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彼女がまた突拍子もないことを言い出した

 その週の金曜日、いつもより早めに帰ると玄関に鍵がかかっている。

 おや? 仕方なく自分で鍵を使ってドアを開ける。いきなり夏の澱んだ空気がムッと押し寄せ、思わず、うっ、と顔をしかめた。

 だが、考えてみればひとり暮らしには至極当たり前のこと。彼女の存在がその当たり前を少しずつ変化させ、誰もいない部屋に(いだ)くことのなかった違和感を感じるが、その方がおかしい、と思い直す。


 靴を脱ぎ、狭い廊下を抜けリビングダイニングに出る。白いダイニングテーブルの上にガチャリと鍵を置く。その音が響いても何の反応もない。違う物音がするわけでもない。


 テーブルの椅子に腰を下ろし、西日の射し込むベランダをボーっと眺める。そう言えば、昔……

 

 ここにまだ妹も母さんもいた頃には、ボクが学校から戻るとベランダから洗濯物を抱えた母さんが顔を出し、おかえりと声をかけてくれるのが当たり前だった。西日の中に母さんの姿を見つけると、意味もなくあぁ良かったとホッとしたものだ。いつだったか、洗濯物にカメムシが紛れ込んでいて、知らずに触ると酷い匂いが部屋に充満し、妹がクサイクサイと大騒ぎしたことなんかもついでに思い出す。

 あれから、どれだけ時間が過ぎたのだろう。長い長い歳月を経てしまった気もするし、母さんも妹も今はたまたま出掛けているだけで、ひょっこり玄関を開けて入って来るような気もする。


 どういうわけか、彼女が現れてからボクは時々過去に連れ戻される。ひとり暮らしの頃よりずっと頻繁に。その理由はわからない。ひょっとして、彼女が、人恋しさ、ってやつを連れて来たからなのだろうか? それとも、彼女自身にどこか過去に連なる印象でもあるのだろうか? どっちにしてもそれは脳のふとした弾みの働きなので、ボクには抗う術がない。


 当たり前にいたはずの彼女がいないからこんなことを思い出す、なんて思っているところに当の本人が大きな紙袋を抱えて戻ってきた。ボクはホッとする。と同時にちょっと腹立たしさが募ってくる。


「あれ? 今日は帰りが早いね」

「うん。週末だしね。買い物? 居ないから居なくなったと思った」

「そう?」

「そうだよ」

 黙って居なくなるなよ、なんて言えない。むしろ、居なくても平気だからな、なんてニュアンスを込めようとする。 ……バカだから。


「へんなの、ペキちゃん」

 一瞬、彼女は動きを止めてボクを見つめる。

「変じゃないよ、普通だよ」

 ちょっと吐き出した言葉が強すぎる。バカにもほどがある。。


「そっか。ペキちゃんが普通でわたしが変なのか?」

 彼女はそれ以上気にする素振りを見せず、アハハと笑い、紙袋の中を確かめ始める。

「変じゃないよ…… キミも」

 少し気が咎めて語気を緩める。何を言ってるんだか……


 こんな時、キミ、と呼びかける不自然さをふと思う。相手が「キミ」だと抱き締められないじゃないか。だからホントは名前を呼びたいのだが、彼女は別にテキトーでいいという。


「ねえ、やっぱ名前ないと不便だよ」

「そう? ふたりきりなのに? ここでペキちゃんが話しかける相手はわたし、って決まってるんだから、別に特別な記号はいらないよ」

「でも不便だ。それに、ボクのことはペキって呼んでるじゃないか」

「じゃあいいよ、わたしのこともペキって呼んでよ」

「…… ペキがペキじゃないやつをペキって呼んでどーすんだよ!」

「いいじゃん、これでカンペキ」

「オヤジギャグかよ…… 」


 そして結局、ボクはまた彼女の名前を聞きそびれるのだ。でも、彼女はいつもと変わらない。だから段々ボクもそれでいいやって気になってくる。彼女が嫌がることを敢えてする必要はどこにもない。


「そんなことより、明日と明後日、どこかに絵を描き行かない?」


 またいきなり…… 


「絵? 趣味なの?」

「うん。時々描くよ。描いてると無心になれるから」

「ふ〜ん。ひょっとして、絵まで天才的?」

「さあ、知らない。人に見せたこともないし」

「じゃあ趣味か」

「う〜ん、それよか、もうちょい真剣」

「真剣な趣味、でいいじゃん」

「いいけど。なんか扱いが軽くない?」

「そういうところは気にするんだなぁ」

「気にはしないけど、話の流れ?」


 この間、彼女は一度もボクの表情を見る素振りすらなく、ただ買ってきた画材を別のバッグに詰め替えたりしながら話している。

 逆にボクは彼女から目が離せない。彼女の一挙手一投足に、言葉とは裏腹のサインが顕れやしないかと気にしている。初めて彼女に会った時からそうなのだが、一緒に暮らし始めてますますひどくなる。彼女は、ホントはそろそろ帰るべきところに帰りたいんじゃないか、なんてことまで考えてしまう。

 だが、彼女はずっと変わらない。淡々と落ち着いている。やりたいこと、思いつくことを自然の成り行きのまま、しているようにしか見えない。ボクは自分だけが空回りしているようでちょっと悔しい。だが抗えない。もう絵を描きに行くことも決定事項になってるし……。


「で、どこに行くの?」

「どこでもいいけど…… 涼しくて、人気ひとけのないところ」


「涼しいだけならいくらでもあるけど、人気のないところなんて…… 山奥にでも行くしかないよね。キャンプでもする?」

「山奥でキャンプ? う〜ん、そんな気分でもないなぁ」


 彼女の気分が正直よくわからん、そう思う間もなく彼女はいきなり突拍子もない提案をしてきた。


「じゃあいいや、おばあちゃんちで」

「えっ?…… ?!」


 名前も名乗らない彼女が自分の祖母の家に行こうという。この極端でアンバランスな展開に、ボクは咄嗟にどう応えるべきか判断できない。次の言葉を探しあぐねていると、その時になってようやくボクの目を覗き込んだ彼女が、面白そうに笑いながらこう言った。


「蓼科にね、おばあちゃんの古い持ち家があるの。そこでどう?」


 蓼科…… 


 その地名は、懐かしくもどこかざわついた不思議な感覚を伴って響いた。その場所でのことはもうすっかり忘れていて、二度と行く機会もないだろうと勝手に思っていたのに、偶然出会った彼女がその場所に(ゆかり)のある人だという。その不思議に囚われる。世間はやはり狭いのかなぁとか、彼女とは運命なのかなぁとか、挙句には、因果? なんて言葉すら思いつく。とにかく、偶然では捨て置けない何かを感じてしまったのだ。


「いいね、蓼科」

「いいでしょ、蓼科」


 ……


 急に言葉が途切れた。なぜかこの時、彼女と同じ風景を思い浮かべているように感じたのだ。だからボクは彼女の瞳をじっと見つめた。そして、彼女の瞳がブラウンだということに、この時初めて気が付いたのだ。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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