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終章

 黒い服を着た大人たちが手に手に白い花を持ち、マントルピースの前に設えられた祭壇の前でお祈りをしている。シャンデリアには黒い布が被せられ、部屋からはお香の白い煙が流れ出している。室内に入りきらない人も大勢いて、庭のあちらこちらでひそひそ話を続けている。ボクは父さんと一番後ろに並び、手にした白い花が少し萎れているのを気にしている。


 その黒い大人たちの間を縫って、ヨチヨチ歩きの幼子が近づいてきた。モノトーンの服を着たフランス人形のような彼女は、ボクの左手を引いて、ブランコに乗せろとせがんだ。


『ペコちゃん、ブランコ、乗せて』

 ボクはいつもと同じように幼子をブランコに乗せ、後ろからゆっくり押してやろうと思い、彼女の目の高さに合わせて屈みこんだのだが、父さんがなぜかボクの左肩を強く抑えるので一歩も足を踏み出せない。だから、その幼子は動かぬボクを引っ張りきれず、その場にぺたんと尻もちをついてしまった。


『ペコちゃん、ブランコ』

 倒れたまま、幼子はボクの目をじっと見つめ催促した。その瞳は明るいブラウンで、しっかりボクを捕える。そして、ひとりで立ち上がると、もう一度強くボクの左手を引こうと手を伸ばした。ところが、彼女のおばあさんが走り寄り、ボクの手と彼女の手が触れ合う前に引き離し、彼女を抱きかかえて部屋に戻ろうとした。


『ナナちゃん…… 』

 ボクはおばあさんがなせそんな意地悪をするのか意味がわからず、思わず彼女の名を呼んだ。だが、おばあさんはボクの言葉を一顧だにせず、ボクと、そして父さんを一瞬強く睨み、無言のまま部屋に戻ってしまった。抱きかかえらた幼子はイヤだイヤだと泣き叫ぶ。なのに、おばあさんはギュッと強く彼女を抱き締めて向こうに行ってしまった。幼子の泣き声が周囲の大人たちのすすり泣きの中でいつまでも物悲しく響いた。


 父さんは項垂れていた。ボクは父さんのそんな姿を見ることなど一度もなかったから、なにがそうさせているのか不思議に思ったのだが、その前の前の日、保養所の部屋で、素っ裸になったボクの体をゴシゴシと拭きながら、父さんが涙を流していたことを思い出していた。


允俊(まさとし)、今日のことはもう忘れなさい。お前のせいじゃないんだから、気にするんじゃないよ』

 父さんはそう繰り返した。ボクは父さんが言っていることの意味がはっきりとはわからなかったが、目の前で急流に流されていったアンちゃんのことを言っているのだろうと思い、大好きな父さんのためにも忘れなきゃいけないことなんだと思った。


 その夜、ボクが眠っている傍で、母さんと父さんが小さな声で言い争いをしているのが聞こえてきた。


『なぜ…… なぜ飛び込まなかったの? どうして…… どうして自分の子供だけ……』

 母さんの言葉は途切れ途切れだが容赦ない感じがする。


『自分の子供を守って何が悪い…… 』

 父さんの言葉は弱々しく、ほとんど聞こえない。


『だけど、あなたには見えていたでしょ? あの時ならまだ女の子の姿が』

『見えてないよ…… お前はあとからのこのこやってきたからわからないんだよ。あの時、すでに…… 』

『だからといって、自分の子供だけ抱きかかえて戻ってくるなんてありえない! そんなの絶対にあり得ない!』

 母さんの声が徐々に大きくなる。


『じゃああれか? お前は允俊が足を滑らせて溺れても仕方なかったというのか? それでも女の子の姿を追うべきだったというのか?』

『そうです。そうすべきでした』

『そうすべき…… って言うのはやめろ』

 ボクは心の中で父さんにもっと言って欲しいと願ったが、父さんは力なく反論を止めた。


『あなたが允俊を散歩に連れ出してあの子たちと遊ばせたなら、あなたは允俊だけでなくあの子供たちに対しても責任を持つべきです。それは親としてではなく、人として当たり前のことです』

 母さんは涙ひとつ流さず延々と話を続けた。ボクは、父さんが母さんに言い返さないのは、母さんの言いそうなことくらい、父さんは全部分かっているからだと思った。だけど、父さんはボクにあの出来事を忘れろと言った。それは、こういうことも含めて全て忘れろと言っているのだと思った。


 ……


 ハッと目が覚めた。天井のシャンデリアがあの頃のままの姿で目に入った。部屋にはやはりお香の薫りが微かに残っているように感じられた。


 そばには奈々がいて、目覚めたボクに気づくと腕を伸ばし頬を撫でた。


「ペコちゃん…… 」

 奈々のブラウンの瞳から涙が一滴零れた。


「私ね、お姉ちゃんのことなんか覚えてないんだよ。でもペコちゃんのことは覚えてる。ブランコに乗せてくれるお兄ちゃんのことはちゃんと覚えてる。私が左手を引っ張ると、いつでも一緒に遊んでくれたでしょ? 私ね、ちゃんと覚えてるんだよ」

 ボクは何も言えずに彼女の右手をそっと包み込んだ。


「いろんなことがあったんだと思う。おじ様から大抵のことは聞いていたから。ペコちゃんがあの時の記憶を失ったようだって…… ここには連れて来られないが許して欲しいって……」

 彼女のブラウンの瞳からは涙が溢れ、いつもの明るさを失い深く沈んだ色合いに見えた。それでも、彼女は懸命に何かを伝えようとボクに語りかける。


「おじ様はアンちゃんの命日には必ず花束と水芭蕉の造花を持って来てくれた。私がもの心ついた頃には、おばあちゃんもおじ様がいらっしゃるのを楽しみに待つようになっていたのよ。だからおばあちゃんも、ペコちゃんが過去の記憶を失ったままなのは自分のせいだ、って申し訳なさそうにしてたんだよ。これは本当だからね」


 彼女の言う通り、いろんなことがあった。今から思うと、父さんと母さんはあの頃から会話しなくなった。そして、ボクは母さんから疎まれ始めた気がする。だから子供の頃のボクは、母さんの思う先回りをして、出来るだけ嫌われないように振る舞ってきたのだ。

 そして、父さんの言いつけどおり、全てのことを忘れようとした。陽ざしが眩しい日は、あの事が起こる前の楽しかった家族旅行のことだけ思い出した。白樺湖で家族みんなで馬車に乗り、降り際に妹が転んで大泣きしたことや、それを見ず知らずのおばさんたちが助け起こし、笑いながらあやしてくれたことなんかを思い出すようにした。湖に煌めく強い陽ざしと泣き声と笑い声がいつしか不可分に結びついた。

 そして…… 思い出は都合よく塗り替えられた。アンちゃんとアンちゃんのおばあさんの姿は記憶から消え去り、幼い頃の妹との記憶がそれに置き換わった。


「人は死ぬ。いずれその日はやってくる…… おばあちゃんの言葉よ。アンちゃんは神様に愛された子だから、その日が誰よりも早くやってきただけだと話してくれた」


 いつか彼女が自分の創作だといった言葉は、彼女の家族が、他の誰にも言えぬ悔しさと恨みと虚しさを込めて使ってきた言葉だったのだ。そして、ボクがいつだったか奈々に感じた『神様に愛された子』という言葉の不吉さもまた、あの時のことに由来していたのだと思うと、頭に勝手に思い浮かぶその言葉を、なぜボクは必死になって打ち消そうとしたのかもすべて符合するように思え、奈々との出会いは神の差配だと感じたこともなにもかも、すべて人ならぬ誰かに導かれた結果なのだと思えて仕方なかった。


「お姉ちゃんもね……」

 そう言うと、彼女はボクの左手を強く引いて、起き上がるよう促した。そして、二階の寝室に連れて行くと、二段ベッドの上の、枕もとの横木に書き込まれた古い文字をボクに指し示した。


(ぺき) ぺきちゃん 岸ぺきのぺきちゃん』


 掠れて薄くなったその文字をなぞった瞬間、こう書くの? とボクに確かめたアンちゃんの黒い瞳が蘇った。ボクが『壁』という漢字を教えたのは黒い瞳のアンちゃんで、その横で言葉を繰り返していたのはボクの妹ではなく、目の前にいるブラウンの瞳の奈々だったのだ。その時のふたりの笑顔が、明確な色彩を伴ってボクの記憶の中に現れた。


「お姉ちゃんもペキちゃんが大好きだったのよ、きっと……」


 それだけ言うのが精一杯で、奈々は顔を覆って泣き出した。ボクは、もう一度アンちゃんが書き残した『ぺきちゃん』という文字にそっと触れた。そして、ボクに寄り添っている奈々の肩を強く抱きしめた。


 彼女は大声で泣き始めた。その声は、抱き締めるほどに大きく、そして哀しく切ない声に変わり、いつまでも終わることなく屋敷中に響き続けた……



✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤✤



「タクちゃん、もっと押して!」

 杏那(あんな)がブランコの背もたれから後ろを振り向いて催促している。中三になった拓斗(タクト)が面倒くさそうに足で背もたれを押すとブランコは振れ過ぎるが、どうやらそれが面白いらしい。

 それを見ていた姪っ子の麻未(まみ)が杏那の横に座ろうと無理にブランコを止めるから、杏那がギャーギャー騒ぎ出す。

 陽詩(ひなた)がおかしそうに笑うと、麻未は小さい頃の陽詩にそっくりだと奈々が笑いだす。母さんがほらほらもうお昼だから手を洗ってきなさいと指図する。義父と義弟はもうビールを飲んでいる。ボクはロッキングチェアに揺られ、目を閉じたまま子どもたちの嬌声を聞いている。


 みんなで黒ひげ危機一髪しようよと麻未が声を出す。やろうやろうと、できもしないのに杏那が賛同して騒がしい。お天気なんだから庭で遊びなさいと母さんが言うが、ふたりはイヤだと譲らない。


 あれからずいぶん時間が経った。


 ボクはこのまま彼女たちの声を聞きながら眠ろう…… 杏那と、そして奈々がボクの左手を強く引くまで。

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『もし、それが真実ならボクは……』

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