Lose Your Mind ②
どうやら魔法と言うものには、二種類の系統があるらしい。
その内の一つは俺の身近にも存在した、“造成魔法”。
例えばレメディア、例えばミヌキウスの扱う魔法系統だ。
その特徴は、魔力が体外に排出される事で本領を発揮する点にある。
ミヌキウスであれば、魔力を駆使して強風を起こすなどと言った、現象に干渉する力という訳だ。
多分、俺の白魔法もこちら側に分類されるだろう。
そしてもう一つが、“変成魔法”。
その例として丁度良い人物を挙げるとするならばそれは今、目の前でミヌキウス達と交戦しているアルギュロスだろう。
その特徴は体の一部分、もしくは全身を、別の物質へと変えてしまえる点だ。
――例えば、その右腕を鉄製の槍へと変形させている様に。
――例えば、その左腕を鉄製の槍へと変形させている様に。
その結果として自重が増したらしく、地面に彼の足が減り込んでいるが、しかし重くなった両腕に振り回されている様な印象は無い。
「ははっ、どうしたこの程度かよ!?」
「っ!」
上級狩猟者とは言え大した事ないなと、殊更挑発するように煽っていくアルギュロスは、両腕の“変成”を一度解除する。
それによって一気に身軽となったのか、軽快な動きで地面を蹴ると一気にユニウスへと接近していた。
「――げっ!?」
「まずはお前だ、ウザってえ射手!」
心底嫌そうな顔と声のユニウスだが、流石は歴戦の猛者と言うべきか冷静に牽制の弓を射かけつつ即座に後退していく。
だが射かけられた矢を、鉄盾へと一瞬で変成した左腕で弾いたアルギュロスは、その程度で止まらない。
変成して翳したままの左腕に、更に無数の鋭利な突起を生やすとそのまま突撃を掛けていたのだ。
「……!」
ユニウスの目前へと迫るその棘は、その一本一本が細く長い。故に急所へ刺されば一撃で戦闘不能、乃至は即死してしまうだろう。
しかし、それらがユニウスを突き刺すほんの直前になって、唐突にアルギュロスの姿が沈む。
「ちっ、横槍入れやがって!」
正確には彼が全身を鉄に変成して防御に集中した事による自重であらゆる動きが停止してしまったのだが、それを理解する暇もあればこそ。
刹那の間すらも置かず、ほぼ同時に彼の姿は暴風の中へと消えていた。
「助かった、ミヌキウス!」
「良いって事よ! それより周囲の警戒怠るな!」
ユニウスへと送られたその言葉にハッとさせられ、素早く周囲を見渡せば、今も尚アウレリウスと兵士が互いに睨み合っている。
彼らの間には既に事切れた三人の兵士の死体が転がり、彼ら側はこれ以上の損害を避ける為に一気に畳みかける隙を窺っているらしかった。
どこもかしこも予断を許さない状況に、俺もこんな所で傍観して居られないと気を引き締めた丁度その時。
「ラウレウス!」
「はい!?」
「そこの竜巻が晴れたらお前の魔力を思い切り撃ち込んでやれ! 直撃させる必要はねえ、煙幕くらいになれば十分だ」
駆け寄り、俺の左肩を掴んでそう言ったミヌキウスの顔は真剣そのもので、当てにされているという嬉しさもあって力強く頷いて返す。
その間にも薄まりつつある風力をじっと見つめ、タイミングを計り、そして。
完全に霧散するか否かの、本当にほぼ晴れたところで十分に魔力を溜め込んだ白球を撃ち出した。
「何――っ!?」
本当に一瞬の事だと言うのに状況を悟ったのか、焦ったアルギュロスの声が聞こえたと思えば、その姿は巻き上がった大量の土砂の中に掻き消えていた。
辺りには一気に砂塵が舞い、視界が一気に狭まる。
「……ちょっとやり過ぎましたかね? 後続に居場所を教えたかも」
「いいや、上出来だ。どの道、コイツらに見つかった時点で報告の兵が送られてる筈だしな」
よくやったと言いながら俺を担ぎ上げるミヌキウスの下に、口元を押さえたユニウスとアウレリウスも駆けて集合してくる。
これ程視界が悪くなってしまっている中で、迷わずに集まって来られると言うのは互いの意思疎通の綿密さか、将又慣れと言うものだろうか。
「逃げるぞ」
短くそれだけを告げたミヌキウスに誰もが頷きを持って返し、走り出す。
煙幕を張る前に予め進路を決めていた様で、先導するミヌキウスの足取りに一切の迷いはなかった。
そのまま一気に砂煙の中を抜け、アルギュロス以下追手を置き去りにしていく。
ここで撒ければ逃げ果せるという感覚が、何となくだけれど感じられたし、実際それはミヌキウス達も同様なのか、彼らの表情もまた微かに笑っている様に感じられた。
なのにその時、背中を悪寒が撫でた。
目が、視界の端が、見たくないものを確かに捉えてしまったから。
「くそっ!」
見間違いであったらどれほど良かっただろう。勘違いだったらどれほど良かっただろう。
けど、この目は正確だった。
「――見つけたぞ、鼠が!」
もう二度と聞きたくない声、もう二度と見たくない顔が、そこには在った。
それの名は、アラヌス・カエキリウス・プブリコラ。
怒号の直後に放たれた業火は望みであった進路を瞬く間に塞ぎ、その上更にはこちらにまで延焼する。
「後ほんの少しが……間に合わなかった!」
クソッタレが、と舌打ちをしながら炎とプブリコラを交互に睨んだミヌキウスは、悔しそうに歯を食い縛った。
今や周囲は木々の梢が燃え上がり、火焔地獄の様相を呈す。逃げ道などもはや完全に消失し、炎の無い場所は敵しかいない。
「とうとう豚の子爵様がいらっしゃった……にしてもさっきより威力が上がってねえか? この火力じゃ幾ら生木でも燃えちまうぜ」
延焼し、勢いよく燃えている木を目の当たりにしてそう独り言ちるのは、ユニウス。彼もまた周囲に目を走らせて小さく舌打ちをした。
延焼していない場所からはぞろぞろと兵士達が姿を現し、そのままぐるりと包囲を始めている。
流石のミヌキウス達もこの状況ではいよいよ余裕では居られないのか、チラリとこちらに視線を寄越すと真剣な声でこう言った。
「悪いがラウレウス、状況が最悪だ。そもそもお前を逃がそうにもこれだと逃げ道が無い」
「……っ!」
「まぁ、無ければ作れば良いだけなんだがよ」
抱えていた俺を降ろし、こちらを安心させようという意図なのか乱暴に頭を撫でて来る彼は、それでも表情が真剣そのものだった。
それこそ、今回は絶対に意思を貫き通すという覚悟が滲み出ていたのだ。
「最後の通告だ、反逆者どもが大人しく降伏せよ! 今なら苦しませずに殺してやろう!」
「うるせぇ、豚が俺に指図すんな! 屠殺すんぞ!」
「っ! 貴様ぁ、自分の立場を分かっているのか!?」
額に汗がにじむほどの暑さの中、騎乗した一人の男が、多くの護衛に囲まれながら鳴く。
その醜く肉の付いた顔に、これでもかと言うほどの汗を垂らしている彼の姿はいっそ滑稽で、それと同時に“白儿”に対する執着と言うものを端的に示している様だった。
「グラヌム子爵たる私の名の下に命令を発する、この狼藉者を殺せ、そこの子供を傷つけずに捕らえろ!」
「――そうかい、そうかい! テメエがその気なら、こっちだってやってやらぁ!」
プブリコラの指示の下で一斉に躍り掛かる兵士達に、ミヌキウスが吐き捨てる様に言葉を発した、直後。
――彼を中心に、暴風が吹き荒れた。
その中心部に居る俺達は不思議なほど風を感じないというのに、少し先では視界がゼロになるほどの砂塵を巻き上げ、竜巻のように轟々と風が回り続ける。
しかもその中には兵士と思わしき四肢が見え隠れし、風の音の中で数かに悲鳴が聞こえていた。
「おっと迂闊に触れるなよ、ラウレウス。ズタズタになるぞ」
「ズ、ズタズタって……」
すぐに気付いたユニウスが制止してくれるが、一体その竜巻の中では一体何が起こっていると言うのだろうか。
時折風の中に見える赤い何かを目にして青褪めずにいられないし、怖くてそれ以上の事が訊けない。
だが、訊いていないというのにここで丁寧にミヌキウスが解説を入れてくれた。
「今頃、強風に巻き込まれて手放した武器が、兵士達に突き刺さってるんだろうよ。それに巻き上げた石礫や、木の枝が連中の体を傷付け突き刺さる」
「……っ」
本当に、えげつない。恐らくこの竜巻の外では巻き込まれた兵士達を見て、巻き込まれなかった者たちが慄いている事だろう。
「そろそろ良いか」と彼が呟いたと思えば、途端に竜巻が失速し、巻き上げた砂塵と人体を地面へと叩き付けられる。
そして、それを前にして悲鳴を上げて分かり易く怯えだしたのは、当然ながら兵士達。彼らは、竜巻に巻き込まれた同僚の変わり果てた姿を見て、その余りの凄惨さに腰が引けてしまったのだ。
砂に塗れ、葉に塗れ、血に塗れたそれらは、もはや壊れた人形のそのものだった。胴体には剣や槍が突き刺さり、首や腕、脚の関節はあらぬ方向へ曲がり、虚ろな目が空を見上げている。
その光景には思わず俺も眉を顰めてしまうものの、しかしそれだけだった。ここで倒さなければ、殺さなければ、自分が捕まるかもしれないし、ミヌキウスにだって危険が及ぶのだ。
自分自身が人を殺したわけでも無いが、ここで未だに殺人に対して強い忌避感を抱いたりしている余裕など、無かった。
「さて、次に俺へ掛かってくる命知らずは、誰だ?」
挑発的な笑みを浮かべながら己の青い頭を掻くミヌキウスは、如何にもまだ戦力的余裕のある笑みを浮かべて兵士達を見回す。
だが、既にミヌキウスの息は少しながら荒い。
恐らく今までの疲労が蓄積し、魔力も大きく消耗しつつあるのだろう。
それは他の二人も同じようで、彼らも一様に荒い息で武器を持ち、兵士達をねめつけていた。
「やれやれ……腹括るか」
「おいガイウス、何を勝手にしみったれた雰囲気作ってんだ。まだラウレウスを終わらせる訳にゃ行かねえだろ?」
「ああ、今の内に打てる手を打っておこう。俺らが時間を稼ぐ」
「……何の事です?」
ジリ貧と言う言葉がピッタリな状況にあって、それらの憂いを無視したような彼らの言葉に、自分でも分かるほど間抜けな声を出してそちらを見た。
俺はそれこそ、「何を言っているんだコイツ」と言わんばかりの顔をむけていたのだが、それを受けたミヌキウスは微かに苦笑すると俺の頭を左手で撫でていた。
疲労のせいかその力は微かに弱かった気がするそれは、それでも何故か嫌な気はしない。
けれど、嫌な予感だけはどうしても無くならない。
だから、だからこそ、問い詰めるように見つめ、その名を呼ぶ。
「ミヌキウスさん?」
「……」
尚も俺の頭を撫でる彼に、俺はその予感を振り払うため口を開くが、しかし無言で見つめられて言葉に詰まってしまう。
何を考えているのだろうか。この状況下で一体何をしようと言うのか。もしかして四人揃って生き延びられる秘策でもあると言うのだろうか――いや、そんな可能性がこの場に転がっているとは到底思えない。
事実、頼みのミヌキウス達は疲労の色が見え始めている。
更に隊列が乱れているとは言え五十名ほどの兵士と、魔法が使えるであろうプブリコラとその側近たちが健在なのだ。
だというのに、ミヌキウス達はまだ何か希望の色を持っている。
「一体どういうっ……!」
その意図を遂に問い質そうとしたところで、気付けばこの体には風が纏わりついていた。
ハッとしてミヌキウスの顔を見遣るが、彼はその青色の眼を細めただけで、視線だけの問いに答える事はしなかった。
ただここだけに聞こえる声で、周囲に警戒の目を向けながら、囁いたのだ。
「良いか、お前にはこれをくれてやる。んで、そいつの中身を使ってハットゥシャへ行け。大丈夫、お前なら出来る筈だ。運が良ければ何処かで出会えるだろうよ」
「まっ、待って下さい……!」
「駄目だ。これ以上は魔力の余裕がない」
有無を言わさず、腰から下げていた袋――空間魔法陣の刻まれた見た目以上に大容量のそれ――を手渡したミヌキウスは、最後に微笑むとこう言った。
「ラウレウス……いや、ラウ。歳は離れていても、お前と喋るのは楽しかったぞ。じゃあな!」
「生きろよ!」
「また会える日を楽しみにしてるぜ!」
「……!」
あんまりだ。ずるい。こんな借りっぱなしで、俺は碌に返せていないのに、返せる目処すら立たないのに。
まだ、感謝の言葉すら伝えきれていないのに。
しかし、それらの思いが言葉にされる事は無かった。
何故ならばそれらを叫ぶ前に、彼の風魔法によって凄まじい勢いで空へ飛ばされていたのだから――。
◆◇◆
「に、逃がすな! 今度こそ絶対に逃すな! 追え、追うのだっ!」
一つの方向を指差して、プブリコラが必死にそう指示を出す。
だが、ミヌキウスによって飛ばされた“白儿”の少年の行方が何処なのか、兵士の誰にも見当が付かず動き出すにも動けない。
「何をしている、追わんか!?」
「し、しかし、一瞬で飛んで行ったので追跡が困難かと……!」
「ええい、言い訳は聞かん! 一度は我が手中にあったモノを、ここで無くす訳には行かんのだ!」
見つけるまで戻る事は赦さん、とプブリコラが厳命し、それによって士官はやむを得ず行動を開始する。
その様子を見て居たミヌキウス達は、策が嵌ったと言わんばかりに笑みを溢した。
無論、ラウレウスを飛ばしたのが自分だからであり、一気に彼だけを飛ばしたのもそれが狙いであったからに他ならない。
子供であったお陰か軽い事もあってかなりの距離を置かせることに成功し、恐らくもう見つかるまいと判断した彼が笑うのも無理からぬことだった。
「ざまあねえな、クソどもが」
「……この私を愚弄しおってからに! もう絶対に、ひと思いで死ねると思うな!」
「それより、一度ならず二度までも逃げられた気分は如何ほどかな?」
三人へ向かって一斉に向けられる、プブリコラとその配下達による敵意と殺意。それらはいずれも彼らが先程行った事に起因しており、ひいてはこの煽る様な言葉が尚更それに拍車をかけている。
けれど、今こうしているだけでも、ラウレウスを逃がす上で時間稼ぎの一助となっている事に他ならないのだ。
「……お、おのれ、おのれ平民風情が!!」
「俺にいわせりゃ、豚風情が身の程を弁えろってんだ」
「もっ、者ども、コイツを殺せ! 斬り刻んで、生きたまま斬り刻んで殺せぇぇぇえっ!」
まるで癇癪を起した子供のように、面白いくらい顔を朱に染めて叫ぶプブリコラ。
それを見て、ミヌキウス達は思わずその口端を緩めずには居られなかった。正に、その姿が餌を求める家畜のように思えたからこそ。
視界の端では十名ほどの兵士達が下士官に率いられてラウレウスの捜索に向かうようだが、漠然と方向が分かっているだけでは捕まりようなどありはしない。
何せこの森は深く、広いのだ。そこまでではないものの、危険だって潜んでいる。ラウレウスも少し心配ではあるが、それでも彼はそれなりに魔法を使いこなしていたのだ、下手を打たなければ大丈夫だろう。
つまり余程、運がない限りは捕まるどころか発見すら至難の業であるのだ。
「……ま、見つかるといいな。精々頑張れよ?」
向けられる無数の殺気を前に、しかしユニウスはそんなものどこ吹く風と受け流し、そして笑っていた。
「……ここが、死地」
短く息を吐き出すアウレリウスは、その目に一切の諦観を見せず、尚も生に対する執着を見せ。
そんな仲間に心強さを覚え、不思議と漏れる笑みにおかしさを覚えながら、ミヌキウスは空を見遣る。
果たしてラウレウスは、上手く逃げ果せる事が出来るだろうか。上手く行けば御の字だが、上手く行かなければあの世で彼に謝っておくべきだろう。
「............」
自分も死んだから許してくれと言えば、彼なら案外あっさり良いよと言ってくれそうだ。本人の心内がどうだかは知らないが、ミヌキウスとしては歳の離れた友だと思うくらいには、彼の事を理解出来ている筈だから。
ごめんと、故郷に遺されるかもしれない縁者へ内心で謝罪しつつ、彼は共に居る仲間に背を預け、告げる。
「――後は、突っ走るだけ!」
「「応!」」
そう言ってから彼は不敵に笑い、そして新たな友を守る為に、その身を投げだすのだった。
◆◇◆
「くそっ、くそっ……!」
周囲からは全く音など聞こえず、ただ虚しく声だけが響き渡る。
恨めし気に、と言うか実際に恨めしく思いながら木々の隙間から空を見る俺は、一人の青年の顔を思い浮かべていた。
何が「守る」だ。本当は自分だって生きたいくせに。どうして、幾ら守ると決めたにしても自分達の命を犠牲にしてまで助けようと言うのだろう。
助けてくれた事、そして助かった事について言えば、確かに嬉しい。ホッとしている。
だが、心が晴れやかかと言えばそんな筈が無かった。
「……」
最後に彼が渡してくれた、魔道具に分類される袋。
その中を覗き込みながら手で探ってみれば、そこには旅をする上で必要なものが多く詰め込まれていた。
数日分の食料は勿論のこと、外套や恐らく予備の武器であろう短剣が数本。もっと探ってみると春画集が幾らか出て来たが、軽くそれを捲って見た俺は何を思う事も無くそのまま袋へと戻した。
ついこの前までならいざ知らずとも、今はそんな物を見たい気分ではなかったからだ。
ただし、短剣についてはもしもの事も考えて一本だけを腰の帯に差しておく。
それからもっと必要そうな物――灰色の外套を取り出して羽織って見るものの、やはりと言うべきかミヌキウスに合わせた大きさであるが故に、相応にブカブカであった。
だが、それでもフードが付いているので頭髪を隠す意味でも使わない訳には行かず、袖や裾を捲って再度羽織ることとする。
「これは」
次いで地図を取り出し、ミヌキウスのいる方向に戻ろうかと考えて、止めた。
しっかり方向を確認する間もなく彼に飛ばされたせいで正確にここが何処かも分からないし、縦しんば戻ったとしても自分では足手纏いにしかならないのだから。
「……」
情けない。もっと上手く出来なかったのか。自分が弱いせいで、彼に更なる負担を掛けてしまったのではないか。
では、一体どうするべきか。
そんなもの、既に理屈と本能では答えが出ている。
当たり前の事だが、彼の善意と好意を踏み躙らない為にも、生きる為にも逃げる事だ。
分かっては居る。分かっては居るのだが、そうする事が本当に正しいのか、それで自分は良いのかと、自問が止めどなく溢れて来ていた。
これらを全て理屈だけで片付けられたらどれだけ良い事か。どれだけ楽な事か。
けれども、感情と言う楔がそちらへ意思を傾かせず、体もその場から動き出せやしない。
「どっちを、選べばいい?」
どの選択をする事が、“正解”なのか。
人として、ヒトとして、そのどちらを取るべきか。
受苦か、受益か、利己か、利他か。
どれが正義か。
迷っても答えなんて、多分いつまで経っても出ないのだろう。恐らく永遠に、だ。
どれを選んだとして、更なる最善手を考え、こうしておけば良かったと結果が示されてから思うのだ。
それでも尚、分かっていても尚、迷う。
間違えたくないから。取り返しのつかない散々な結果を生みたくないから。
かつて見た親友たちの骸は、己の間違いを何度糾弾して来た事だろう。
だから、じっくり考えたかった。
「............」
我ながら愚図だと思っても、自嘲しても、そればっかりは止められなかった。止めたくなかった。
でも、状況はいつだってそれを許してはくれない。
例えばあの日の朝、じっくりと考える暇もなく、村からの出奔を選択させられたように。
「……!」
ふと、微かな音が耳朶に触れた。
それが一体何の音なのか。人か、それ以外か。自分にとって敵なのか、もしくは無害なのか。
当然、知る術など持たないからそんな事は分からない。知りようがない。
ただ耳を澄ましてみればそれは単なる音とは違って、誰かが駆ける音であるらしく、しかも複数人いるようだった。
今はまだその距離は遠く離れている様に感じるが、それでも十中八九ミヌキウス達のそれでは無いだろうし、警戒しておくに越した事は無い筈だ。
「まさか、な」
一番考えやすいのは、ミヌキウスが俺を飛ばした方向へと派遣された、追手である線。
確率的には最もあり得そうで、最も警戒すべき事であった。
そうであれば、その最悪の事態を回避するためにも、念には念を入れてここから更に離れる必要がある。
一先ず、頭上を登る太陽を目印に方角を割り出すと、遠く視界に見える雪を被ったピュレナエイ山脈に背を向け歩き出した、その時。
「たっ、助けてくれっ!?」
「......何だって?」
人の悲鳴が、少し離れた所から聞こえていたのだった。
 




