」
更に三発、氷の杭が撃ち込まれてパピリウスは更なる絶叫を上げる。幾ら傷が回復するとは言え、怪我を負わない訳では無い以上、その痛みは想像を絶するだろう。
何より簡単には死ねない身である事が、余計にパピリウスを悲惨な状況にしていた。
「……それとプトレマイオス・ザカリアス」
「待って、止めてくれシグ! 痛いのは、痛いのは嫌だ!」
「今更そんな我儘が通ると思ったか!? お前が散々蹂躙して来た者達が、何度となく上げた悲鳴を無視した分際で! 厚かましいにも程がある!」
これまで積もりに積もった怒りをぶつける様に、シグはプトレマイオスへと氷の杭を打ち込み続ける。
その度に悲鳴が上がるが、彼女はそれでも手を緩める事はしなかった。
「お前らと……兄上が手を組んで私を陥れ、そのせいでまた幾人もが死んだ! 彼らがお前らに何をした!? 私が邪魔なら私を直接殺すなりすれば良いだろう!? なのに……関係ないものをあれだけ政変に巻き込んだ!」
「やめ、止めてくれ……お願いだ……嫌だ、痛い、死にたくない」
「もう遅いと言った!」
そう叫びながら、憤怒を纏うシグは更にプトレマイオスへ攻撃を加えようとして、俺が制止した。
途端、若干目を赤くした彼女は俺を睨んで来るが、それでも怯まずに言う。
「その辺にしておけ」
「駄目だ! コイツらは、こいつらは今世の皆の仇で! コイツらさえ居なければ皆、死ぬことも追放される事も無かったのに……私だけならまだしも、あれだけのことをされて許せる訳が無い!」
そう語る彼女の顔には明らかな憤怒が浮かんでいて、どうしてもそれが堪えられないようだった。
「……怒りの感情が湧いて来るのは良く分かる。でも、だからってこいつらを甚振る様な真似は止めろ。それこそ趣味が悪いし、気分も……」
話している途中で、シグは俺の手を振り払う。
そして強くこちらを睨みつけて言うのだ。
「勝手に決めるな!」
「じゃあ訊くけど、お前はそれで満足できる? 後になって虚しくならないと言えるか?」
「やってもやらなくても後が虚しいのは一緒だ! だったらやり返した方が……何倍もマシじゃないか!」
握り締められたシグの拳を、そして俯く彼女を見て、俺は言葉に詰まる。
人を憎んだりする気持ちは良く分かるし、俺自身だって今も憎しみの感情を持っている真っ最中だから。
主人――サトゥルヌス。
そいつを殺したくて仕方ない。あれだけ散々踏み躙られたのだ、復讐したいと思う気持ちが湧いても無理は無いだろう。
だけど、だからと甚振りたいとは思わない。
この世界に生まれ変わって、ひたすら憎しみの炎を燃やし、誰も信じず、一人で生きて行くことも難しさと虚しさを、知ったから。
憎しみや復讐は何も生まない、とは言わない。
やらないよりはやった方が、確かに気持ちは違う。
多少なり怒りや悲しみは癒えるだろう。
だけど、それがすべて終わった後で本当に笑えるようになれるだろうか。
少なくとも、自分はそう思わない。
相手に激情をぶつけ、甚振り、嬲り、今度はその手で友と手を取り合う事が出来るのか。
復讐の炎でどす黒く汚れたその手は、その心は、かつてと同じ様に元へ戻る事は出来るだろうか。
そんな事は出来ないと、俺は断言する。
かつて、上級狩猟者のガイウス・ミヌキウスは語って居た。
どんな行為でも、一度とてやってしまえば段々と箍が外れてしまうものだと。それは窃盗だったり、殺人だったり、暴力だったりと多様だけれど、どれも一緒。
一度やってしまえば、大多数はやがて際限なく繰り返してしまう。中には一回やっただけで踏み止まれる人も居るだろう。だけど、そもそもそう言う事はやらないに越した事は無いのである。
例えば、自分が血に濡れた人生を歩んで来たように、だ。もう既に人を殺す事に慣れ、この身は数え切れないほどの命を奪ってきた。怒りのままに、憎悪のままに敵を甚振り殺した事もあった。
そして今の俺は、振り返った先で幾つも積み上がった骸を幻視して、自分のやって来た事に慄いている。
シグにも、リュウにも相談した事は無かったし、出来る限り考えたくないと思っていたけれど、それでも時折ふと思い出して、そして自分が笑顔でいて良い存在なのかと考えてしまう。
そんな思いを、自分と近しい人にも抱えて欲しいと思える筈がなかった。
そうであるから、彼女を止める。
「シグ、お前は誰かを惨たらしく殺した手で、他の誰かの手を優しく握る事が出来ると保証できるのかよ?」
「出来る……出来るさ、私は!」
だから放せと、彼女は強く主張する。
しかし、それでも俺は放さない。放してはいけないと思うから。絶対にこのままではいけないと思うから。
だから、問う。
「じゃあ、その優しさに歪なものが出来ないと保証できる?」
「…………ッ」
「人を殺す事に喜びを覚え出したら、例えそれが復讐に起因するものだったとしても、もう人として終わりだぞ」
そう告げた瞬間、彼女は頭を抱えて叫んだ。
溜め込んだものがとうとう耐え切れな配って爆発した様に、止めどなく溢れ出したのである。
「だったら、だったらどうしろって言うんだ!? 私のこの怒りは! 悲しみは! 多くの人の無念は!? それをなかった事にしろって言うのか!?」
彼女の、その天色の眼の奥に燃え盛る、瞋恚の焔。
一向に鎮まる気配のない、いや鎮め方が分からなくて困惑している様なそれを目にして、思わず彼女の肩を抱いていた。
途端、シグから当惑した感情が伝わって来るけれど、それすら無視して、強く抱きしめる。
「そう言う感情は、たった一人で抱え込むものじゃない。そんな事をしていれば、その内壊れるぞ」
「でも……!」
「だから人は群れるんだ。俺だって白儿だって発覚してから暫くは一人で良いと思ってたけど、でも今じゃこうしてる。お前らのお陰で笑えるし、こうやって抱き締める事も出来る」
そこまで言ったところで、不意に強張っていた彼女の体から力が抜けた。
そんな彼女の華奢な体を、更に強く抱く。
「頼むから……こっち側には来ないでくれ。朗らかに笑ってくれるお前が、皆がいたから俺は……!」
「ラウ……そっか。うん」
耳元で、優しく彼女の声が聞こえた。
それがくすぐったくて、暖かくて、ふと頬が緩んだ。
だけどここは戦場。いつまでもそのままでいられる筈もなくて。
「御二人さん! お熱いのは結構だけど、そろそろそっちの決着をつけてはくれねえかい!?」
「「お熱くないっ!」」
現実へ引き戻す様なスヴェンの冷やかしにハッとさせられて、二人揃って反駁する。
だが実際彼の言う通り、ここで抱き合っているのでは状況は何も変わらないし、味方にも負担をかけてしまう。
何より、今までの自分の行動が恥ずかしくて仕方ない。
幾ら何でもこんな場所で少女の体を抱き締めるなんて我ながら大胆も良い所だし、シグに殴られても文句は言えないのだ。
「ご、ごめん!」
「あ……うん」
謝罪しながら慌てて体を離すが、意外にもシグは起こるでもなく、それどころか少し寂しそうな顔を見せていた事に、少しだけ混乱させられた。
だが、何度も言う様にここは戦場。
周囲では精霊達やスヴェンたちが戦っていて、なるべく早く彼らに加勢すべき状況なのだ。
早々やられるような連中では無いものの、俺達が放している間邪魔が入らない様にしてくれていたのも事実。
余計な負担を、これ以上かける訳にも行かなかった。
混乱と雑念と疑問を無理矢理心の奥底に沈め、俺は今も迷宮の壁に氷の杭で磔とされている二人の男に目を向けた。
どちらも只の人間というには体が筋肉質で巨大なものになっていて、かつての人間の面影は余り見られない。
だけどそんな彼らの顔には明らかな怯えと、そしてほんの少しだけ期待の表情が見えていたのだった。
恐らく、先程俺がシグの復讐を止めた事で、自分達が助かるかもしれないと思ったのだろう。
だが生憎、そこまで俺も甘くはない。
槍の柄を握り締めながら、彼らを見据えてこう言うのだ。
「アッピウス・パピリウスに、プトレマイオス・ザカリアス。お前らは俺が殺す」
「……な、助けてくれるのではないか!?」
「そんな、話が違う!」
「誰も助けるなんて言ってない」
魔法なんて使うまでもない。
今なら、この短槍一本で容易く彼らの命を奪う事も出来る。死なないなら、死ぬまで突くだけだ。
「いつ、俺がお前らを助命するなんて言った?」
「止めただろう、そこの娘を! なのに、それはどういう事だ!?」
「安心しろよ、不必要に甚振るような真似はなるべくしない。けど、お前ら簡単に死なないし、しょうがないよな」
勿論、俺自身だって彼らを出来る限りの苦痛を与えて殺してやりたい気持ちがない訳では無い。
今までやられた事を考えれば、それでも温いとすら考えてしまえるくらいに、特にパピリウスを憎む気持ちは強い。
だけど、シグの説得にも使ったような理由で、それはもうしないと心に決めた。
出来る事なら殺さないに越した事も無いのだろうけれど、彼らの場合は生かせば生かすだけ俺達の邪魔をする。
その事はこれまでの旅で証明されているし、今度もまた自分達が勝者でいられるとは限らないのだ。
自分が、或いは彼らを活かしたせいで自分の近しい誰かが泣く可能性を考えたら生かしておく訳にはいかなかった。
「止めろ……止めろと言っている! 貴様!?」
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 僕は、僕はまだ死にたくないんだ! こんな、こんな所でっ……!」
見っとも無く命乞いをする異形の姿は、何とも滑稽で哀れだった。でも、彼らに掛ける慈悲はもうそれ以上ない。
彼らの場合、強すぎる再生能力のせいで結局拷問染みた殺した方になってしまうだろうけれど、全身の肉を切り刻んだり爪を剥ぐような真似をされないだけ有難いと思って欲しい。
「ラウ……」
「シグは離れてて。後は俺が」
「駄目だ。ザカリアスは私がやる。結局これは、私が付けるべきけじめでもあるから」
肩に置かれた手に、ふと振り返れば彼女が真っ直ぐ俺の目を見据えていた。
その天色の眼には、もうあれだけ燻ぶっていた憎悪の炎は鎮まっていて、ただ固い決意と少しばかりの怒りが覗いているのみだった。
「私がそれをやるのは間違いだってラウは言うけど、ラウが一人で背負うのも、間違いだろ?」
「……覚悟は?」
「愚問だな」
「そっか」
そう言いながら、俺は再びパピリウスに目を向けた。
碌に身動きも出来ない彼は痛みに悶えながらも怯えを見せ、そして近付かせまいと魔法を撃って来る。
今頃になって磔にされる痛みを我慢して魔法を行使出来るようになったようだが、もはや遅い。
一歩一歩着実に距離を詰めて来る俺をその目に映しながら、情けない悲鳴を上げていた。
「お前は殺す。今日、この場で、この瞬間に!」
「白儿風情がッ……!」
何度となく一撃で致命傷を与え、その度に回復してをどれだけ繰り返しただろう。
極端に回復速度が低下し、遂には傷が塞がらなくなったのを見て、俺は槍を突く手を止めた。
「最期に何か言う言葉、ある?」
「それは随分と傲慢な言葉だな、ラウレウス。だが、その厚意に甘えよう。……地獄へ落ちるが良いっ」
「ああ、もとからそのつもりだよ」
血走った目で、粗い呼吸で、血を吐きながら言われた言葉に応じれば、その途端にパピリウスの体に変化が訪れる。
「ぐ……ぁぁぁあああっ!?」
「…………」
それは、以前にも見た事があるものだった。誰の事かといえば、以前この手に掛けた少女――タリアである。
彼女もこの手の改造手術を受け、体まで肥大化はしなかったものの、体にかかる負荷が甚大だった故に、寿命が尽きると身体の崩壊が始まっていた。
そして目の前のパピリウスもそれは例外では無くて。
秒を追う毎に皮膚がグズグズになって行き、だけど体の中はまだ形を守っているのか、しゃがれた絶叫が続く。
二度目でも聞くに堪えない、見るに堪えない光景に顔を顰めながら、俺は逆手に持った槍を振り上げ。
「あばよ。次は恨みとは無縁の人生を歩めると良いな」
「――ぁ」
彼の心臓を一突き。
それだけで、その瞬間体の崩壊は止まった。
同時に、生命活動も止まった。
これで、彼が味わう激痛からも解放された事だろう。
ちらとシグの方を見てやれば彼女も丁度止めを刺す瞬間だったようで、まさにプトレマイオス・ザカリアスの命が潰えていた。
「終わったか」
「ああ。けど、やはり何かが釈然としない。復讐が虚無だと言うのは、やはり間違いでは無いのだな」
寂しく笑う彼女に、首肯する。
復讐で人を殺す際に悦びを覚える様になると、やがて足りないと思い始める様になる。
そうすると、もう止まらない。復讐対象何もかもを根絶やしにするまで、全てが憎くなって、壊したくて、殺したくなる。
そうなる前に彼女を止める事が出来て、安堵の溜息を吐くけれど、すぐに周囲を見渡す。
あちこちでは未だに戦闘が繰り広げられ続けている。
それを、指を咥えて眺めて居る訳にも行かず。
「……行くぞ、シグ」
「ああ。行こう」
この戦いに終止符を打つ、ほんの少しでも助けとなる為に――。




