第五話 Underworld③
◆◇◆
迷宮――その内の一つである血の大地と呼ばれる洞窟の上層部に足を踏み入れる、無数の人影。
その装いはまちまちでまるで統一性の見出せない集団であったが、その一方で彼らの実力は生半可なものでは無い事を漂う雰囲気が教えてくれていた。
だが、大多数が緊張の面持ちを浮かべるその一団にあって、欠伸でもしそうな調子で一人の男が口を開く。
「捜索範囲は血の大地、及び旧地……こりゃ随分と骨が折れる事になりそうだな」
「ああ。その為に俺としてもユノ―達に救援を求めた訳だがな」
「だからってアイツらに頼むなよ……気が重いぜ」
重苦しく、そして気の緩んだ溜息を吐くのは、金髪金眼の精霊――ユピテル。
それに対してメルクリウスも彼の心情が分からなくもないのか、その顔に苦笑を浮かべていたのだった。
「彼女達には旧地の方を捜索して貰っているし、そんなに警戒する必要はないと思うけどな。仮に再会するにしても、ラウレウスさん達を発見した時だろうし」
「それでも気が重いのは変わんねえよ。お前らもそう思うだろ?」
ユピテルが背後を振り返って同意を求めれば、精霊達は誰もが似た様な表情を浮かべて同意を示していた。
そんな彼らの様子を見て色々と不安になったのか、同行していたリュウはメルクリウスに問う。
「……そんなに、そのユノーさんって言う精霊は問題でもあるのですか?」
「まあ、そうですね。言ってしまえば加減が下手なんです。例えるなら、狩りをするだけなのに森を吹き飛ばすみたいな感じですよ」
「下手したら僕らは味方の攻撃で死ぬ可能性があるって事じゃないですか」
流石のリュウも冗談ではないと言いたげに口元を引き攣らせていて、それに続いてスヴェンもレメディアも、表現に懸念を浮かべていた。
「こんな調子でラウを見付けられるのかよ……」
「仮に見つけられても、生きてここから脱出できるか怪しくなって来たよね」
血の大地と旧地の位置関係は、近い。
入り口も比較的近くに位置するし、その内部も複雑に入り組んでいて、恐らく互いの通路を立体的に可視化した場合は絡み合っていると表現しても差し支え無さそうだった。
「リュウさん、后羿の位置は分かってるんですか?」
「まあ、大体はね。もしかしたらラウ君達も合流している可能性がある。そこから探してみるのが無難だろうね」
「けど、もしもそうじゃ無かったら……」
スヴェンもレメディアも、その表情は暗い。
伴って足取りも遅くなっていて、それを見たリュウは特に慰める事も無く言っていた。
「そんな事を気にし出したら限が無いよ。とにかく今は、先へ進もう。僕の感覚では、后は相当下層の方にまで潜ってしまっているみたいだ。もしかすると最下層付近かも知れない。……メルクリウスさん」
「承知しました、では急ぎ行きましょうか。マルス、周囲の警戒指揮は頼んだぞ」
「ああ、任せろ」
ほんの少しだけ周囲の警戒が疎かになりかけた空気を引き締め、一行は進む。
警戒しつつ、それでも出来るだけ早く。
下へ、下へ、下へ。
もしかしたら今この瞬間に、ラウレウス達が追い詰められているかもしれないと考えれば、悠長な事をしている余裕は無かったのである。
「……!」
そんな、やや速足な進行の中で、荒い呼吸をしながら追従する一人の少年――シャリクシュ。
肩には弾を装填したライフルを担ぎ、外套の下には無数の弾丸や武器を備えた完全装備状態だ。
しかし当然その重量は病み上がりの彼には少しばかり重く、余分に彼の体力を奪っている様であった。
「おい坊主、無理すんなよ。……こんな事ならミネルワにも同行して貰えば良かったか?」
「問題ない。この程度で音を上げて居たら、イシュタパリヤを助ける事も出来ない」
「頑なな奴だな。少しは周りを頼れって……言っても無駄か。まあ良い。どうにも厳しくなったら言ってくれ。最悪俺がお前を担いで離脱せにゃいかんし」
「……余計なお世話だ」
リベルと名乗る酒飲みの精霊から善意を向けられても、シャリクシュはそれを素気無く拒絶する。
それは言うまでもなく失礼に相当するものだが、当のリベルはそれで露骨に気分を害した様子はなくて、むしろ微笑ましいものを眺めて居る様だった。
「まだ何か?」
「いいや、背伸びしすぎんなよ坊主」
「…………」
完全に己が子供扱いされている事を察してか、シャリクシュは不満気に舌打ちして無言で顔を逸らすのだった。
それに何より、彼にして見れば問題のあるものが存在していて。
「ッ!」
「おい、ふらついてんじゃねえか。倒れんじゃねえぞ」
「問題ないと言っているっ」
病み上がりで回復し切っていない体調とはまた違う、頭痛。
何か良く分からない光景がフラッシュバックする度にじくじくと頭が痛み、目の奥底にも痛みが走るのである。
『――』
「……ッ」
何だ、何の声だ。何の言葉だ。何の話だ。ぼやけて判然としないそれは、一体何を言っているのだろう。
瞳を閉じれば見えて来るぼやけた三人の人影も、やはり黒く塗りつぶされていて分からない。
かと思えば一瞬だけ彼らの顔が見えて、皆一様に優しい笑顔をこちらに向けてくれていて。
どうしてか自分の心も温かくなって、懐かしくなって。
知らない筈なのに、縁も所縁もない筈なのに、知っていると思った。
『……アレン』
その時、はっきりと声が聞こえた――気がした。
こちらに伸ばされる手、向けられる笑顔。
そして何より、彼の話す言葉の意味が分かる。
自然と脚が止まり、担いでいたライフルが手から滑り落ちていくけれど、シャリクシュはそれに構いはしなかった。
「……シャリクシュ、おいどうした?」
「…………」
異変に気付いた一行が進みを止めて振り返り始めるものの、彼はそちらに応える余裕すらなかったのである。
ただ、ゆっくりとした呼吸を繰り返しながら己の頭を抱える様に両手を当て、そして呟くのだ。
「アレン……俺は、いや僕が……アレン・シーグローヴ?」
◆◇◆
それは、まさに驚異的で、殺人的で、殺意の奔流と呼ぶにふさわしいものだった。
「シグ、后……くそっ!」
津波のように前後から襲ってくる妖魎の群れを相手にして、俺達は瞬く間に分断された。
閉じ切られた空間である迷宮の内部では、逃げ場など無い。
見上げても自由な青空など無くて、牢獄のように冷たい岩の天井が広がるだけ。
そしてそこから顔を出す幾つもの光結晶が、照明代わりに俺達を照らしているのである。
「粘るねー、お前。往生際が悪いと言うか何と言うか」
「……そう言うのはもう聞き飽きてんだよッ!」
「おっと」
突き、斬り、裂き、吹き飛ばす。
まるで鰯の群れが突っ込んでくるような妖魎の奔流を前にして、手を抜いている余裕など無かった。
分断された二人の仲間の状況も心配だけれど、全くそこまで意識も手も回せられないのである。
このままでは各個撃破されかねない――との危惧がもうじき実現してしまうと思った時だった。
不意に体をひやりとした文字通りの冷気が撫で、一瞬だけ注意をそちらに向けた。
その瞬間、丁度シグが居る辺りを中心に妖魎たちが急速に凍結していく。
何とか逃れようと藻掻く個体も徐々にその動きを鈍らせ、終いには全身から冷気を放つ氷像と化すのだ。
そしてそれは俺すらも例外では無くて。
「は……!?」
ひんやりとした足の感覚にハッとしてそちらへ視線を向けてみれば、爪先から凍結が始まりつつあったのである。
慌てて全ての攻撃を中止して防御に注力するが、展開した俺の魔力盾を攻撃する妖魎たちの動きが、不意に止まる。
盾越しにも伝わって来る冷気から、それらが凍り付いた事を想像するのは難しくなく、実際に魔力盾を解除した先に広がるのは凍り付いた世界だった。
「こりゃあ……」
「ここが閉塞した場所なだけあって、魔力を集束させるのは簡単だったな」
「やっぱお前かシグ。危うく俺まで凍り付きかけたんだけど」
吐く息が、白い。
とは言え先程まで散々動き回っていた体は寒さを覚える事は無くて、むしろこの冷たさが心地良かった。
もっとも、そんな事を堪能しようという気には毛頭ならなくて、居並ぶ氷像の中で平然と佇む一人の少女に抗議するのだった。
しかし、当の本人は悪びれる様子もなく言うのだ。
「こうでもしなければ私が死んでいた。仕方なかったんだ」
「だとしても一言ぐらいあっても良いんじゃねえの?」
氷の世界は、通路の更に先まで続いていて、終わりが見えない。
これだけの芸当が出来るというのなら遭難する前から使ってくれれば、こんな事態にすらならずに済んだのにと思わずにはいられなかった。
「こんな大技、ホイホイ使える訳無いだろう。后羿が時間を稼いでくれたんだ」
「后が……でも、アイツはどこに?」
周囲を見渡しても、彼の姿は見当たらない。
その事実に今更ながら気付いて、嫌な予感が背筋を撫でる。
もしや、精霊でも死ぬと言う事があるのではないか。
だとすれば、骨格を持たない精霊は消滅してしまって跡形も無く――。
だがそんな最悪の想像を打ち消す様に、シグがある方向を指差す。
「奴ならそこで凍り付いてるぞ」
「何だよ生きてんのかよ」
「お前ら俺の扱い酷くね!?」
聞き捨てならないと言わんばかりに全身を覆う氷を破り、后羿が怒鳴る。
「感謝しろよ! 崇めろよ! 俺のお陰で窮地を脱出出来たんだぞ!?」
「一時的にな。まだ後続が途切れた訳じゃない。見えるだろう?」
弓についた氷の破片などを落としながら抗議を続ける后羿だが、対するシグはやはり感謝の言葉も、そして情さえ微塵も見せない。
ただし、彼女の言う事は正しくて、実際に通路の奥の方では氷を倒し破砕し、踏み潰す音が聞こえてくるのである。
それに加えて、だ。
「小癪な……まだそこまで抗うのかよ?」
「流石の俺も冷や冷やしたぜー?」
「……やっぱ今のでやられちゃくれないよな」
無数にいた妖魎を盾にして、案の定エクバソスとエピダウロスはしぶとく生存している。
どちらも十分な殺気を以って俺達を睨み付け、そして自分達の優位と勝利を相変わらず疑っていない。
「……シグ、さっきのもう一回出来る?」
「無理だな。ガス欠になるぞ」
「だよなあ。って言うか、俺まで巻き込まれかねないのは御免だし」
迫って来る無数の足音はもうすぐそこにまで来ていて、同時に砕かれる氷像の音も良く聞こえる。
誰もが気を引き締めながら挟み撃ちするように迫って来る妖魎の群れを睨み付けていた、その時。
「随分と手古摺っている様だな?」
「俺も手伝おう。悠長な事をやっていると、横槍が入りかねない」
いつの間にやらエクバソスの近くに姿を現した二つの人影に、俺は目を瞠る。
「ルクスに……お前は、タナトス!?」
片方は、もはやいい加減見飽きた精霊だ。
女性の姿をしているが普段はのっぺりとした顔で素顔を隠していた彼女は、もう今やその整った顔立ちを余すことなく晒している。
もう一方は、骸を帽子代わりのように被る、黒髪黒目の少年の姿をした精霊――タナトス。
最後に会ったのはウィンドボナでの戦闘である事を考えると、もう半年ぶりと言ったところだろう。
「実に久し振りだな。とは言え、精霊の俺からすれば半年程度は大した時間でも無いが」
「……まさかアンタもここに居たとはね」
「そりゃあ居るだろうさ。ここは神饗にとって重要な拠点だからな。それなりの戦力が配置されてるのは当たり前だろ?」
そう語りながら、タナトスは徐に右手を胸の前に出すと、その途端彼の手から魔力が流れだす。
以前なら正確に見る事も感じ取る事も出来なかったそれらは、意志でも持つかのように息絶えた氷像たちへと伸びて行き、そして。
『――ッ!』
出し抜けに動き出した氷漬けの妖魎たちが、体を覆っていた氷を次々破り始めたのである。
「コイツ……!?」
「綺麗な状態で死体にしてくれると、俺の方としても色々とやり易くて助かると言うものだ。まあ、砕かれて居ようとも大した問題じゃないが」
虚ろな瞳に、幽鬼の様なだらしのない、そしてふらついた体の動き。
それは明らかに本来の妖魎の動きでは無くて、何より、生物であるとは思えなかった。
「死霊系魔法……!?」
「滅多にお目に掛れない貴重な魔法じゃねえか。同時に滅茶苦茶面倒臭い奴だ」
シグも后羿もタナトスの魔法の正体を早々に見抜いたが、しかし厳しい表情は変わらない。
それもそうだろう。
こちらの魔法は、死霊魔法とは相性が悪い。
氷魔法も、そして弓や剣による攻撃も、どちらもどうやったって死体が残ってしまうのだ。
それでは敵を倒しても倒しても際限なく復活されてしまい、ジリ貧に追い込まれてその内負けてしまうだろう。
「タナトスは俺の方で引き受ける! お前らは他のを頼むぞ」
「……任せた」
「悪いな。相性的にどうにもならん」
そうなると死体を跡形も無く吹き飛ばせる白魔法――つまり俺がこの状況では最善と言わざるを得ない訳である。
「ルクス、お前は手を出すな。加減が下手なお前に加勢されると、無駄な被害が出そうだ」
「……承知した」
それだけで、不服そうながらもルクスが退いてくれたのは俺達からしても良かったのかもしれない。
だけど、彼女一人が下がった程度では状況が好転したと言える筈もなくて。
表情も碌に変化させる事も無く、タナトスは俺達へ向けて告げていた。
「さあ、始めようか」
その途端、何もかもが堰を切ったかのように動き出す。
何もかもが俺達に敵意を、殺意を向けて、押し寄せて来たのである。
視界一杯、全て敵。
だがこれはこれでやり易いと言えばやり易い。
何故なら味方を巻き込む危険が、皆無と言って良いのだから。
「このッ……!」
まずは持てる限り、撃てる限りの白弾を見舞って敵の数を削る。
それは自分自身の実力が向上した事もあって、雨霰のように妖魎たちを屠って行くのだけれど、それでも圧倒的数の前に削り切る事は出来ない。
その結果として、こちらの遠距離攻撃を掻い潜った個体が無数に迫って来るものの、それらの能力が俺を翻弄する水準にまで達しているとは言い難く。
『――ッ!?』
剣と槍、そして拳と脚。
自分の持ち得るもの全てを動員して、倒していく。
だがそうして築かれていく死体の山を踏み越えて妖魎たちは迫って来て、同じ様に骸となって行くのだ。
だけど一向に敵の勢いが衰える気配はなくて、それどころか状況は更に悪化していく。
「必死になって殺しているところ悪いが、殺してそれで終わり、では無いんだぞ?」
「タナトス……ッ!」
一度斃した筈の妖魎――その死体が、再び動き出す。
碌な呼吸もせず、開き切った瞳孔で、何か低い呻き声の様なものを出しながら攻撃を仕掛けてくるのだ。
しかもそれらは、生きていた時と違って痛覚その他の感覚を保持している気配も見られない。
一度致命傷を負って死んで、命を落とした筈の抜け殻に一体何が作用しているのかは皆目見当もつかないけれど、今はそれに疑問を持っている余裕もないのだ。
「巨猿鬼より質の悪い……!」
自己再生とか、それ以前の問題である。何故なら死なない、いや、この場合は動きを止めてくれないのだから。
まさに限がないとしか言いようがなかった。
白弾の出力を上げてそれらを一気に吹き飛ばし、消し飛ばすのだけれど、タナトスの魔法は細切れになった肉すら集結させて、血肉の塊とかした人形すら生み出すのだ。
「どうした、その程度で俺の魔法を攻略出来た気になるなよ?」
「気色悪い魔法を……!」
殺しても、壊しても終わらない。
既に返り血で体のあちこちは赤く染まり、恐らく染料が落ちて白髪となっていた頭すらも、今は赤くなっている事だろう。
でも、不思議とまだ余裕があった。
まだまだやられないという自信が湧いて出て来て、そして実際に迫って来るそれら敵を殺して、吹き飛ばしていくことが出来ていたのだから。
「以前よりも遥かにしぶとくなったな。一時的にとは言え、なりかけとなった後遺症……とか」
「そう言う事だ。皮肉にも、アンタらのお陰でなッ!」
ウィンドボナで暴走して以来、自分の能力は飛躍的に向上したと言って良かった。
伴って戦いの際に見えてくるものが増え、そして取れる選択肢が増えた。
手札が増えると言う事は、実力すらも上がったというのとほぼ同義であるのだ。
実際、そこの事を証明するかのように、俺はほんの少しだが着実にタナトスの許へ近付きつつあった。
だけど、だと言うのに彼からは余裕を感じさせる気配が微塵も揺らいだ様子がなくて。
その事に不自然さを抱いた、丁度その時だ。
「ちッ……放せ!」
「シグルティア!?」
背後から聞こえて来た二人の声が、高揚していた心に冷や水を浴びせていた。
思わず即座に後退しながらそちらへ目を向けてみれば、そこにはエクバソスによって取り押さえられたシグの姿があったのである。
「これで一人確保。お前ら、動くなよ」
「……悪いなラウレウス、しくじった」
「いや、俺の方こそ周りにまで注意を向け損なった」
気付けばあれだけ激しかった筈の妖魎たちの攻勢は鳴りを潜め、全てがその場で動きを止めて俺達を注視している様だった。
「勝負ありだな、白儿。自分の事にかまけ過ぎて周りへの注意を怠るからこうなる」
「……シグを放せ」
「なら条件がある。言わなくても分かるだろう?」
わざとらしく肩を竦めて見せながら、タナトスは言う。
その態度にはもう自分達の勝利が確定したという考えが透けて見えていて、何となくその態度が気に食わなかった。
だけど実際彼の態度の通りで、だからこそ俺も后羿も迂闊に動く事が出来なかったのである。
「これ以上はこちらとしても無駄な消耗をしたくない。大人しく我々と一緒に来て貰うぞ」
「シグを人質に取った程度で良い気になるんじゃねえぞ」
「ほう? ならその言葉、どこまでが本当か確かめてやろうか?」
「……やってみろよ。その瞬間、お前らは人質を失う事になるんだからよ」
勿論、それはハッタリだ。シグの身に危険が及ぶのは何としてでも避けたい。
だけど、人質を取っている神饗側もハッタリではないと言い切れないのだ。
少なくとも折角とった人質を簡単に手放せる程、彼らの思考は浅はかではないと確信が持てるのだから。
「強情だな、お前」
「良いからシグを放せ」
「それは出来ない相談だ。あの娘の魂も、お前と同じ様にこの世界のものではないだろう? つまり、あれもまた我々の方で再回収する必要があると言う事だ」
まるで物を扱うかのようなタナトスの口振りに、冷却されかけていた心は一瞬で沸騰した。
槍を、拳を握り締め、地面を蹴っていたのだ。
だけど、それは遂に届かなくて。
音もなく伸ばされていた粘性の触手が、俺の四肢を絡め捕っていたのである。
「こいつ……粘体!?」
「周囲の警戒も疎かで、実力はあるが経験不足も良い所だ。まだ二十年も生きていない小僧相手に、我々がどうこうされるとでも思っていたのか?」
アメーバの様な軟体生物が伸ばす触手が、藻掻けば藻掻く程絡みついて離れない。
そうしている間にも無数の粘体が集まって来て、四肢に、そして胴体に纏わりつくのだった。
無理をすれば動けない事も無いけれど、四肢の重さが急激に上がり、水の中にいる以上に体が動きにくい。
「だったら纏めて吹き飛ばせば……!」
「そうは行かねーよってねー」
魔法を行使しようとした途端、体外に排出して集束させようとした魔力が霧散してしまう。
正確に言うなら、粘体によって吸収されてしまったのである。
「俺の生み出したそいつらは特別製、お前みたいな奴を捕縛するのに特化してるんだよー」
「ラウレウス、大丈夫かよ!?」
「……問題ない。この程度の魔力を吸われたくらいで!」
得意気に語るエピダウロスを恨めし気に睨み付けながら、何とかこの状況を打開しようと考えを巡らせるが、その間にも体が感じる重さが増して行く。
どうにかそれを堪えて立っていたのだが、遂には敗けてしまって膝を、そして両手を地面につくのだった。
「動けないだろ? そりゃそうだ、魔法を使おうとすれば魔力を吸われるんじゃ、身体強化術すら使えないもんなー?」
「……!」
「そう言う事だ。さて、身の程を分かった所でもう一度言うぞ。俺達と共に来てもらう。そこの娘も、そしてそこの精霊もな」
「俺もかよ。人気者は辛いね」
お道化た調子で肩を竦める后羿は、しかしその言動とは裏腹にこの状況を脱するべく手を模索しているらしい。
彼の目には微塵も油断が見られず、そして何より諦めてもいなかった。
「コウゲイとか言ったか? お前みたいな年季の入った精霊は中々良い手駒にも、そして材料にもなる。お前を見逃す筈無いだろう」
「……精霊同士、互いの年季は良く分かるもんなあ? けどよ、年長者は敬った方が良いんじゃねえの」
「敗者が勝者に指図できるとでも? どれだけ古かろうとも、俺達に負けたお前をどうしようとこちらの勝手だ」
それとも、この状況を引っ繰り返せるとでも? と挑発するように言われた后羿は、顔に皺を刻むだけで黙り込んでいた。
「……じゃあ、俺とシグはどうするつもりだ?」
「気になるか?」
后羿が黙ったのを見て俺が問い掛けてみれば、タナトスは相も変わらず乏しい表情のままこちらを見下ろす。
その姿は何とも不気味さを感じさせるものだったけれど、それでもじっと彼の黒い眼を睨んでやると徐に口を開くのだった。
「お前らはその魂も、肉体も、全て俺達の目的の為に活用させて貰うさ。白儿と東帝国の皇女の体だ、素材としての使い道は多い」
「……前世で、俺達を散々殺したように?」
「ああ。リュウに邪魔されて取り逃した異なる世界の魂を再回収するに過ぎないがな。しかし、逃した魂が最上の肉体を持ってこの世界に生まれ変わるとは、面白い偶然もあるものだ」
そうは思わないかと同意を求められ、俺は無言で視線を逸らす。
だけど会話はそれだけで終わらせず、問うていた。
「ビュザンティオンでの会話の続きだ。結局、お前らの目的は何なんだ? サトゥルヌスは……主人は魂喰がどうのと言ってたけど」
「おや、言ってなかったか? サトゥルヌスがこの世の支配者として永遠に君臨する為だ。それを成就させるように俺達は動いている」
「そんなのはもう聞いた。どうやってこの世界の支配者になるのかと訊いてるんだ!」
もう既に、俺の体は俯せに倒れていて起き上がれない。
体に纏わりついた粘体の重さで真面に身動きを取る事も出来ないのである。
それでも首を無理矢理動かして、目も出来る限り上を向いて、タナトスを睨み付けた。
しかし、それに対して彼は軽く笑うだけ。
「残念だが、それは俺の口から言う事は出来ない。サトゥルヌスから直接教えて貰うんだな」
「……ッ」
「連れていけ」
「はい」
ここで話す事はもう無いと言わんばかりにタナトスが命じれば、エピダウロスが返事をする。
同時に先程まで身動ぎ一つしなかった妖魎たちが動き出し、拘束された俺達を担ぎ始めたのだ。
勿論、俺もシグも后羿も抵抗しようとするのだが、全員体に粘体が纏わりついて抵抗らしい抵抗を見せる事すら出来ない有様だった。
「まあ安心しろ。お前らが死ぬのはまだ先だ。殺すのは最後、それまで色々と俺達の役に立って貰うぞ」
「誰がお前らなんぞにッ……!」
「敗者に、弱者に選択権など無い。あるのは与えられた権利のみだ。身の程を弁えろ」
せめて口先だけでも抵抗してやろうにも、タナトスはそう言って真面に取り合ってすらくれなかった。
同じ土俵にすら立てていないという事実を認識して屈辱が込み上げて来るけれど、今はそれすらも発散する事が出来ない。
「惨めだな、クソガキ?」
「……そのクソガキに煮え湯飲まされたお前は惨め以下だな」
「減らねえ口だ。自分の立場分かってんのか?」
「喋らせたくないならわざわざ話しかけるんじゃねえよ」
小馬鹿にした調子で声を掛けて来るエクバソスを軽くあしらいながら、それでも晴れない屈辱と怒りを抱え、迷宮内を運ばれていく。
だけど、不意に僅かばかり地面が揺れた。
正確に言うなら頭上からの揺れらしいが、それに気付いたのかタナトスとルクスも怪訝そうな気配を見せながら上を見上げている。
もっとも、それで歩みが止まる事は無く、一行は先へ進む――が。
「来るぞ」
「ああ。分かっている」
ルクスとタナトスがそれだけの短い遣り取りをして、足を止めた直後だった。
進行方向で凄まじい音がしたかと思えば、天井が崩落し出したのである。
もうもうと土煙が立ち込め始め、一気に劣悪な視界下に置かれる中、ルクスが溜息交じりに漏らす言葉が俺の鼓膜を揺らした。
「……ペイラスでは抑え切れなかったか」
それが一体何を意味するのかを察する事は出来なかったけれど、土煙が晴れた時にその答えはすぐ明らかとなるのだった。
「見つけたよ、漸く。随分な手間をかけさせてくれるじゃあないか」
積もった土砂の上、そこに姿を現した集団の先頭に立っていたのは、顔の上半分を覆う仮面を着けた、白髪の人物。
その手には紅い片刃の剣を持っていて、こちらを真っ直ぐに見据えていた。
それに対し、ルクスが忌々し気に呟く。
「やはりリュウ、貴様かッ……!」
「僕だけじゃあないさ。ここで勝負を着ける為に、応援は沢山呼んであるからね」
「そう言う事だ。久し振りじゃないか、アウローラにオルクス?」
神饗の二柱の精霊を睨み付けるのは、普段の柔和な気配を微塵も感じさせない精霊――メルクリウス。
更に彼の言葉を引き継ぐように、爽やかな青年の姿をした精霊、マルスが剣を引き抜き突き付けながら、宣言するのだ。
「今日、この場で、この時を以って、俺達はお前ら神饗を滅ぼす。今更逃げられると思うなよ?」
「それはこちらの台詞だ。我らの拠点に乗り込んで来た事、後悔するが良い!」
負けじと言葉を返すルクス。
その周囲では妖魎たちが皆一様に臨戦態勢を取っていて。
案の定、次の瞬間に両陣営は激突していたのだった。
◆◇◆




