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彼女の名前をボクは知らない。だから、なに?

渡壁わたかべ、帰る前に例の報告書、あげとけよ」


 月曜日の夕方、そろそろ帰ろうかなぁと思っているところに筒井リーダーの声。そうだ、報告書だ。忘れてた……。

 口頭では説明済だし、今すぐどうにかできる案件でもない。開発部門からも、将来のテーマだね、とやんわり棚上げされたもの。だから、いまさら報告書? とは思う。…… でも、逆らえない。全くサラリーマンは生涯どれほど無駄な報告書を積み上げることになるのかね? 

 とは言え、上司命令を無視して帰るほどボクは社会非適応者ではない。はい、と短く答えて端末の電源を入れ直す。で、しぶしぶ、いや、一生懸命レポートを書いているところに、同期の市原がやってきた。…… なんとなく面倒な予感。。


「球場で一緒だった子、あれ誰?」

 やっぱり…… 面倒くさい。


 時々思うが、どうしてこう他人(ひと)のことに関心を示すんだろう? 他人のこと、面白いのかね?


「誰? 誰のこと言ってる?」

 当然、ボクはまともに応えるつもりはない。


「何をバックレてんだか。あんな派手な立ち回りをする女性がお前のツレだったなんてよぉ、ホントにおったまげたぜ。で、誰?」


 公園の野球場で彼女とボクを見た、ってことだろうけど。それならそれでその時に声をかければいいものを。今まで知らん顔してるなら、そのまま忘れろよ、ったく。


「誰って…… 知り合い。高校野球の応援を一緒にする程度の知り合い。ってか、お前こそ、球場にいたの?」


「偶然な。オレ、あそこの出身だし。野球部のツレに引っ張り込まれて行っただけだけどさ」


 高校を卒業して一体何年だ? 野球部OBでもないのに予選に()()()()出かけるって、昭和通り越して明治か? お前は。いや、明治じゃまだ高校野球はないんだっけ? 


「ちょっとびっくりしたけど、美人だな、あの子。いや、ただの美人じゃなく、すごい美人」

「へえ。そうなんだ」

「へえ、そうなんだって、あれ、お前の彼女じゃないの? ちょっと気を遣って言ってやったのに、随分余裕ぶっこいてんな」


 余裕ではない。市原君よ、何を隠そう、ボクも彼女のことはほとんど何も知らないのだよ、そう言ってみようか。


「今度紹介しろよ。あの子の友達なら、きっとかわいい子ばっかじゃん?」

「う~ん、どうだろ。オマーンかどっかの子でよきゃ紹介できるかもな」

「オ、オマーン? どゆこと?」

「なんでも帰国子女らしいけど、オマーンとかアフリカとか行ってたみたいだし。スワヒリ語が得意だったかな。お前、しゃべれる?」


 なことはないと思うが、この時咄嗟にボクは彼女の最初の舞を思い浮かべていて、あれはどう考えてもアフリカの大地で流された血と汗と涙の結果だよな、絶対、などと勝手に決め付けていたかも。それとオマーンは関係ないけど……


「で、そのオマーンをどこで引っ掛けたんだよ?」

「いや、だから、そんなんじゃないんだって。彼女はきっと……」


 少し真実を説明しようとして、ボクは口ごもってしまった。


 なぜなら、あの時の出会いをこの市原に説明した瞬間、陳腐なナンパ話になってしまいそうな気がしたのだ。あれはナンパなんかじゃない、なんというか…… 神の差配なのだ、ボクの中では。それを口にすることは神と彼女への冒涜ですらある、大袈裟に言うと。だから、こいつに言うのは止めよう!


「きっと、なんだよ。勿体ぶらずに教えろよ」

「そうだな…… じゃあ、今度会ったら聞いとくよ」

「なんだよ! なんか訳ありの子? 危ない系かよ。まったくお前の趣味はわけわからんぜ」


 そういうと市原は、不満げな表情を残したまま元の席に戻り、キーボードをカシャカシャ叩き始めた。


 市原が立ち去った後、ボクはホッとしつつも改めて思った。


 ボクは彼女のことを何も知らない。


 その事実を思う。よくよく考えるまでもなく、名前も知らない彼女と同居しているというのは、確かに変だ。異常だ。おかしい。普通じゃない……


 ただ、だからと言って、ボクにはそれが不安でもない。知らなきゃなんだよ、くらいは言い返せる。


 彼女はボクの目の前にいる。いつもいる。ただそれだけだ。そして、彼女が誰であろうと、例えば異界から束の間やってきただけの、文字通り朧げな存在だとしても、ボクは一向構わない。そう断言できる。ほら、立派に言い返せそうじゃん。


 正直、ボクは誰かに打ち解けたことがない。心を許すという状態を経験したことがない。それが生まれながらのことか、何かのきっかけがあってのことなのか、それはもう忘れてしまったが、ボクは誰かに対してありのままの自分でいたなんてこと、ただの一度だってあっただろうか? いや、ない。いつも心の在り処を偽り、隠し、思ってることと正反対のことを口にすることもしばしばだ。

 リーダーの筒井さんは言うに及ばず、同期の市原にですら、面と向かうとボクは無暗に緊張し、手のひらにじっとり汗をかいていたりする。人目には人を食ったような、なんて言われるが、ホントは早く家に帰りたい、なんてことをいつも思っている。


 なのに、そんなボクが彼女に対してだけふっと気持ちを緩ませている。取り繕う必要のない自然な姿でいられるのだ。会話だって必要ないかもしれない。ボクはただ、彼女の存在を感じているだけだ。それだけで、ボクの心はあるべきところにある、って感じになる。このままでいたいな、いつまでもずっとボクの横にいてくれないかな、なんてことを願ったりしている。彼女は、そういう特別な存在なのだ。


 だから、このまま何も知らなくて構わない。彼女がどこの誰で何をしているかなんてことは関係ない。だって、彼女のことをもっと深く知ったところで、ボクの中の何かが変わるとでもいうのか? それはない。

 人と人が知り合って、そして関係を深めるって事の中に、もっと相手のことを知る、ってことがどうしても必要なのか? 知らなければ彼女のことが誰よりも必要で、ずっとそばにいて欲しいと願ってはいけないのか?


 どうなんだ? ……


 ボクは彼女のことを考え始めると、こんなふうな結論に至ってしまう。無意識に、名前も知らない彼女を否定されたくない、って気持ちが働いて、無理な理屈づけをしているだけなのかもしれない。でも、そうしてでもボクは彼女といたいのだ。誰からも何も言われたくないし、ただひたすら、彼女と一緒の時間を過ごしたいのだ。


 好きなんだな、それほど…… 


 そう思う。心の中ではとても素直に。。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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