第四話 100% (hundred percent)②
◆◇◆
「……多大な御迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
「全くですよ。何ですか、あの凶悪な女精霊は?」
アミューズメント施設を想起させるように、人の声が飛び交う。それは笑い声であったり、悲鳴であったり、怒声であったりと様々な感情の坩堝と化していた。
そんな喧騒を背景に、リュウとメルクリウスは向かい合い、俺はそれをリュウの隣から眺めて居た。
因みにスヴェンは美女――ウェヌス共々酔っ払いの群れの中へ突入して行った。その度胸を褒めるべきか、もしくは呆れるべきか。どうなろうが所詮他人事なので心配には至らない。
「私としても、ウェヌスの戻りが遅いので探していましたが……まさかあなた方の部屋に突入して居たとは想定外でした」
「メルクリウスさんの来訪がもう少し遅かったら、僕は彼女を斬り捨てて居ましたよ」
「いや、間に合って良かった。ラウレウスさんの絶叫に気付かなければどうなっていた事か。重ね重ね申し訳御座いません」
心底安堵した様子で、メルクリウスは小さな息を吐いていた。何となくその姿に彼の苦労が滲んでいるような気がして、同情の念が湧かなくもない。
しかも当の本人はへべれけの精霊たちと一緒になって暴飲暴食の真っ最中。謝罪をさせる事などとても出来そうになかった。
「出先だと言うのに、随分豪勢な宴会ですね。支払いは大丈夫なのですか?」
「ええ、まあ私の金ですよ。こうして精霊一同、久し振りに集った訳ですから」
ここは、斜め向かいの宿屋。その一階の酒場である。
言うまでもなくユピテルら精霊達が宿泊している場所であり、連日昼夜問わずに貸し切りで騒いでいる。
空になった皿は山積みにされ、給仕係は細心の注意を払って洗い場へと下げて行く。
厨房では働き詰めで撃沈した調理係の幾人かが魂の抜けた顔で天井を仰ぎ、或いは死んだように倒れていた。
僅かに生き残った料理係もまた半分魂の抜けた顔で調理を済ませて行く。その動きはまるで機械のようであり、また不気味な程に正確で素早かった。
他にも、ただ酒にありつこうと思ったらしい部外者の旅人も複数乱入した結果、精霊たちによって潰されまさに死屍累々。
未だに楽しんでいるのはほぼ精霊ばかりと言う、もはや人間が居て良い世界はそこには無かった。
「リュウさんとラウレウスさんも混ざってみては如何です?」
「「いえ結構です」」
にこやかに地獄への手引きをして来るメルクリウスに丁重なお断りを入れ、そしてユピテルとサトゥルヌスへ交互に目を向ける。
性格が出ているのか、前者は豪快に飲み食いし、豪快に笑っている。後者もまた似た様なものだが、所作は基本的に丁寧で、大口を開けてまで笑う真似はしない。
見た目は全く同じだが、細かい部分では違いがある辺り、まるで双子の様だった。
「ユピテルとサトゥルヌスが気になりますか、ラウレウスさん?」
「え? あ、いや……」
「隠さずとも結構。私としても、タルクイニ市での出来事を見ていますからね。何故いきなり貴方がユピテルに襲い掛かったのか、その理由は非常に興味がある」
ニコリと微笑むメルクリウスだが、その黝い眼は人の心の奥底まで見透かす様で、背中が粟立つ。
無意識のうちに後退ろうとしたが、その背中をリュウの手が受け止める。
「メルクリウスさん、その手でラウ君に何をするつもりだったかな?」
「いえ、髪の染料が私の卸していたものと違う気がしまして。あれだけの量、もう使い切ってしまわれたのですか?」
「使い切ったって言うか、没収されましたね。ビュザンティオンで捕まった際に」
その為、脱出後暫くは髪を染められず、白髪のままだった。メーラル王国に入り街道に出てからは、染料が手に入ったお陰で必要以上に髪を隠す必要も無くなったが、相変わらず水濡れは厳禁だ。
「そうでしたか。しかし、リュウさんと行動を共にして、この国寄った後は何処へ行かれるお積りで? 宜しければ私の方でもお手伝いしますよ?」
にこやかに話すメルクリウスからの提案。何故なら彼もまた俺が白儿である事は知っているのだ。前世の記憶を持っている事までは話していないが、タルクイニ市で追い詰められた際には彼の力を借りた。
そこだけ切り取れば味方の様な気がしなくもないが、彼はあのユピテルやサトゥルヌスと繋がりがある。
つまり、神饗と繋がりのある可能性があるのだ。
そんな精霊の力を借りるには抵抗があり、どうしたものかと口籠っていると、またもリュウが庇う様に割って入ってくれた。
「お構いなく。僕が責任を持って彼を守りますとも。少なくともこの子は、生きたいと強く願っている。その為の努力も惜しまないから、僕はその限り見捨てることはあり得ません」
「なるほど。ですが残念ながら、私はラウレウスさんに確認しているのです。貴方の出る幕は無い」
互いににこやかな表情でありながら、言葉は強い。背景では相変わらず馬鹿騒ぎの音がするのだが、それでさえもこの真剣な空気を崩せる気配は無かった。
「ラウレウスさん、どうです? 私なら、商会の力で安全に今後の生活を保障出来ますよ。もとより私達と白儿は縁が深い。ユピテルの伝説を考えれば分かる通り、裏切る事は無いと約束しましょう」
「その伝説は僕も知っています。あそこに居る精霊がそのユピテルでしょう? ですが、あの精霊は本当に封印されていたので?」
「……リュウさん、何が言いたいのですか?」
冷たい視線が交錯する。両者に笑顔はもはや無く、絶えず聞こえてくる誰かの笑い声だけが寒々しく響いている様だった。
どちらも真剣で、そして警戒している様子を隠そうともしない。ともすれば互いに実力行使となってもおかしくなかった。
「封印されているふりをして、陰で何かしていたのではないかと思いましてね」
「一体何を疑っているのかは分かり兼ねますが、ティンに……いやユピテルに掛けられていた封印は本物です。現に私達では破れず、白儿であるラウレウスさんの血液で初めて開封された。それは彼自身が良く知っている事ですよ。ただ、本当に見動きが取れなかったかどうかはユピテル本人しか分かりませんが……あれが嘘を吐く筈がありません」
「白儿の血で? 興味深いですね。僕としても、是非後で確認してみたいものだ。しかし貴方の言い分はどれも今の私にわかる形で提示出来る訳ではないでしょう?」
双方の威圧感が増す。直接それを向けられた訳でもないのに、喉が急速に渇いて行くのが分かった。
出来る事ならこの場から一刻も早く逃げ帰って、宿の部屋に籠ってしまいたいところだが、下手に動けば自分が攻撃に晒されてしまいそうだ。
それくらい、空気は切迫していた。
「リュウさん、貴方は私の何を警戒しているのですか?」
「貴方こそ、僕の何を警戒しているのです? 僕はただ単に、神饗を警戒しているに過ぎないのですが」
「……それはこちらも同じです。そして、失礼ですが貴方がそうなのかもしれないとも思っています」
睨み合いは、空気が張り詰めたまま続く。互いに腹を探り合い、何が真で何が偽かを見破ろうとしているのだろう。
「僕も貴方も、神饗については知っているという訳ですか。別にその事について驚きはしませんが、メルクリウスさんこそ、その関係者ではないと言い切れるので?」
「それは御互い様でしょう。ラウレウスさん、貴方はどう思いますか?」
「え、え!? いや、どうもこうも、俺にはとても判断がつきませんけど!?」
藪から棒に話を向けられ慌てて返事をするが、思考が現実に追い付かなくて碌な言葉が出て来ない。
自分から見れば、両者の内信頼出来るのはリュウの方である事は当然だが、それを直接口にするのは憚れる。
ただでさえここだけ空気が悪化しているのだ。更に油を注ぎかねない様な真似だけは回避したかった。
しかし、リュウとしてはここまで来てしまったらもう遠慮もする必要はないと思ったのか、遂に禁断の領域へと踏み込んだ。
「あそこのユピテルさんとサトゥルヌスさんについて、僕から単刀直入に訊ねたい事があります」
「……あの二人について?」
いきなり話の流れが変わった事は想定外だったのか、流石のメルクリウスもその顔に困惑の表情を浮かべていた。
それでもリュウの纏う雰囲気に一部の変化も見られない事から、気の抜けない話であると判断したのだろう。即座に真剣な表情へと戻ると、話の続きを促していた。
「何か気になる事でも?」
「ええ。実は神饗の首魁の顔が、あの二人と瓜二つなのですよ。メルクリウスさん、何かご存じなのでは無いですか?」
「……御冗談を。あの二人がそんな事をする訳ないでは無いですか。特にユピテルは封印されていましたし、サトゥルヌスは今も人として社会に溶け込み、人々から慕われています」
簡単に人の命を踏み躙る様な性格ではないと、彼は強く睨み返しながら断言した。
そこに滲んでいるのは、信頼か。長らく付き合って来たが故に、確信を持っているのだろう。
ともすれば疑いの目を向けているリュウに対して怒りすら抱いている様にも見えた。
「彼らは私が人であった時からの盟友です。侮辱は幾ら客人でも許しませんよ?」
「侮辱では無いですよ。事実です。冗談でも無く、あの主人とあの二柱の顔はそっくりなんです」
「では、その情報は何処から?」
「僕の信頼出来る情報筋から。当然ですがそれをあなたに教える訳にはいきません。それはメルクリウスさんもお分かりでしょう?」
もしもここで情報源を伝えてしまった場合。つまり俺がその顔を知っていると伝えてしまった場合。
メルクリウスが神饗の関係者であったならば、まず間違いなくこの身が狙われる。今まで以上に執拗な追跡と追撃が掛けられる事だろう。
もっとも、本当にこの懸念が的中しているのなら、今こうして彼と話している時点で手遅れな気がしなくもない。
しかも、事ここに至ってメルクリウスがその老獪さを発揮するのだった。
「……その情報源と言うのは、ここに居るラウレウスさんですね? もしくはあそこのスヴェンか。ただ、ラウレウスさんがその情報提供者の一人である事は間違いない」
「何故そう思いますか? 僕が情報を収集しているとは思わないので?」
「勿論その可能性もあり得ましたけど、特にラウレウスさんは一度ユピテルへ唐突に攻撃を仕掛けているのです。あの時は意味が分かりませんでしたが、貴方のその言葉を聞いて納得しました」
「…………」
これで辻褄が合うと、メルクリウスは何度も頷く一方、リュウは静かに視線をこちらに向ける。
そこに在るのは若干の困惑。何となくそれが「失敗した」と語っている様な気がして、普段の人間離れした彼が少し身近に感じられた。
「貴方もそれなりに話術を磨いて来たようだが、千年以上人間を見て来た私から言わせるとまだ甘い。私から情報を掠め取ろうなどと思わない方が良いですよ」
「流石に百戦錬磨の商人様は次元が違いますね。僕が迂闊だったとも言えますが。そう言えばラウ君、タルクイニ市でユピテルさんに襲い掛かったと言ったね」
「……いえ、その辺の詳細を語り忘れた俺も悪いんで」
戦った時のユピテルに実力などについては詳細に伝えたが、経緯は簡単な流れを話す程度に留めていた。特に語る事もないと思っていたのだ。
何より、自分の事なので主観的にしか語れず、客観的な話をリュウには出来て居なかった。スヴェンが語れば良かったのだが、話題としてそれよりも重要な部分にばかり目が行ってしまっていたのだった。
「まあいいや。それで、僕らからその情報を知ったとして、メルクリウスさんはどうするお積りで?」
「別にどうもしませんよ。敵意がある訳でも無し。だから言っているでしょう? 私はラウレウスさんの敵ではないと」
肩を竦めるメルクリウスは、そこに僅かな余裕が見られた。恐らくリュウから推理によって情報を掴んだ事で、心理的な優位に立ったのだろう。
一方リュウはやや不機嫌な気配を漂わせながら、しかしそれでも相変わらずの口調で答える。
「今の状況では好きなように言えますし、それを否定も肯定も出来ませんけどね」
「随分と警戒心が強いですね。ですが、私が神饗の関係者であるとするなら、今の段階であなた方を逃がしはしない。分かるでしょう?」
「泳がせているだけかもしれないのに、信じる事が出来るとでも? 流石に僕だってそれくらいは考えますよ」
そんな簡単に物事を運ばせはしない、と鋭くリュウが睨み付けた、直後。
「お前ら、何で冷め切った空気のままなんだ!? 飲めよ、今は宴会ぞ! ほら、メルクリウス!」
がっしりとした腕が不意に伸ばされ、それがメルクリウスの背中を引き寄せる。さらに伸ばされたもう一方の手がリュウの肩を引き寄せ、彼もまた背中に腕を回されていた。
「ユピテル!? お前いきなり……!」
「細かいことは良いんだよ! メルクリウス、お前暫く見ない間に随分と固い喋り方になっちまったなぁ?」
両手にコップを持って、がはははと愉快そうに、且つ豪快に笑うその金髪金眼の偉丈夫の名は、ユピテル。
白儿の伝説の中では封印されており、そして実際に遺跡の中から姿を現した精霊。
彼らが語る所に寄れば、千年間封印から動けなかったと言うのだが、その容姿は前世で長崎慶司を始めとした多くの人々を殺した男と全く同じだった。
故に俺の目も、リュウの目も、警戒する様に細められ、薄っすらと敵意すら漂わせ身構えているのだが、酔っ払いは気付いた様子もない。
「良いか、酒は眺めるもんじゃねえ! 飲むもんだ!」
「だから今はそんな状況じゃねえんだって……」
「そうそう! その喋り方だ! お前に御堅い口調は似合わねえよ」
猛烈な酒臭さが、鼻を襲う。ともすれば熱気を伴っていて、生温かい空気と共に体を包み込んで来るのだ。
ユピテルと距離があってもそれ程に酒精の匂いがする事からも分かる通り、肩を抱き寄せられている二人からすれば尚更強烈だった。
「臭え……何をどんだけ飲んだんだ、お前!?」
「あーうるせえうるせえ! 飲みたくない理由を見付けるより飲む理由を見付けやがれ!」
「むぐ……っ!?」
リュウが警戒心と酒の匂いの強さとで口元を歪めている中、酔っ払いの標的となったメルクリウスはその口に酒を押し付けられていた。
立派なアルコールハラスメントにしか見えないが、残念ながらこの世界にそれを取り締まる人はいない。
その間にも見る見るうちにコップが傾けられ、そして見事に飲み干していた。
そして何度か咳き込んだ後に、メルクリウスは酔っ払いの群れを指差して抗議する。
「騒ぐなとは言わねえから、お前は向こうで飲んでろよ!」
「嫌だね。ほら折角だ、アンタも飲みな!」
「いや、僕は……っ!?」
慌てて断る素振りを見せたリュウだったが、直後にその口元へもう一つのコップが押し付けられる。
仮面の下でその表情が百面相している気配がするのだが、酔っ払いはそんな事などお構いなし。注意するだけの理性が残っていないとも言えるのだろう。
強引に酒を飲まされている被害者の状況など一切無視して、コップを徐々に傾けて行った。
「んん? お前、飲む速度おせえな? しょっぺえぞ!」
「……いきなり飲まされる、身の方にも、なってくれませんかね?」
咳き込みながら恨めしそうに睨み付けるリュウだったが、当人はやはり気にする様子が無い。
その金色の眼を動かし、そして見下ろし、俺を視認して言うのだ。
「おう、いつぞやの坊主じゃねえか。あん時はいきなり俺に襲い掛かりやがって……許さねえぞ」
「……え? 待って、ちょっと?」
「この樽一本飲み干すまで帰さねえからな」
「…………」
何処から持って来たのか、目の前に置かれた酒樽。
その重さは相当なもので、置かれた際には重い音と共に地面が僅かに揺れた。
と言うか、この量は物理的に飲めない。無理に押し込もうものなら胃が破裂するのは間違いなかった。
……もしや、神饗はこれで殺しに来ているのだろうかとすら思えてしまう程だ。
「そら、飲め飲め!」
「まず、こんな大きさの樽を持ち上げる事も無理なんですが」
「なら俺が持ってやるよ。あ、溢したらもう一樽追加な」
「いえ結構です」
殺される。酒に殺される。仮に生き残ったとしてもこの量は確実に前後不覚となる筈だ。そんな状態を晒す訳には到底行かなかった。
故に。
「あっ、おい逃げるな!」
「そんなの飲まされる方は堪ったもんじゃないんですよ!」
「面白い。この前はまんまと逃げられたが……俺から簡単に逃げられると思うなよ!?」
「……げっ!?」
瞬時に身体強化術を施して距離を取ったつもりだったのに、もう既に行く先を塞ぐようにユピテルが立っていた。
咄嗟に右へ避けようとするが、速さ故に軌道修正も間に合わず、まんまと首根っこを押さえられてしまうのだった。
「逃がさねえよ。その歳でそこまで魔法を使えるのは大したもんだが、やっぱ俺には及ばねえ」
「リュウさん、いやメルクリウスさんも! 助けてくれませんか!?」
救いを求める様に二人の方へ目をやるが、両者ともに助けてくれる気配はない。彼らは顔をこちらを向けているが、どうにも動き出せそうにないのである。
「無駄だ! あの二人にはかなり強い酒を飲ましたからな! 暫く視界がぐるぐる回ってる筈だぜ」
「……それもう毒では?」
幾ら酒でも瞬時に酔いが回るとは思えない。そんな効能があるのなら、どう考えても只の酒では無かった。
抵抗も、救援要請も空しく小脇に抱えられてドナドナされていくしかなかったのである。
「さあ、飲め」
「嫌です。断固として拒否します」
「ならいきなり俺に襲い掛かった訳を話して貰おうか」
「嫌です。断固として拒否します」
尚更出来る訳が無い。この精霊と同じ顔をした者に、前世では文字通り命を奪われたのである。そのせいで今、こうして訳の分からない世界に生まれ、そして追われる身となった。
もしもこの精霊が神饗の首魁こと主人であると言うのなら、余計に迂闊な真似は出来ないのである。
「なら吐くまで飲ませて、胃の中身と一緒に本心までぶちまけて貰うとしよう」
「ふざけんな誰が飲むか!?」
「安心しろ、俺が飲ませてやる」
「いや頼んでねえし!?」
無駄に良い笑顔を向けて、悪魔の様な事を宣うユピテルを、張り倒したくて仕方ない。人の命を奪っておいて、踏み躙っておいて、そんな顔をするなと言ってやりたい気分だった。
しかしまだ彼が本当のその犯人であるとの確証はない。何故なら同じ顔をした精霊は、もう一柱いるから。
そう思った時、横合いから割って入るもう一つの声。
だがそれは呵々大笑するユピテルのものと同じ声質で、しかし口調が少し違って。
「ユピテル、その辺にしておけ。人間に対してやって良い事と悪い事があるだろうに」
「邪魔すんなサトゥレ……いやサトゥルヌス。お前だっていきなり攻撃されれば腹の一つでも立てるだろ?」
「まあ、分からんでもないが。けれど、そうなったのはお前が腹立つ顔しているからではないか?」
「いや同じ顔じゃねえか! 俺もお前も! 何言ってんだよ!?」
サトゥルヌスもまた酒が入っているのだろう。その顔はやや赤くなっていたが、それでもユピテルに比べたら遥かに理性が残っているらしい。それどころかほぼ素面の様に見えなくもなかった。
だからだろう。ユピテルのツッコミに対する切り返しも、冷静で容赦が無かった。
「そうだな、顔は同じだったか。なら纏う雰囲気がどうにも不愉快だったんだろう。それ以外に考えられん」
「雰囲気!? 雰囲気って何だよ!? 俺のどこが不愉快なんだ!?」
「煩い黙れ滓塵。一々大声で喋らなくても聞こえるぞ。だからお前はいきなり攻撃を受けるんだよ」
ぴしゃりと言い放つその様子は非常に似合っていて、顔も同じだと言うのに似合う似合わないの差がここまで出るものかと感心してしまった。
その間にリュウとメルクリウスもどうにか復帰したらしい。まだ若干ふらつきを見せながらこちらへと近付いて来ていた。
「ユピテル……お前よくもやってくれたな?」
「僕からも、ご返杯させて欲しいと思ってね。遠慮しないで受け取ってください」
「え……おい待て二人共、その怪しいコップは何だ?」
にっこりと満面の笑みを浮かべる両人が手に持つコップには、表面張力一杯の液体が注がれていた。何より、時折僅かに零れて落下する水滴の色が凄い。
まるで血の様に赤い色だったのだ。
もしや本当に人間の血液かとすら思ってしまったが、その鼻につく強い匂いは血腥さを否定していた。
だが血でなければ良いという訳では無く、明らかに毒々しい見た目をしたそれに鳥肌が立ったのは言うまでもない。
「おい、それを俺に飲ませる気か……?」
「ユピテル、お前が俺達に飲ませておいて今更飲まないとでも?」
「待って、流石に俺だって希釈したんだぞ!? お前らそれ原液じゃねえか!? 完全に毒だ!!」
「大丈夫ですよ。精霊は毒を飲んでも死にはしません。さあ、ご返杯と行きましょう。勿論拒否なんてしないですよね?」
「あああああああああああああああ!?」
どたどた、と揉み合う音が聞こえたと思ったら、それは次第に小さくなり、やがて他の酔っ払いの喧騒に紛れて聞こえなくなった。
余りにも凄惨な光景が予想されて目を逸らしていたのだが、そろそろ良いかと思って視線を戻せば、そこには屍と化したユピテルの姿があった。
天井へとまるで救いを求める様に伸ばされた手は時折痙攣し、同様に足も動く。それはまるで虫の命が消えようとしている様でもあった。
そんな惨劇を引き起こした二人はと言うと、とても良い笑顔で手を握り合っていた。
「自業自得だな」
「……これで漸く静かになりましたよ」
「ああ。俺としても、煩い馬鹿が一時的にも撃沈してくれるのは有難い。ラウレウス、俺もお前に話があるのだ」
俺の横に立ってその一部始終を眺めて居た金髪金眼の精霊は、その視線をこちらへと向けていた。
ユピテルと全く同じ顔をした、サトゥルヌスだ。
彼もまた当然ながら神饗の首魁候補の一人であり、油断の出来ない精霊である。
思わず身構えそうになってしまうがそれを堪え、心の中で緊張しながら彼を見上げていた。
「俺に話、ですか?」
「特に難しい話ではない。白儿としてこの世界を見て来て、旅をして、辛かっただろうなと思っただけだ」
「……まあ、否定はしませんが」
「そんな釈然としない顔は止めてくれ。少しは聞いていると思うが、俺もユピテルも、メルクリウスだって、かつて都市国家ラウィニウムと白儿が戦ったラスナ戦争の時から仲間同士でな」
何度も話に聞いた、千年以上昔の戦争。
教会の流布する逸話は、凶悪な白儿を神の加護を受けたラウィニウムの将軍が討ち滅ぼすと言うものだった。
しかし、自分に魔法が発現してからここ半年以上も各地を放浪し、追われて来た身としては、その説話が間違っているのではないかと思わずには居られない。
白儿の体は、そのものが余すところのない素材。
魔力の沈着した皮膚も、毛も、骨も、血も、そして特に心臓付近にあるとされる白珠は希少なものとして珍重される。
民族として滅びてから久しく、時折先祖返りが現れる程度の為、現存する物を目にした事は無いが多くの人は皆、白儿を人間として見て居なかった。
どこからどう見ても迫害の対象であった。
伝承では凶暴だったから、神の敵だったから。絶対的な悪だったから。
庶民が差別する理由はそんなものだったが、俺から言わせて貰うなら馬鹿馬鹿しい話も良いところだった。
別に自分は破壊衝動も無いし、誰かを踏み躙りたいなどとも思わない。ただの人間だとしか、思えなかった。
だから思う。為政者が自分を正当化する為に根拠のない噂を捏造したのではないかと。
そうして流布されたものがこうして定着してしまったのではないかと。
その噂の対象であり、敵意を向けられていた白儿は、もう民族として滅んで久しい。当然、反論など生まれる筈もなく、簡単に広まって行った。
事実がどうであれ、確かめる術も無いのだ。いつの間にかそれは真実として定着したのだろう。
そしてサトゥルヌスが語るかつての白儿と言う種族は、実際その通りであった。
「彼らに敵意など無かったが、結局は他種族の私利私欲に飲まれた。俺を含め、当時を戦ったものが不甲斐ないばかりに、末裔には生きにくい世界を作ってしまった訳だ」
「いえ、それは……」
責めるのも酷な気がした。何故なら、当時の白儿は各地から攻め立てられ、片っ端から“乱獲”されていったと言うのだから。
「因みに、この場に居る精霊の内、五柱の精霊は元人間だ。あの戦争で瀕死の重傷を負った者ばかりだがな」
「……誰ですか?」
「まず一人はアイツだ」
彼が指差した先に居たのは、メルクリウス。精霊である事は知っていたが、そこまでは聞いた事もなかった。
「奴は元々商人でな。気さくな喋り方をする奴だった。今は人前だと堅苦しいだろ?」
その言葉に、同意する。時折素の口調が出ているが、基本的に礼儀正しい商人と言った印象を受けるだけに、千年以上昔の姿は想像も付かなかった。
「情報を付け足すと、メルクリウスは人だった時、白儿だった」
「……え、でも今は髪も眼も色が黝いんですけど?」
「人から精霊へと変質する際に魔力の質が変化したんだ。偶にあるんだが、無属性の白魔法は特にその影響を受けやすいらしくてな」
故に今は、扱う魔法も別種のものとなってしまっているらしい。その説明に納得した所で、サトゥルヌスの話は続いて行く。
「そこの卓で突っ伏してるのがマルス、その横でちびちびと飲んでるのがミネルワだ。あの二柱の内、前者は白儿、後者は靈儿だな」
マルスと呼ばれた青年然とした人物は、酒に弱いのか真っ赤な顔で撃沈したまま動かない。また、白儿であったと言うのに髪色は青っぽく、ここでも前述の魔力変質が起こったのだろう。
その横に座って酒を飲んでいる女性――ミネルワは、翠髪翠眼を持っており、色合いだけなら何処かレメディアを彷彿とさせる。
しかしその体格は線が細く、非常に華奢な印象を受ける美人だった。また耳も尖って居り、元が靈儿と言う話も嘘はなさそうであった。
「で、あそこで滅茶苦茶に騒いでる内の、髭面のずんぐりしたのがウルカヌス」
メルクリウスと共に、タルクイニ市で出会った鍛冶師の剛儿である。知らない仲ではない事をサトゥルヌスも知っていたのか、その説明は簡単なものだった。
「最後にウェヌス。あの馬鹿騒いでる女だな。本来は大人しいんだが、酒が入ると性格が激変する。奴も元は白儿だ」
金髪碧眼の美女。体も豊満で、男であればまず間違いなく色んな所に視線が釘付けになってしまう事だろう。
実際それくらい彼女は美しいのだ。しかし今の酒が入っている彼女は、その暴走ぶりが凄まじい。
部屋を間違えてか、それともわざとかは知らないが、俺達の宿泊している部屋にまで乱入して来たほどだ。
「その他にも色々な精霊がこの場には居るが……まあ面倒だから割愛させて貰う」
「は、はあ……」
ちらりと他の精霊達へ目を向ければ、分かりやすく宴会場は混沌としていた。人間でないが故に無茶が効くのだろう。中には樽の中の液体を飲み干す猛者まで出て来る始末だった。
「こうして長々と話したのは他でもない、少しは安心してくれと伝えたかったんだ。アロス市に来る途中で遭遇した際、お前が俺達の事を警戒している事には気付いていたからな」
「気付いてましたか……」
「気付くなって言う方が無理だ。理由は知らんが……何かあったか?」
話せる事なら話してみろ、と微笑みながら訊ねて来るサトゥルヌス。しかしその顔は前世で俺を殺した男と同じ顔であるが故に、引き攣った笑顔しか返せない。
それどころか、彼らを警戒している事を伝える訳にも行かず、適当に誤魔化す事しか出来ないのであった。
「流石にまだ警戒してるのか?」
「いえ、そう言う訳では……」
「見え透いた嘘を吐くな。だがそれも仕方あるまい。散々追われて来たお前が、他者を警戒しない訳は無いからな」
彼はそう語って優しく笑っていた。
そこに滲んだ善意が何とも息苦しくて、どうしても敵愾心と警戒心を抱いてしまう自分が見っとも無くて、思わず目を逸らす。
「無条件に俺やユピテル達を信じろとは言わないさ。だが徐々にでも良い。他者を信じられるようになれよ。折角こうして会えたんだ。これからは俺達も、お前を守るからな」
「……有り難うございます」
「気にするな。千年以上前に我々が守り切れなかった者達の為でもある。自己満足と言えばそうかも知れんがな」
寂しく笑う気配のあったサトゥルヌスは、今どの様な表情をしているのだろう。
視線を逸らしたままの俺には、今の彼がどんな感情を抱いているのかはよく分からない。だが、どこか懐かしむ様な色がある事だけは、間違いなかった。




