Lose Your Mind ⑤
日は既に頂点を過ぎ、ほんの僅かばかり傾き始める。
降り注ぐ日光は相変わらず木漏れ日となって森の中を、そして俺を照らす。
気温も、日差しの強さも丁度よい事この上ないものであり、普段であれば眠気を誘われるような陽気だろう。
「っ」
けれども、そんな程度の理由で足を止めて休息を取りたいなどと思って居られるほど、余裕を持ち合わせては居られなかった。
ぴったりと追い駆けて来る足音からどうにか逃れようと、俺は兎に角駆けるしかないのだから。
「ラウレウスぅぅぅぅぅうっ!!」
「くそ、くそ、くそ、ふざけんな!」
背後から聞こえる、男の叫び声。
その声にあるのは憎悪と殺意、それだけ。
先に自分ではぐれたと言っていた通り、追って来るのは彼一人。
もしかするとそれ以外にも居るのかもしれないが、この目で確認した兵士の死体数を鑑みるに、彼の所属していた小隊はあの蔓の怪物に襲われて壊滅したと見ても良いかも知れない。
「......運が良いのか、悪いのか」
それ以外にも追手が差し向けられている可能性も皆無ではないけれど、ミヌキウス達を相手にしている連中が追手に多くの戦力を割けるとは思えなかった。
こんな風に推測できる程にまで、俺からすれば彼ら三人の戦力は強力だと思えたのだ。
「……ここまで来て、俺は捕まる訳にゃいかないんだよっ!」
だからこそ、彼が所属していたという追撃部隊は壊滅したと思っても不思議では無い訳で。
なのに彼は、一人になったというのに彼は、その殺意を、害意を、憎悪を、尚も向け続け追って来る。
つまり最初からこの男は、俺を殺す気なのだ。
捕縛の為の追手とかそんなものでは無く、ただ自分の恨みを晴らす為に、こちらの命を奪おうとしている。
「テメエは、テメエは俺がこの手でっ……!」
「領主の命令、無視するってのか!?」
「うるせえ! そんなもん知ったこっちゃねえよ!!」
明確な殺害宣言をこうもストレートに向けられ、全力で駆けながらも瞬時にこの背中が粟立つ。
今まで、前世を含めて、これ程の殺意を向けられた事がどれだけあっただろうかと思い返せば、それは前世の最期、しかもたった一度だけでしかない。
あの時は半ば生存を諦めていたから恐怖もそこまでなかったのに、今は段違いに怖い。恐ろしい。
「来るんじゃねえッ!!」
煙幕として、背後の地面へ目も向けず白い魔力の球を放ち、少しでも距離を取ろうと努める、が。
「そんなもんで俺を撒けると思ってんのかよ!?」
「――ッ!」
土煙を一気に突き破ると、槍の石突で俺の背中を突いてきたのだ。
それを大きくよろめきながら間一髪躱すが、しかしもう既にルキウスは更なる追撃の体勢に入っていた。
それを必死に巡らせた目が視認して慌てて避けようとするのだが、先程無理な姿勢で躱したため、防御する間もなく背中を蹴飛ばされる。
「ぁっ!?」
「はははっ、間抜けが!」
急な衝撃に足が縺れてつんのめり、無様にも俯せに倒れれば、ルキウスが心底楽しそうに笑う。
その間に立ち上がって走りだそうとするのだが、槍の石突が一切の加減もなく左頬を殴りつけていた。
「おらっ!」
「う……ぐ、あ……!」
一瞬視界に火花が散り、一拍の間も置かず鈍痛が頬から全身を巡る。
堪らずそこを押さえて蹲りかけたところで、今度は槍の柄が無防備な腹を打ち据え、頭と腹両方から訴えられる痛みに呻かずには居られなかった。
左手と右手でそれぞれの場所を押さえつつ転がっているのを、ルキウスは少し溜飲が下がった様子で眺め、言う。
「ざまあねえな。痛いか? 言っとくが鼻と歯を折られた俺の痛みはこんなもんじゃねえぞ!?」
「っ!」
尚も笑っている彼は、そう言って何度も何度も足蹴をして来る。
頭、胸、腹、腰。場所なんて関係なく、腕で庇って居ようとも関係なく、それの上から本気で蹴って来るのだ。
時には槍の石突でも小突いて来たが、途中から蹲るばかりで一切の反応を示さないように俺が務めると、詰まらなそうに鼻を鳴らし、その手で俺の髪を掴んで持ち上げていた。
その痛みには堪らず呻いてしまい、俺はそれを和らげるために足へ力を入れる。
すると、ルキウスは顔を覗き込ませながら前歯の無くなった口で笑い、楽しんでいる様な口調で言う。
「まだ立てる力あるって? まぁ、それだったらまだまだ殴れるとも言えるけどな! よくも俺の歯を折ってくれたじゃねえか!?」
「うっ……!」
腹部に入る、ルキウスの爪先。口からは呻き声と血の混じった唾液が飛び出し、ここに至ってようやく口の中で血の味がしている事に気付いた。
どうやら殴られている間に口の中を切ったようで、患部らしき箇所を軽く舌でなぞって見れば沁みる痛みを訴えてくれる。
「オイ、まだ終わっちゃいねえぞ!?」
今度は腹を抱えて蹲った所で、側頭部を蹴られる。
そのせいで舌を噛んでしまい、痛みだけでなく屈辱もあって気付けば眦に涙が溜まり始めた。
しかしルキウスはそれを見たところで一切その手を緩める真似はせず、再び俺の頭髪を乱暴に掴むと強引に立ち上がらせる。
「まだだ、お前にはもっと痛がって、俺に平伏して貰わなきゃいけねえんだからよ」
「……やる訳ねえだろ、お前じゃないんだからっ」
「このっ……! 後悔してもおせえからな!?」
今度は乱暴に突き飛ばされ、受け身も取る余裕なく転がる俺に歩み寄りながら、ルキウスは言う。
「まずはテメエの爪を剥いでやる。次に指を捥ぐ。さらに次は四肢を捥ぐ。いや、生きたまま皮を剥ぐのも良いな。精々苦しんで死ねよ?」
「……ぅ、あ、あああああああっ!」
仰向けに倒れた俺の顔を覗き込み、歪な笑みを浮かべる彼の顔に、ぞわりと悪寒が走る。
この男なら本気でやりかねないと、本能が警鐘を鳴らしているのが、分かるから。
だから、すぐに体を起こしてメチャクチャに暴れた。
逃げなければ殺されてしまうからと、獣のように声を張り、四肢を振り回して兎に角ルキウス目掛けて暴れたのだ。
「こっ、この……煩わしい!」
「いぃっつ……!?」
しかし流石に相手は十八歳の大人であり、十三歳の俺が力比べで勝てる訳もなく、寧ろ余計に嬲られてしまう。
「雑魚が、調子に乗ってんじゃねえよ!?」
彼によって容赦なく蹴り飛ばされ、そのせいで派手に背中を打ち付けた。そのせいで一瞬呼吸が止まり、じわりと痛む内臓を押さえて咳き込んでしまう。
痛みと咳のせいで未だに動けずにいるところへ、ルキウスがゆっくりとした足取りで近付いて来ているのが分かっていても、動けないのだ。
「う、ぅ……っ」
「まさかあれだけ痛めつけても暴れんのかよ。その様子じゃ、まだ元気が有り余ってるみたいだな?」
上から降り注ぐ、嗤い。それだけではなく、時折蹴りや石突による打撃も加えて甚振ってくれる。
ただでさえ痛くて悶えているところにそんな目に遭ってみれば、一気に増した痛みのせいで尚更動く事も出来なくなっていた。
口に広がる血の味はその濃さを増して行き、鼻からも口からも血が流れ、見える限りでも体の至る所には打撲と出血が認められる。
頭だって痛みのせいでぼうっとするし、全身がまるで疲労困憊した様に重い。実際、ここに至るまでにあの気色悪い蔓を仕留めたりしているのだ、知らず知らずの内にその辺の疲労が蓄積していたのかもしれない。
それでも尚、必死になって鉛のように重く感じる手足を振り回して抵抗を試みるのだが、結局起き上がりもしないそれでは大した意味を為さず。
「俺はなぁ、テメエの存在自体が気に食わなかった! 聡明だ何だと言われ、貧農のくせにいつも俺を見下したような目を向けやがって、おまけに俺がレメディアと話そうとすれば必ず邪魔をする!」
「んなもん、当たり前だろっ! アンタみたいな気色悪い奴に、家族を接触させたいなんざ思わねえよ!」
「このっ……! 大体お前は! そうやってお高く留まってる事が気に食わねえ! 貧農だぞ!? 貧農のくせして事あるごとに小賢しい頭で楯突き、毎年毎年しぶとく生き残りやがって! 何のためにあれだけの重税課したと思ってんだ!?」
「......は?」
ふと、彼の暴行が止まった……というか、時が止まったように感じた。
彼のその、何か裏の意図を匂わせる物言いに、強烈な引っ掛かりを覚えたのだから当然だろう。
「ど……どういう!?」
「あぁ? 知りてえなら教えてやるよ。五年前の飢饉の後でお前らに課してた税金、実は俺が村長と司祭に頼んで他より割高にして貰ってたんだ。そうすりゃ、そのうちお前らが干乾びると思ったんだけどなぁ。結果は特になし。精々最初の方で体力のないチビが少々と、最近だとガキが一匹死んだくれえか」
しぶといと言ったらありはしない、と大仰に肩を竦めて溜息を吐くルキウスは、それからすぐに表情を切り替えるとその顔に喜色を浮かべてこう言っていた。
「まぁ、偶然とは言えこうして邪魔なお前を排除できる機会を掴んだんだ、後は適当に理由付けてもう一人の大柄なガキを始末すれば……レメディアは俺らのモンだな」
「おい! “俺ら”って、まさか司祭や村長も!?」
訊きながら、思い当たった彼らの顔を浮かべ、信じられないという気持ちになる。
確かに彼らからはそこはかとなく感じるものは在ったけれど、それでもそんなまさかと思わずには居られないのだ。
前者は神の教えとやらに則って村人に清貧を説き、後者は村を守るべき立場にある人物であるのだから、越えてはいけない一線を越える訳が無いと、ついつい思ってしまっていた。
だが、ただのドラ息子でしかないルキウスに徴税を云々出来る訳も無いし、その領分に直接関わるのはあの二人くらいしか浮かばない。
日本であれば絶対に許されないであろうまさかの事態に唖然とさせられ、肯定とも否定とも取れる薄気味悪い笑みを浮かべるルキウスの姿に、確信を強くするのだった。
「無論、村民に知られりゃ叛乱まっしぐらだし、殆どの奴は知らねえけどな。まぁ、お前っていう悪魔が居たんだ、あとでバレても幾らだって言い訳が利く。あ、それとレメディアについては安心しな。俺らで精々楽しんでやるとするさ」
「……じゃあ、そんな事の為にサティア達は死んだってのかよ!? ふざけんじゃねえ、人の命だぞ!?」
「怒るな怒るな。貧農のガキが幾ら死のうがどうという事もねえだろ。何より、大人しくレメディアの奴がその身を差し出せていればこんな事になる訳もなかったんだぜ?」
「馬鹿だよな」と言って、ルキウスはまた笑う。
そんな不愉快な姿を目にして、自然とこの手に力が籠っていたが、しかし一方的に暴行を受けていたせいですぐに動く事も出来ない。
けれど、俺の思考は加速する。
「……さて、もういいだろ。お前には良い声で泣いて貰いたいからなぁ」
沸々と湧き上がって来る怒りに支配された脳は、ルキウスの言葉を耳に取り込みはしても認識しない。
この男は、他人と結託して命を弄んだ。
生きたいと願う命を、未来を奪い、平然としている。
そんなこと、赦される訳が無い。いいや、俺が赦さない。
仇を、取ってやる――。
荒い呼吸の中でその答えが導き出された瞬間、俺は上体を起こしていた。
「っ、何だ!?」
一切動かなくなったと思ったら俺に唐突に動き出され、意表を衝かれたのだろう。狼狽した声を出す彼だったが、そんなものなど些事でしかない。
咄嗟に対応が出来ず、無防備にも棒立ちのままでいるルキウスの顔面に向かって右手を突き出し、そして。
「――おぁぁっ!!」
無意識の内に漏れた声と共に白球を一発、撃っていた。
あの、彼の不愉快な笑みを吹っ飛ばすために。
だが惜しいかな、一瞬で放たれたそれはルキウスの左耳を掠め、背後の木に直撃して命中箇所を粉砕するに留まってしまう。
「……」
騒がしい音を立てて背後にて一本の木が倒れる中、間抜け面を晒すルキウスはそのまま無言で動かない。
その様子を、俺もまた手を突き出して上体を起こした格好のまま、荒い呼吸を繰り返すだけで傍観していた。
ようやく数秒して彼は思い出したようにゆっくりと、震える左手で左耳を触り、べっとりと付いた血を見て思い出したように呟くのだ。
「……血? おい、俺の左耳がねえ? い、痛い……痛い、痛ぇよ」
耳、俺の耳が、と譫言のように何度も確認する彼は、止めどない血を見てやっと現状を正確に認識できたらしい。
痛い、痛いと左側頭部を押さえて叫ぶ彼は槍を取り落とし、耳を失った事による激痛に悶えている様だ。
無防備にも蹲ろうとしている、その隙を衝いて一目散に逃げだそうとするだが、寸前で足首を掴まれてしまっていた。
左耳を失ったからだろう、辺り一帯に濃い血の匂いが充満し始める中で、ルキウスが伸ばした右手で俺を掴んで放さない。
「やっ、やってくれんじゃねーか。痛ぇ、許さねえ、絶対、絶対に……!」
「……ひっ!?」
恨めしそうに彼の灰色の充血した眼がこちらを睨み付けて放さず、その圧力に負けて腰を抜かしてしまう。
やってしまった。幾ら怒りに支配されたとは言え、俺は人に大きな怪我をさせてしまった。
生まれて初めて感じた、明確な害意と武器で誰かを傷付けるという感覚に、そしてそれに伴う殺意の反撃に、俺は気圧されてしまっていたのだ。
その間にルキウスは側頭部の止血を諦め、血塗れの左手で腰の剣を抜いて絶叫する。
「痛ぇなクソが……決めたぜ! テメエは殺す! 拷問なんざもう知らん、今すぐここで絶対に殺してやるッ!! 八つ裂きにしてやるッ!!」
「うっ……うわぁぁぁぁあっ!?」
純粋な殺意の滲んだ言葉と、反応する間もなく唐突に腕を掠めた、剣の軌跡。
それから遅れてやって来た、微かにじんわりとした痛み。
精々薄皮一枚が斬られた程度の事なのだろうけど、実際に明確で濃厚な憎悪と殺意を持って傷付けられた事は、十分に衝撃的な事だった。
だから、もう限界だった。前世の時みたいに守りたい誰かも居らず、恐怖を抑えていた箍は外れ、心の中をあらゆる恐怖の感情が、それらの言葉が埋め尽くし、身の毛をよだたせる。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
死にたく、ない。
もはや反撃をする気なんて全く起きない。そもそも、視界内に入れたいとも思わない。目を逸らしたい。背を向けたい。何より逃げたい、助かりたい――。
「い……嫌、だっ! 死にたくねえっ!!」
「ふざけんじゃねえ! ぶっ殺してやるッ!!」
振り上げられる、ルキウスの剣。
逃げ出したいのに、彼の右手が俺の足首を痛いくらい掴んで離さないのだ。
このままでは、いずれ確実に死ぬ。
前世に続いて二度目の死。
あの時はどうしてあんなに怖くなかったのだろう。今は怖くて仕方ないのに。殺されたくなくて仕方ないのに。
兎に角、生きたい。
「死ねっ、ラウレウスぅぅぅうっ!!」
「嫌だっ、嫌だぁぁぁあっ!!」
「このっ……大人しくしやがれっ!!」
苛立ち紛れに振り下ろされた剣は、俺が暴れた事で狙いが逸れたのだろう。俺の左頬を縦一文字に掠めて地面へと突き刺さる。
けれど、これはただ運が良かっただけに過ぎないし、次撃もこうやって必ず外れてくれる事などあり得ない。
こんな状況だというのにそれを瞬時に理解し、けれど理解してしまった事によって突き付けられた恐怖の余り、思考は狂乱へと叩き落とされる。
「っっ!!」
どうすれば良いとか、こうすべきとか、普段ならどうという事も無く導き出せる当たり前の事が、思い浮かばない。
只々、怖かった。恐ろしかった。逃げたかった。助かりたかった。目を背けたかった。
腰が抜けて無様に転倒し、もはや意味もなく叫び、四肢を振り回し……不意に、己の右手が地面に落ちているソレに触れる。
けれどそれが何であるかなど、考えている余裕も暇も、既に皆無。
「……っ!」
「見苦しい抵抗しやがって……これで終いだっ!!」
その言葉と共に再度振り上げられる、剣。
――今度こそ、殺られる。
「う、わぁぁぁぁぁあ――」
考えるまでも無く本能で死を確信した俺は、やはり考える間もなく、手に掴んだ反射的にソレを突き出していた。
そして、間髪入れずに鼓膜を揺らす鋭利な音。
鈍い、手応え。
――風が、止む。
時すらも止まったとさえ思えるような沈黙がその場を支配し、俺は尻餅をついた姿勢のままきつく目を結んで居た。
ルキウスの足下では何かがポタリと垂れる音が耳朶に触れる。
液体の垂れる間隔は段々と増して行き、それらの一部は俺の手から腕を伝い、ゆっくりと袖の中へと入り込む。
右手を、右腕を、右脇を伝いながら訴えて来るのは、ドロリとした生温かい感触。そして嗅覚が訴えて来るのは、生臭い鉄の匂い。
「が……はっ?」
「え......?」
咳き込んだようなその声に恐る恐る目を開けてみれば、そこにはルキウスの首筋へ深々と刺さった槍と、それを持つ自分の右手が映っていた。
突き刺さったそこからは今も止めどなく血が溢れ、槍の柄から腕へと血が伝っている。
「何だよ、これ……?」
どうしてこうなった? これを自分がやったのか? 嘘だ、あり得ない。信じられない、信じたくない。
見開いた目は、閉じたくても閉じられず。目を放したくても放せず。
己の意思と反して、この視界は首筋から更に上へと向き、そして彼の血走った目を捉えてしまう。
「お、前……よく、も……っ!」
「ひっ!?」
ルキウスと目が合った瞬間、思わず槍を握る手が離れ、そして完全に腰が抜け切って立つ事も出来ない。
真っ赤に充血したルキウスの目は強烈な殺意を乗せ、傷口だけでなく鼻や口からも鮮血を噴き出すさまは恐怖心を掻き立てるには十分過ぎる程。
それを前にしては、態度だけでなく漏れ出る声さえも情けないものとなっていた。
「こっ、こんなことをする気は無かったんだ……っ」
「ふざけ、んなっ! 俺を刺しといてっ、言い訳が通じるとでもっ……?」
「ち、違うッ! ただ、俺は無我夢中で……アンタがいけないんだぞ!?」
尚も腰が抜けて立ち上がれないこちらに対して、ふらつきながらも立ったままのルキウスに、自分の非が無い事を訴える。
だがそんなことを聞き入れる気などないのか、首に生えた槍をそのまま放置し、震える脚で立ち続ける彼は潰れた様な声で叫ぶ。
「俺の、耳を消し飛ばして、何言ってんだお前ッ! 全部、全部お前のせいだッ!」
「違うっ! お前が、お前が……俺達の生活をぶち壊すから……! 人殺しはお前達の方が先だろ!?」
「じゃあ、俺は一度でもっ、直接誰かを、殺し、たって……のか?」
その声は段々と力を、温度を失って行って。
けれどそれに反比例するように、氷のような指摘がこの心を貫いて。
それを認めたくなくて、弱っていく声を塗り潰す様に叫ぶ。
「それはまた違うじゃねえか! 直接誰かに怪我を刺したりとか、餓死に追い込んだりするのに、どんな違いがあるってんだ!」
「……違うさ。自分の、手を……血染め、にするっ、奴が俺と、一緒な訳ねえっ」
「いいや! そんな……そんな訳あるかよっ!!」
自然と声が震え、逃げ出そうにも体が動いてくれない。聞きたくないのに、耳も塞げない。
意識と体力が限界に近付きつつあるのか、遂には膝をつき、至近距離で睨んで来る血塗れの彼を前にして、ただ見て居ることしか出来なかった。
頭が揺れているのではないかと思える鼓動の中で視界が揺れ、思考も全く定まってくれない。
僅かに思う事は、この先を聞いてはいけない。そして見てはいけない。それらを許したら、もう何かが崩れてしまいそうだから。
「俺は……俺はっ、何も悪くない……っ」
「逃げるなよっ、悪魔。そんな、言い訳は通じ、ねえ!」
右手に握られていた剣は既に取り落とされ、ぶらりと垂れ下がった両手にはもはや何の力も籠っていない。
辺りには俺とルキウスの荒い呼吸と滴る血液の音だけが響き――。
「悪魔、テメエは……正真正銘のっ、人殺し、だっ」
一際大きく吐き出されたルキウスの血反吐が飛び散る。それはこの服と頬にまで付着し、そして彼は覆い被さって来るようにして力尽きた。
抜け殻となって脱力した彼の死体は、首に刺さった槍がつっかえ棒となっていて、のしかかってくることはなかった。だが、見開かれた虚な灰眼が恨めしそうにこちらを睨み付け、尚も血が滴る。
「あ……ぁあ……っ!」
死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。
人が、死んだ。俺の目の前で、俺のせいで、一人の人間が、死んだ。
この手で人を、殺してしまった。この手で命を、奪ってしまった。
「俺は……っ、俺がっ……!?」
唐突にこみ上げて来る、吐き気。
趣味の悪いオブジェのような死体を乱暴に蹴飛ばし、口を押えて嘔吐くが、そこから出て来るのは胃液と僅かな水。
空っぽの胃は固形物を吐き出す事は無く、しかしそれでも尚この気持ち悪さは収まる事が無かった。
死体を目にしたのとは訳が違う、人が殺されるのを目にしたのとも訳が違う。
実際にこの手で首筋を刺し、血を流させ、死なせた。
これを殺人と言わず何と言うのか。
――何をどう言い繕ったところで、結局人殺しでしかないのだ。
涙を、鼻水を、胃液を垂れ流しながら、俺はどうしようもなくそれを理解していたのだった。




