第三話 Dark Crow④
◆◇◆
静寂が、辺り一帯を包む。
そこでは濃厚な血の匂いが充満していて、戦い慣れた者でなければ間違いなく閉口するくらい強烈なそれが漂っていた。
しかし今は、そんな空気ですら恋しく、有難い。
何故なら体が、肺が、心臓が、酸素の供給を希求して止まないのである。
「シグ、生きてる?」
「……生きてるぞ。この程度では死ねない。ま、大した怪我もなくあれを切り抜けられるとは思っても居なかったのが本音だが」
呼吸は荒く、背中合わせになって俺は薄暗い天井を見上げる。
服も腕も、手に持つ槍も血に塗れ、辺り一帯には骸と化した妖魎が幾つも転がっていた。
出来る事なら、この濃厚な血の匂いがする場所から離れてしまいたいところだが、生憎疲労が酷いせいで立ち上がろうと言う気にもなれない。
せめて呼吸が落ち着くまであと少し、この場でじっとして居たかった。
ついでに、俺は自分の考えを纏める様にシグへ話しかける。
「……やっぱここ、血の大地じゃないな。多分、旧地だ」
「ああ、私もそうだと思う。ここまで完全に地図と一致する箇所が無いのでは、そっちの方が自然だ」
幾ら迷宮内の通路が変形する事があると言っても、その箇所は証拠として植生がなかったりするのだ。
だがこの辺りは植生や光結晶が根を張っている様子で、もう長いこと変形していない事を証明していた。
だが、そんな場所なのに手元の地図には載っていない。
「リュウさんが持ってる地図がこっちにあればなぁ」
「無いものねだりをしても仕方ない。だが、完全に迷子となるのは困ったぞ。仲間を探すどころか脱出出来るかも怪しい」
ここは、旧地の中。正確には、血の大地に吸収されてしまった迷宮の中である。
どうも人為的に吸収合併されられた形跡が見られるが、妖魎の異常な群れが俺達に差し向けられた事からも、神饗が一枚噛んでいるのは間違い無いだろう。
「矮猿、粘体、翼猿蜥、巨猿鬼、潜土獣……よくもまあここまで集めたモンだ。食物連鎖の関係なんて無いものみたいに突っ込んで来やがって」
「粘体については特にそうだな。あれには大した自我もないから、手当たり次第に周囲のものを吸収する筈なのに」
ちら、とシグが一瞥をくれる先には、ドロドロの液体となって地面に広がっている存在がある。
これこそが粘体の成れの果てであるが、早い話がスライムだ。目も口もなく、粘性の液体と内部の核のみで体を構成している存在。
生物と言うよりウィルス染みている気がしなくもないが、学者でもない自分にそれの生物学的分類が出来る筈もなかった。
「ところでラウ、翼猿蜥って言うのは私の記憶が正しければガリア地域が原生地の筈だと思ったんだが?」
「その認識で間違いない。ルテティアの方じゃヴィーヴルとか言うらしいけど、それにしてもこいつがアナトリコンの迷宮で出て来るなんて」
体は人間の大人くらい、顔立ちは猿に似ている一方で全身に蜥蜴の様な鱗がある。四肢は人間や猿のようで、自由な腕を器用に使う。
また一方で腕と脇腹を繋ぐように膜があり、それでもって空を滑空する事も出来るのだ。
食性は勿論肉食。矮猿などを捕食するのだが、同時に巨猿鬼は天敵であり、その時には一方的に捕食されてしまう。
「……あ」
「どうした?」
「今、巨猿鬼の死体が動かなかった?」
「馬鹿な、そいつはラウが頭を砕いただろ……っ!?」
こんな時に下らない冗談を言うなと笑いかけたシグの声が、唐突に途切れた。
だがそれも、確実に絶命させた筈の妖魎が起き上がったとなれば仕方のない事だろう。
「ラウ、どうなってる!? お前の槍の穂先を叩き付けて脳漿をぶちまけたんじゃ無かったのか!?」
「間違いなく殺したよ! けどこいつ、傷が治って……!?」
起き上がってこちらを睥睨していたのは、巨猿鬼。
大人の身長二人分はあろうかという高さと、子供の胴体以上はあろうかという太さの四肢。
上半身が下半身に比べて大きく頑丈な印象を与えるそれは、手に骨の棍棒を握っていた。
勿論その棍棒は一撃で人間をぺしゃんこに出来そうな代物で、迂闊に一撃でも貰えば御陀仏するのは目に見えて明らかだった。
もっとも、それよりも目を引くのは今や血塗れの頭部。そこには致命傷を負った痕跡は欠片もなくて、べっとりと付いた自分自身の血が、まるで返り血であるかのようである。
「聞きしに勝る再生能力って訳だ。気味悪い見た目しやがって」
「……ただ、噂通り余り知能は良くないらしいな。私に任せろ」
重い体を無理矢理動かし、槍を構えようとした俺を制するように、シグが立ち上がる。
一方の巨猿鬼は目の前の矮小な存在を叩き潰す事以外に何も思考が及ばないのか、野太い雄叫びを上げながら驀進していた。
しかし、それの渾身の一撃が俺達を叩き潰す事は終ぞ起こらなくて。
「再生力が厄介なら、動けなくした方が色々楽だしな」
『――――ッ!?』
骨の棍棒を振り上げた姿勢のまま、巨猿鬼は凍り付いていた。
勿論それはシグの行使した魔法によるもので、指の一本すら動かせないほど完璧に、この場に一体の氷像を作り出していたのだった。
「見事なモンだな。死んだ?」
「どうだかな。臓器が凍り付いて酸欠や低体温で死ぬか……もしくは氷が解けるのが先か。これの生命力についてはラウの方が良く知ってるだろ?」
「まあな。コイツ一体倒すだけで無駄に力が掛かるし」
そう言いながら周囲を見回せば、あちこちに肉片と化した何かが飛び散っている。
言うまでもなく元は巨猿鬼の体を構成していたものの成れの果てだ。
「ここまでやらなくても倒せるかと思って、こいつだけは頭を砕くに留めたけど、まさかあれで復活するとは……」
「ゴキブリも斯くやあらんと言ったところだな。まあ、あれにここまでの再生力はないが、生命力の点では似たようなものだろう」
「もし、こんなでかいゴキブリが居たら世界は崩壊するけどな」
念には念を入れ、凍結した巨猿鬼は白弾で完全に吹き飛ばし、深い溜息を吐くと踵を返す。
「まあ何だ、それなりに休めたしそろそろ動こう。いつまでも死体と一緒に居るのは精神的にも衛生的にも宜しくないしな」
「とは言ったものの、私もお前も血塗れではまず体を清めるのが先になりそうだ。水場があれば良いんだが」
確かに、シグの指摘も尤もである。
俺の体を見下ろしても血が全身を染め上げ、赤備えでもしているのかという様な出で立ちになっていた。
おまけに臭い。だが嗅覚的にあまり気にならないところを鑑みるに、鼻が麻痺してしまっているようだ。
これのままでは変な病気に罹ってしまいそうで、水場を探したいのは勿論なのだが……。
「地図もないんで、流石にそれは正確に案内できねえよ。見つかったらそこでまた休憩を取るとして……何でシグまで血塗れになってんだ?」
「お前が巨猿鬼やその他の妖魎を白弾で派手に吹き飛ばすからだろ!? お陰で私もこのザマだ!」
「わ、悪い……けど仕方なかったんだよ! 分かるだろ? さっきの戦いは俺とお前の二人だけだったし」
伸ばされた彼女の人差し指が、容赦なく俺の頬を突き刺す。
下手に傷がつかないように爪は立てていないようだが、それでも痛い。
「逆に訊くけど、あれ以外にどうしろってんだ?」
「分かってる。確かにあの状況じゃ仕方なかった。けど、犯人から素知らぬ顔で何で? と訊かれて腹が立たない訳ないだろ!?」
「すまんて。今度何か奢るなりしてやるから」
「絶対だぞ? 忘れたとは言わせない」
ぐりぐりと頬をドリルされつつ、その約束を誓わされる。
それが何となく昔の記憶を想起させて、自然と頬が緩んでいた。
シグもまた同様だったのか、口調とは裏腹に表情は少しばかり緩んでいて、本気で怒っている様子は見られない。
「ま、奢る云々はここから無事に脱出してからの話になるけどな」
「当たり前だ。必ず奢って貰う。死んだって逃がさないからな」
「死なないし死なせねえよ。その為に俺はリュウさんから戦い方も教わって来たんだ」
もう、あんな思いは二度としたくないから。誰も失いたくない、死なせたくないと心の底から思ったから。
今もこうして、誰かと一緒に行動している。誰かと一緒に居る事が出来ている。
それはもう絶対に、無くなって良いものではないのだ。
「……と、こりゃ当たりかな?」
「どうした?」
「良かったな、地下水脈だ。まあ妖魎が生息できる場所なんだから、すぐ近くにこう言うのがあっても不思議じゃないよな」
シグより一足早く、開けた場所に出た俺は周囲を見渡す。
先程、妖魎の群れを相手にした時よりも天井も幅も広く、ちょっとした広場のようになっている。
隅の方では川が流れていて、体に付着した汚れを落とす上で充分な量の水を湛えていた。
ちらとシグの方を見遣れば、冷静な表情は崩していないながらも、体の端々にうずうずしている感情が見て取れる。
その様子に、思わず破顔しながら手で川を指し示すのだった。
「先にどうぞ」
「……悪いな」
「別に謝られるようなものでもないよ。ただ、ちょっと待って。周囲に危険が無いかだけは俺にも確認させて欲しい」
この場に居るのは男女の二人だけ。だから一度に入る訳にも行かないし、何より川の中の危険も確かめずに水浴びなど出来ない。
地上の河川でもそう言った警戒は必須なのだから、ここでも水棲の妖魎が居ないとは言い切れないのは、至極当然の事だろう。
だから周囲や水面を警戒しながら川の流れを注意深く観察してみれば、流れは意外に早く、そして深い。
迂闊に足を踏み入れれば、溺れるか流されるかしていたかもしれなかった。
「どう?」
「冷たいけど、こっちは特に何も見当たらない。妖魎も……いない。油断は禁物だけどな」
さっきのように、生態系の食物連鎖も無視した群れとなって襲ってこないとも言えないのだ。
今のところは平気でも、今後もずっとそうだとは言い切れない。
「早いとこ水浴びは終わらせよう。俺は後ろを見てるから、シグは水浴びしながら水の中も警戒しろよ」
「分かってる。それと絶対覗くな。絶対だぞ。もし振り向いたら冷凍してやる」
「……はいはい」
きつく、本当にきつく言い含められ、肩を竦めながら苦笑するのだった。
実際、彼女の場合やると言った事はやりかねない事を考えれば、絶対に覗きをやろうなどと言う気になれない。
それに、いつ妖魎と遭遇して襲撃を受けないとも限らないのだ。こんな所で覗きをして居られる余裕などある筈もなかった。
が、こんな状況で他の事に全集中出来る筈もなかった訳で。
「…………」
「…………」
背後では服を脱ぐ際の衣擦れの音が聞こえ、それからすぐに水音が続く。
互いに無言を貫く何とも言えない空気の中、少なくとも自分は気持ちが落ち着かなくてソワソワしてしまっていた。
だが背後からは絶えず警戒の視線を向けられている気配がするし、下手な挙動は即命取りになりかねない。
落ち着かない心と体を鎮めるべく、シグに向けてこの姿勢のまま何か話題を投げてやろうかと考え始めていた時だった。
「――――」
「……っ」
不意に背後から聞こえて来たやけに色っぽい吐息で、心臓が跳ねていた。
多分、シグ本人は別にそんなつもりも無かったのだろう。だけれど、水の冷たさとこの場で一息つけている事実で、気が緩んでいるのかもしれない。
何はともあれ、そのせいでただでさえ落ち着かない心は更にそれへ拍車がかかり、体の血が血管内で暴れ回っていた。
もっとも、シグはこちらの気も知らないで呑気に水音を立てている。
どうやら、もうこちらを警戒するのも止めて水浴びに集中している様だ。
そんな様子が何となく気に入らなくて、一切振り向かずに彼女へと釘を刺す。
「おい、いつまでも水に浸かってる訳にはいかないんだぞ。火は熾しといてやるから、早いところ服も洗え」
「小さい男だな。女子にとって休息は大事なんだぞ?」
「お前、物事に女子をつければ万事上手くいくとか思ってねえよな」
バシャバシャと水音を立てながら抗議しているシグに、大仰な溜息で返してやりながら俺はその場で胡坐になる。
同時に腰の袋から火打石と少量の木屑、そして小型の赤い妖石を取り出して火熾しの準備を整えていく。
始めからこうしておけば背後も気にせず居られたかもしれないと思いながら、安物の短剣を火打石に打ち付けるのだった。
ただ、既に火熾しは何度も経験しているだけにあっという間に火種が出来上がり、妖石へと落として引火させる。
これはその辺の薪とは違い燃焼時間も火力もある為、野営程度であるのならば新たに燃えるものを付け足す必要もない優れものだ。
文明の利器……というか、火属性の妖魎から剥ぎ取れるものであるので、ただ単に自然のものを利用しているに過ぎない。
「こう言う所は地球より優れてるって言えなくもないんだろうな……ッ!?」
ぱちぱち、と燃え上がる炎を眺め、そして時折周囲を警戒しながら時間を潰していると、不意に首筋へ水が掛かる。
そのひんやりとした冷たさに体を跳ねさせ、何が起こったのかと、思わず背後を振り返ろうとするのだが。
「こっち見たら凍らせるって言った筈だけど?」
「……じゃあ何の用だよ。人にいきなり水掛けて来やがって」
「服、洗い終わったから乾かしてって呼んでるのに、反応しない方が悪いんだ。ほら、後ろ歩きで早く取りに来い」
「人使いの荒さは相変わらずだな」
昔を彷彿とさせるその態度に思わず苦笑しながら、俺は後ろ歩きで近付いていく。
しかしそれでも、シグの文句は留まるところを知らない。
「違う、もっと右! そのままじゃ川に落ちるぞ」
「じゃあもう服を投げてよこしてくれよ!」
「それだと折角洗った服に汚れが付くだろ。今のラウだって返り血塗れなんだからな」
「注文の多いお姫様だ……」
彼女には聞こえない大きさで独り言ちりながら、それでも背を向けたまま何とかシグのすぐ近くに到着する。
こちとら足場の悪い場所だと言うのに命令通り後ろ向きで来てやったのだが、シグはそれでも何が不満なのか小言が止まらない。
大体お前は……などと話の中身は完全に今の件とは関係のない別物であり、聞いて居られないと思った俺は話を打ち切る様に背後へ手を伸ばす。
「話は後で聞くから、いい加減服を寄越せ。乾かなくちゃ、お前だって服が着られないだろ?」
「……露骨に逃げるんだな。まあいいや。ほら早く受け取れ」
「はいはい」
そう言われるがまま、緩慢な動作で服を受け取ろうとして――。
何か、やけに柔らかいものに触れた。
間違いなく、これは服ではない。それは一発で分かった。
ではこれが一体何であるのか。それもまた、一拍遅れて察した。察してから即座に手を放したが、もはや時既に遅かったらしい。
「ラウ、選べ。頭から凍らせるのと、足元から凍らせるの、どっちが好みだ?」
「し、シグ? 何か今背中が滅茶苦茶冷たいんだけど、ねえ待って、おいちょっと!?」
背中を悪寒とは違う、純粋な冷気が撫でる。
それだけで鳥肌が立ち、体に震えが走った。
嫌な予感は秒を追う毎に増大し、顔も引き攣らせずにはいられない。
「待ってくれシグ、話を……!?」
「最期の言葉はそれで良いんだな?」
「良くねーわ!?」
シグが浸かっている辺りの川の流れは気付けば完全に凍結し、寒波は岸にまで及んでいる。
呑気にしていれば、そのうち自分の足もそれに巻き込まれてしまう事は間違いなさそうだった。
だが、脱出という手段を取る事が出来る状況かと言われれば、全くそんな事は無くて。
「人の胸触っといて謝罪だけで済むと思ってんの……?」
「だからわざとじゃないんだって!」
兎にも角にも、この場でシグを説得できなければ、待っているのは二度目の死であった。
閑話休題。
パチパチと、火が燃える。
短槍の石突に乗せられた濡れた衣服は、時折水を焚火の上に滴らせながら徐々に徐々に乾いていた。
「寒い……寒い」
「自業自得だ。いきなり人の胸を触るなど、最低の所業だと知れ」
「だからって氷点下近くまで冷えた川に俺を投げ込むか普通!?」
下手したら死ぬところだったんだぞ、と振り向かずにシグへ抗議するが、彼女はどこ吹く風と言わんばかりに応答しない。
未だに川へ浸かったまま、出て来ないのだ。
このまま風邪でも引いてしまえば良いとすら思ったが、今の状況で体調を崩されると非常に面倒臭いので、やはり体を壊して欲しくはない。
「って言うかシグお前、よくこんな冷たい川の中に入ってられるな……?」
「ラウを川に放り込んだ時は私の魔法で水温が下がっていただけだ。それにここは川だから、冷えた水もすぐに流れてしまう」
だから問題ない、と水音を立てて泳いでいるらしいが、だとしても地下水は十分に冷たい。
近くに火山がある訳でも無いし、日光が当たる場所でも無いのだから当然だ。
長時間浸かって居れば間違いなく体調を崩すのではないだろうか、と心配せずにはいられなかった。
「ラウ、私の服の乾き具合は?」
「……下着はそろそろ良いんじゃねえの? って言うか、何で外套まで洗ったんだよ。川に居ないでコイツに包まって、火にあたってればよかったのに」
「アンタみたいな変態の近くには居られない」
「だからさっきのは事故だって言ってんだろ!?」
「あと私の下着を触るな変態」
「訊かれたから答えただけだろが!? お前そろそろいい加減しろよな!」
シグの衣服の乾きが遅いのには理由がある。
それはさっきも言ったように、シグが外套すら洗ってしまったからだ。頑丈に造られ、厚手であるそれは他のものに比べて乾きにくく、同時に濡れ物の量を増やし、全体として乾く速度を下げていた。
確かに外套が血塗れなのは衛生的に良くないのは分かる。だが、一度に洗う必要は無かったのではなかろうか。
もっとも、それを今言ったところで詮のない事である以上、彼女とこの件について議論する事は無いのだが。
「もう良い。私はそろそろ上がるぞ」
「殆どの衣服が生乾きだけど、構わないの?」
「これ以上、変態に私の服を任せては置けないからな」
「……なあ、俺もう本気で怒っても良いと思うんだけど」
ひたひた、と素足の少女が背後から近付いて来るのを察知して俺は瞑目し、そして顔を伏せる。
またここで下手な事をすればどんな目に遭うかも分からないのだ。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものである。
「ラウは水浴びしないのか?」
「……俺は良いや。お前のせいで全身ずぶ濡れだし、その時にある程度の汚れは落ちたから」
尚、同時に白髪を紅く染めていた染料も一部落ちてしまったのは、川の水面を見て確認済みである。
おまけに、体温を奪っていく濡れた服を今すぐ乾かしたいのに、シグの服を乾かしているせいでそれも出来ない。
だから濡れ鼠のまま火に当たるほかに無かったのだった。
「寒そうだな、ラウ」
「誰のせいだと思ってんだ」
「お前のせいだ。反省しろ」
「…………」
解せない。全く解せない。
確かに全く非が無い訳では無いけれど、シグにだって責任の一端が無いとは言い切れないのに。
何と理不尽な事だろう。
再び聞こえて来た衣擦れの音に落ち着かない気持ちになりながら、同時に不満を蓄積させていた時だった。
「……ん?」
「何か、来る」
聞こえて来たのは、土を踏み締める足音。
それは人間のものとは違っていて、そして今まで遭遇した妖魎とも違っていて、何より異様な存在感を持っていて。
とても危険な予感が、した。
◆◇◆




