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彼女はいきなりラディッシュをボクの口に放り込んだ

 日曜日。キッチンから流れてくるリズミカルな音で目を覚ます。どうやら今日の彼女はお料理に夢中らしい。


 トントントントントン シャキシャキシャキ


 野菜を刻んでいるのか、包丁がまな板を叩く音が軽やかで心地いい。この家のキッチンからこんな音が流れてくるのは一体いつぶりだろうと過去の記憶を遡ってみたけれど、自分以外の誰かがあの場所に立っている姿を思い出せなかった。


 やがてキッチンでは、水道水がシンク内で跳ね返る音、ぐつぐつお湯が沸き立つ音、金属製の調理器具が触れ合う音、ガラスの食器類を並べる音、それらが渾然とハーモニーになり、そこに彼女の鼻歌が交じり、仄かな香りが漂い始める。そうなるとボクも寝てはいられず、少し伸びてしまった髪の毛をクシャクシャしながら彼女の横に立った。


「ホレ」


 彼女がいきなりラディッシュをボクの口に放り込む。意外にも甘く酢漬けしてあって、だけど歯応えはラディッシュそのままで美味しい。


「これどこで買ってきたの?」

「失礼しちゃう! 作ったんだよ」

「へえ〜」

「美味しいでしょ? これ」

「うん。食べたことない味かも」

「ペキちゃんは食べるものが偏ってるもんね」

「そう?」

「うん。新しいものには挑戦しない感じ」

「見たのかよ」

「見なくてもわかるよ」


 そう言われると返す言葉がない。確かに、ボクは6枚切りトースト1枚の朝食と、昼間は麺類と決めているし、夜は…… 何を食べてたっけ?


「今日はお料理するよ。本格的なスモーク料理、作っちゃうからね」


 いやいや冗談でしょ。ここにはそういう器具もないし、ボクはそういうの好きでもないよ。そう言う暇もなく、彼女は手際よくスモークのチップを並べ始めた。


 嘘でしょ、そんなのいつの間に買ったのさ。そう問いかけたいボクを察したのか、彼女はますます上機嫌な鼻歌になる。この曲、どこかで聴いたことあるなぁ……


「ほらほら、そこにいると邪魔だから、コーヒーでも淹れてよね」


 彼女がそういうから、ボクはゴトゴト豆を挽く。ミルが古いせいか、常に浅挽になってしまうけど、ボクはそれが好き。フィルターをセットして、ふたり分プラスアルファの豆をそこに乗せる。カルキを丁寧に抜いたお湯をそっと注いで香り立つのを少し待ち、それからドリップし始めると、淡くやや薄めのコーヒーができあがる。


「コーヒーってさ、一人分をドリップすると悲しくなってたんだよね。味気ないし手間だし…… とにかく、なんかとっても侘しい感じ」


「うん、わかる。ペキちゃんはひとり暮らしなのに、よくコーヒー点てる気になるなあ、って思ってたもん。無駄だってそれ」


 彼女は笑いながらマグカップを口に運んだ。そんな時、彼女は一瞬だけ瞳を閉じてふくよかな香りを楽しむのだが、その時の表情がいかにも幸せそうで、それを見ているだけで、ボクは彼女を手放せない宝物のように感じてくるのだった。


 それにしても彼女の手際の良さはどうだろう。もちろん、ここは昔家族四人で暮らした場所だから、それなりに調理器具が揃っているとはいえ、それでも燻製なんてどこをどう捻れば出てくるのか想像もできなかったけど、古い金属製のボウルを組み合わせただけの簡易的な燻製器具で、彼女は火加減を見たり、匂いをかいだりしながら、こともなげに作り上げてしまうのだ。


 朝はラディッシュの酢漬けとコーヒー、お昼はパンをひと齧りしただけだったけど、夕方、数種類の燻製料理が出来上がるまで、ボクは少しの空腹も感じなかったし、むしろ、目の前で繰り広げられる魔法を最前列で眺めているような素敵な気分が勝り、それはそれは上機嫌になるのだった。


「どこでどうやってこんな調理方法を覚えるの?」

「う~ん、なんとなく。だって飽きるでしょ、いつも同じような味付けのものばかりだと」

「そうでもないけどね。ボクは塩コショウとマヨネーズがあれば大抵のものは大丈夫」


「次、そんなこと言ったら殺す」

「えっ…… マヨラー、だめ?」

「だめ! まさか…… そこのマヨネーズ! かしなさい!」


 燻製の卵にマヨネーズをたっぷりかけようとしていたところを目ざとく見つけられ、取り上げられてしまった。卵にはマヨネーズ、って決まってるのに……


 それでも、彼女が手間暇かけてくれた料理は、マヨネーズ抜きで十分楽しめたし、こうやって一日が始まり、そして終わるって時間の使い方なんかしたことなかったから、ボクはもう一度彼女の顔をマジマジと眺め、そしてどうしても訊きたくなったんだ。


「ねえ、そろそろ名前教えてよ」


 そう、ボクはいまだに彼女の名前すら知らない。かぐや姫、このままじゃ、そう呼ぶしかないじゃないか……

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『もし、それが真実ならボクは……』

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