第二話 ゴブリンズ スケルツォ ①
季節は過ぎ、雪も少なくなりつつある、三月。
気付けばあれだけ短かった昼は徐々に徐々に長くなり、雪化粧を見る機会もめっきり少なっていた。精々が物陰にその僅かな残滓を見せる程度で、時折積もりはしても除雪が必要な程にはならなかった。
あれだけ少なかった太陽の顔だしも増え、青空から燦々と降り注ぐ光は、暑くも無く寒くも無く。草木が萌え、湿った土と一緒になって匂い立ち、鼻腔を満たしていた。
そんな麗かな陽気に見向きもせず、俺は地面を蹴る。その先に居るのは、巨大な熊の姿をしたエッカルトだ。
冬の間彼の宿で世話になり、そして一週間に一度勝負に負ける度にその間馬車馬の如く扱き使われた。数にして十戦は行い、そして全敗。俺だけではなく、シグもスヴェンもレメディアも、皆揃って勝てなかった。
エッカルト自身が歴戦の猛者である事も原因の一つだが、特に大きかった事としては試合場の環境が悪かった。
今までは雪が深くて足場が不安定だったのだ。そのせいで碌に機動力を発揮できず、近寄られて化儿の身体能力に押し負ける。特に俺の場合、リュウから白魔法の使用を原則として使用禁止にされ、魔力で身体能力を強化する事しか許されない。
幾ら体内で魔力を循環させて力を底上げしても、そもそもの体躯が違うので真面にやり合える訳が無かった。
しかしそれでも、ここまで戦って居ればいい加減やり方も分かって来ると言うもので。
「嫌な動きをするようになったじゃねえか!」
「これだけ戦ってれば、アンタの癖だって少しは分かって来るさ! それに今回は、雪が無え!」
一週間前も雪が深く、やはり足場は最悪。それでもコツを掴んでそれなりに組み合ったのだが、熊の四肢に比べれば人間のものなど貧弱でしかない。リーチの差もあって負けてしまった。
しかし今週は違う。試合場の雪はほぼ解け、湿った地面が露出しているのである。まだ日陰の部分には残っているが、それも大した厚さではないし、仮に足を踏み入れたとしても機動力が大幅に低下するような事は無かった。
「貰いッ!」
「――っと!?」
一瞬の隙を衝いて回し蹴りを見舞うが、紙一重で躱されてしまう。顎を狙い過ぎてしまったせいで、どうやらエッカルトにも気づかれていたらしい。
「そう言えばあの後、一度もアルトゥールとかいうチンピラの姿、見ないんだけど?」
「お前らに突っかかるのを止めただけだろ。勝てないと判断した相手に尚も突っかかる程、奴も馬鹿じゃない」
「……それもそうか」
三カ月ほど前。丁度初めてエッカルトに全員が敗け、奴隷のように扱き使われた二日目のことだった。夜、アルトゥールに率いられたチンピラたちの攻撃を受け、それを俺とスヴェンが迎撃した。
そんなに強い相手では無かったが、今でも彼の主張をふと思い出す事がある。それは、化儿を害する連中を許す事は出来ないという、彼の心からの怒りだった。
エッカルトから後で聞かされたが、アルトゥールもまた故郷を奴隷狩りによって焼かれた者の一人らしい。その際、連れ去られた彼の肉親の行方は杳として知れないのだと言う。
彼と、彼の仲間の多くはそう言った過去を持ち、いずれも庸儿そのものに対して深い恨みを抱いている。
だから他種族を積極的に攻撃するし、排斥に走る。この街に住む市民すら、彼らの話を聞いて義憤を抱き、或いは庸儿に対して警戒心を強める。
これはもう、一世代だけの話ではない。何百年にも亘って起こって来た事の一つであり、それだけ根が深いものだとエッカルトは語っていた。
「……お前、こんな時に他の事を考えてるだろ? 警戒が甘いぞ!」
「ぐっ!?」
繰り出された腕を避け切れず、両腕を交差させて防御する。それでも体全体を震わせる衝撃は凄まじく、歯を食いしばって踏み止まるのだった。
しかしそれでも、地面に二本の線を描きながら後退させられるのはどうしようもない。これが体格の、質量の差だ。
「ここで押し込む!」
「させねえよッ!」
追撃、と一気に距離を詰めて来るエッカルトに対し、それを予想してこちらもまた接近する。その挙動に意表を衝かれたのか、熊面の目が見開かれた様な気がしたが、本当に驚いたのかは定かでない。
彼の顔が今は人間のそれではない為、表情そのものを読み取り難いのである。
ただそれでも、気配から察するに意外性はあったのだろう。鼻を明かせた事に満足しながら、上体を前のめりに屈め、タックルをしていた。
その結果こちらを狙って横薙ぎに振るわれたエッカルトの腕は空を切り、俺は思い切り彼の腰へと跳び付くのだった。
「――うおっ!?」
「勝った」
直後、エッカルトの巨体が背中から倒れ込み、馬乗りの体勢を取る事に成功する。とは言えこれは模擬戦。実際に止めを刺す必要はなく、右の拳を彼の顔面で寸止めした所でリュウの審判が下された。
「そこまで、勝負あり」
「……負けちまったな、最後の最後で」
「ギリギリだったけどな。これで俺には肉を振る舞ってくれるんだろ?」
エッカルトの上から退きながら最初に行った取り決めを持ち出せば、彼は後頭部を掻きながら苦笑する気配を見せる。
その反応から読み取るにそう言えばそんな約束もしたな、と言った感じだろうか。これまで自分が勝っていたせいで記憶が薄かったらしい。何とも腹立たしい事である。
「どの道、お前らは明日にでも出発するんだろ? ならそれくらいの送別会はしてやるつもりだったぞ」
「……俺が勝った意味は?」
「そもそも、お前以外の連中は今日も負けてる。ここで契約の履行を求めると、全員勝つまで旅が再開出来なくなるぞ」
確かに、その通りである。試合場のコンディションは自分達にとってこの上なく有利だと思っていたシグも、スヴェンもレメディアも、結局今日も負けていた。
雪が無ければそれなりに自由な動きが出来ると思っていたのだが、それはエッカルトも例外では無く、あっという間に近接戦へ持ち込まれてしまい敗北していたのである。
シグは身体強化術を扱えるのでそれなりに組み合っていたが、組手に対する経験の差で地面に倒され敗北。今も不満そうに頬を膨らませてそっぽを向いていた。
「まあ何にせよ、お前らとも明日でお別れだ。中々楽しい冬を過ごさせて貰った。機会があればまた寄ってくれ。安くしてやる」
「ついでに肉も付けてくれ」
「それは俺との勝負に勝ってからだな。勿論、雪の上でだ」
「肉食わせる気無いだろ」
元々は宿屋の主人と客と言う関係でしかなかったが、気付けば気の置けない会話をする仲になり。
自分も、あれだけ他者を警戒していた時期があった事が嘘のように、相好を崩す機会が多くなったと自覚している。
「けど君達、宿の御主人の下で使い倒された間に腕が上がったよね。魔力の操作とか上手になっているよ」
「そりゃ、コイツに勝つために色々研究したし、化儿と同じように働こうとしたら魔法使わないといけませんからね」
エッカルトは強い。彼自身は自分の実力を未熟だと謙遜するが、強い。と言うか巧い。攻撃する機会を正確に捉えて来る印象だ。しかも雪の上ですら駆け巡れる身体能力もあって、少し工夫した程度で勝てるような相手では無かった。
それに加え、彼から割り振られる仕事も尋常ではない。元々の基準が化儿である為、普通なら持てない様な物まで平気で持たせて来るのである。しかも肉体労働時間も長い。白儿や庸儿、靈儿の体からすれば明らかに過負荷であった。
そんな環境に三カ月以上も身を置けば心身ともに鍛えられるのも納得であろう。
「やっぱり僕の目に狂いは無かった訳だ。感謝してくれて良いよ?」
「それをすべきは貴方じゃなくてこっちなんで」
自慢げに胸を張る仮面の人物――リュウ。だが彼から目を逸らすと、俺はエッカルトを指差していた。
既に彼の装いは人間のそれへと戻っており、大柄で筋肉質な三十半ばの男性のものとなっていた。ただ、顔の厳つさの割に頭頂部付近に生えた熊の耳が、何とも言えないギャップを生み出している。
「結局、お前は俺と戦う時に魔法を使う事は一切無かったな。アルトゥールと戦う時に少し見たが、ありゃ何だったんだ?」
「いやまあ、そう言う魔法なんだ。余り人様に見せたくない事情もあってさ」
「それならもう深くは訊かねえけど……本気じゃないお前に負けたってのは釈然としねえな」
他の三人には魔法ありでも勝ったのに、とエッカルトは少し悔しそうな顔をしていた。それを見て一瞬話してしまいそうになるけれど、それを寸前のところで思い留まる。
今はまだその時期ではないと、自分の心のどこかが告げている気がしたのだ。
「もし次会った時に話す事が出来れば、アンタに話してやらない事も無いよ」
「ありがとよ。それじゃ、槍が降ってもいいように屋根を補強しとくよ」
「……失礼な奴だな」
そんな言葉を交わし、笑い合う。
そこを駆け抜ける、穏やかな風。肌寒くも無く、熱も持たず。体を包み込む様なそれが、辺りを流れていた。
◆◇◆
『取引しようぜ、なあ?』
『……取引?』
『簡単な話だ。俺らに協力してくれたら、お前の連れは解放してやる』
『本当にそれを守ってくれると言う保証は?』
『今のお前が保証を求められる立場にあると思うか? 従わなければ確実にお前の連れは返って来ないぞ』
化儿の男は、そう言って笑っていた。暗い夜の街の中で交わされたその会話は、今でも鮮明に思い出せる。
『お前が“視殺”だってのはとっくに見当がついてんだ。これは依頼だぞ。そして報酬がお前の連れの解放。どうだ?』
『……好む好まざるに関わらず、乗るしかないって事だな。この契約、裏切ったら只では置かない。覚悟しておけ』
『おー、怖い怖い。結構な事で。それじゃあ俺の前を歩いて貰うぜ。道案内はしてやるから安心しろ』
己の連れは、既に男の腕の中で首元に短剣を突き付けられている。だが、その表情には大した変化も見られず、助けを求める事もしない。
感情そのものが麻痺した様に、大人しいのである。
『聖女クラウディア、だっけか? 千里眼を持つ異能ってのは大層便利だよな。この娘も、色々なものを見過ぎて感情でも欠落したか?』
『黙れ。お前らみたいな奴らが居るせいで、イッシュは碌に笑う事も無いんだ。能力を利用する事しか考えない連中が……!』
『おっと、そんな怖い顔するなよ。俺の手が震えで首を切ってしまうかも知れねえぞ?』
アゲノル、と名乗った男はそう言ってまた笑い、暗に有無を言わず従えと再度要求していた。それに従わねばどうなるかは分からない。
仕方なく指示されるがまま男に先行して歩き出す――。
「随分と怖い顔をしているな。どうした?」
「……自分の胸に訊いてみろ。イッシュに何をしたと思っている?」
「ここに居るクラウディア・セルトリオスのことか? 安心しろ、今すぐには死にはしない。ここでお前に裏切られても面倒だからな」
空の檻馬車を連れた部隊らしき後に続いて街道を行く、十人ほどの影。その装いを目にした者は、彼らを見て巡礼者か旅人とでも思う事だろう。
それくらい何の変哲もない装いをしており、擦れ違う者も何事も無く通り過ぎて行く。
だがそんな中で密かに躱されている会話は穏やかなものでは無かった。
少女を人質のように引き連れたペイラスと名乗っていた長身の男を、やや小柄な少年が睨み返し、そして殺気を叩きつけているのだから。
「まさか、噂に名高い殺し屋の“視殺”がこれほど若いとは思わなかったぞ。しかも剛儿とは」
「何が言いたい?」
「疑り過ぎだ。私は只談笑がしたいだけ。こう何も無い道を歩くのは退屈だろう、シャリクシュ?」
本名を呼ばれ、剛儿の少年は不機嫌そうに目を動かし、睨み付けていた。そしてそこに乗せる殺気も、冗談の類で済むものではない。
「馴れ馴れしく俺の名を呼ぶな。殺すぞ」
「その肩に担いだ棒で殺すのかね? 残念だが、それをした瞬間に君と結んでいた約束も反故となる。君の連れであるクラウディア・セルトリオス……いや、イシュタパリヤと二度と顔を合わせる事も無いだろうが」
やれやれと肩を竦めるペイラスだが、殺気をあてられたと言うのに特に大した反応もせず、そして平然と話を続けていた。
「君のその武器……銃と言ったか? 中々興味深いな。どこで仕入れた?」
「何度も言わせるな。作ったのは俺だ。製造方法は教えないとも伝えた筈だが?」
「ここに少女と言う人質を取られている身分で大した事を言うな」
「俺が結んだ契約に銃のことは含まれていない。それでも無理を言うなら、俺は今ここでお前らを殺してイッシュを連れだす」
それが本気である事を表す様な迫力に、同道しているペイラスの部下達が息を呑んでいた。しかしやはりペイラスの態度に変化はない。
寧ろ試すように言うのだ。
「出来るのか、君に? 言っておくが私達は監視役も兼ねて居るんだぞ? 生半可な実力ではないと何度も言っている筈だが」
「それは俺の台詞だ。お前ら程度で俺が止められるか。余計な殺生と危険を避ける為にこうして一緒に行動しているに過ぎない事を、忘れるな」
「強がりを言ってくれる……まあいい、精々肝に銘じて置こう。それよりも今回の任務だが、まだ伝えて居なかったな。済まない」
思っても無い事を言う様な、素っ気ない謝罪。だがそれに一々突っかかっても時間を浪費するだけだと判断したのか、シャリクシュは黙って話を聞いて居た。
「我らが行くのはアレマニア連邦。その東側領邦を見て回る。冬が開け始めた程度のこの季節、まだ目標はその辺に居るだろうからな」
「目標ってのは?」
「元東帝国第三皇女、シグルティア。及びグラヌム出身の白儿、ラウレウス。顔については私達が覚えているから安心しろ。最低限この二名の捕縛と、他は殺して構わない」
任務内容を聞かされてシャリクシュが思うのは、東帝国皇太子の名の下に大量にばら撒かれた手配書の内容だった。
ビュザンティオンにて大暴れした者達が指名手配され、シャリクシュが同時刻に行った大聖堂への襲撃も、自分の姿を上手く隠せたお陰か彼らの罪状となっていた。
「……手配書に載ってる連中を攻撃するって事だな?」
「大体その通りだ。しかし、仮面を着けた“リュウ”には注意しろ。迂闊に手を出すな」
「分かった。その程度なら従ってやる」
元第三皇女シグルティアなら、シャリクシュとしては知らない仲ではない。何故なら、示し合わせてそれぞれ大宮殿と大聖堂を襲撃したのだから。
だが、所詮それだけの間柄であるとも言える。利害が一致しただけなのだ。
抵抗が無いとは言わないが、シャリクシュは殺し屋である。必要とあらば撃ち殺す事に、躊躇など在りはしなかった。
暗い顔でペイラスに連れられている、見知った少女に視線を向ける。これまで殺し屋稼業をやって来たからか、視線を向けている事に気付く者は皆無だった。
「イッシュ……必ずお前を」
天神教の総本山であるビュザンティオン、その大聖堂から救出する事にも成功したのだ。今回もまた彼女を救って見せる。
雲がまばらに浮かぶ青空の下、銃を担いだ少年は心に誓っていた。
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