第四話 もっと光を②
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食われた、というよりも丸呑みにされた。
その事実を認識した時にはもう、全身は生温かくぬるぬるした真っ暗闇の中に居た。
「……!」
息も、碌に出来ない。わずかばかり吸い込めた空気は非常に生臭く、息が詰まってしまいそうな程だった。
だが幸いな事に毒牙を立てられる事も無くひと思いに呑み込まれたせいで、下手な傷は負っていないらしい。
体はまだまだ自由に動く事を確認して、俺は藻掻く。
だが、存外蛇の体は伸縮性があるのだろう。
腕や足を突き出した程度で破れる程、柔な構造はしていなかった。
しかし、こんな場所でのんびりなどして居られない。
今の自分は蛇の腹の中なのだ。じっとしていれば胃液に溶かされてしまうし、何より窒息してしまう。
こうしてはいられないと、魔法を使って脱出しようとした矢先――。
体が、いや正確には俺を飲み込んでいる九頭蛇が大きく動いていた。
全く踏ん張りも聞かない状況では平衡感覚が滅茶苦茶になるような事が発生していたとしても、自力ではどうする事も出来ない。
目が回りそうになる中で、外で一体何が起きているのかを考える。
僅かばかり激しい振動が伝わって来る事を考えるに、恐らく戦闘が起こっているのだろう。
だとすれば、その相手は恐らくシグとするのが妥当かも知れない。俺を助けるべく、奮闘してくれているのだろう。
「……ッ!」
しかしその助けを待っていては、呼吸が持たないかも知れない。
確かに有り難いが、それとは別に脱出すべく再度魔法を行使するのだった。
けれど、流石に九頭蛇の再生能力は伊達では無くて、体内組織の幾らかを破壊したと思っても、すぐに再生されてしまう。
視界は真っ暗闇で何も見えないが、手触りでそれくらいは確認できるのだ。
意外と肉厚なその体は白弾の一発で破るのは不可能で、掘り進める様に少しずつ前進しようにも体の自由が利かないのでは、それも無理。
出来る限り一発で、大きな穴を開ける必要があった。
だけど、もういい加減呼吸が苦しい。
一秒すら惜しく、そして長く感じられるほど、体は酸素を希求していた。
だからもう形振りも構って居られず、我武者羅に魔法を繰り出すのだが、それでも一向に破れる気配は見られない。
段々と頭痛が酷くなり、鼓動が早くなり、時折開いた口は酸素を求めて陸揚げされた魚のように何度も開閉する。
このまま内部で窒息してしまう――そう思った時、不意に再生が止んだ。
先程まで糠に釘を撃ち込んでいる様な手応えだったのに、着実に魔法による破壊が進行するようになったのである。
それと同時に、外でも変化があったのだろう。
振動と共に体が横倒しになった。
これはもしや、勝負が着いたのか――と頭の片隅で考えながら、夢中になって魔法を行使する。
そして。
「――ぷはッ!?」
やっとの思いで顔を出してみれば、気道を通って新鮮な空気が肺の中へと流れ込む。
そのまま、空気の味を確かめる様に二度三度と呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いたところで周囲を見渡す。
すると、やはり予想通り九頭蛇はボロ雑巾の様な骸を晒して横たわっており、もう動き出す気配もない。
それを確認した後、さらに別の方向に目を向けてみれば、そこには荒い呼吸で膝をついている少女の姿があった。
「シグ……おい、大丈夫かよ!?」
「…………」
返事は、無い。
何かをぼそぼそと呟いた後、俯せに倒れていたのである。
その姿を見た瞬間、俺の背中は凍った。
もしや、もしや、もしや。
見た目には大した怪我を負っている様子は見られないけれど、毒牙に傷を負わされたのではないか。
だとすれば彼女は、死んでしまうのではないか。
かつて、あの時彼女を守れなかったように――。
「嘘だろ、おいシグ……麗奈!?」
今の己の体が九頭蛇の唾液と胃液、血液塗れであるのも忘れて彼女に駆け寄るけれど、返事はない。
何度も、何度も呼び掛けながら抱き起し、軽く頬を叩いてみても反応は見られず、焦りは更に加速する。
「駄目だ、死ぬな! 俺は、もう嫌だぞ! 死なせたくないんだッ……!」
己の頭を何度となく過る悪い予想を振り払うように、そう呼び掛け続けていた時だった。
「……煩いぞ、ラウ」
「シグ!?」
良かった、生きてた。死んでない、まだ助かる、助けられる。
言葉にしたら口が回らなくなってしまうくらいの感情が一斉に溢れ出して、まだ何かを言おうとしている彼女を無視して、思わず抱き締めていた。
「お、おい、何のつもりだ……って言うか、べちょべちょで臭いぞ、お前!」
「悪い……でも、良かった」
ここに至って、今の自分の体の状態を顧みれば、つい少し前まで九頭蛇の体内に居たのだ。
体はベトベトだし、それはシグの体に触れたせいで、彼女の服にまで付着してしまっていた。
「全く……折角汚れを落としたばかりだと言うのに」
「悪かったって。それより、起き上がれないの?」
「流石に魔力を使い過ぎた。体に力は入らないし、頭痛もするんだ。少し待ってくれ」
俺が持ち上げていた体を降ろしたと言うのに、上体すら起こす気配のない彼女は、そう言って頭に手を当てていた。
確かに彼女の言う通り、顔色も余り良くは無いし、呼吸も少し辛そうだ。
この調子では動けるようになるまで回復するにも、もう少し時間が掛かってしまうだろう。
しかし、こんな場所にいつまでも居るのは、余り得策ではない。
体を隠せる場所もなく、不意に妖魎と遭遇でもしようものなら、たとえそれが少数でも厄介な相手である事に変わりないのだ。
「……場所を移そう」
「おい止めろラウ、そのベトベトな手で……」
「そんな事を言ってる余裕は無いんだ。とにかく、さっきの川の場所に戻ろう。そんなに距離は無いし、俺も体を洗いたい」
「……それもそうだな。私も、もう一度服を洗いたくなった。けど待ってくれ、ラウは私をどう運ぶつもりだ?」
自力で移動できない以上は俺がシグを運んで行くしかないのは分かっていた事だが、何やら警戒した様子の彼女に、首を傾げる。
だが、自分の惨状を見てすぐに納得する。
「……ああ、背負ったりしたらもっとベトベトが付くよな。じゃあ横抱きで我慢してくれね? それなら背負うよりは汚れなくて済むと思うし」
「い、いや、そこまでしなくても良い! 肩を貸してくれればそれで……」
「それじゃ移動するにも時間かかっちゃうだろ。ほら行くぞ」
「待て、私の話を……!?」
このままだとまだまだ話が続きそうな気がして埒が明かないので、それ以上の議論を強引に打ち切って彼女を両腕で抱える。
するとどうだろう。暫く抵抗する素振りを見せたものの、彼女は顔を逸らして大人しくなっていたのだった。
土気色だった顔も、血色を取り戻しているところを見るに、多少なりは疲労も回復して来たのかもしれない。
命に別条がなくてよかったと安堵しながら、俺は最初に九頭蛇と遭遇した水場へと足を向けていたのだった。
「全く、お前は何を考えてるんだ。私の話も聞かず……!」
「別に、その方が効率良いって思ったからお前を持ち上げただけだよ。そんなに嫌だった?」
「そう言う問題じゃないっ!」
「……じゃあどういう問題だよ」
鍾乳石の柱の向こうで、シグは少し拗ねた様子だった。
その意味が俺からすれば測りかねて、川の冷たい水に浸かりながら眉を顰めていた。
彼女は昔からそうなのだ。
前世の時も、良く分からない事でこちらを当惑させるし、最終的には償いがどうのと言って訳の分からない事に付き合わされる。
いつもいつも、振り回されっぱなしだった。
だけど、基本自発的な事をしようとしない俺からすれば、それは有難かったのかもしれないと思う。
引きこもりというほどではないにせよ、あちこち遊び回るほど活発でも無かった自分を積極的に外へ連れ出してくれたのはいつも彼女だった。
最初の方こそ鬱陶しいとすら思っていたけれど、気付けばそれも日常の内となって、心地よい時間となっていた。
そしてそんな時間を作ってくれる彼女もまた、俺にとって――。
「……こう言うの、私以外の誰かにした?」
「こういうのって?」
「だから、さっきみたいな事だ! 軽々しく女の子を抱き上げたりとかしてないだろうな!?」
「な、何で俺が詰問される立場なのか分かんないけど……やってないよ、うん」
別に後ろめたいものがある訳でも無いのに、何故か冷や汗が出る。自信もって言いたいのに、どうして不安になる。
でもやはりやっていない事はやっていないので、否定の答えを出せば、シグが納得した様に頷いて居た。
「そう、なら良い。レメディアにもやってないんだな?」
「レメディアは、まぁ……背負うとかはしたけど。特にこの前のはほら、アイツが怪我して不可抗力だったし?」
この前と言うのは、俺が東帝国に捕縛される前の、シャリクシュと神饗から襲撃を受けた際の事である。
その時、狙撃されて重傷を負い、傷の手当ては終わったものの体調が万全ではない彼女を背負って移動したのだ。
「……それは仕方ないとしても、他にもあの子を背負った事はあったんだな?」
「い、いや、だってそれはもう何年も昔だし……グラヌム村で、レメディアもまだ小さくて、泣き虫だったから……」
そんな十年近くも昔の事を掘り返されても、そんなのは無理だ。それこそ生きるのに必死で、やましい事なんて考える余裕もなかった。
「まあ、仕方ないか。そうやって人を篭絡するのは、昔からのお前のやり方だもんな」
「篭絡って……何でそうなる!? 大体、レメディアの話がお前と何か関係でも!?」
川の流れに体を浸しても、中々落ちない生臭い匂いと格闘しながら、火の番をしているシグに指摘する。
すると、彼女は一瞬言葉に詰まる気配がしたかと思えば、何かを小さく呟いた。
だけどそれは、距離的なものもあって俺の鼓膜には不鮮明にしか届かない。
「何だって?」
「……レメディアの事が好きなのか、ラウは?」
「は?」
「だから、レメディアの事が好きなのかと訊いてるんだ!」
思わず訊き返してみれば、とうとう辺りに響く程の大音声で彼女は叫んでいた。
流石にここまで大声で言われるとは思っていなかっただけに、思わず体を跳ねさせる。
「いきなり大声出すなよ……ってか、どうしてそんな事をお前が気にする?」
「別に良いだろ? それとも、何か答えられない事情でもあるのか?」
「いや、そんなんじゃないけど……意外だと思って。シグがそんな事を気にするなんてさ」
「悪かったな。それで、本当に何でもないんだな?」
再度、念を押す様に確認してくる彼女に、俺は川から上がりながら肯定の意で応じていた。
同時に腕の匂いを確認してみれば、そこまで気にならない程度に悪臭は落ちたらしい。
これ以上川に浸かっていると体調を崩しかねないだけに、ここで体を洗うのを終わりにするのだった。
「シグ、俺の服は?」
「もう上がるんだな。けどまだ乾いてないぞ」
「……ま、それもそうだよな。全裸で待つか」
風邪をひいてしまわないか心配だ、と思いながら濡れた頭を掻いていると、不意に足元へ外套が投げられる。
「これで火に当たれ。体調を崩されたら迷惑だ」
「助かる。けど良いの? 今の俺、裸だけど」
「……要らないのなら返せ」
「分かった分かった、有難く使わせて貰うよ」
正直、体が冷えていたので非常に有り難い。
全裸の上にそのまま外套を羽織るという、世が世なら変態のユニフォームとも言うべき恰好をしながら、俺は火に当たるのだった。
「シグは水浴びしねーの?」
「まだ良い。そもそもラウほど汚れていないし、こんな状況で裸になるのは怖い。目の前に全裸の男も居るしな」
「別に襲わねーよ!」
「冗談だ。お前に私を襲う度胸が無いのは百も承知だし、何年の付き合いだと思ってる?」
「……あれ、俺もしかして馬鹿にされてるの?」
少し小馬鹿にする様な彼女の言葉に、思わず顔が引き攣る。
いや、紳士的と言えなくもないから別に良いけれど、でも意気地なしと言われているような気もして、釈然としなかった。
だけど、そんなふざけた空気も話題が途切れてしまえば段々霧散して、ただ川の流れる音と火の燃え上がる音が聞こえるだけ。
「「…………」」
正直、今の自分の恰好を含めて、何となく落ち着かなかった。
特に、火を挟んで対面には天色の綺麗な眼を持つ少女が居るのだ。
その中身が、高田麗奈である事も相俟って、どうしてか自分が少しずつ緊張している様でもあった。
普段であれば、皆で行動している時であれば、そこまでこんな事は気にならないと言うのに、こんな時だけ少し心臓が煩い。
「……なあ、ラウ」
「な、何?」
不意に沈黙を破る彼女の言葉に、また僅かばかり体が跳ねる。
今度は何の話だろうと続きを待っていると、シグは視線を伏せながら問うていた。
「そっち行っても良い?」
「良いけど……何で急に?」
「そっちに行きたくなっただけだ。悪いか?」
「別に悪くはないけど……何度も言う通り、俺この下は全裸だよ?」
自分はほぼ全裸と言っても過言では無いのに、隣に端整な顔立ちの少女が来られては益々気分が落ち着かない。
不埒な事をする訳はないけれど、不埒な想像をしない訳でも無いのだ。だって男だから。
「もし私に不埒な事をする様なら、凍り付かせるとでも言っておけば良いだろ? 意気地なし」
「それは煽ってるのかよ?」
「煽られたって何も出来ないのがラウ……慶司だろ?」
躊躇も見せず、シグは俺の横に座っていた。
背中を鍾乳石の壁に預け、おまけにこちらへ身体を寄り掛からせて来る。
少し分厚いとは言え、たった一枚の外套を隔てて押し付けられる少女の体温に、自分の血液が脳へ集中するのを感じた。
……ちょっとこれは宜しくないかも知れない。
そう思うのだが、現状下手には動けない。
「どうした、顔が赤いぞ?」
「そ、そう言うお前も、少し顔赤くない?」
「黙れ。目の錯覚だ」
「けど……」
「煩い」
俺を揶揄う様に顔を向けて来る彼女だけれど、やはりその顔は赤い。
しかしながらぴしゃりと追及を遮られてはどうにも出来なくて、仕方なく口を噤むと燃え盛る火に目を向けた。
槍の石突に引っ掛けられて乾かされている衣服は、やはり一向に乾く気配は見られず、この調子だともう少し掛かる事だろう。
何せ、九頭蛇の唾液と胃液がべっとりついていたのだ。靴から外套、下着まで何もかもを洗って乾かさなくてはならない。
「ラウ……」
「ん?」
「無事で、良かった。ラウが呑み込まれた時、私はもう駄目だと思って、それで……」
「ごめんな。俺もちょっと油断した。まさかあんな氷塗れの状況で蛇が動くとは思わなかったし……?」
ぐい、と寄り掛かって来る体重が更に増した様な気がした。
布越しでも分かる柔らかい感触が更に右半身に押し付けられて心臓が一層強く拍動するけれど、平静を装って視線を向ければ、そこには安らかな寝顔を晒すシグの姿があった。
天色の髪の頭を俺の右肩に乗せ、無防備に瞼を閉じて居るのだ。
「…………」
その姿に暫く視線が釘付けになって、それから思わず破顔した。
きっと、ここまでの目まぐるしい移動と戦闘とで疲労が大きく蓄積していたのだろう。
彼女を起こさない様に左手で彼女の頭を撫でてやれば、かつての思い出が蘇ってくるようで、懐かしかった。
「思えばコイツとの付き合いも長いしなぁ……」
そうやって、欠伸しながら呟きを漏らす。
再会したのは、記憶の上では十年振り以上。
つまり、この世界に転生してからはまだそんなに時間が経っていないのである。
にもかかわらず、こうして懐かしさを覚えてしまうのは、やはり彼女が高田麗奈で、そして自分にとって大事な存在だったからに他ならない。
そう思った時、自嘲が漏れた。
「やっぱ、俺って……」
ふと、薄暗い洞窟の天井を見上げる。
でも、それ以上何かを独り言ちる事はしなくて、俺は少しだけ瞼を閉じた。
自分も疲れたからほんの数分だけ休息しよう――。
隣で寝ている幼馴染の少女につられる様に、意識を沈めていたのだった。
◆◇◆




