第四話 ミステイル②
◆◇◆
夕暮れ。赤い空に浮かぶ掛けた朧気な月は、生い茂る緑の枝葉の隙間から覗いていた。
それを見上げながら、外套を纏った長身の男は溜息を一つ。
「……失敗したな。まさか、あそこまでしぶといとは思わなかった。エクバソス、アゲノルはどうした?」
「駄目だ、まだ帰ってこない。……死んだか」
「惨敗という訳だな。この部隊の半数以上が行方不明、死亡となればこれ以上襲撃を掛けるのは無謀だ。視殺も逃げられたか殺されたと見て良い」
痛い出血だと、ペイラスは頭を抱える。
途方に暮れたような彼を見て、同僚のエクバソスは打つ手が無い事を悟ったのか、憎々し気に吐き捨てていた。
「俺達がリュウの相手をしてたんだ。つまりアゲノルの仇はあの雌ガキと雄ガキのどっちかって訳だな」
「大穴で視殺が裏切った可能性もあるがな」
「無いな。あれには首輪が付いてんだ。下手な素振りを見せたらアゲノルが仕組みを作動させる」
作動させる間もなく殺された可能性も考えられるが、考え出したら限が無い。
元よりあまり難しい事を考えたいとは思わないエクバソスは、それについて議論を打ち切ると新たな議題を持ち出す。
「それよりも視殺と聖女クラウディアが行方不明ってのは、このまま戻ったら大問題じゃねえか? 大体、何であの小娘を連れて来た? 色々利用価値もあっただろうに」
「視殺が生意気にも彼女の同行を強硬に主張したからだ。事実、あの能力と相俟って異常なほど遠距離から攻撃を仕掛けていたのは見ただろ?」
「……銃って奴だったか? あれ、俺からすると音がデカくてかなわねえ。耳が馬鹿になりそうだ」
狼人族であるエクバソスの耳は、庸儿とは位置が異なって頭の上部についている。形状も異なり、狼のそれに似ていて、見た目に近い性能を持っているのだろう。
“転装”時に比べたら幾らか劣るにしても、常人とは比べるまでも無い聴力を持って居るのは間違いなかった。
「で、死んでるにしろ逃げたにしろ、聖女クラウディアはどうするんだ? 探すか?」
「無論だ。もしも首輪が健在で解錠されていないなら、そこから探す手立てがない訳では無い。一先ずアゲノルを探すぞ」
「了解だ。けど今日はもう無理だろ、日が暮れる。夜の森の中を動き回るのは効率も悪いしな」
「そうだな。払暁と共に動く。空が白み始める前には準備を完了しておけ」
「あいよ」
方針が決まり、てきぱきと指示を出すペイラス。
それにエクバソスらは文句を言うでも無く各々了解の意を示していたのだった。
◆◇◆
水とは、生物が生きて行く上でなくてはならない物である。その用途は非常に広く、特に大事な水分補給を始めとして、人間を含めた殆どの生物と密接にかかわっているのだ。
その中の一つに、水浴びがある。
鳥の種類の中にも似たような事をする種類は居るが、人間もまた鳥と同じ様な理由で水を浴びる。
これは偏に衛生と言う観念があるからであり、肌に付着した多様な汚れなどを落としていく。これをしないと不衛生極まりない体が余計な病を呼び込み、時には死に至る。
少なくともその事を知って居れば、水浴びをしない訳にはいかなかった。
「シグちゃん、傷の調子は?」
「もうばっちりだ。レメディアの手当てとリュウさんの投薬のお陰だな。出来れば二日も待たずにもっと早く投薬は欲しかったが」
「仕方ないよ、シグちゃん消耗してたし。魔力がある程度回復するまであの投薬はしないってリュウさんも頑なだったからね」
ぱしゃん、と水音がして少し離れた場所で小魚が跳ねた。それに続いて二倍ほどの体躯を持つ魚が続き、丸呑みにして川面へ消えて行く。
肉食性のやや獰猛な中型魚だが、その川で水浴びをしている二人の少女は特に注意を向ける様子もない。それどころか、彼女達の周囲の川岸には、氷漬けにされた同じ様な魚が打ち上げられていた。
「この川は良く取れるな。水浴び出来て食材も手に入るとは、中々効率が良いぞ」
「近付く奴は片端から氷漬けだもんね」
「もしラウ達が覗きをするようなら、奴らも氷漬けにする覚悟はある。心配するな、レメディア」
「いや、その場合心配するのは私やシグちゃんじゃないかも……」
決意も固く、締まった表情で頼もしく言い切る天色の髪をした少女に、レメディアは苦笑した。
だが、直後に彼女の脳裏に蘇る記憶。
それはかつて、似たような状態でラウレウスに裸を見られた時のことだった。
あの時は不意の遭遇で、久し振りの再会で、驚きもあって体も思考も停止して、まじまじと一糸纏わぬ体を見られてしまった。
思い出しただけでも顔から火が出てしまいそうだった。
「どうした?」
「……何でもない」
澄んだ川の水に目から下まで体を沈め、ポコポコ泡を出す彼女を見てシグルティアが怪訝そうに訊ねて来るが、川面から口を出してそれだけ言う。
そしてすぐにまた顔を半分まで沈め、ポコポコと泡を出すのだ。
「本当にどうしたんだ、レメディア?」
「気にしないでってば。それより、シグちゃんはこの前の戦いでラウ君に助けられたんでしょ? 一体どんな敵だったの?」
これ以上は白を切るのも難しいと判断したレメディアは、否定と共に間髪入れず新たな話題を引っ張って来る。
それをそのままシグルティアに向け、話題を逸らせば、彼女もそれ以上深く追及せずに質問へ答えていた。
「どんな……そうだな。殴っても殴っても碌な傷を負わせられない相手と言うべきか。とにかく気味の悪い敵だった。悔しいがラウの助けが無ければ、私はあの場で殺されていた」
「怪物、みたいだね」
「全くだ。ラウの奴は薬の効果によるものだと看破して、効果が切れたところで撃破したらしいが……不覚にもその後、気絶していた私は背負われ運ばれた」
見っとも無い姿を見せてしまった事が恥ずかしいのか、今度はシグが川面に沈む番だった。
仄かに耳を赤くし、ポコポコと泡を立てている後ろ姿を見てレメディアは思わず失笑してしまうが、するとシグルティアが抗議の色を多分に含んだ目をしながら振り返る。
「何か文句あるのか?」
「別に、何も無いよ。ただ可愛いなあって」
「~~~~っ!! 調子に乗るな! たかが二歳年上程度の分際でっ! 憎たらしいくらい立派なモノを二つも持って!」
「ちょっ、シグちゃん!? 待って止めてくすぐったいから!?」
「ええい黙れ!」
バシャバシャと激しい水音とレメディアの悲鳴、シグルティアの怒声が飛び交う。近くを優雅に泳いでいた川魚たちは驚いて一目散に逃げ去り、だがそれでも文字通りの揉み合いは続く。
「そう言うシグちゃんだって、相応のモノは持ってるでしょ!?」
「うわっ!? 何をするんだ!?」
「前々から思ってたけど、シグちゃんて綺麗だよね色々。ほら肌なんてこんなに……」
「ひゃあ!? 待て待て待てレメディア!? どこ触って……!」
攻守の逆転は寄せては返す波のように繰り返され、悲鳴と笑い声が交錯する。もしもこの場に年頃の男子が居た場合、全身色々な場所が硬直して、前屈みのまま動けなくなっていたかもしれない。
ただ、その事態が起きたとしたら、間を置かずにシグルティアの魔法によって氷漬けにされるだろうが。
当然そんな仮定が現実に起こる筈も無く、一頻りじゃれ合った見目麗しい少女達は、互いに距離を取って川の中で丸くなり、顔を赤くして睨み合っていた。
「な、中々やるじゃないか、レメディア」
「シグちゃんこそ……」
荒い呼吸と川の流れる音が辺りを支配し、両者の間には沈黙が訪れる。だがそれもすぐに、小さな二つの笑い声に取って代わられていた。
やがてその笑い声は次第に大きなものへとなって行き、しばらく続く。
「……私、ちょっとシグちゃんの事を誤解してたかも」
「誤解? 何をだ?」
「ほら、元東帝国の皇女だし、ちょっと御堅いみたいな印象だったんだけど、こうして蓋を開けて見たら思ったより面白いって言うか」
「私、そんなに詰まらなそうな顔をしていたか……?」
地味にショックを受けた顔をしたシグルティアに、違う違うとレメディアは首を横に振る。
それから距離を詰め、息を吹きかければ届きそうな位置でシグルティアの手を握った。
「普段、思い詰めた顔してる事が多かったから、余り余裕が無いのかなって。ラウ君からも聞いたけど、シグちゃんの大切な仲間が行方不明なんでしょ?」
「まあ……そうだな。それは否定しない。今でも時折心配なのは事実だ。リュウさんと契約しているらしい后羿と言う精霊が探しに行ってるが、それでも眠れない事もある」
「でもそれを、私達に言う事は今まで無かった。今こうして私に言ったのが初めてでしょ?」
その指摘をされて、シグルティアは苦笑した。確かに自分がこの旅の仲間すらそこまで信用していなかった、信用出来ていなかったのは事実だと自覚したから。
それなりに気を許しているつもりではあったが、自分自身のプライドもあって余り他者に頼ると言う事にも考えが及ばなかった。
「気付いてた? さっき一緒にじゃれた時、私が見た中でも一番自然で大きな笑顔だったんだよ。多分、他の皆は見た事ないんじゃないかな」
「別に私だって笑うくらいするさ。馬鹿にするな」
「私にここまで元気に反撃して来るとも思わなかったなあ。かなり生き生きしてたし」
「……止めてくれ」
色々と気恥ずかしくて、人懐っこい笑みを浮かべるレメディアの顔が直視できない。明後日の方に首を巡らせ、再び川の中へと沈んでいく。
しかしそれを逃がすまいとレメディアの追撃が行われるのだった。
「逃がすかっ!」
「なっ……!」
視線を逸らしていた事を逆に利用され、隙を衝かれて再び体をまさぐられてしまう。情けない悲鳴が出そうになったところを寸前で噛み殺し、シグルティアもまた負けじと応戦する。
第二ラウンドが開幕したが、互いに水中で動き回るのが慣れていないだけに、川の中へ共倒れしてすぐに終幕を迎えた。
「……満足したか、レメディア?」
「まだかなあ。折角こうして出会えたんだし、色々話を聞きたいって私は思うし」
「話? 私は別にそこまで話し上手って訳でも無いぞ?」
「そうじゃなくて。私ってラウ君と同じで農奴だったからさ。村の外の事って元々何も知らなかったんだ。色々あって今はここに居るけど、そうじゃ無かったら村の事しか知らないで誰かと結婚して、子供を産んで、疲れ果てて死んでいくんだろうなって」
青空に浮かぶ雲を見上げながらレメディアが話す姿に、シグルティアは視線が釘付けになっていた。
彼女自身の口から、既に元は農奴である事は聞かされていた。だからそれ自体に驚きはしないが、彼女の発言そのものに驚かされたのだ。
農奴とは普通、畑を耕し村で暮らす以外の事は何も知らない。それ以外は本当に何も知れないのだ。何故なら知ろうともしないし、知らせても貰えない。
シグルティア自身、皇族であった時に農奴を見てその事実を知っていた。彼らは自分の人生が他者に縛られている事に不自然を一切感じず、大人しく何もかも諦めて暮らしている。
いや、本人には諦めていると言う自覚すらない。何故なら知らないから。
“知らない”とは、そう言う事だった。
だから、元は農奴のレメディアからここまでの言葉が出て来たと言う事実に信じられない気持ちで一杯だった。
一体何が、彼女をここまでの“人間”にしたと言うのか。ハッキリ考え、意見を述べられるという人間の能力は、知らなければ身に着ける事が出来ない。
彼女に対して元々不思議に思っていた事が、明確に言語化された瞬間だったのである。
「そう言えばラウと同村出身だったな。奴も元は農奴にしては随分頭が回ると思うが」
「あの子は元からだよ。私と同じ農奴なのに、何も知らないし、知ろうともしない筈なのに、どうしてか元から知っていた。私達には出来ない考え方をして村で一緒に暮らしてた」
「……前世があると言っていた訳だし、それなりに前世では恵まれた環境で育ったんだろう。真性の農奴なら私がラウ達と出会う事は無かったな。本当に不思議な事だ」
リュウが時々言う、縁と言う奴だろうか。最近ではラウレウスにも伝染し始めているが、漠然としか分からなかったその言葉の意味は、重みと実感を持って彼女の心に落ちていた。
「やはり人は、環境でいかようにも変わるものだな。レメディアを見ているとそれが良く分かる」
「えっと……ありがとう?」
「いや、感謝されるような事じゃない。寧ろそれは私の台詞だ。私としても、君の事をもっと知りたくなった」
自然、またシグルティアの顔に笑みが浮かぶ。
それにレメディアもまた微笑み返し、そして話を続けていた。
「ラウ君はさ、昔から本当に頼りになって……私も皆も結構頼りにしてたんだ。本当に格好良くって」
「嬉しそうだな」
「好きな人の事だから当然だよ」
「……へ?」
サラリと出て来た衝撃的な言葉に、たっぷり沈黙した後でシグルティアは間抜けな声を漏らしていた。
その顔もまた、普段の彼女からは想像できない程に非常に間抜けなものだったが、当人にその自覚は無い。
硬直したまま、脳内では思考が目まぐるしく巡っていた。
「す、好きって……結婚云々の?」
「そうだよ。最初は家族の一人みたいな感じだったけど、気付けばね。多分、タルクイニ市でラウ君と再会して、また別れた時が切っ掛け、かな。もう離れたくないって強く思う様になって、そこから」
「そ、そうか……凄いな、レメディアは」
シグルティアが衝撃を受けるのも無理からぬ事である。何故なら彼女は元皇族。それも第三皇女である。要するに元々が箱入り娘である。
貴族として自由恋愛など望むまでも無く、いずれは父の命によって嫁ぎ先を決められるか、どちらにしろ政略的な結婚となるのが当たり前だった。
嫌だったし、絶対に避けたかったが、民の為に政治を行うにしても避ける事が出来ない道だったのだ。
だからこう言った事に馴染みが無い。自由恋愛について、こんな至近距離で話す日が来るなど思いもしなかったのである。
「シグちゃん、好きな人居ないの?」
「私?」
「そそ。シグちゃんだって元皇族で今は違うって言うんなら、自由に恋愛して良いんだよ? ラウ君からも聞いたけど、貴族ってその辺大変なんでしょ?」
「大変……まあそうだ。だがそれが務めだし、必要な事だと思っていたからな。私が誰かを好くなど……」
まず考えられない。実感がわかない。自由恋愛は庶民や、もしくは説話の中での話であって、シグルティアからすれば非常に縁遠いものだった。
だからその質問に、彼女は答えようがなかった。答えを探そうとしても、思考が追い付かないのである。
「勿体無いなあ。こんなに可愛いなら、村でも都市でも引く手数多だと思うよ? 皆、是非とも妻にっていうだろうし」
「そ、それを言ったらレメディアだって……」
「私は良いの。もう決めてるから。それより今はシグちゃんの話でしょ?」
話を逸らそうとするのだが、結局レメディアの方が口は達者らしい。あっさりと話題を引き戻され、突き付けられる。
「本当に気になる人とか居ないの? もしくはこんな人が良いとか」
「……そんなもの、ある訳ないだろ。第一、今の今までそれどころじゃないんだから」
悪戯を仕掛けているような笑みを浮かべるレメディアから視線を逸らし否定するのだった。
だが、その時にふと頭を過る、誰かの知らない記憶。
誰のかも知らない視界に映る世界、知らない少年。
誰のかも知らない気持ち。想い。
誰のかも知らない後悔。
どういう訳か胸が締め付けられるような気持ちが押し寄せて、けれどもそれを押し込めて表には出さない。
良く分からないけれど、恥ずかしいと思ったから。
だから意地でも押し留めた。
「折角私は自分の好きな人を教えたのにー……不公平だよ?」
「や、私は別にレメディアに訊いてないぞ。教えないと言ったら教えない!」
「教えない? あ、じゃあ居るんだ? さっきまであれほど白を切って置きながら酷いよ!?」
「ち、違う! 今のは言葉の綾で、そう言う意味じゃないぞ!」
しかし幾ら否定したところで、レメディアから向けられる疑いの目は変わらない。寧ろ口を開けば開く程に疑いの色が深くなってしまっているような気がしなくも無い。
しかし黙っている事はできなくて、躍起になってシグルティアは否定を続けていた。
それはまるで、彼女にとって訳の分からない記憶と感情を吹き飛ばしたり、或いは閉じ込めようとしているみたいで。
事情を知る由も無いレメディアの詰問が続く中で、シグルティアが己自身に言い聞かせている様で。
――もう、後悔はしたくない。
シグルティアは誰のものかも分からない、その悲痛な叫びに知らない振りをして振り払い、閉じ込めていた。
けれどもそれは、いつまでも彼女の心の中に残り続け、スッキリしない感情がいつまでも残り続けるのだった。
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