第四話 100% (hundred percent)①
物珍しい硝子製の小さな小窓からは曇天が覗き、その薄暗い光を部屋の中へと取り込んでいた。
そんな室内で椅子に腰掛ける一人の男は、肘掛けに腕を乗せ、部屋の中心にある炉の炎を漫然と眺めて居る。
炎の大きさは然程大きくは無いが、それでも外が非常に寒くなりつつあると言うのに、室内は少し寒い程度で済んでいる。
「…………」
パチパチと音を立て、時折小さく爆ぜては雪の様に火の粉が舞う。しかしその飛距離は大した事もなく、ヒラヒラと炉上の灰へ落ちて行くのだった。
建物の建築資材は木が主である事からも、炉に火をくべるにはそれなりの注意が必要な筈なのだが、ともすれば男はそのまま寝てしまいそうにも見えた。
だが、そんな彼の下がりつつあった瞼は、扉の開く音で押し上げられていた。
「クリアソス様」
「……何事だ?」
「は、実は手の者に追わせていた貴族の娘ですが、確保或いは処分に失敗致しました」
「失敗? この国の貴族、それも年端も行かぬ女に逃げられたと言うのか?」
先程までの微睡む様な気配は何処かへ消えさり、男――クリアソスは凍り付くような温度の視線を、報告者に向けていた。
それに対して報告者の彼は身を竦ませながら、声を震わせて言葉を続ける。
「実は、どうやらあと一歩と言ったところで邪魔が入ったように御座います。話を聞くに“リュウ”が出現したと」
「……リュウ? あの目障りな白儿か? 毎度毎度、邪魔しかしないな」
「はい。それと、奴に同行していた者の中に、もう一人の白儿が居たとの情報も」
“リュウ”のほかに、四人の少年少女。その内の一人は特徴的な魔法を使っていたと報告者は語る。
それを聞いて顎に手を当てたクリアソスは、考えを纏める様に呟いていた。
「ビュザンティオンで騒ぎを起こして、そのまま遭遇した形だな。しかし意外だ。十中八九、東帝国から逃げるならハットゥシャに行くと思ったが……帝国も国境を固めていたのか」
「或いは、警備が固くなる事を予想していたのか……その辺りは連中のみぞ知る事です。それと、報告にはこれに関連してもう一つ」
「何だ?」
微かに報告者の纏う雰囲気に変化がある事を感じ取ったのか、彼は背凭れに預けていた体をやや起こす。
「もうじき、主人様がここへ到着なさるそうです。直々に決着を付けたいとの仰せで……」
「態々あの御方が出張るか。しかし、何と決着するお積りなのだ?」
「リュウです。実は奴の一行も、どうやらここを目指している様子で」
ぴくり、とクリアソスの眉が痙攣した。
その表情には緊張とも取れる色が浮かんでおり、また同時に安堵している様でもあった。
「そうか……主人様は奴がここに来る事を読んでいたと言うのか。貴族の娘を取り逃がした時点で、即座に私へ報告を入れなかった事を責めようと思っていたが……次は無いぞ?」
「……はっ!」
「他に報告は?」
「御座いません」
「ならば良い、行け。追加の情報があればすぐに私へ回す様に、貴様も方々へ周知しろ」
「申し訳御座いません、失礼致します!」
部屋主に配慮してか、報告者は最低限の物音だけを立てて、静かに退出して行く。
その背中を見送ったクリアソスは、愉快そうな笑みを浮かべて炉の炎を眺めて居た。
「リュウも、それに同行する白儿も、そして主人様も、ここへ来るか。この国は荒れそうだな……ま、私の望んだ結果でもあるが」
靈儿国家、シルフィング朝メーラル王国。その首都アロスの一角で、彼は薄く笑っていたのだった。
◆◇◆
同じ顔が二つ。
同じ体が二つ。
同じ声が二つ。
違いと言えば精々口調くらいだが、そうであったとしても見分けるのは至難の業であった。
それこそ、双子と言っても差し支えない程である。
「ユピテルとサトゥルヌス、かぁ……」
「まさか同じような精霊がもう一柱いるとは思わなかったな」
採光用に開けた木窓からは、どんよりとした光が差し込み、部屋を薄く照らす。
照明をつける程の暗さではないが、互いの顔が鮮明に見える程の明るさでも無かった。
メーラル王国が首都、アロス。道中と変わらずこの都市も寒さは相変わらずで、室内に居ても防寒具が欲しくなるくらいだ。
入市して早々に宿を取ったは良いものの、この場の誰もが街へ繰り出そうという気にはなれなかった。そもそも、首都と言うにはビュザンティオンよりも遥かに貧相で、宿すらも少ない有様なのだから。
スヴェン曰く、閉鎖的な国民性であるが故に人の出入りも少ないらしい。経済活動も気候が厳しいせいもあって活発でなく、そちらの観点から見ると大分遅れていると語っていた。
「ラウ君、あの二柱の精霊、どっちが前世で君を殺したんだい?」
「そんなの、分かる訳ないじゃないですか。何もかも同じだし、あの時の奴も何か喋ってましたけど、言語だって分からないんですよ」
「まあそれもそうだよね。この世界に生まれ変わってから記憶の限りでも十四年経っているんじゃあ、あそこまで似ている二柱を見分けるのは無理がある」
参ったね、と顎に手をやってリュウも悩んでいる様だった。彼は唯一、俺やスヴェンの前世を知るこの世界の存在である。
ここに来るまでの道中、色々な事について三人で意見や情報を交換して来ただけに、彼もまた状況を理解するのが早かった。
「僕が知る神饗の首魁たる主人の口調は、どっちかって言うとサトゥルヌスの方が近いんだよね。けど、演技の可能性もあるし、違うかも知れない。って言うか、僕が戦ったのはもう十五年くらい前の事だし」
「そうは言いますけど、俺はそのサトゥルヌスってのが怪しいと思いますよ? ユピテルさんは封印されてた訳ですし、その方が自然かと」
「その封印ってのが嘘の可能性もある。若しくはあの精霊二柱が共犯かもしれない」
単純に答えを出すスヴェンだが、それを決定するには情報が少な過ぎる。可能性の話ばかりが膨らんで、確証がどれにも持てないのだ。
「参ったね……ここまでややこしい事態なんて早々お目に掛れないから、僕としても混乱してしまいそうで」
「ただでさえやる事が多いですからね」
この都市に来たのだって、何も徒然なるままに辿り着いた訳ではないのである。
寧ろ明確な目的をもって、神饗が居ると睨んでこの都市へと乗り込んだのだから。
おまけに今の旅時には追われる身となったシグや、新たにエヴェリーナも加えている。後者についてはメーラル王国領内で指名手配扱いされており、この都市へ入り込むにしても各々が隠蔽に力を貸す羽目になってしまった。
どうにか入り込めたから良いものの、この後彼女を父親の下へ送り届けなくてはならいのだ。さらに言えば、下手をすればその父親も彼女の身柄を拘束するかもしれないので、その辺の情報も集めなくてはならない。
これだけでも課題は山積している事が分かるだろうに、その上でユピテルとサトゥルヌスの登場である。しかも、仲間の精霊を多数引き連れて、だ。
彼らがどこまで、或いは全部敵なのか、それとも無害として見て良いのか。神饗の関係者であった場合、彼ら全員と戦う可能性すらあるとリュウは懸念していた。
ふと隣の部屋から聞こえる、ささやかな笑い声。それが誰のものであるかを知っている俺は、思わず顔を顰めていた。
「呑気な奴ら……こっちの気も知らねえで」
「仕方ないでしょ。迂闊に話す訳にはいかない内容も含まれているんだし。彼女たちだって、ここに来るまでの旅と、身元を気付かれてしまう恐怖と戦っていた訳だから」
宿の隣の部屋を取ったのはシグとレメディア、エヴェリーナ。
人数的にも、部屋の広さ的にも、男女で半々に分けてしまう方が丁度良かったのである。そのお陰で、今こうして事情を知る者だけで部屋に居る事も出来るのだ。
「ま、あの三人に俺らの前世の話をしたとして、信じてくれるとも思えねえし……それより問題なのは」
「精霊御一行様だね。完全に僕らは目を付けられている。迂闊な行動は出来ないし、厄介極まりないよ」
メルクリウスが出したという二台の荷馬車に乗ってやってきた彼らは、一応この宿には止まっていない。
しかし近くの宿屋に泊っている為、彼らの目が無いとは言えないのである。
「只の親切心だとしても厄介と言うか何と言うか……敵であるよりは遥かにマシなんだけれどね」
「敵かどうかも分からないのが一番の問題ですね。本当に何も出来ない」
今日はまだアロスについたばかりで隣部屋の女性陣も旅の疲れを癒している事だろうが、二日三日と経てば動き出さない方がおかしい。
特にエヴェリーナは父親の下へ送り届けて欲しいと言っているのだ。
無視したいのも山々だが、彼女の齎した情報のお陰で、このアロスに神饗が居る事はほぼ確定したのである。流石に取引条件を無視する様な、恩を仇で返す真似は出来なかった。
「何て言い訳すべきだと思う?」
「いや知りませんよ。リュウさんがこの中では一番年上でしょ? 女の扱い方も知ってるんじゃないですか?」
「そんな経験碌に無いよ。それこそ誇るものなんて持ち合わせてない。寧ろ、前世を持っているラウ君とスヴェン君の方が経験あると思うけど?」
肩を竦めて責任逃れの様な事を宣うリュウ。だが彼の指摘通り、前世からの記憶を合算すると三十年を超える。
精神年齢で言うなら一端の大人であった。
けれどそれを認めてしまったら女性陣に対する説得を受け負わなければならない訳で。
「そう言うリュウさんだって、二十年前とか言ってましたよね? それが本当なら、貴方何歳ですか?」
「あれ、僕そんな事言ったっけー?」
「白々しいですよ」
すっとぼけた返事をする彼に、二人して冷めた視線を向ける。流石にこの期に及んで記憶に御座いませんは通じないし、許されない。
それを感じ取ってか、リュウも諦めの滲んだ様子で言う。
「本当に言わなきゃ駄目?」
「そこまで頑なに年齢言いたがらないって女の人みたいですね」
「……仕方ないなぁ」
両手を上げ、降参している事を示す様に溜息を吐いた彼は、漸く問いに答えてくれた。
「聞いて驚かないでくれよ? 僕は永遠の十七歳なんだ」
「何言ってんのアンタ?」
意味不明な上に加齢で悩む膨大な人々を敵に回しかねない発言である。実際、リュウの見た目は若々しく、少し年上に見えるくらいでしかない。
外見的にはそれでおかしくもないが、しかし彼は二十年以上前の事も語っている。それこそ彼自身が見聞きしたらしい事を語っているのだ。
つまり、絶対に十七歳の筈が無かった。
「本当は幾つですか!? 何歳なんですか、貴方は!?」
「だから永遠の十七歳だってば」
「じゃあ質問を変える! アンタはその体で何回冬を迎えた!?」
敬語を使って訊ねているのも馬鹿らしくなって、とうとうぞんざいな口調で問い質していた。ここで無駄に抵抗を見せる辺り、恐らく俺達よりも年上であると見て良い。まず間違いないのだ。
「冬は……ひゃく……百三十回くらい、かな?」
「いや嘘吐け」
「え、何で?」
何でじゃねえよ。
流石に嘘臭い彼の解答に、再び白けた視線を向けていた。
その見た目で百三十歳ってどういう事だ。仮面から露出している口元に皺の一つもないと言うのに、無理も良いところである。
「大喜利でもしようと思ったんでしょうけど、ちょっとつまんないですよ、それ」
「全くです。罰としてレメディア達にどう伝えるか、考えといてくださいね」
「り、理不尽だ……酷いよ、君達」
そもそも今の話の流れなら、年上の時点でこの仕事は確定していた。酷いとは言うが、もう今更なのである。
「僕、君らに魔法とか戦い方を教えてあげた筈なのに」
「それとこれとは話が別ですよ。師匠なら師匠らしくどんと構えて下さい」
「……後で覚えていてね?」
仮面の下から覗く。リュウの紅い眼。明らかに何か良からぬ事を考えている目だったが、俺もスヴェンも、それには気付かない振りをするのだった。
メーラル王国の首都アロスについてから早三日。
結局、リュウの説得により女性陣はもう暫く宿で大人しくしてくれる事と相成った。
どのように説得したかだが、それは神饗を引き合いに出した事で容易に解決を見たらしい。そこまで難しい事では無かったと語る彼には、今後とも似たような仕事を是非お願いしたいと思った。
一方、説得された女性陣はと言えば、リュウを押し切る形で外出については許可を取ったらしく、細心の注意を払って街の中を散策しているらしい。
「元気な事で。この辺なんてビュザンティオンに比べたら遥かに寂れてんのに」
「靈儿の都市ってだけで珍しいんだよ。実際、俺も少しこの辺を散歩してみたい欲はある」
「ふー……ん。そんなモンかね? 言っとくけど、靈儿は他人種への差別が厳しいんだぞ。特に都市部」
「それはまあ、エヴェリーナを見てれば分からなくもないな」
彼女が旅に同行して暫くは、所々で差別的な言動と発言が見られた。それが種族によるものか、身分によるものかは判断がつき難かったが、そのせいで時々レメディアらと衝突した事もあった。
結局は互いに謝罪や相互の理解を深めて、今はすっかり友達と言った様子だ。
「羨ましいのか、ラウ?」
「そんな訳ねえだよ。何で俺が羨ましがらなくちゃいけないんだ」
「混ざりたかったら混ざって来て良いんだぞ。レメディアが大歓迎してくれるはずだ。何ならデートでも行ってこい」
「本当にその弄り好きだな、お前……。自分も醜態晒しただろうに」
以前、レメディアとスヴェンで口論となった際の記憶はまだ新しい。
特にスヴェンが、レメディアと俺を弄る為に盛大な自爆をしたのは印象的だった。出来れば反撃の一つでもしてやりたいが、それをすると結局自傷してしまう。
だからその事を指摘して茶化してくるのは、決まってレメディアとあと一人。
「スヴェン君はラウ君の事が好きな設定なんだっけ? レメディア君とラウ君がデートして嫉妬しないの?」
「……リュウさん、その弄りはスヴェンより俺がきついです」
彼が嬉々としてそれを弄って来るが、それによって損害を受けるのはスヴェンよりも俺だった。勿論スヴェンも困ってはいるのだろうが、一々飛び火してくる身にもなって欲しい。
とにかく俺は、一方的にやられてしまう立場から逃げる事は叶わないのであった。
「それにしても、精霊さん達は静かだね。彼ら、何が目的なんだと思う?」
「さあ? リュウさん直接訊いてみて下さいよ」
「嫌だよ。もしも彼らが神饗の味方だったら、僕も只じゃすまない。君らなら瞬殺されてしまうよ」
開いたままの窓から、外を覗く。ひんやりとした冷たい空気が間断なく入り込んで来るが、採光の為にも開けない訳にはいかないのである。
斜め向かいの宿に泊まっているらしいが、今日も今日でやや騒がしい。訊いても居ないのに教えてくれたメルクリウスによると精霊の幾らかが酒盛りをして居るようだ。こんな昼間から堂々と飲んだくれるなど、まるで碌でも無い人間の様だった。
「あの精霊たち、そんなに強いんですか? とてもそうには……」
「強いよ。かなり長い間存在し続けている精霊が多い。その分だけ力の蓄積も大きいからね。並みの魔導士じゃ倒すのは勿論、調伏するのも封印するのも一苦労と言ったところだと思う」
特にユピテルとサトゥルヌスは別格だという。
それこそリュウでも敵うか分からないとまで言わしめる辺り、彼らの実力は生半可なものでは無いようだ。
最悪の場合あの二柱が敵となる訳で、勝ち目がないとまでリュウは考えているらしい。
「あの精霊たちは、白儿である君を救う為に動いているらしいけれど、救ってどうするつもりなんだろうね……」
「そこまで言うならもう、あの酒盛りに突入して訊いてみるしか無いのでは?」
「でもさ、君達お酒飲んだ事ある? ああ、時々って意味じゃあなくて、浴びる程飲んだ事は?」
少し心配する気配すら窺えるリュウの言葉に、答える事は出来なかった。何故なら、浴びる程とはどういうことなのか、理解が追い付かなかったので。
「浴びる程って……」
「浴びる程は浴びる程だよ。精霊は人間に比べて非常に頑丈だから、本来なら食べ物を摂取しなくても存在出来るんだ。なのに飲食をするのは、それが楽しいから。そして楽しければ精霊も、人間の様に飽きるまで楽しもうとする」
あればあるだけ食べてしまえるのが、精霊。当然そんな無茶に人間が付いて行ける筈もなく。
「僕が聞いた話だと、満腹になったらクジャクの羽で吐いてまた食べる人も大昔には居たらしいけど、それは例外だよね」
「……流石にそこまでは食えないですね」
それは俺だけではない。スヴェンもまた強く同意を示していた。
すでに出来上がっているであろう精霊の宴会に乗り込んだ日にはどうなるか分かったものではなく、吐く程飲み食いさせられるかもしれないと考えると、是非とも参加したくは無かった。
「行くにしても、宴会に彼らが飽きてから、かな」
この調子だと当分無理かもしれない、と時折微かに聞こえてくる笑い声を聞きながら思った。
そうして、この場の誰もがもう暫くは様子を見るしかないと思っていた、その時だった。
「……!」
「どうしました?」
「誰か来る! 構えて!」
即座に立ち上がるリュウに続き、慌てて腰掛けていた椅子から立ち上がる。ドアの方へ目を向ければ、しかし足音もしなければ人の気配もない。
気のせいではないかと思ったのだが、直後にそれが開け放たれた。
「どーもー! 私、トゥラン・スプリナですっ!」
「「「……は?」」」
並々注がれた酒の入ったコップと、着崩した衣服を纏っている闖入者。
サラサラの金髪は曇天の鈍い光が差すだけの室内でも綺麗に映えていて、大きな碧色の瞳が特徴的な美女だった。
着崩した薄着のせいで豊満な肢体は色々ときわどい事になっていたが、本人はそれに全く興味を示した様子が無い。
寧ろその綺麗な顔立ちを酒精で真っ赤にし、そして満面の笑みを浮かべて言うのだ。
「酒だー! 酒を持って来たぞー! 飲めえ!! 諸君、飲み給え!!」
「この人……いや精霊だけど、あの時メルクリウスさん達と一緒に居たよな!?」
「確かに滅茶苦茶綺麗な人居ると思ったけど……こんな人だったのかよ!」
滅茶苦茶に吐息が酒臭い。近付かなくても酒の匂いが分かるまである。そして明らかに彼女は酔っ払っていた。
こんな事態は流石にリュウとしても想定外だったのか、腰の剣に手を掛けたまま様子を窺うように声を掛けていた。
「あのー、部屋を間違えていると思うのですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫っ! 私は全然酔ってないよっ!」
「うん、泥酔しているね。既に真面な会話すら出来ていない」
花が咲くような、溌溂とした笑みを浮かべる美女は、リュウにしな垂れ掛かりながら元気に答えていた。だがその足取りは覚つかず、どうやら相当な量の酒精を摂取していたらしい。
彼女が倒れない様に手を添えてやっているリュウの姿は何とも絵になる光景だが、美女がコップ片手に泥酔しているだけで何もかも台無しだ。
「えーっと、スプリナさんでしたっけ? 取り敢えず元の場所に戻りますよ?」
「あれれー? 私、今はウェヌスって名乗ってるはずだけどぉー、何で昔の名前知ってるのぉ?」
「……頭が痛くなってきた」
世にも珍しい事に、リュウが仮面の上からでも分かる程に困った表情をしていた。
カメラがあったら是非撮っておきたいし、見物するのも悪くは無かったが、この狭い部屋で泥酔した人が居るのは害悪以外の何物でもない。
しかも彼女はユピテルらと一緒に居る精霊の一柱。気を緩める訳にはいかなかった。
「この状態なら話を聞き出せるかもって思ったけれど、僕の見通しが甘かったかな……」
「へべれけですもんね、これ。真面な会話なんて望むべくも無いですよ」
「くぉら~! 私の酒が飲めないのかぁー?」
「早くつっかえしましょうよ、こんなの」
煩い。鬱陶しい。邪魔。酒臭い。目の毒。
今も服の隙間から覗く太腿や、脇などがチラチラと見えて、視線を引き剥がすのに難儀する。
しかもそのレメディア以上に大きな双丘は服の上からでも分かる程で、彼女が動く度に大きく揺れていた。
しかしリュウはそんなものはまるで無いかのように平然と、ただ困った様子で言葉を続けていた。
「ウェヌスさん、ここだと迷惑になるから、元の場所に戻りますよ?」
「え? 嫌だぁ。私歩きたくないですっ! おんぶが良いー!」
「……ラウ君、殺して良いと思う?」
「で、出来れば穏便な方向で……」
仮面を着けていても分かるくらいにリュウは笑顔である。しかしそれと同時に得も言われぬ迫力を伴っていた。
その余りの迫力に、スヴェン共々震えあがったのは言うまでもない。
このままリュウに対応を任せると本当にこの精霊が殺されてしまいそうに思えて、そうでなくとも大惨事になる予感がして、彼へ提案する。
「あ、俺が運びま……」
「いや俺が運びますよ。美女のおっぱいを背中で合法的に感じられる千載一遇のチャンスだし」
「……お前変わってねえな」
堂々と下心があると宣言するスヴェンに、呆れとも称賛ともつかない言葉をかけていた。
そして当然の様に背中へウェヌスを背負うと、彼は幸せそうに笑う。
「……ラウ、これ良いぞ」
「馬鹿だろお前」
羨ましくは無いと言った嘘になるが、背中に乗せているのは泥酔した精霊だ。泥酔していると言う事は、もはや性別に関係なくその危険度や厄介さは変わらないのである。
前世ではそんな人をそうそう見た事は無かったが、今世では酒場でああいった類の男を何人も見て来た。見ているだけでも非常に面倒臭そうだったのだ。
「頼まれてもお前には背負わせねえぞ」
「別に頼まねえから、責任持って安心して運んでくれ」
何が楽しいのか、ウェヌスは相変わらずスヴェンの背中で騒ぎ、爆笑していた。
それでもスヴェンにとっては幸せの方が勝るのか、何ともだらしない顔でリュウの後に続いて歩き出す。
だがその直後、先頭を歩いていたリュウが足を止めた。それは部屋を出てすぐの事であり、彼はドアを開けた姿勢のまま固まっていたのである。
「どうしたんですか……っ!?」
「どうしたもこうしたも無いよ」
不思議に思って彼の視線の先を覗いてみれば、そこには大きな樽が二つ。恐らく酒が大量に入っているであろうそれが鎮座していたのである。
それはもう、運ぶのも一苦労な大きさだ。
「こ、これは……」
どうやってここまで運んで来たのか。どうしてここまで運んで来たのか。訊きたい事は山ほどあるが、それよりも気になるのは、その場から歩き出す気配もないリュウの事。
よく見ればその体は震えていて、ゆっくりと、本当にゆっくりと右手が剣の柄へと伸びていたのだった。
「……僕の剣ってさ、特殊な効果を持っていてね」
「へ、へー……そうなんですか」
「そうなんだよ。詳しい説明は省くけど、要するに魔力を切断出来るんだ」
がっしりと剣の柄が掴まれ、音もなく抜剣されていく。すらりと伸びたその剣は、やはり刀と呼ぶべき形状をしていて、片刃である上に湾曲していた。
その中で特に目を引くのは、普通の刀剣とは異なる紅い輝き。鮮やかな色は見る者を惹き付け、まるで芸術作品の様に幻想的な存在感を放っていた。
「ところで精霊ってさ、生物とは組成が違って魔力の塊みたいなものなんだよね。だから普通の攻撃だと傷を負わせるにも限界がある」
「……ちょっと、リュウさん? ねえ、リュウさん?」
「でも僕の剣って魔力も斬るから、世の中の不要な精霊を処分するのにとっても役に立つんだ。消滅させるのだってお手のものさ」
「ちょっとリュウさん!?」
「待って下さい! おっぱいは世界の至宝ですよ!」
静かに振り返ったリュウはその鋭い刃物を、ウェヌスの鼻先に向けていた。
当然彼女を背負っているスヴェンも幾分焦った顔をしながら、リュウに思い留まる様に言っていた。しかし、内容が内容だけに説得材料とするには弱すぎる。
と言うか、弱いというよりも情けなさ過ぎた。
そして酔っ払いは、事の重大さを察するには些か酒を飲み過ぎていたらしい。
鼻先に突き付けられた剣を見て、指で突いて、爛漫な笑みを浮かべていた。
「あれー? ナニコレ、変な剣だねっ!」
「……一瞬で首を落とそうかと思ったけれど、やっぱ切り刻んだ方が良いかな?」
「リュウさん止めて下さい。冗談抜きで大問題になる未来しか見えません」
「そうですよリュウさん! この爆乳は世界遺産として保存すべきなんですよ!?」
「お前は黙れ」
世界遺産って何だ。どこが遺産なのだ。
確かに素晴らしいものだとは思うが、畢竟スヴェンの弁護は意味がないどころか邪魔でしかない。
「ラウ、手伝え! この胸はキシリア様に届けなくてはいけないのだぞ!」
「さっきから何を言って居るんだ?」
そこは壷だろ。血迷ったか知らないが色々滅茶苦茶になっている。
と言うか、彼に背負われているウェヌスが、手に持っていた酒を強引に飲ませていたらしい。仄かに彼の口が酒臭く、顔も赤くなっていた。
「スヴェン君、巻き添えにされたくなかったら、早くその精霊を背中から降ろすんだ」
「全てのおっぱいには守る価値がある! 斬り捨てて言い道理など在りはしない!」
「君はさっきから何を言って居るんだ?」
リュウすらも困惑した表情を浮かべる中、より一層顔を赤くしたスヴェンが訳の分からない事を宣い、ウェヌスを庇う様にその場から動き出さない。
そしてそれを褒める様に、背負われた彼女はスヴェンの口へコップを押し付けていた。
「良いだろォ、私のおっぱいは! 自慢の天然ものだよっ! 貧乳のメンルワとは比べるべくもないんだぞっ!」
「ウェヌスのおっぱいは世界一ぃぃぃぃぃいっ!」
「スヴェン君、退いてくれ! そうじゃないとその精霊を叩き斬れないじゃあないか!」
「……どうしてこうなった?」
現状は混沌として、阿鼻叫喚としていた。
恐らくどれほど人の心理理解に優れた人であっても、この状況を鎮静化出来る人など居ないだろう。
誰でも良いから助けてくれと思うが、シグ達は今頃街へ繰り出していて助けてくれるとは到底思えない。
事態を収拾させる糸口も全く掴めないまま、時間だけが無為に過ぎているのだった。
もう、皆誰もが壊れている。幾ら制止した所で誰も聞いてくれやしない。真面で居る事が馬鹿みたいだった。
「わははははー! 美味いだろう!? メルクリウスの調達して来た酒は別格なのだっ!!」
「流石メルクリウスの兄貴! そこに痺れる憧れるぅッ!」
「どうしてもそこから動かないのなら、僕はもう君ごと斬り捨てる他に無いのだけれど?」
「誰かタスケテぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえっ!!!」
これはもう、己の問題解決能力を優に超えている。皆ぶっ壊れているのだ。どうしようもない。何も出来ない。何をしても変わりやしない。
そう思ったので俺も壊れる事にした。もう知らん。
◆◇◆




