第二話 Deeper Deeper④
◆◇◆
迷宮は、基本的に洞窟や人為的に掘られた横穴などに精霊のなりかけが居着く事で発生する。
その確率はそれほど高くない筈なのだが、鉄工業と素材の採掘が元々盛んだったハットゥシャやその周辺では腐る程に穴がある。
だから、他と比べて迷宮の数が多くなってしまうのは当然だった。
そしてその迷宮の中は、意外にも千差万別だったりする。
勿論、それは迷宮そのものの成長度合いによるところもあるのだけれど、内部が洞窟然としていたり、緑が多かったりと、特徴があるのだ。
そして、妖魎を腸内細菌のように飼っている訳である迷宮内部は、基本的に妖魎たちにとって住みよい場所となっている。
穴の中だと言うのに程良く明るく、程良く暗く、程良く食料となるものが自生し、生態系の根底を提供しているのである。
これらが一体何処から供給されているのかというと、迷宮の核となった精霊のなりかけからである。
そして更にその元を辿ると、迷宮内で死亡した生物を吸収して来ているのだ。
尚、妖魎と言う生物にとって住みよい場所であると言う事は、つまり人間にとってもそれなりに住みやすい場所である事を意味している。
多少、危険である事を除けば、食料も水も確保できるのだから、例えば犯罪者などにして見ればここは官憲の目が及びにくい天国と言えなくも無いだろう。
ただし、そう言った事が行われない様に、迷宮に入る前には関所などの窓口が設けられている訳である。
「ようこそ、窓口へ。それで、どこの迷宮に入るつもりだい?」
「……エシュナス・グムに行くつもりです」
「エシュナス・グム? 止めとけよ、靈儿の坊主。狩猟者の認識票を見た限りじゃ、下級狩猟者じゃねえか。その程度であそこには居るのは自殺行為だぞ」
まさか、迷宮の入り口にすら入る事が出来ないとは想定外であった。
まず、ここに入るにあたって狩猟者の認識票か、もしくは役所などからの許可証が必要なのだと言う。
流石に全員が持っている必要は無いのだが、ここで問題が生じた。
確かに狩猟者としての認識票はスヴェンやシグ、レメディアが持ってはいたのだが、全員特に依頼を散々こなしていた訳でも無いので、下級のままだったのだ。
俺自身、かつて中級狩猟者まで達した事があったけれど、それはもう大分前に捨ててしまった。
結果、迷宮の入り口前にある狩猟者組合の窓口で足止めを食らってしまったのである。
尚、ここの窓口はさまざな国の人間が来る事を見越してか、剛儿語だけでなく共通語にも対応してくれているので意思疎通に問題はない。
そしてここにいる受付の剛儿男性は、その厳つい見かけによらず親切な人らしい。
「どうしてよりにもよってエシュナス・グムなんだ? あそこは本当に危険なんだぞ? 理由は良く分からんが、仲間が消えたって奴が最近異常に増えてんだ」
「別に冷やかしで行くつもりは無いですよ。って言うか、おっさんに俺達の目的地についてどうこう言われる筋合いはないと思うんですが?」
「こっちは親切心で言ってやってんだ! 大人しくカッピス辺りにしとけ、まだここの迷宮に入るのは初めてなんだろ?」
余計なお世話、と言ってやりたいが今は外野でしかない俺は黙るしかない。
この場の交渉に加われるとしたら、スヴェンと同じく狩猟者の認識票を持っているシグかレメディアくらいだろう。
「随分物分かりの悪い奴らめ……まさかお前ら、犯罪者とかじゃ無いだろな? 居るんだよ、追われる身分になったからって迷宮に逃げ込もうとする奴が」
「そんなんじゃ無いですよ。ちゃんと手数料とかも人数分払いますから、それで普通に通して貰えませんか?」
スヴェンのその言葉にも関わらず、疑いの目で受付の中年男性はこちらをまじまじと観察してくる。
確かに大人二人と十五、六才の少年少女が四人となれば何となく変な感じがしないでもない。
だけどそれは完全に勘違いも甚だしいものだった。
「この街の犯罪者リストの中に、俺達みたいな連中でも居るんですか?」
「……いや、そうじゃねえけど。俺より若いのが無茶して帰ってこないってのは、心情的に気持ち良くないもんでね」
そう言って受付の男性が背後に目をやれば、そこには楔形文字で書かれた膨大な量の木札が置かれていた。
「あの札には、色々な迷宮の名前が書かれている。ここで事前に狩猟者達へどこに潜るのか訊いてアレを渡し、それぞれの迷宮前の門番にそれを見せて入るって訳だ」
「それは知ってますよ。そうじゃ無きゃ、ここには来ません」
「まあ聞け。探索を終えた狩猟者は入り口を出て、ここへ戻って来る。そして行きの時に渡した札を返却して街や家、宿に戻るんだが……最近はその返却率が極めて悪い」
そう語る男の目は、確かに一段と数の少ない木札の場所を見ていた。
そしてそれが何処の迷宮の名が記された木札なのかは、これまでの会話から想像するのは難しくなかった。
「取り分け返却率が悪い……つまり未帰還率が高いのは、もう気付いていると思うがエシュナス・グムだ。それもここ一か月ほど。最近ではその近隣の迷宮でも徐々に未帰還が増えつつある」
「そうは言っても、狩猟者の命なんて軽いもんだと思いますけど?」
「まあそうだな。傭兵並に軽いと言っても過言じゃねえし、俺もその辺は十分理解してるつもりだ。だが、元々多い未帰還が更に増えるとなれば、何かあったと考えて警戒するのが普通だろ?」
事態を看過できないと判断した狩猟者組合は、迷宮の共同管理者であり、そして第一責任者でもある宮廷にその旨を報告したらしい。
結果としてエシュナス・グムに対して調査隊が編成、派遣されたのだが、結果は寧ろ余計に未帰還が増加しただけだった。
「ここだけの話だが、近々エシュナス・グムは閉鎖される予定だ。軍が討伐隊を組織して、原因究明、場合によっては迷宮そのものの破壊が行われる」
「……なるほど」
「だから悪い事は言わねえ、今日は他の所にしとけ」
な? と念を押す様に男は助言してくる。
それに対して、スヴェンは困った様にこちらを振り返り、どうやらリュウの決断を仰ぐつもりのような素振りを見せていた。
しかし、そのリュウは特に何を言う事も無く、俺に視線を寄越して無言を貫いている。
「……何で俺なんです?」
「僕の一存で決めたら、君が文句を言うだろう?」
「言いませんよ。どんだけ我儘な奴だと思ってるんですか」
一応そう言って反論を試みるものの、リュウは言葉通り何も口を挟む気がないのか、それっきり何も言葉を発さない。
仕方なくスヴェンの方に目を向けた俺は、受付の男性へと告げていた。
「閉鎖されて二度と立ち入れなくなると言うのなら、尚更ここで引けません。エシュナス・グムに入る為の木札を六人分、お願いします」
「おいおい小僧、お前もさっきまでの話聞いてただろ? 悪い事は言わねえから……!」
「手数料は多めに払います。それで手打ちにして下さい」
「そう言う問題じゃねえんだよ……危険だって分かり切ってる場所に、お前らみたいな若い奴をホイホイ送り出せる程、俺は薄情じゃねえんだ」
ボリボリ、と頭を掻く受付の男はその表情に苦々しそうな色を隠しもしない。間違い無く、見た目に似合わず優しい心根の持ち主なのだろう。
だが、それでも彼の言葉を無視して俺はカウンターの上に貨幣を置く。勿論、先程言った通り手数料には色をつけて、である。
「もしもおっさんの言う通り、俺達が帰って来なかったら、手元に持ってる金は無駄になるかもしれない。だから貰っといてください。金は墓場まで持っていけないんで」
「……まるで死ぬ気みたいだな?」
「そんな訳ないですよ。もしも俺らが帰ってきたら、色を付けた手数料の分は返して貰う。どっちに転んでも、おっさんにとっては悪い話じゃないでしょ?」
そう言いながら男の顔を見るが、反応は芳しくない。これがその辺の人間なら二つ返事で受けそうなものだったが、やはり思っていた通りお人好しらしい。
だとしたら狩猟者相手の受付は不向きな気がしないでもないが、今それを言ったところで意味は無い。
黙って、カウンターの上に乗せる金額をさらに増やしてみるのだった。
「……おい、まさか俺が金で動くと思ってんのか?」
「まさか。沢山の金を預けて置けば、何としてでも取り返さなくてはって思うじゃ無いですか。だから預かっといてくれません?」
「言い分は分かった。……仕方ない、良いだろう。これ以上ここで議論してたら、仕事が溜まっちまう」
瞑目して溜息を吐いた男は、ちょっと待っていろと言って木札を取りに背後へ足を向けていた。
そしてその手に六人分の木札を持って来て、割増された手数料と引き換えにそれらを手渡してくるのだった。
「この金は預かっておく。生きて戻って来いよ、良いな?」
「分かってます。それじゃ」
念を押す様に言葉を掛けて来る男性に軽く手を振って応じ、再三行くなと警告されていた迷宮――血の大地へと向かうのだった。
血の大地。
それはハットゥシャから少し離れた山の迷宮群に存在する、古株の迷宮だ。
元々は鉱山であったその山は、大昔なら多くの鉱山資源を産出していたらしい。
しかし、長きに亘る採掘によって資源は枯渇。無理に掘れば出ない事は無いが、崩落の危険なども考えると採算が合わなくなるために、廃れてしまった穴だらけの山である。
もっとも、それは過去の話。
今では無人となって手付かずだった筈の廃穴に精霊のなりかけだったものが定着し、幾つもの迷宮が発生している。その中にあって、特に有名なものの一つが血の大地なのだ。
剛儿語で物騒な名が付いた由来は、そこにかつて凶悪な妖魎が住み着いた事で夥しい数の死傷者を出したからである。
結局苦労してその妖魎は討伐され、それ以来はこの迷宮は平和に成長と維持管理を受けて今に至る。
既に五百年を超えて存在し続けているだけあって、その複雑さや距離は相当なものであり、過去に幾つか近隣の迷宮を取り込んだ事実が確認されている。
しかし、不要な巨大化は迷宮そのものの暴走を招きかねない為、狩猟者組合やハッティ王国の下で厳しい管理下に置かれているのだ。
勿論、管理下に置かれているからと言って、長く存在し続けたこの迷宮の全容が把握できているとは言い難く、未踏破地域と呼ばれるものが存在する。
加えて豊富な迷宮資源を産出する反面、危険も相応に存在しており、死者は毎日のように発生しているのだ。
それでも狩猟者や一攫千金を狙う者は後を絶たず、危険であったとしても潜る者が居なくなることは無かった。
ただしそれは、ここ一か月で不気味な噂が純然たる事実として形を持ち始めるまでの話なのだが。
「……誰も居ねえな。普通、入り口付近くらいには狩猟者が屯してたりするもんなんだが」
「何だ、入った事あんの?」
「ここじゃねえけどな。東界にも似た様な物はあるし、似た様な組織があるんだ」
きょろきょろと周囲を見渡しながら后羿が語る内容に、「へえ」と適当な合槌を打ちながら俺もまた周囲に視線を向ける。
中は思っていたよりも広いし、明るい。元々は山を掘り進んでいたのだから、てっきり圧迫感のある暗い場所だと思っていただけに意外だった。
「明るい原因は見ての通り、あちこちから覗いてるあの結晶だ。あれ自体も色々な素材として利用可能なんだが、採り過ぎると内部が暗くなって危険なんだ」
「あれが……どんな原理で光ってるんだか」
「さあな。学者でもない俺が知る訳もねえわ。取り敢えず、金になるからって無闇にその辺の素材を採取しないように気を付けろ。妖魎の罠って可能性もある」
今のところ何も身の危険は感じられないが、后羿の言う通りここは元々死者の絶えない迷宮内部。それも最近は行方不明者が続出していると言う場所なのだ。
彼の釘を刺すような言葉に、誰もが改めて気を引き締めたのは言うまでもない。
「……とは言ったものの、見事なまでに何も出て来ないな。折角引き締めた気分も緩んじまう」
「后、だからって酒飲むのはどうかと思うよ? でも確かにちょっと静か過ぎるね。やっぱり色んな人が言っていた通り、何か変な事が起きているのは間違いなさそうだ」
それからしばらく、人気のない内部を地図片手に歩いて回りはしたものの、妖魎すら出て来ない。
先程、俺達に気を引き締める様に言っていた筈の后羿に至っては、欠伸をしながら酒を飲み始めている始末だった。
「マルスさん達の報告でも、異常な程に静かだったって話だしな……で、あの人達の言ってた痕跡ってのは、どこに?」
「まだ先だな。何せ、他の迷宮を取り込んでるんだ。端の方に行かないといけない訳だし」
スヴェンに訊かれ、地図を広げながら答える。
同じような疑問をシグとレメディアも感じていたのか、二人はどこか押し合う様な調子で地図を覗き込んで来るのだった。
事ここに至っても張り合っている様子の彼女たちに、辟易としながら声を掛ける。
「お前ら、落ち着けよ……」
「何が?」
「別に私、何もしてないけど?」
「……あっそ」
笑顔なのに、気のせいか体に力が入っているせいで二人は若干震えていた。笑顔もどこか堅い。
だけど、二人揃って何でもないと言うのなら、ここで無理に指摘を入れたりするのは藪蛇というもの。
俺はそれ以上の指摘を止めて、進路の方へと顔を向けるのだった。
だが、そこで不意に足が何か堅いものを踏みつける。
「……?」
不思議に思って足を退かしてみれば、自然物にしては不自然に固く、そして均一性が感じられる小さな物体が落ちていた。
「これって……」
「どうした?」
「いや、これ」
唐突に足を止めた俺を見て、変に思ったらしいスヴェンが振り返って訊ねて来たので、足元を指差す。
しかし、眉を顰めただけで何も言わない彼は、この迷宮内が少し薄暗いのと土の色で紛れて見え
にくいのか、何を指しているのか分からないらしい。
仕方なく腰を落として拾って見せれば、スヴェンの表情が一変した。
「おい、それって……!」
「多分、薬莢だと思う」
鈍色の光を放つそれは、既にこの目で何度も見た事がある。
だけどこれが意味する物を持つのは、自分達が知る限り一人しかない。恐らく、この世界中を探しても彼くらいしかいないだろう。
「ラウ、急に立ち止まってどうしたんだ?」
「これを見れば分かるだろ?」
リュウ達も俺が途中で立ち止まった事に気付いたのか、少し先行していた道を戻り、シグも走りながら訊ねて来る。
彼女にも薬莢を見せてやれば、すぐにその意味が分かったのだろう。少し驚いた様子で目を開き、同じものを探す様に地面に視線を向けていた。
リュウや后羿、レメディアも若干遅れてそれに気付いて、確かめる様にこちらを見て来る。
「……多分、シャリクシュがここ来たんだと思う。もしかしたら、まだ」
「なるほど、あの子も神饗の場所を個別に掴んでいたという訳か」
答え合わせをする様に俺が告げれば、リュウは顎に手をやりながら周囲を見渡し、何かを探す様な素振りを見せる。
他の者も似た気配を見せ、何か見落としは無いかと視線を巡らせていたものの、結局これ以外に何か見つかるものは無かった。
「アイツの死体とかが無いだけマシかもな」
「だな。少なくともここでは死んでないって事だろ」
「どーだか。ここは迷宮の中だ。死体はしばらく時間が経つと地面や壁に取り込まれて吸収されるんだよ」
「「…………」」
痕跡がこれしかないのは残念だと言いつつも、スヴェンと互いに胸を撫で下ろすが、后羿の言葉で最悪の予想が頭を過る。
思わず二人して黙り込んでしまったが、その予想を払拭するように、そして后羿の発言を咎める様に、リュウが言っていた。
「薬莢が吸収されていないのに、もっと大きな死体が消えているなんておかしな話だと思うけどね。后、君も水差すようなことは言っちゃあ駄目だよ」
「……へいへい、気を付ける。悪かったな」
特に反省した様子もなく形だけ謝罪を口にした彼は、飽きもせず瓢箪の酒を飲んでいた。
それにしても、先程から散々飲んでいる様に向けられるのだが、一体あの瓢箪にはどれだけの酒が入っていると言うのだろう。
少なくとも、見た目通りの容量であるとは思えない。
もしかすると、見かけは豪快に飲んでいる割にちびちびと飲んでいるのかもしれないが、だとしても辻褄が合わない。
何かしら特殊な細工が施されていると見て間違いなさそうである。
「何だ、ラウも飲むか?」
「いや結構。こんな状況で飲めるほど、図太い神経してねえよ」
「ちぇ、つれねーの」
残念そうにそう呟いた彼は、まだ更に酒を煽っていた。
その際、一瞬だけ漂ってきた酒の匂いに思わず顔を顰めながら、再び手元の地図へと視線を落とす。
これから向かう先には、マルスをしてこの都市一帯が壊滅するとまで言わしめたものがあるのだ。気が引き締まらない訳が無かった。
「……何が何でも、ここで終わりにしてやる」
神饗も、主人も、全て討つ。
何が狙いかは分からないが、そんなものは関係ない。全て討ち破って前世の復讐と、今世の安寧の為に勝たなくてはならない。
二度目の人生でも彼らと関わってしまった以上、知らぬ存ぜぬなど出来る筈も無いのだから――。
◆◇◆
「……フラれたな」
「まあ、彼らとの同行を拒否されたのは仕方ない。やはりまだ完全には信じて貰えなかったと言う事だろう」
ハットゥシャ市内、その内の一軒である宿屋――偉大な麦酒の酒場では、縹色の髪をした者と黝い髪をした二人の青年が向き合って酒を酌み交わし合っていた。
その内の前者の方は、後者をどこか慰める様な口調であり、空気もどこか明るいとは言い難いものが漂っていた。
「で、どうするんだメルクリウス? 彼らに信用して貰うにしても、ちょっとやそっとじゃ厳しいと思うが?」
「そうだな……俺達があれだけ信頼していたサトゥルヌスが裏切ったんだ。まだこの中に裏切り者が居ると睨むのは至極当然である以上、お手上げな気もする」
「おいおい、匙を投げるのか? 止めてくれよ。彼らに迷宮への同行を拒否されたくらいで大袈裟な」
そう言いながら、縹色の眼を細めた青年――マルスは酒を煽る。
しかし、対するメルクリウスの顔は真剣そのもので、普段のように人好きのする笑みを浮かべる事さえなかった。
「出来る事なら、彼らとは密接な情報交換と連携が取れれば今後も楽になるんだが……それよりも気掛かりな事がある」
「……何だ?」
「お前らが潜った迷宮……血の大地だったか? 調査では神饗についての直接的な証拠は見つからなかったらしいが、どうも胸騒ぎがする」
頬杖をついて、メルクリウスが懸念している事を口にした途端、マルスは軽く笑い出す。
その態度に、馬鹿にされたと感じたメルクリウスは少しむっとした表情を浮かべていたが、それに対して彼は手を左右に振りながら言っていた。
「心配し過ぎだ。確かに注意はした方がいいが、俺達が潜っても神饗についての情報はなかったんだ、彼らが潜った所ですぐに大した事が起きはしないだろ」
「……だと良いんだがな」
「他に何があるってんだ? 気にし過ぎだっての」
何を難しい事を考えて居るんだ、とマルスは尚も笑いながらメルクリウスのコップに酒を注いでいた。
しかし、彼はそれに何か反応する事もなければ、口もつけずに呟く。
「あそこの迷宮では人が消えるんだろ? ……それについてはマルスたちも確認出来なかった訳だし、原因も分からないのに彼らだけで行かせて本当に平気だったのやら」
「そんなのは言い出したら限が無い。お前、そんなに心配性だったっけ?」
「いや、ただ胸騒ぎがするだけだ。具体的にそれが何かは分から無いから、気のせいかもしれないんだけどな……予感が外れて欲しいと思う程度には、嫌な感じがするんだ」
「なんだそりゃ」
しょうがない奴だな、とマルスは再び相好を崩す。
――その時だった。
どん、と僅かに地面が揺れる。
同時にコップへ並々と注がれた酒に波紋が広がり、遂には僅かばかり零れてしまっていた。
しかし揺れは未だに収まらず、店の外からは騒がしい人の声が聞こえ始めている。
「何か起こったみたいだな」
「……マルス、念の為にユピテル達を起こしてくれ。多分、俺の勘が当たった」
いつになく真剣な表情で、メルクリウスはそう言っていた。
◆◇◆




