No going back ③
土煙による煙幕は、上手く機能してくれたようだ。
しかし、完全には機能してくれなかった。
「おい、足引っ張んじゃねえよ!」
「お前こそ! 報奨金は俺だけのもんだ!」
荒い呼吸、激しく拍動する心臓、鉛のように重い脚を動かす俺の背後からは、二人の兵士が喰らい付いて来ていた。
俺が視認した五人ほどの中から、煙幕を抜け出して出て来た彼らだが、聞こえて来る会話の限りでは相互に反目しあっている様で、さっきの賊のように連携の取れた追い方とは程遠かった。
おまけに、幸いというべきか彼らは賊ほど森の中に慣れていない様子で、その走りは俺よりも遅く、徐々に距離が開いて行く。
「このくらいなら……」
いける、上手く逃げ果せそうだ。
周囲を見回し、安全を確認しながらそれを確信した、丁度その時。
俺の左太腿に、鈍痛が走った。
「ぐっ!?」
その余りの痛みにそれ以上走ることなんて出来ず、走っていた勢いそのままに倒れ込む俺は、尚も痛むその太腿に目を向ける。
するとそこには、投げ付けられたのであろう槍が深々と突き刺さっていた。
これでは、確実に走る事など出来はしない。
しかしそれでも、俺が諦める理由には到底なり得ない。
仰向けになって上体を起こすと、俺はさっきもそうした様に地面へ向かって魔力を撃ちこむのだ。
そうして巻き起こる土煙だが、果たしてその意味はもはや殆ど無かった。
「……ごほっ! 威嚇のつもりか、小癪なガキが!」
「当てる気ない攻撃で俺が止まるとでも!?」
「く、来るなっ!!」
殺す気が無いと、見破られている。
舞い上がる土煙の中から聞こえる、兵士の口振りからそれを察しつつ、俺はそれでももう一発魔力を撃つ。
再度舞い上がる粉塵は、煙幕としてより濃いものとなるものの、それでは兵士達を撃退するにはまず無理だろうし、時間稼ぎにしかならないだろう。
出来る事なら、兵士自身に向かって魔力を撃ち込みたいところだが、未だ威力調節が満足に行えていないこともあって直撃すれば即死は確実。
別に人殺しに対して忌避感が無いのならまだしも、「人を殺す」という事をした事が無い俺には、それが大きな壁となって選択肢を潰していた。
確かに、死も死体も散々見て来た。
けれども、俺の周りから死んでいった人は「もっと生きたい」という無念を抱えて死んでいき、その姿を見て来たのだ。
散々それを見て来た俺は、“人間”を殺す事にどうしても抵抗と躊躇いを覚えずには居られないし、実際に村から逃げる際はルキウスを殺す事もしなかったのだ。
あそこでルキウスを殺して口封じを行えば、目撃者はレメディア以外に居なくなる訳で、つまり森へ逃げたところでこんな風に追手が掛かる事も無かった。
その上で、家の中に隠れる事も出来ただろう。
けれども俺は、そのルキウスすら殺せなかった。
「..........」
確実にそこから俺の話が領主の下まで届いたからこそこんな事態を招いているだろうし、あの時からその懸念はずっとあったのだ。
どうしようもなく愚かなのは分かっている。殺さなければ捕まり、殺されるかもしれないのも分かっている。
それでも、人は殺せない。
かつての親友を殺した奴や今世の家族を奪っていた疫病のような、「無感動に人を殺す存在」にやがてはなってしまうのではないかと思うと、それが怖くて。
ただの一度も兵士に向かって魔法を撃つ事は出来なかった。
それが例え、俺達の村に重税を掛ける原因となっている憎き傭兵たちであったとしても。
「へへ、懸賞金は貰ったぜ?」
「ふざけんな! 脚を仕留めたのは俺だぞ!?」
「だから何だってんだ、どうせ偶然だろ? 先にコイツのとこまで来たのはこっちだぜ?」
眼前に突き出される、穂先と剣先。
彼らはもう既に俺を捕らえたと確信した様子で、今度はどちらの手柄となるべきか、こちらの頭上で言い争っていた。
しかし、その対象となっている俺は疲労と多量の出血によって段々と体から力が抜けており、意識の方も朦朧とし始めていた。
「確かに槍は偶然だけどな、当たったのは事実だろ!? お前が俺にどうこう言う権利は無い筈だ!」
「んだと!?」
段々と狭まって行く視界の中で「うるさいなぁ」と言い争いに内心で文句を言いつつ、意識を闇の中へ沈ませかけた――が。
耳朶に触れた、ヒュンという風を切る音と、顔面に飛び散った生温かい液体に、思わず閉じかけた目を開いていた。
「ごふッ……!?」
「お、おい!?」
視線を苦しそうな声のした方へ向けてみれば、そこには首を背後から射抜かれた、兵士の姿があった。
槍を持っていた彼は咄嗟にそれを杖にして、二秒ほど転倒を堪えたものの、口から大量の血を吐き出しながら崩れ落ちるように倒れ、絶命した。
その異常事態に、上体を起こして辺りを見渡すが、それよりも遥かに狼狽しているのは残された兵士の方だった。
「なっ、何だよコレ!? お前の仲間なのか!?」
「違う。多分俺を追ってた賊だ。逃げた方が良いぞ、六人いるから……」
「うぁっ?」
剣を突き付け、怯えながら訊ねて来る彼に素直な助言をしてやったのだが、その彼は全てを聞く前に眉間を撃ち抜かれて即死していた。
どさり、と仰向けに倒れ込む死体の音を聞きながら、俺は矢の飛んできた方向に目を向けると、瞑目して溜息を吐きながら両手を上げる。
すると下卑た笑い声を漏らしながら五人の男が木々の間から顔を出し、姿を現した。
「この兵士達は一体何だよ? 豚貴族んとこの傭兵らしいが……どうしてここに?」
「知るか。見た感じこのガキ、追われてんじゃねえか? どうしてかは分からねえけど」
そんな言葉を口にして辺りを見渡す彼らは、ついさっき出来上がったばかりの死体二つを見下ろし、乱暴に蹴飛ばす。
手酷い死体の扱いに思わず眉を顰めてしまうが、当の彼らは特に何も思っていないらしい。
死体を物色して幾つかの物を剥ぎ取ると皆で分散して持ち合い、視線を向けて来る。
そんな彼らを見返して気付いたのだが、その中には射手の姿は見えず、どうやら周囲を警戒してかすぐに姿を現さないようだ。
「小僧、確認だが魔法が使えるんだな?」
「……」
「黙秘、ってか。まぁ実際に見てたし、訊くまでも無いんだけどよ。そんな事より魔法が使える奴隷、しかもガキなら高く売れそうだな! 見てくれも悪くねえし」
そう言って満足そうに笑う男に、他の者たちも違いないと言って追従する。
だが、そんな中で俺を注意深くジロジロと見つめていた一人の男が思い出したように手を叩くと、口を開いた。
「なぁ、コイツ噂に聞く“白儿”ってやつじゃねーか?」
「あぁ? なんだそりゃ?」
怪訝そうに三人の男が眉を顰めたり、首を傾げたりするが、話を続ける男は物知りなのか澱みなく説明を続ける。
「知らねーのかよ? 結構有名な話だぜ、子供が親に聞かされる話としてもな。早い話、もしこいつが本物の“白儿”なら宝の塊なんだよ」
「何ぃ? おい、それについてもっと詳しく話せ」
「ああ、“白儿”ってのは大昔に居た民族の事なんだが、その体自体にものすげぇ価値があったんだよ。その特殊な骨は装飾品に、血は魔術品に……ってな。で、何よりの目玉が白珠と呼ばれる宝石なんだが、そいつだけで最低幾らしたと思う?」
勿体ぶってそこで一旦話を区切る男に、話に聞き入ってしまった者たちはごくりと唾を飲み込み、早くしてくれと無言で先を急かす。
それを確認して満足そうな笑みを浮かべた男は、万を持してゆっくりと口を開き、金額を告げた。
――三億T、と。
途端に彼らは熱狂的に盛り上がり、ある者は本当なのかと男へ詰め寄って行くのだが、男の話はそれでもまだ終わって居なかった様で、両手でその盛り上がりを制す。
「た・だ・し、この三億って金額は千年以上昔の文献に残ってるものだ。今でもそうとは限らない」
「はぁ? 何だよ糠喜びさせやがって……」
「まぁまぁ落ち着け、それでもまだこっちの話は終わってないぜ? これはついこの前、奴隷商人から聞いた話なんだが……その“白儿”ってのは民族としてもう滅亡したらしいんだわ。けど、その血統は残ってるらしくて時折見つかるんだってよ」
再度、話に引き込まれていく賊。
そこにはやはり、先程と同じ欲と興味に塗れた表情を浮かべている。
「それで、五十年ほど前にも“白儿”が闇市場で競売に掛けられたらしいんだわ。残念ながら捕獲ミスで死体だったらしいんだが、欠損があったにも関わらずソイツが総額幾らしたと思う?」
「幾らって……白珠ってのも含まれてんなら、十億Tくらいか?」
「残念、ハズレ。民族として滅亡したって言っただろ? それはつまり、希少価値が更に高くなる訳なんだよ。そんな安いと思ったか?」
仲間の予想を鼻で笑う男の言葉に、十億ですら安いと宣うそれに絶句したのは彼らだけではなく、それが聞こえていた俺も例外では無かった。
例え自分の事であろうと、そうであればなおさら、村では中々聞けないその話に興味を持たない方が無理だろう。
流石に顔を向けて聞く訳には行かず、相変わらず両手を上げたままで俯いた格好をして、話の続きに耳を澄ます。
「実はな、五十年前の競売でその死体に掛かった総額は――百億Tだったんだぜ?」
『……!?』
その言葉に、俺を含め誰もが目を剥いた。
賊たちは一様に目を剥き、話をした仲間に掴み掛って何度も何度も確認を取っていた。
余りにも大きな金額に、日本でもただの庶民でしかなかった身としては実感がわかないが、それでも十分高額なのは分かる。
貨幣に碌すっぽ触れていない俺でもぼんやりとどれほどの大金かは理解出来るのだ、彼らからしても相当なものである筈だ。
「それこそ本当なんだろうな!? これで嘘だったら承知しねぇぞ!?」
「本当だッ、いつもの奴隷商がそう言ってたんだからよ!」
「マジか! 一攫千金じゃねーか!!」
「へへっ、こりゃあ金持ちだぜ、一生遊んで暮らすのも夢じゃねえ!」
圧倒的な、想像も付かないような金額を耳にして、男たちはその贅沢な暮らしを想像している様で、これ以上ないくらいにその喜びを爆発させていた。
他方、その“対象”である俺からすれば、それは喜べたものじゃない。
欠損した死体ですら莫大な値が付いたのだ、況や……という訳である。
そんなもの、価値を知っている者であれば血眼になって俺を探す訳だ。追手だって差し向けられて当然だ。
来るかもしれないでは無く、来る。
あくまで最悪の事態として想定していたが、そもそも当然の事態として想定しておくべき事だったのだ。
仮にこの場を逃げ果せたとして、その後に障害となるであろう者を想像するとうんざりした気持ちになってしまう。
そんな事を考えていた時、出し抜けに頭上から声が降って来た。
「おい小僧、今度は黙秘も嘘も許さねぇ、お前は“白儿”で間違いないのか?」
「……」
しつこく確認しながら覗き込んで来る男から、無言で目を逸らした、が。
「黙秘は無いと言っただろうが!」
「ぐっ!? ぁあ、がぁ……っ!?」
怒鳴り声と共に襲う、太腿の激痛。
そこに刺さったままであった槍を掴み、男が傷口を抉って来ていたのだ。
「良いから答えろッ!」
「ちっ、違う、俺は……“白儿”じゃなぁぁぁッ!?」
「嘘は許さねぇとも言ったよなぁ!?」
「い、いや……俺にも、分からないんだッ!」
さっきよりも、男は更に傷口を抉って来る。
その余りの激痛に、起こしていた上体を倒し、思わず地面で無様に悶えてしまう。
痛い、痛い、痛い……誰か、助けてくれ。
言葉にならない叫びを上げ、目尻に涙を浮かべながら「止めてくれ」と男へ懇願する。
元より太腿を貫通している傷口はただでさえ痛いのに、その槍を掴まれて肉や骨を抉られているのだ。
たまらず全身から脂汗が吹き出し、目には自然と涙が浮かぶ。
「それで、どうなんだよ? お前は“白儿”なのか!? 分からない、とかふざけた答えしてんじゃねえぞ!?」
「そんな……! 本当だ、本当に分からなっ……ぐぅぅぅうっ!?」
痛い。熱い。激痛が傷口から全身を駆け巡り、その度に全身へ力が入って体が跳ねる。
傷口以外に注意を向ける余裕なんて無いし、口からは苦悶の声と共に唾液を獣のように垂らしている自分がいた。
「……そうだっ、認めるからっ、それ以上傷口を抉るなっ!」
「口の利き方がなっちゃいないようだな? お前、立場分かってんのか?」
「そん……なっ!? がぁぁぁっ!」
ニヤニヤと、悪趣味な笑みを浮かべた男の行いに、それの何が面白いのか他の賊たちも腹を抱えて笑っている。
痛みにもだえ苦しむ子供を見て何が面白いのか、その趣味の悪さに思わずゾッとした。
けれど、その間にも賊は傷口を抉り続けており、思考を激痛が埋め尽くしていく。
「人にものを頼むんだ! 認めます、傷を抉らないで下さい、だろうが!?」
「あああああああっ!?」
「そら、どうした!? 痛いんだろ!? とっとと言えば良いじゃねえか!」
これは、駄目だ。意思が折られる。
ここでこれ以上下手な事を言わされては、自ら彼らに従うと言っている様なもの。
分かっている、分かっているのだが、この猛烈な痛みの前には、そんな意志など無力だった。
只々、この痛みの地獄から逃げ出したい。楽になりたい。もうそれ以外、何も考えられない。
「う、ぁ……ます」
「何だって?」
「俺が“白儿”だと認めますッ! これ以上傷を抉らないで下さいッ!!」
もはや、この痛みから一刻も解放されれば、それでいい。頼むから、もう止めて欲しい。
そんな気持ちを乗せながら、腹の底からそう叫んでいた。
そしてそれを聞き、満足そうに頷いた男はようやく傷口を抉るのを止めた。
同時に激痛は段々と去って行き、痛みから解放されると全身から力を抜き、荒い呼吸で賊の方に目を向ける。
「認めたな? まぁ、最初からそれ以外の答えは無かったんだけどよ、自白もあれば十分だろ」
「俺を奴隷商にでも売るつもり?」
「まさか、そんな高額払える奴隷商なんざ居ないだろ。お前の血や骨、白珠とか部位別に競りにかけて、落札後に解体・譲渡ってところだろ」
その答えを聞き、自分で訊ねて置きながら俺は気分の悪さに顔を顰めていた。
「勿論、生きたお前を丸ごと買い取る奴も居るかもな。そうすりゃ解体されずに済むが……その後どうなるかは知らねえや」
そう言って五人で呵々大笑する彼ら。
それを見返して、自然とその視線が険しくなっていたが、そんな中でやや強い風が俺の頬を撫でた。
具体的に言えば、砂地から砂を巻き上げてしまうくらいの、強い風。
それに思わず腕を上げて、俺は目にゴミが入るのを防ごうとした、その時だった。
いきなり、何の前触れもなく一人の男の笑い声が途切れたのだ。
「「「「あ?」」」」
鈍い音を立てて地面に倒れ伏したその男に、一体何があったのかと賊たちと一緒になって視線を向け――そして、絶句した。
そこに転がっていたのは首と胴を分かたれた、変わり果てた仲間の姿だったのだから。
斬り飛ばされた頭部は、何が起こったのか理解できなかったのか間抜けた面で俺を見、首の無くなった胴体は傷口から勢いよく血を吐き出しながら痙攣していた。
「な、何だこりゃあ!?」
「クソっ、一撃で殺されてやがる!」
「何処だ!? 何処から攻撃されたんだ!?」
「まさか、魔法!?」
何の前触れもなく、一人の仲間が殺されたのだ。
残された四人の仲間たちは俺の目から見ても分かりやすく浮足立っていた。
そんな中で、先程拷問をして来た髭面の男が詰め寄って来る。
「小僧、お前の仕業か!?」
「違うッ! そんな器用な真似出来たら今頃こうはなってねえよ!」
「んだとぉ? 嘘ついてんじゃね……」
再び、風が吹く。
同時に鮮血が舞い、首が飛ぶ。
どさり、と髭面の生首が出来上がり、遅れて取り残された胴が地面へと斃れる。
「ひっ、ひいいいいいっ!?」
「た、助けてくれ!?」
「何だよ、何がどうなってんだよ!?」
瞬く間に殺された二人を目にして、残された三人は一気に戦意を喪失し、そのまま一目散に走り去っていく。
後に残されたのは都合四つの死体と、脚に傷を負って満足に動けない俺だけ。
しかしだからといって油断は出来ない。
この状況はただ、身動きの取れなくなった俺に、また新しい誰かが接近してきている事に他ならないのだから。
故に警戒を解かず、ただ先程風の吹いてきた方向を注視する俺は、木の影から人の姿を見つけた。
それは見覚えのある皮の鎧を纏った、青髪青眼の狩猟者。
「……ミヌキウスさん?」
「おう、一昨日ぶりだなラウレウス。元気……じゃなさそうだな、あんまり」
こちらを見て軽く手を上げて微笑む彼は、俺の脚の惨状を理解してそう言っていた。
実際、左太腿には俺の背丈よりも長い槍が刺さっているのだ。元気とか言う前に常時痛い。
それは傍から見て居てもそうだったのだろう、彼はここへ駆け寄りながら口を開いた。
「随分でっかい槍がぶっ刺さってんな……こりゃ相当痛そうだ。しかもこりゃ抉られたな? 傷口が酷い事になってんぞ」
その声音には明らかにこちらを気遣う色が見て取れ、到底乱暴に扱いそうな素振りは無かった。
しかし、それでも彼へと警戒をしたまま質問に質問で返す。
「何しに来たんです? 俺を捕まえにですか?」
「何だ、捕まえて欲しいのか?」
少しへそを曲げたような問いかけ方に、彼は茶化すように切り返す。
それに思わずむっとした感情になってしまい、今度は不機嫌さを滲ませた声で答える。
「そんな訳ないじゃないですか。だったらどうして俺は逃げたと思います? ちょっと考えれば分かる事じゃないですか」
「はいはい、冗談だ。それだけ喋れるなら一先ず意識は平気そうだな、ちょっと傷口を見せてみろ」
「え? まぁ、はい……」
すぐ横に屈む彼に返事をしながら、俯せになって刺さっている部分を見せる。
それを見て顔を顰めた彼は、「これは本当に酷いな」と呟くと断りを入れて来る。
「少し……いや相当痛いと思うが、今から槍を引き抜く。すぐ終わらせるつもりだから我慢してくれ」
「分かりました、お願いします」
もう、彼が敵だろうが味方だろうが関係ない。事実なのは彼が賊を追い払い、今から傷の手当てをしてくれるかもしれない、という事だけだ。
もはや、逃げられる可能性など全く無いのだから。
「よし、覚悟は良いな? 歯を食い縛れよ」
「……はい、いつでもどうぞ」
大きな呼吸を繰り返し、口から何度も息を吐きだした俺が、うつぶせの状態で今一度頷いたその瞬間。
左太腿が、今までに無いくらいの激痛を訴えて来た。
「……ぐっ、ぁ……うっ!」
肉が、骨が、血が、外へと引っ張られる。
ミヌキウスは右足を俺の腰に乗せ、左足は地面に踏ん張って槍を引っ張っている様だが、その大人の全力をもってしても簡単に槍は引き抜けない。
「あともう少しだぞッ!」
「……っ!」
苦悶の呻きを漏らすのを気遣ってか、彼は励ましの言葉を寄越してくれるが、しかしそれを気にして返事をする余裕など無かった。
段々と己の肉の中で何かが動いて行く感覚は、気持ち悪さと共に壮絶な痛みを伴っていたのだから。
けど、そのお陰で自分でも理解が出来た。
あと少しで、この槍が腿から抜けると。
一度動き出したそれは、残りは一気に動いて行き、そして少しの血肉と共に完全に体外へと取り出されていった。
「抜けたぞ。止血する、まだ大人しくしてろ」
「ありがとう、ございます……っ」
ビリリと布か何かを破る様な音がしたかと思えば、彼は傷口に強くそれを押し当てる。
その痛みもそれなりのものであったが、そこは声を出すのを堪えて両の拳を強く握った。
その間にミヌキウスは傷口を包帯代わりの布できつく縛り付け、応急処置を終えていたのだった。
「それにしても、随分な血の量だ。顔にまで血が付いてるぞ?」
「これは違いますよ。さっきまで居た賊に殺された、兵士の血です」
「……なるほど。そこの射殺された兵士達は、あの射手がやったってことか。仕留めておいて正解だったぜ」
転がっている二つの死体を見下ろして頷くミヌキウスは、どうやら彼らを射殺した者に心当たりがあるらしい。
恐らくそれは追跡していた賊の一味であろう事は間違いないと思ったのだが、彼の口振りからするにもう既に討ち取っているらしい。
素人から見ても相当な腕利きと見えた射手だったが、それを仕留めた上に一方的に賊を二人も屠ったミヌキウスはどれほどの凄腕なのだろう。
先程の、呆気なく首を飛ばされた二人の賊の姿を思い出し、使いこなされた魔法の凄まじさと言うものを噛み締める。
思わずブルリと背中が震えたが、そんな感情はおくびにも出さず彼へ問う。
「……それで、傷の手当までしてくれた貴方の目的は、結局何なんですか?」
「無論、お前の救出。綺麗ごとを言うようだが、俺は人をただの“資源”として見做せるほど、都合の良い考え方は出来ないらしい」
苦笑しながらそう答えると、彼は「レメディアもお前を心配していたしな」と付け足す。
それに対し、ゆっくりと俯せから仰向けになって問い返した。
「レメディアが、頼んだ?」
「ああ。ついでに言うと、村長の家で集まりがあった後、家に招かれてクィントゥスにも頼まれたんだ。お前を助けて欲しいってな」
良い“家族”をもったじゃないかと笑うミヌキウスは俺の頭に手を乗せ、撫でて来る。
前世の記憶があるのにそんな事をされて喜ぶ訳もなかったが、さりとて不思議と嫌でも無かったので撫でられるに任せていた。
それでも思わず頬が緩んでしまうのを押さえられずにいたが、そこで不意にミヌキウスが撫でるのをやめる。
「傷の痛みはどうだ?」
「そうですね、お陰様で大分和らぎました。ただ、もう本当に血を流し過ぎたのか限界が……」
「まぁそうだろうな。自分で太腿見て見ろ、地面が真っ赤だぜ」
そう言われて指差されたところに目を向ければ、そこには真っ赤に染まった木の根、苔や幾らかの雑草が広がっていた。
その夥しい血の量に少し気分を悪くなってしまい、額を押さえて起こしていた上体を地面に投げ出す。
これ程の流血をしておきながら良くぞ生きているものだと安堵の吐息が漏れる中、ただ何の気もなしに枝葉の隙間から覗く青空を眺める。
しかし失血のせいだろうか、次第に視界が回る様な感覚に襲われ、気付けば意識が消失していた……。
◆◇◆
誰かの息遣いと、それの主が何かをしている音が鼓膜を揺らす。
うっすらと開けた目には一面緑に鬱蒼と茂り色づいた木々と枝葉が映り、そこの隙間から漏れる日の光が、木に上体を預けている俺の頬を照らしているらしかった。
辺りには気を失う前までの濃厚な血の匂いは無くなっており、どうやらここはまた違う場所のようだ。
「……ミヌキウスさん、ここは?」
「起きたか。ここは、とか訊かれても正確に答えられる訳じゃ無いが……まぁ、森の奥だ。無論、お前が気絶している間に移動した訳だが、そこまで離れた場所じゃないぞ」
「そこまでって……一体どれくらい俺は気を失っていたんです?」
まだズキズキと痛む太腿の痛みに顔を顰めると、大きな木の根に腰掛けた彼へと訊ねながら、差し出された革袋を受け取る。
それがどうやら水筒らしいと判断すると栓を抜いて水を飲むのを確認して、彼は質問に答えてくれた。
「大体一時……二時間くらいか。太陽が木で遮られて正確には分からんが、そんくらいだな」
「そんなに……でも、そのせいか痛みが随分引いた様な」
それでも痛い事は痛いのだが、最初の頃に比べれば非常に微々たるものとなって来ていた。
まだ動かすには無理ではあるものの、それにしてもあの傷でこの回復速度は……と思い、いつのまにか巻き直された左太腿の白い布を見遣る。
「痛みが引いたのがそんなに不思議か?」
「ええ、まあ……って、何か知ってるんですか?」
「当たり前だ。あんな大怪我が何もせず簡単に回復してたまるかよ」
そう言いながら、彼は空になった細長い筒状の容器を指でつまむ。
その長さは大人の掌程度で、少し濁りの見える半透明な物体で出来て居た。
試験管のような造形のそれは、転生してからこの方、碌に見た事の無い、けれど前世では非常にありふれた素材によく似ている。
「この容器……ひょっとして硝子ですか? また随分と貴重なものを」
「正解、良く知ってんな。とは言ってもそんな高価なもんじゃないし、寧ろこの中身にあったヤツの方が重要だがな」
そう言うと、今度は腰から黄緑色の液体が入った、同様の容器を取り出す。それには当然ながら栓がしてあり、中身が出ないようになっている。
「こいつは“癒傷薬”、傷口に直接かけて治りを促進する優れものだ。もっとも、そこまで上等なもんじゃないから瞬時に回復とまでは行かないが」
「それでも出血は完全に止まってますよ。ありがとうございます」
「どういたしまして。ただ、そこに負担を掛けるような真似はするなよ。傷口が開く恐れもある」
液体の入った筒を腰の装備帯に嵌めながら、安静を告げるミヌキウス。それに承知の意を表して頷くと、自然と左太腿へと視線を落としていた。
今でも、鼓動に反応するように時折痛みを訴えるそこは、しかし彼の言う通り一応安定している様で止血の為に巻かれた布がすぐに真っ赤に染まる、と言う様な事になる気配は一向に無かった。
それを確認すると怠さの引かない頭を持ち上げて今度はミヌキウスを見、俺は気になる事を一つ訊ねた。
「それにしても、今日はこの後どうするんですか? 流石に今から村へ戻る訳にも行かないし、野宿なのも良いんですけど……その、追手は?」
「そこは上手く撒くしかないな。連中の数は、この辺の領主であるアラヌス・カエキリウス・プブリコラ以下百余名。俺達も案内役とかで駆り出されたんだが、まだプブリウスとマルクスも本隊に居る。アイツらを頼ればなんとかなるだろ」
どうやら、彼の仲間である二人も協力してくれるらしい。そんな状況に有難いと心から感謝しつつ、彼の話を聞き続ける。
「それと、お前がボコボコにした村長のドラ息子も参加してる。大した戦力では無いだろうが、お前の事を相当怨んでるみたいだぞ」
「まぁ、鼻の骨と前歯を折りましたからね」
あれだけ叩きのめせば恨まれるのも無理は無い。
寧ろ憎まれなかったりした方が怖いくらいだ。もっとも、あのドラ息子に人を殺す度胸その他諸々が備わっているとは思えないが。
「……言っとくが、そのせいで村長の怒りまで買って、あのパピリウスとか言う聖職者の口車に乗せられて、領主による討伐隊が組まれたんだからな?」
事態の重大さが分かってるのか、と溜息を吐きながら窘めて来るミヌキウス。その様子から察するにこちらの為に奔走でもしてくれたんだろうか。
さしずめ、その努力が「俺による暴行」というカードを切られた事で水泡に帰したのかもしれない。
どちらにしろ申し訳ない事をしたと思わずには居られないが、当の彼は「まぁ良い」と言ってこちらを見た。
「今後の予定としては、この状況から脱出後に俺の故郷の都市・タルクイニで匿う予定だ。暇してる母の話し相手にでもなってやってくれ」
「お母さんが居るんですか?」
「ああ、確かもう少しで五十になるかな。若い時の無理がたたって余り活発には動けないんだ」
ガリガリと頭を掻きながらそう言ったミヌキウスに、家族を気遣う事への不器用さが見て取れた。村で暮らして居た時もこんな感じだったのかと思いつつ、その申し出に対して答えを出す。
「……大変ありがたい事ですが、遠慮させて頂きます。見ず知らずの人間を家に上げるというのは非常に負担でしょうし、“俺”はそれ以外でも御荷物ですから」
「そんな事は無い、ウチの母さんは良い奴だぞ? それにお前には、泊めて貰った恩もある」
「仮にそうだとしましょう、でも俺の身元がそこで露見した場合、“白儿”を匿ったとしてどんな扱いを受けるか分かりません。家に泊めたって話も、それはクィントゥスとレメディアのお陰です。第一、御代も貰ってるんですよ?」
良い人だから、恩があるからこそ、これ以上は負担を掛けられない。ここまでやって貰えれば、ここで追手さえ撒ければそれだけでもう十分だ。
「何より、頼りっぱなしでは情けないんです」
最後に、そう告げた。
それらを瞑目して聞いていたミヌキウスは無言で聞いていたのだが、全てを言い終えたところで「そうか」とただ一言だけ呟き、頷いた。
「理解、頂けましたか?」
「ああ、良く分かった。そこまで言うのであれば、俺としてはそれ以上の世話を焼かないと誓おう。その代わり、ここを切り抜けるまではしっかりとお前の世話を……っ、伏せろ!」
「え? あ、はい……」
出し抜けにその指示を出すと俯せになったミヌキウスに、困惑しながらもそれに追従する。
彼のその真剣さから恐らくただ事ではないのは察せるのだが、果たしてそれは何なのか。
「あの、ミヌキ……」
「静かにしろ。見つかる」
重く低い声で問いを遮られハッと口を噤むと、その時ミヌキウスの視線の先にあるものを見て目を剥いていた。
そこに居たのは三十名以上居るであろう鎧と槍を装備した兵士達の隊列。
彼らは辺りをキョロキョロと見渡しながら視線の先二十Mほど前を通り過ぎていくが、そこまで練度も高くないのか盛んに雑談を繰り返していた。
聞こえて来るそれには懸賞金だの、“白儿”がどうだのと言った話題が殆どであり、どうやら俺を捕まえる事が相当な金になるという話で持ち切りらしい。
面倒な事で有名になってしまったなと、白くなった前髪を引って見ながらそれらに耳を澄ましていれば、森を行く隊列の中に少数の騎馬集団が見て取れた。
その中でも最も高価そうな鎧に身を包んだ人物の年は、五十代くらいだろうか。
兜を外している彼の髪色は赤黒く、また鎧の上からでも分かる程に腹が出ていた。
「……アラヌス・カエキリウス・プブリコラ」
横に居るミヌキウスがぽそりと呟いてくれたが、どうやらこの予想は当たっていたらしい。
普段とは装いが違うし、木々の間から窺っているのでもしかすれば人違いかと思っていたのだが、あれほど特徴的な人物なら間違えにくいというのも強ち間違いでは無さそうだ。
ぼってりとしているのは腹だけでなく、その頬も同じ。“民衆の友”などと名乗っているくせにその徴税は過酷だし、館では農民の俺などが想像できないような食事をしている事だろう。
クソ野郎がと、強欲そうな顔に違わず強欲な行いをして来た領主に、内心で親指を下へ向ける。
「……」
そんな事をされているとは露知らず、プブリコラは側近らしい騎馬兵と談笑しており、愉快そうに笑い声を上げていた。
それらが通り過ぎ、再び歩兵の行列となった中に、見知った顔を二人……いや三人見つける。
うち二人はミヌキウスの狩猟者仲間であるマルクス・アウレリウスと、プブリウス・ユニウス。
彼らは誰の注意も向いていないのを良い事に、軽蔑したような冷めた視線を騎馬集団に向けており、明らかに良い感情を抱いていない様子だった。
そして、残りの一人は兜のせいで髪の色など分からないが、顔を見ただけで分かる。まず間違いなくルキウス・クラウディウスであろう。
俺を見つけ次第襲い掛かりそうな形相をして忙しなく周囲を見渡しており、そのお陰で前歯の欠けたその間抜け面を拝む事が出来たのだ。
鼻の方も結構派手にやった筈なのだが、どうやら話に聞いていた通り完治している様であった。余計な事をしてくれたものである。
どうせ司祭であるパピリウス辺りが余計な事をしたんだろうとアタリを付けていると、どうやら最後尾が通り過ぎた様で段々と足音も遠退いて行く。
「……行ったか」
「随分と大規模な追手ですね」
「ああ、恐らくあの豚領主子飼いの傭兵はほぼ総動員してる。純粋な戦闘員は八十名ほどだが……大体五人一組で結構な数の斥候隊を出してるからな。どこに目があるかも分からないぞ」
念のため伏せた体勢のまま言葉を交わしていたが、不意にミヌキウスが立ち上がって改めて辺りを見渡す。
「それとラウレウス、今回の逃亡はきっと上手く行くぞ」
「本当ですか?」
「ああ、さっきプブリウスとマルクスにだけ俺の魔力で風を送った。待ってればここへ戻って来る筈だ。後は合流してグラヌム領内から逃げ出せば万事完了だぜ」
そう言って微笑んだ彼は苦労して上体を起こした俺の頭を再度撫でて来る。
ミヌキウスとしても目処がついた事に心底ほっとしている様子で、その目を細めて俺を見て居た。
「ところでラウレウス、昨日から気にはなっていたんだが……昨日の夜、天を衝いた白い光ってお前がやったのか?」
「白い光? ……あぁ、あれですか。多分俺ですよ。丁度あの時は妖魎に襲われて、無我夢中だったんですけどいきなり白く光ったので」
「なるほど、あの土煙幕もその魔法で作ってたわけだな。兵士達も見失う訳だ」
あれは中々濃い土煙だったと語っている彼は、どうやら兵士との遭遇時にその場に居たらしい。
俺の頭を撫でるのを止め、彼はこう訊ねて来た。
「けど、折角使えるなら何故人に撃たない? あれなら一撃だ」
「それもそうなんですけど、アレだと人が死ぬじゃないですか。威力調節が出来れば良いんですけど……それがどうしても、出来な、くて……」
段々と俯き、途切れ、尻すぼんでいく声。
どうしても人を殺せないことは、やはり情けない。ミヌキウスも呆れるのではないか。そんな気がして、最後まで言葉が出せなかったのだ。
しかし、ミヌキウスは罵倒や嘲りの言葉を発さず、じっと見つめてこう言った。
「別にそれは恥ずべき事じゃない。それでこそ人間なんだ。そこで簡単に命を奪えるようじゃ、人間はただの獣と同等の存在に成り下がる」
「ただの獣、ですか?」
「そうだ。人がどうして言語を使って相互理解をし、群れるのか考えた事はあるか? それは、生きる為だ。決して同族を排斥するためにあるんじゃない、相互扶助を目的として作られたのが社会で、それを作ったのが人間だ」
そこで一旦呼吸を置いたミヌキウスは、考えを纏めるように瞑目し、そして話を再開した。
「……つまりだ。人を殺す為に人は言葉を覚えた訳じゃ無い。人を殺す為に社会を作った訳じゃ無い。寧ろそうならない為にそれらを作った。ところがそれをちゃんと理解しないで人を殺すのであれば、そいつはただの獣だ。人じゃない」
吐き捨てる様にそう言ったミヌキウスに、無言で聞き入っていた。
「勿論、だから全く力を持つなとは言わないし、殺すなとも言わない。ラウレウスだって、今回は怯えずに殺しても良かった。俺が気にするのは、人を殺す自体に意味を見出したりする様な、簡単に人の命を奪える奴らだ。例えばお前は、何かが欲しいからといって人の命を易々奪えるか?」
「……」
無言で首を横に振る。それはそうだろう、だって自分の事にだってその事は当て嵌まるのだから。
それを肯定してしまえば、自分は殺されて“加工”されても良いという事になってしまう。
こちらの反応を見て二度三度頷くミヌキウスは、尚も重く、微かに震えた口調で話し続ける。
「俺は今まで、自衛の為に必要だからと人を殺して来た事が何度もある。今日だってそうだ、三人殺した。だが、そうやって仕方なしに人を殺していく内に、段々と感覚が麻痺していく。……ある時には、酒に酔って絡んできた同業者を殺し掛けたこともあった!」
ドン、と彼は己の拳で木の幹を殴った。
そこまで太くもないそれは酷く大きな音を立てて揺れ、そこに休んでいた鳥たちを追い出していく。
「良いか、人を殺すというのは……殺し続けるというのは、人を壊す。俺のようにな」
「……ミヌキウスさんは壊れてなんて居ませんよ?」
「傍目には、だろ? 俺が努めてるからそう映るだけだ。実際の俺は、いつどんな拍子に無実の人を殺してしまわないか、怖くて仕方がない。人を殺した後だって、そいつを本当に殺す必要があったのかと考える頻度がどんどん減ってくんだ」
彼の目に浮かんでいる感情は、果たして悲しみか。恐怖か。悔恨か。
ただ、この世界ではミヌキウスの半分も生きていない俺には到底知り得ない感情が、彼の中に渦巻いているという事だけは、理解出来た。
「いつ己が獣と同じ存在となるのか、それに怯えて暮らすような事にはなって欲しくないから、だから……人を殺せない、殺したくないという感情は恥ずべきものじゃないと言った」
「ミヌキウスさん……」
「仮に人を殺しても、お前は初心を忘れるな。さもなくば、足元に転がる夥しい死骸に引き摺り込まれる日が、きっと来る」
喋り終わると同時に大きな木の根に力無く腰掛けるミヌキウスの背中は、とても小さく感じた。
非常に疲れたのだろう、己の心を吐き出すという事が。不安を吐き出すという事が、どれほどの消耗を彼に強いたのだろうか。
けれども、今目の前に居る人物の言葉に、確かな質量を感じていた。パピリウスみたいな薄っぺらい言葉とは違う、体温と実感の籠った心からの言葉。
これは、彼が生きて来た二十数年分の価値を持つ、非常に貴重なものだろう。
前世の常識が全く当てにならないこの世界で、たった十三年しか生きて来なかった俺が本来得られるものでは無い筈のそれの価値は、如何ほどか。
重苦しい口調でくれた彼の忠告を胸に刻みながら、自然と彼に応えていた。
「ありがとうございます、ミヌキウスさん」
「気にするな、俺が好きで言った事だ。ただ、見っとも無い事を晒してまで言ったんだ、絶対に忘れないでくれよ?」
照れ臭そうに笑いながらそう言う彼に笑い、大きく一度頷いて返す。するとその返答に満足したのか大きく頷いたミヌキウスは、深く息を吐きだした。
対して俺は、ただ無言でそれを見る。
「「……」」
どちらが口を開く事もなく、二人の中には静寂が訪れるが、しかし不思議と居心地は悪くなかった。
ミヌキウスが行動で救ってくれただけでなく、そのまごう事無き赤心を開示してくれたからこその居心地の良さなのだろう。
こんな人が五年前のグラヌム村に居れば、何か変わっていただろうか。
いいや、何かどころか、何もかもが劇的に変わっていたかもしれない。
使い道のない前世の半端な科学知識を持つ、かつての親友一人すらも守れない能無しに比べたらどれほど素晴らしい人だろう。
彼なら、彼ならば――。
結局の所意味のない仮定ではあるが、意味が無いからこそ、実現しないからこそ、彼が居たらという仮定が膨らんでいく。
五年前のあの時は皆の心が荒み、他者を気遣う精神的余裕なんて無かった。けど、これほど真っ直ぐな青年がもしもここへ立ち寄って居たら。
死ぬ人は変わらないかもしれないけど、もう少し明るく過ごせたのではないだろうか。
不安そうな顔をして、申し訳なさそうな顔をして死んでいった母親も、もっと笑えたのではないだろうか。
そんな風な、全く意味の無い仮定。
実現しないし、考えるだけ無駄な事ではあるが、それでも考えられずには居られなかった。
「……」
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
唐突に、ミヌキウスが顔を上げた。
腰掛けていた木の根から立ち上がり、大きく手を振ったのだ。
俺もまたそれにつられてそちらを見て見れば、そこにはこちらに向かって歩いて来る二つの人影を視認する。
言うまでもなくその二つの影はユニウスとアウレリウスであり、彼らもまたミヌキウスにその手を軽く振り返していた。
「随分遅かったな、二人共。さては抜け出すのに手古摺ったな?」
「ああ、向こうも捜索で人手が要るらしくてな。手伝ってくれって沢山の兵士に再三頼まれた」
大変だったぞと、アウレリウスが肩を竦めながら言う。
一方、ユニウスは座っている俺の方をまじまじと見て驚いたように呟く。
「ホントに白髪紅眼……肌も白いな。“白儿”らしいとは聞いたが……まさかここまで変わってるなんてよ」
「俺だってびっくりですよ。朝起きて川に行ったら急に全身痛くなって、気付けばこんなんですからね」
「それもそうだな。で、その太腿の包帯はどうした?」
そんな会話が続けられ、暫し。
ミヌキウスはさっきまでの様な影を感じさせる表情は跡形も無く、二人の仲間と楽しそうに談笑していた。
その場の誰もが笑顔で、俺も、ミヌキウスも、アウレリウスも、ユニウスも、村で話しをしていたように笑っていたのだ。
だが、その中にあっていきなりミヌキウスの顔から笑みが消えた。
「っ!!」
「ど、どうしたんです、ミヌキウスさん?」
「……」
その豹変ぶりに驚き、呼びかける俺の声は無視して、彼はいきなり俺へと手を伸ばすと抱え上げる。
その上で更に魔法の発動準備まで始めた彼に、それを目にしたアウレリウスとユニウスもまた、目を丸くして居た。
「おい、ミヌキウス?」
「何の真似だ?」
「馬鹿が、何もクソも無い」
狼狽える彼らにミヌキウスはその顔に苦笑の色を浮かべながら、仲間である狩猟者二人にこう言っていたのだ。
「……囲まれた。お前ら、尾行けられたな?」




