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キオクノカケラ  作者: 新楽岡高
第八章 トメルスベナク
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第四話 もっと光を①



 それは、危険の塊だった。


 対峙するのではなく、見ただけで分かる程に凶悪な気配を纏っていた。


「…………」


 バラバラに動く頭を幾つも持つ、大型の蛇。


 人の何倍もの体躯を持ち、翼は無く、当然四肢も無く、それは地を這っていた。


 だが、幸いと言うべきかこちらに気付いた素振りは見られず、俺もシグも天然の柱の影に姿を隠す事に成功していたのだった。


 もっとも、シグの方はまだ完全に着替え終わっていなかっただけに、色々と大変な事になっているが、それはもうこの際仕方ない。


 それよりも問題は、今もすぐそこを悠々と這っている蛇だった。


「……何なんだよ、アレ?」


九頭蛇(ヒュドラ)だ。グラエキア地方で稀に出現する妖魎(モンストラ)で、区分は上級(スペルス)。非常に強力な毒と再生能力を持つ」


「シグは戦った事でもある?」


「ある訳無いだろ。曲がりなりにも帝国の皇女がそんな事をするのを、側近が許す筈もない」


 そう語る彼女は、自分の側近の顔を思い浮かべて居るのだろう。


 俺もまた同様に、タグウィオスとラドルスの顔が浮かんで、納得すると共に苦笑していた。


「けど、俺も上級(スペルス)とは……あのレベルと戦った経験は殆どない。狩れると思う?」


「さあな。私も本でしか知らない。良く知らないものに対して、絶対なんて言葉は使えないんだ」


「ま、それもそうだな」


 こちらは、この場所に来るまで相応に疲弊しており、加えてまだまだ回復には時間が掛かる。


 そんな状況で危険な分類に当たる上級妖魎(スペルス)と一戦交えたいなどと思うほど、戦闘狂では無いのだ。


 俺の横で着々と衣服の乱れを直しているシグの方から視線を引き剥がし、再度向こう側に居る九頭蛇(ヒュドラ)の方に目を向ける。


 立ち去ってくれという願望を込めてそちらを見たのだが、その期待は脆くも崩れ去っていた。


「……おいおいマジかよ」


 ズルズルと這いながら、それはこちらへ――正確にはすぐそこを流れる川へと向かって来ていたのである。


 このままではもう三十秒とせずに九頭蛇(ヒュドラ)は川に辿り着き、そして九つある頭の内の一つが、隠れて居る俺達を見付ける事だろう。


 そんな事態を回避するためには、九頭蛇(ヒュドラ)の動きに合わせて上手く柱を回り込むしかない。


「「…………」」


 シグもそれを察してか呼吸を殺し、抜き足・差し足・忍び足で慎重に動いていく。


 その間、川の水に注意が向いているらしい九頭蛇(ヒュドラ)はこちらに気付いた様子はなく、真っ直ぐ進んでいた。


「問題はここからどうするかだな。出来る事なら早くこの場からトンズラしたいんだけど」


「そうだな。九頭蛇(ヒュドラ)は個体によっては水場に棲む。こんな広い場所なら、ここ全体があれの巣でもおかしくないぞ」


「冗談じゃない。もしそうだったら抜け出すのも一苦労だ」


 ……小声でそんな遣り取りを交わしていた時だった。


 不意に、柱の向こうで蛇の吐息の様な音がした。


 一体それが何なのかと、恐る恐る窺ってみれば、どういう訳か九頭蛇(ヒュドラ)の頭の一つはこちらを凝視していた。


 気付かれたと気付いて瞬間的に心臓が跳ねて、冷や汗が背を伝う。こうなればもう、強行突破しかないとすら思い掛けたのだが。


 意外な事に、九頭蛇(ヒュドラ)はすぐに動かない。加えて、一瞬目が合ったように思ったものの、実のところそうでは無かったらしい。


 九頭蛇(ヒュドラ)の目は、俺達が隠れて居る柱ではなく、まだ燃え続けている焚火に目を向けていたのである。


 その事実に、シグ共々安堵したのもつかの間、彼女によって俺の耳が強く引っ張られる。


「……何だよ?」


「馬鹿者が、どうして火を消さなかった? これでは侵入者が居ると主張してる様なものじゃないか!」


「消してる暇なんてねえわ! 下手な物音を立てたら、その時点で即発見されてんだぞ?」


 ひそひそと、気付かれない様に最大限の配慮をしつつそんな言葉を交わしていると――。


 九頭蛇(ヒュドラ)がこちらへ近付いて来る音で、互いの表情を凍り付かせていた。


 それでも、棒立ちになって見つかるなどと言う愚を犯す筈もなく、どうにか発見されない事を祈りながら柱を盾に身を隠す。


 だが、俺達はここに来てまた忘れていた。


 九頭蛇には頭が九つある事を。その首は、一つ一つが長い事を、忘れていたのである。


『…………』


「「…………」」


 気付いた時には、柱の反対側から九頭蛇の頭の一つが回り込んでいて、音もなく出て来たそれと思い切り目が合っていたのだ。


 当然、俺とシグの動きは止まった。


 蛇に睨まれた蛙のように、動けなかった。


 だけど、この状況でいつまでも硬直している訳には居なかない。下手をすれば、この場で食い殺されてしまうかも知れないのだから。


 だから俺は、その頭に向かって言っていた。


「こ、こんにちは……」


『…………』


 それに対する九頭蛇(ヒュドラ)の返答は、咆哮だった。


 愚かで矮小な侵入者を駆除すべく、そして捕食すべく、蛇特有の掠れた音で、空気が震える程の大きさを発していたのだ。


「逃げるぞ、シグ!」


「そんなの言われなくても分かる!」


 幸いな事に、逃げるだけの体力は相応に回復して来ているのだ。


 蛇から逃げ切る程度であるのなら、どうと言う事も無いと思っていたのだが……。


「速い……!」


「って言うかさっきのは何だ? 何が“こんにちは”だ!? 隣人じゃないんだぞ!」


「うるせえ! 出来れば友好的に行きたいだろうが!」


「冷静に考えて人の言葉が分かる九頭蛇(ヒュドラ)が居る訳ないだろう!?」


 御尤(ごもっと)もな指摘である。


 だが予想外な出来事には予想外な反応をしてしまうのは、仕方ない事では無かろうか。


 何より、こんなやり取りをしている間にも、九頭蛇(ヒュドラ)は見る見る彼我の距離を詰めて来る。


 この辺り一帯は洞窟の幅も広く、大型の蛇でも無理なく通れるせいなのだろう。


「……これ以上は逃げるだけ体力の無駄だ! シグ、悪いが応戦するぞ」


「了解した。私としても、相手が変温動物である以上やり易い事に変わりない」


 そう言いながら踵を返せば、背後から凄まじい迫力を伴った九頭蛇(ヒュドラ)が迫って来る。


 だけど、当然怖気づいて逃げる筈もなく。


「私が援護する、ラウは槍で突っ込め」


「……え、嘘だろ?」


「お前の魔法は威力が高過ぎる。ここは私の氷魔法で動きを鈍らせた方が、崩落の危険も無くて良いと思うぞ?」


 シグの指摘は正論も良いところである。


 そして彼女は俺の了解も返事すらも待たず、氷魔法を行使する。


 こうなれば、もう四の五の言って居られる時間などある筈もなく、渋々槍を片手に真正面から突撃を掛けていた。


 対する九頭蛇(ヒュドラ)は、シグの氷魔法などまるで効いていないかのように、変わらぬ勢いのまま突っ込んで来る。


「……おお、(こわ)っ」


 九つある頭の殆どがこちらを向き、そして牙を見せる姿に一瞬、体が震える。


 だけどそれは怖気づいたという訳でも無くて、武者震いの様なもので。


 実際、九頭蛇(ヒュドラ)の毒牙は一つたりとも掠る事は無く、それどころか頭の一つを短槍の穂先で貫いていた。


「……これで一つ!」


 突き刺したばかりの頭を踏み台にして跳躍し、追って来る毒牙から逃れ、着地する。


 上級妖魎(スペルス)に分類されている九頭蛇(ヒュドラ)だが、今の手応え的に案外大した事は無いのかもしれない。


「これなら下手な怪我は負わずに済みそうだ……とっ!?」


「油断するな、ラウ!」


「分かってる!」


 周囲の気温が急激に低下していく中、それでも九頭蛇の動きは全く鈍る様子が無く、それどころか勢いを増して俺に攻撃を仕掛けてくる。


 それに加え、先程槍で貫いた筈の頭の傷が、見る見る塞がって行く。


巨猿鬼(トロル)みたいな奴だな……!」


「言っておくが解毒薬も今手元には無い! 噛まれたら終わりだと思え!」


「……だろうな。どう見てもヤバそうだ」


 威嚇するような、シューと言う音の合間に九頭蛇(ヒュドラ)の牙から垂れる涎のような液体。


 それは無色透明なのだが、地面に落ちた途端ほのかに煙を立てている。


 少なくとも地球にここまで強力な蛇毒は無かったと、思わず苦笑が漏れてしまうが、それもそこそこに表情を引き締めた。


「シグ、コイツの動きは全然鈍らないんだけど? お前ちゃんと魔法使ってんのか!?」


「当たり前だ! だがこれだけ体が大きいと冷えるまで時間が掛かる! もう少しすれば効果が出て来るだろうが……それまで無理はするなよ!」


「あいよ。精々頑張るさ」


 九つある頭の内、七つまでがこちらを向き、残る二つはシグを警戒しているのだろう。


 しかし、シグは余計な気を引く気はないのか、攻撃はせずに周囲を冷やす事に専念していた。


「……援護を受けるために援護しなくちゃいけないってのは、何か滅茶苦茶だな」


「仕方ないだろ。こんな巨体に生半可な準備の魔法が効くとは思えない」


「勿論分かってるっての。その代わり、ちゃんと成功させてくれよ」


 それだけ言うと、返事も待たず俺は九頭蛇(ヒュドラ)に突撃を掛ける。


 対して迎撃は、七つの頭による噛み付きと、或いは巻き付き。


 長い首を利用して追尾してくるそれらを躱し、踏み台にしながら頭を一つずつ仕留めていく。


 だけど、やはり致命傷級の傷を負った筈のそれらは瞬く間に傷を癒し、戦線に復帰してくる。


 それも、掠ったら終わりの毒牙を伴って、だ。


 自分でも、精神力や集中力が見る見る削られていくのが分かる。


「これが上級妖魎(スペルス)……!」


 同じ分類でも、過去に戦った飛竜――赤竜(ドラコ・ルベル)とは毛色が違うし、厄介さも段違いな気がする。


 もっとも、飛竜は空を飛んでいる点で、九頭蛇(ヒュドラ)より厄介だったりするのだろうが。


「シグ、まだか!?」


「もう少しだ、耐えてくれ……」


「はいはい……っと!」


 迫って来る首を躱し、試しに胴体にも攻撃を加えてみるが、やはりこちらも付けた傷がすぐに回復してしまう。


 おまけに、体を覆う鱗は固く、身体強化術を施して槍を振るっても、そこまで深い傷を負わせる事が出来ない。


 特に胴体は肉厚で、そのせいで重要な臓器に対する致命傷を防いでいる様だった。


 更に白弾(テルム)も撃ってみるが、崩落を警戒して抑え目の威力にしたそれでは、大して肉を吹き飛ばす事も出来ず、すぐに傷は塞がってしまっていたのである。


「ここが迷宮(ラビュリントゥス)じゃ無けりゃ、思い切り戦えるってのに……!」


「ラウ、こっちの準備は終わったぞ!」


「おう、やっとだな」


 正直、シグの援護が入る前に勝負を着けてしまおうとすら思っていたが、それはもうどう転んでも無理そうだ。


 彼女の声に呼応して後退をかければ、それを追撃するような素振りを九頭蛇は見せ、しかし動きが止まる。


 何が起きているのかと地面を見れば、そこには体と地面が凍結してくっ付いてしまっていたのである。


 九頭蛇(ヒュドラ)はそこから脱出すべく藻掻いているが、そうしている間にも凍結の範囲は広がり、固い鱗を白く染め上げようとしていた。


「こりゃ凄い……もう俺が止め刺すまでもないんじゃねえの?」


「そんな事をして見ろ、氷が解けたらこいつはまた動き出すぞ。だからこれはあくまで援護。ラウの方で止めを刺してくれ。最悪、体内の妖石(サクスム)を摘出すれば妖魎(モンストラ)としての能力は大幅に低下する」


妖石(サクスム)を摘出って……この巨体のどこにあるかも分からねえのに。今後の為にも普通に殺しとく」


 仮に凍結したとしても、治癒力は相変わらずだとすれば、体は裂いても裂いても(きり)が無いだろう。


 だとすれば普通に威力を調節した白弾(テルム)で纏めて吹き飛ばすか、或いは死ぬまで殺した方が楽だ。


「シグも手伝ってくれない?」


「無理だ。今の魔法の発動と維持で、魔力を大きく消費した。余り余裕がない」


「……それもそうか。なら俺一人でやるわ」


 幸いにも、自分は白儿(エトルスキ)。魔力には常人よりも余裕があるのだ。事実、まだまだ枯渇には遠い。


 その原因の一つとしては、崩落の危険を避けるために余り魔法を使わなかった事にあるのだが。


「さて、こいつの再生能力が力尽きるのは、いつになるんだろうな……」


 既に九頭蛇(ヒュドラ)は大幅に体温を失い、体も碌に動かせないらしい。弱々しく掠れた鳴き声を上げるばかりで、抵抗が出来る様な状態には無かった。


 実際、何度攻撃を加えても反撃は来ない。再生能力だけは相変わらずだが、ここまでくれば後は作業だ。


 槍で刺し、或いは魔法で吹き飛ばしてを繰り返す。


 だけど、やはり中々息絶える気配はない。再生速度も、衰えを見える事は無かったのである。


「ラウ、いつまでやってるんだ?」


「うるせえ。コイツが無駄にしぶといんだ。俺だって好き好んでやってるんじゃねえよ」


 腕を組み、洞窟の壁に寄り掛かって退屈そうにしているシグの態度に、苛立ちが募る。


 そんな事を言うくらいならいっそ手伝ってくれれば良いのにと思うけれど、今もこうして九頭蛇(ヒュドラ)を抑えているのは彼女の魔法のお陰だ。


 下手な事を言って臍を曲げられるのも面倒で、だからそれ以上何も言わずに作業に没頭する。


 しかし、それが悪かったのかもしれない。


 作業だと思って油断して、シグと言葉を交わして、つまり今の自分の身に危険は迫っていないと考えてしまっていたのである。


 こちらを凝視する十八の瞳に対して、無頓着でいた結果――。






「……ラウ、駄目だ後ろ!」





「あ?」


 血相を変えたシグの言葉に、怪訝な顔をしながら背後へ目をやり。


 俺の視界は、大写しになった巨蛇の(あぎと)に埋め尽くされていたのである。





◆◇◆




「う……嘘、でしょ?」


 ばくん、と目の前で自分の大切な人が、巨蛇によって丸呑みにされた。


 その事実を、一部始終を余すことなく目撃していた少女――シグはその場でへたり込んでいた。


 何も出来なかった。どうしてやる事も出来なかった。


 仲間が、ラウが、今目の前で食べられてしまった。あの時自分が、無理をしてでも九頭蛇(ヒュドラ)に止めを刺すのを手伝っていれば、このような事態は免れたかもしれないのに。


「そんな……慶司(けいじ)!」


 呼びかけに答える声は、無い。


 ただ、低い蛇の鳴き声がするだけである。


 少女の頭を最悪の想像が過り、悪寒が背中を撫でた。


 だがそれも無理はない。何故なら彼女の仲間を飲み込んだこの巨蛇――九頭蛇(ヒュドラ)は、猛毒を持つのだ。


 飲み込まれたと言う事は、口の中にある毒牙によって傷を付けられていないとも限らない。


 そうなれば、あの少年が助かる見込みは全くないと見て良かった。


 せめてこの場にリュウが居れば或いはと思わなくもなかったけれど、生憎彼は今ここに居ない。


「折角、折角また会えたと、また一緒に居られると思ったのに……!」


 不意に、彼女の頬を伝う一筋の涙。


 それと同時に、徐々にだが巨蛇がその体を活発に動かし始める。


 どうやらシグルティアは九頭蛇(ヒュドラ)の動きを制限していた氷魔法の維持を解いてしまったらしい。


 そのせいで氷は解けだし、体温をほんの少しでも取り戻しつつあったことで、活発に動けるようになりつつあったのだ。


 だが、シグルティアはそれに気付いた様子がない。


 いいや、視界に入っていたとしても、認識できていないと言った方が正しいだろうか。


「慶司……ねえ、慶司! 返事をしてくれ!」


 返事がやって来ない事を、心のどこかでは認めつつ、彼女は声を上げる。


 それはかつての高田麗奈と、今のシグルティアの口調が綯交(ないま)ぜになった、心からの願いであって。


 現実を認めない、認めなく無い少女の心情を如実に表している様だった。


 だけど、九頭蛇(ヒュドラ)からすればそんな矮小な人間の機微など、味付けにもなりはしない無意味なものでしか無くて。


 細く二股に分かれた舌を、頭の一つが口から出しながらシグルティアに顔を近付ける。


「…………」


 吹き付けられる生臭い息にも関わらず、シグルティアはその表情を変えずに蛇の目を真っ直ぐに見返す。


 そして。


「返せ……」


『…………』


「返せと言っているんだッ!」


 瞬時に、魔法を展開するのだった。


 それに対し、九頭蛇もまた目の前の標的を脅威と認識して、即座に取り除くべく(あぎと)を開く。


 そして瞬く間に、先程の少年の様に丸呑み――とはならなかった。


 何故ならシグルティアの目前に迫っていた大口には、人の胴体ほどはあろうかという巨大な氷柱(つらら)が突き刺さっていたのだから。


『――――!?』


 堪らず悲鳴を上げるその頭に対し、シグルティアは追撃の手を緩める事はしない。


 更にもう一つの氷柱を頭上から落とし、地面に文字通り釘付けとしたのである。


 そしてそれを片足で踏みつけ、瞬時に凍結させた。


 一瞬の内に頭の一つを行動不能に追い込まれた事実に、しかし九頭蛇はまだまだ怯む気配も見せず、残る八つの頭で襲い掛かる。


 だけど。


「邪魔をするんじゃないッ!」


 魔法を行使する今のシグルティアに、後の事を考えるだけの冷静さは残されてなど居なかった。


 それはつまり、九頭蛇(ヒュドラ)を倒す事以外は何も考えられないと言う事であり、己の魔力が枯渇する可能性は、もう頭の中から消えていたのだ。


「ラウを……慶司を返せと言ってるんだ、私は!」


 元が付いたとしても、シグルティアは東帝国の皇女。


 豊富な魔力を持つ者同士で政略結婚が為されて来ただけに、その魔力量は常人を凌駕し、これまでに施されて来た英才教育がそれを余すところなく発揮させていた。


『――――!?』


 上級妖魎(スペルス)に分類される筈の九頭蛇(ヒュドラ)が、何度目とも知れない悲鳴を上げる。


 遂にはシグルティアほどの矮小だった筈の得物に恐れをなしてか、或いは割に合わないと判断して背を向ける素振りすら見せるのだった。


 だが、シグルティアはその手を緩める事は無い。緩める筈がなかった。


「逃がさない……慶司を返せと私は何度も言っている!」


 既に、両者ともにボロボロだった。


 シグルティアは毒牙を喰らってはいないものの、打撃は何度か受けたし、何より魔力の消費が大きく疲労している。


 対する九頭蛇(ヒュドラ)は今までのダメージが蓄積してか、満身創痍で傷の治りも極端に遅くなり、同様に酷く消耗している様子が明らかだった。


「私はもう、離れたくない! 放したくない……失いたくないんだ! だって、私はずっと……!」


 シグルティアの視界は、霞む。


 それは涙の影響もあっただろうけれど、何より体力と魔力の損耗がかつてないほど甚大だったことが原因だろう。


 気を抜けばすぐにでも倒れて気を失ってしまいそうになるのを、必死になって堪え、その上更に魔法を行使していた。


 一方、九頭蛇(ヒュドラ)は緩慢な動作で己の巣に戻ろうと言うのだろう。九つの頭のどれもが退路に顔を向け、シグルティアの方に目を向ける気配はなかった。


 それに対して彼女は、絞りに絞り出した己の魔力で、やはり巨大な氷柱(つらら)を生み出すのである。


「これで……慶司を返せぇぇぇぇぇえッ!」


『――――!?』


 最後の力を振り絞って放たれたその一撃に対し、九頭蛇は無力だった。


 回避などする余力もなくて、殆ど無防備なまま体に直撃を受けていたのである。


「……やった、な」


 僅かしか残っていなかった九頭蛇(ヒュドラ)の生命力では、体に開いた大穴をどうかするだけの力は残っていなかったらしい。


 細々とした断末魔の悲鳴を残し、それは絶命した。


 だが、勝者としてこの場に立っているシグルティアもまた、意識はもう消失寸前で地面に膝をついていた。


「慶司……わた、し、は……!」


 ぼやけた視界の中、そこに映るのは屍と化した大蛇の体があるばかり。


 だからその消失寸前の意識の中で、彼女が気付く事は無かった。


「…………!」


 誰かが、自分の名前を呼んでくれているという事実を知らず、彼女は意識を手放したのだ――。





◆◇◆





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